第13話 地方視察と身代わり枕
その日の朝、騎士団本部・第零班の執務室は、世界の終わりのような重苦しい空気に包まれていた。
窓のない地下室には、どんよりとした雨雲が見えるようだった。
発生源は、部屋の中央で腕を組み、仁王立ちしている銀髪の少女、クラリス・フォン・アルゼイン団長である。
「……行かない」
「団長。王命による地方視察です。拒否権はありませんよ」
ベラは旅支度の荷物を手際よく詰め込みながら、諭すように言った。
今日から三日間、クラリスは王都を離れ、北部の魔獣討伐部隊の視察へ向かうことになっている。
本来ならベラも同行したいところだが、「お針子は戦力外」という上層部の判断と、留守中のヴァルデングの動向を探るというベラ自身の目的もあり、今回は同僚のギルバート一等兵などが随行することになっていた。
「嫌だ。絶対に嫌だ」
クラリスは子供のように頬を膨らませ、床をブーツで蹴った。
「枕が変わると眠れないんだ。現地のベッドは硬いかもしれないし、シーツがザラザラかもしれない。……それに、ベラのオムレツがないと餓死する」
「向こうの宿舎は貴族御用達の高級ホテルだと聞いています。シェフも一流ですよ」
「そういう問題ではない! ……なじみの味がいいんだ!」
クラリスは拗ねて顔を背けた。
この数週間、ベラの作った服を着て、ベラの作った料理を食べ、ベラの近くで呼吸することが生存条件となってしまったクラリスにとって、三日間の別れは死活問題だった。
ベラは作業の手を止め、そっとクラリスに近づいた。
少し躊躇ってから、口を開く。
「……団長。昨夜のこと、怒っていらっしゃいますか?」
「ん?」
昨夜の舞踏会の帰り、ベラはクラリスの後見人であるヴァルデング判事に対して、「サイズが合っていない」「悪い靴と同じだ」と批判めいたことを言ってしまった。
恩人を悪く言われたクラリスが気分を害しているのではないかと、ベラはずっと案じていたのだ。
「……怒るわけがないだろう」
クラリスは驚いたように瞬きをし、それから少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「貴様は、私の足が痛いのを心配してくれただけだ。……それに内容はどうであれ、私のために怒ってくれた部下など、今まで一人もいなかった」
「団長……」
「だから、気にするな。……その代わり」
クラリスはくるりと振り返り、ベラの両肩をガシッと掴んだ。
その碧眼が、肉食獣のように爛々と輝く。
「出発までの残り十分間。……『充電』を許可しろ」
「充電、ですか?」
「そうだ。三日分のエネルギーを前借りする。……拒否権はない」
言うが早いか、クラリスはベラの胸元にダイブした。
「わっ、危ないですよ」
ベラはよろめきながらも、しっかりとクラリスを受け止めた。
クラリスはベラの首筋に顔を埋め、まるで火事場の家から脱出したかのように空気を吸いこみ、スーッ、ハァーッ、と深呼吸を繰り返した。
「……よし。……いい匂いだ」
「ただの石鹸の匂いですよ」
「違う。日向の匂いだ。……安心する」
クラリスの腕に力がこもる。
離れたくない。行きたくない。その本音が、痛いほど伝わってくる。
ベラは苦笑し、あやすようにクラリスの銀髪を優しく撫でた。
「私も寂しいですよ、団長」
「……嘘をつけ。貴様はせいせいしているだろう。手のかかる上司がいなくなって」
「いいえ。……手のかかる可愛い猫ちゃんがいなくなったら、部屋が広すぎて風邪をひいてしまいそうです」
ベラが囁くと、クラリスの耳がみるみる赤くなった。
しばらく無言で「充電」を続けていたクラリスだったが、やがて出発の鐘が鳴ると、不承不承といった様子で体を離した。
「……足りない」
「我慢してください」
ベラは懐から、小さく畳んだ布の塊を取り出した。
それは、ベラが普段愛用している、少し毛玉のついたニットのカーディガンだった。昨夜、急遽タオルや綿を詰め込み、即席の筒状に縫い合わせたものだ。
「これを持って行ってください。『ベラの身代わり抱き枕』です」
「……なんだそれは」
「私が着ていた服で作りました。……私の匂いが、たっぷり染み込んでいますよ」
クラリスの目がカッと見開かれた。
次の瞬間、ひったくるような速さでそれを奪い取った。
「……採用だ」
「ふふ。では、行ってらっしゃいませ」
「フン。……行ってくる! 留守中、私以外の者と話すことを禁止する!」
クラリスは「抱き枕」を宝物のように抱え、部屋を出て行った。
その背中は、戦場へ向かう騎士というより、お気に入りのぬいぐるみを抱えた幼子のようだった。
+++
クラリスが出発してから、半日が過ぎた。
第零班の執務室は、しん、と静まり返っていた。
「……静かすぎますね」
ベラは自分の作業机で、溜まっていた衣装の修繕を進めていた。
いつもなら、「ベラ、茶」「ベラ、肩が凝った」「ベラ、こっちを見ろ」と、数分おきに飛んでくるワガママな命令がない。
針を通す音だけが、虚しく響く。
午後三時。ティータイムの時間。
ベラは無意識に席を立ち、給湯室でポットに湯を沸かした。
茶葉を蒸らし、カップを二つ用意して、トレイに乗せて執務室に戻る。
「団長、お茶が入りましたよ。今日は……」
言いかけて、ベラは足を止めた。
部屋の奥、主のいない執務机は、書類がきれいに片付けられたまま、冷たく鎮座している。
「……あら。いけない」
ベラは苦笑いをした。
誰もいないのに、つい二人分の紅茶を淹れてしまった。
湯気の立つ二つのカップ。
ベラは自分の分のカップを手に取り、一口啜った。
「……少し、渋いかしら」
いつもと同じ茶葉、同じ温度のはずなのに、何かが足りない。
向かい側で、「熱い! 猫舌だと言っているだろう!」と文句を言いながら、それでも嬉しそうに飲む相方がいないだけで、紅茶の味はこんなにも色褪せるものなのか。
ベラは、クラリスが以前プレゼントしてくれた「猫の肉球リッパー」を手に取った。
ぽにゅ、とした肉球の感触を指で確かめる。
「……寂しいのは、私の方かもしれませんね」
ベラは誰もいない空間に向かって、小さく呟いた。
復讐のために潜入したはずなのに。いつの間にか、あの不器用な少女の存在が、生活の、そして心の中心を占めるようになっていた。




