第15話 買い物デートと透明な凶刃
王都グラン・アヴェルラの下町(第三地区)は、夕刻の活気に包まれていた。
あちこちの店先から威勢のいい呼び込みの声が響き、夕食の支度をする匂いが漂い始めている。
そんな庶民的な雑踏の中を、明らかに場違いな二人組が歩いていた。
「……団長。これ、本当に『視察』なんですか?」
呆れ声で尋ねたのは、両手にずっしりと重い買い物袋を提げたベラだ。袋からは、立派な大根の葉と、長ネギの青い部分が元気に飛び出している。
「当然だ。市民生活の安寧を確認するのも騎士の務めだ」
隣を歩くクラリス・フェン・アルゼインは、地味な灰色のマントを目深に被り、変装しているつもりらしい。
だが、その顔は隠しきれない高揚感で綻んでおり、何より――ベラの左腕を、自分の両腕でがっちりと抱え込んでいる。
「……あの、団長。歩きにくいのですが」
「離れるな。人混みで逸れたらどうする。迷子になったら困るのは貴様だぞ(嘘)」
「はいはい。捕まえていてくださいね」
ベラは苦笑した。
これは視察という名の、実質的なデートだ。
普段、屋敷と執務室の往復しかしていないクラリスにとって、ベラとの買い物は冒険であり、至福の時間なのだろう。ベラの腕に密着するクラリスの体温が、上気して少し高い。
「おいベラ、あれはなんだ」
「串焼き屋ですね。一本買いますか?」
「うむ。……あ、熱いな。……ふーふーしろ」
「はい、ふーふー」
「……あーん」
道端で串焼きを頬張り、リスのように口を動かす「氷の処刑人」。
その無防備な姿に、ベラは胸の奥が温かくなるのを感じた。
ふと、一軒の雑貨屋の前でクラリスの足が止まった。
店頭には、職人が作った裁縫道具が並べられている。
クラリスの視線が、ある一点に釘付けになった。
上質な革で巻かれた、真新しいメジャー(巻尺)だ。目盛りは銀の箔押しで、引手の金具には小さな薔薇の彫刻が施されている。
(……ベラのメジャー、だいぶ使い込んで文字が薄くなっていたな)
クラリスは、ベラがいつも自分を採寸してくれる時の、あのくすぐったくも優しい時間を思い出した。
あの古いメジャーも好きだが、新しい道具で、また一から自分を測り直してほしい。そんな独占欲と感謝が入り混じる。
「……おい、店主」
クラリスはベラが野菜を見ている隙に、素早く店主に金貨を渡した。
「あの革のメジャーを包め。釣りはいらん」
「これはこれは、まいどどうも!」
店主が包んでくれた小箱を、クラリスは慌ててポケットにねじ込んだ。
心臓が早鐘を打つ。
いつ渡そうか。帰ってから、オムレツを食べた後がいいか。それとも、今夜寝る前に……。
「団長? どうかしましたか?」
「な、なんでもない! 行くぞ、早く帰らないとシチューの具材が痛む!」
クラリスはベラの腕をさらに強く抱きしめ、早足で歩き出した。
平和な夕暮れ。
ベラの作る温かい夕食と、二人だけの穏やかな夜が待っているはずだった。
その時だった。
フワッ……。
風に乗って、奇妙な匂いがベラの鼻を掠めた。
下町の生活臭ではない。
もっと甘ったるく、粘着質な……熟れすぎて腐り落ちた果実のような匂い。
(……え?)
ベラの足が止まる。
この臭いは、知っている。
一年前、妹のエミリーが殺された夜。燃え落ちる店の中に漂っていた、あの吐き気を催すような残り香。
そして、つい先日、舞踏会でヴァルデング判事とすれ違った時に感じたものと同じ――。
「カチ、カチ……」
雑踏の喧騒の裏で、硬質な音が響いた。
誰かが石を打ち合わせているような、巨大な昆虫が顎を鳴らすような音。
ベラの全身の血が凍りついた。
「団長!!」
ベラが叫ぶのと同時だった。
広場の中心にある噴水付近で、何もない空間から鮮血が噴き出した。
「ギャアアアアッ!!」
通行人の男性が、見えない刃に切り裂かれ、血飛沫を上げて倒れる。
悲鳴。パニック。逃げ惑う人々。
平和な市場は一瞬で阿鼻叫喚の地獄と化した。
「……透明魔獣か!?」
クラリスが瞬時に状況を判断して原因を推察した。それと同時にマントを脱ぎ捨て、腰の剣を抜いた。
甘えていた少女の顔は消え、冷徹な騎士の瞳が周囲を警戒する。
「下がれ! 私の背中に隠れろ、ベラ!」
クラリスが前に出る。
だが、敵の姿は見えない。気配が完全に消えている。
逃げ遅れた子供が一人、石畳の上で泣きじゃくっていた。
その直前、空気が揺らぐ。
ベラは針子の眼で見えていた。
空間の歪みが、まるでほつれた糸のように浮かび上がっている。……そこだ!
死神の鎌が、子供の首を狙って振り下ろされようとしていた。
「――危ないッ!!」
クラリスの剣では間に合わない距離。
ベラは考えるよりも先に体が動いていた。
買い物袋を放り投げ、全速力で駆け出し、子供を抱きかかえて地面に転がる。
その左腕を、見えない刃が通過した。
ザシュッ!!
「ぐっ……!!」
鈍い音と共に、ベラの左腕に灼熱の痛みが走った。
ワンピースの袖が大きく裂け、鮮血が舞う。
「ベラァァッ!!」
クラリスの絶叫が響いた。




