第14話 触れられない指先
一方、北部の視察先。
領主が用意した迎賓館のスイートルームは、無駄に広く、豪華絢爛だった。
「……気に入らん」
クラリスは夕食のテーブルにつき、運ばれてきたフルコースを睨みつけていた。
最高級の鴨肉のロースト。芸術的な盛り付け。
しかし、クラリスはナイフで肉を小さく切り、一口運んだだけでフォークを置いた。
「団長? お気に召しませんか?」
給仕係が蒼白になって尋ねる。
クラリスはナプキンで口を拭い、冷ややかに言った。
「……味がしない」
「は、はぁ……?」
「塩加減は完璧だ。焼き加減も悪くない。だが……何かが欠落している」
「も、申し訳ございません……!」
シェフたちが震え上がる中、同席していたギルバート一等兵が「(ただのホームシックだ……ベラさんの料理じゃないとダメな体になってるだけだ……)」と心の中でツッコミを入れたが、口に出せば氷像にされるので黙っていた。
その夜。
広すぎるキングサイズのベッドの真ん中で、クラリスは眠れずにいた。
シーツは最高級のシルクだが、冷たくて滑る。
枕はふかふかだが、沈み込みすぎて息苦しい。
「……ベラ」
クラリスはベッドの隅に避難し、持ってきた「ベラ枕」を取り出した。
少し毛玉のある、使い古されたカーディガンの感触。
顔を埋める。
スーッ、ハァーッ。
「……うん。……いる」
微かに残る、日向の匂い。
クラリスはそれを命綱のように抱きしめ、小さく丸まった。
「おやすみ、ベラ」
+++
遠征二日目の夜。
第零班の執務室にある魔法通信機が、激しく明滅した。
ベラが応答すると、水晶板の向こうからギルバートの悲痛な叫びが聞こえてきた。
『べ、ベラさぁあああん! 助けてぇええ!』
「どうしました、ギルバートさん。魔獣の襲撃ですか?」
『ちげぇよ! 団長だよ! 団長が不機嫌すぎて魔王化してるんだよぉ!』
映像が揺れる。背景には、謝り続ける現地の兵士たちが映っている。
『「枕が違う」「空気が不味い」「ベラのオムレツがないなら絶食する」って……もう手がつけられないんすよ! 何か遠隔魔法でオムレツ送れません!?』
「……無理を言わないでください」
ベラがため息をつくと、画面の向こうから「貸せ!」という声がして、ギルバートが弾き飛ばされた。
代わって映し出されたのは、目の下にクマを作り、幽鬼のようにやつれたクラリスだった。
膝には、例の抱き枕を抱えている。
『……ベラか』
「団長。随分とお疲れのようですね」
『……当たり前だ。貴様がいないんだぞ』
クラリスは画面を睨みつけたが、その瞳は潤んでいた。
『匂いが、薄くなってきた』
「まだ二日目ですよ?」
『私が吸いすぎたのかもしれない……。もう、残り香しかない……。これでは眠れん』
クラリスは抱き枕に顔を埋め、深く吸い込んだ後、恨めしそうにベラを見た。
『……そこにいるのに』
クラリスの手が、画面に伸びる。
ベラの頬に触れようとする指先。しかし、触れるのは冷たい水晶の表面だけ。
『……触れない。冷たいガラスだ』
その声があまりに切なくて、ベラの胸がズキリと痛んだ。
ベラもまた、画面の向こうのクラリスの指先に合わせるように、そっと手を伸ばした。
「……あと一日の辛抱です、団長」
『嫌だ。今すぐ帰る』
「任務を放棄しては、『氷の処刑人』の名が泣きますよ」
『うるさい。……帰ったら、オムレツを作れ。チーズを三倍入れろ』
「はい、分かりました」
『それと……新しい服を作れ。……採寸も、やり直せ』
それは、もっと触れろ、という遠回しな要求だった。
「ふふ。……はい、全身くまなく測って差し上げますから」
ベラの言葉に、クラリスはようやく少しだけ安堵した表情を見せた。
『……覚えておけ。……帰還したら、貴様を離さないからな』
プツン。
通信が切れた。
ベラは消えた画面を見つめ、熱くなった自分の頬に手を当てた。
「……困った人。……本当に」
でも、その困った人に会いたくてたまらない自分がいることを、ベラはもう否定できなかった。
+++
三日目。
予定よりも半日早く、遠征部隊が帰還した。
クラリスが馬を飛ばし、休憩なしで王都へ戻ってきたからだ。
ガチャリ。
第零班の扉が開く。
「お帰りなさいませ、団長」
ベラが出迎えるのと、クラリスが倒れ込むのは同時だった。
ドサッ。
泥だらけのマントもそのままに、クラリスはベラの胸に飛び込んだ。
全体重を預け、しがみつく。
「わっ……団長、泥だらけですよ」
「……黙れ。……動くな」
クラリスの声は掠れていた。
ベラの首筋に鼻を押し付け、深呼吸をする。
本物の体温。本物の弾力。そして、本物の「日向の匂い」。
「……んぅ……」
枯渇していた生命力が、急速にチャージされていく。
張り詰めていた神経が溶け、クラリスの体から力が抜けていく。
「……うん。本物だ。……濃い」
「もう、ワンちゃんみたいに嗅がないでください」
「……足りなかったんだ。……全然」
クラリスはベラの背中に腕を回し、さらに強く抱きしめた。
ベラも観念して、クラリスの背中を優しくトントンと叩いた。
「おかえりなさい。……お疲れ様でしたね」
「……ああ。……ただいま」
そのまま、クラリスは立ったまま寝息を立て始めた。
ベラは苦笑し、彼女をソファへ運ぼうとして、クラリスの手から何かが落ちたことに気づいた。
それは、あんなにふっくらしていた「ベラ枕」の成れの果てだった。
よだれと涙でカピカピになり、中綿が寄ってヨレヨレになったカーディガン。
三日間、クラリスの孤独を受け止め続けた戦友だ。
「……ふふ。あなたもお疲れ様、私の身代わりさん」
ベラはクラリスをソファに寝かせ、毛布を掛けた後、そのカーディガンを拾い上げた。
「きれいに洗ってあげますからね」
洗濯カゴに入れられたカーディガンは、どこか誇らしげに見えた。
平和な寝息が響く執務室。
やはり、二人分の紅茶の香りがするこの場所こそが、互いにとっての「帰る場所」なのだと、ベラは確信していた。




