第12話 慈愛の判事
「……お義父様!」
クラリスの表情が、瞬時に一変した。
ベラに見せていた甘えた顔は消え、親の愛を乞う幼子のような、必死な笑顔が張り付く。
「ご、ご無沙汰しております。……その、本日は」
「ああ、見ていたよクラリス。実に素晴らしかった」
ヴァルデングは近づき、ベラを無視してクラリスの肩を抱いた。
その手は、ショールの上からではなく、露出した肩の素肌を直接撫で回すような手つきだった。
「冷たく、美しく、誰にも媚びない。まるで精巧な硝子細工のようだ。……やはりお前には、『感情』などという不純物は必要ないな」
ゾクリ。
横に控えていたベラの背筋に、悪寒が走った。
その言葉は、娘を褒める父親のものではない。所有物を検品するコレクターの響きだ。
「このドレスもいい。お前の人間臭さを消し、完璧な『人形』に見せている」
「……あ、ありがとうございます。これは、部下のベラが……」
「ああ、そこの付き人か」
ヴァルデングはようやくベラに視線を向けた。
その目は、家具や調度品を見るような、無関心で冷徹なものだった。
「いい仕事だ。剥製師のような腕前だな。……今後も、私のクラリスの『メンテナンス』を頼むよ」
「……痛み入ります」
ベラは深く頭を下げた。
しかし、その顔は蒼白だった。
臭う。
ヴァルデングが近づいた瞬間、鼻を突いた強烈な違和感。
彼は高級な白檀の香水を纏っている。だが、ベラの鋭敏な嗅覚は、その奥底にある「染み付いた臭い」を逃さなかった。
(……甘ったるい、腐った果実の臭い)
(そして……古びた鉄錆……いいえ、これは『血』の臭いだわ)
記憶がフラッシュバックする。
一年前。燃え落ちる店。妹の遺体。
あの現場に残されていた、吐き気を催すような残り香と、まったく同じだ。
(この男……まさか……!?)
ベラの視界が赤く明滅する。
今すぐ真実を問いただし、もしそうであれば懐のリッパーを取り出し、この男の喉笛を掻き切りたいという衝動が湧き上がる。
だが、今のヴァルデングは、クラリスの「最愛の父」だ。
「さあ、クラリス。皆に挨拶に行こう。私の自慢の娘を、もっと見せびらかさなくては」
「はい、お義父様! ……行ってきます、ベラ」
クラリスは嬉しそうに頬を染め、ヴァルデングに寄り添って広間へと戻っていく。
その無邪気な背中が、ベラには「魔獣の口へ自ら歩いていく生贄」に見えた。
「……団長」
伸ばしかけた手は、空を切った。
バルコニーに残されたベラは、震える手で自分の腕を抱いた。
(あの男はきっと何か関係がある……妹の死と)
月明かりの下、ベラの栗色の瞳から光が消え、暗く冷たい炎が宿った。
+++
帰りの馬車は、重苦しい沈黙に包まれていた。
今はクラリスとベラの二人きりだ。
だが、ベラは一言も発さず、窓の外を凝視している。
「……ベラ?」
クラリスはおずおずと声をかけた。
怒っている。ベラが怒っているのは分かるが、理由が分からない。
「……何か、不手際があったか? 動きが悪かったとか……」
「いいえ。団長は完璧でしたよ」
ベラの声は優しいが、どこか遠い。
クラリスは不安でたまらなくなった。ドレスの仕掛けで感じた温もりが、急速に冷えていくのを感じる。
+++
「氷の鳥籠」の寝室。
ドレスを脱ぎ、ナイトウェアに着替えたクラリスは、ベッドの縁に座っていた。
足元には、ベラが跪いている。
「痛っ……!」
「……ひどい靴擦れですね。皮がめくれて、血が滲んでいます」
ベラは軟膏を指に取り、クラリスの踵に優しく塗り込んだ。
その手つきは丁寧で、先ほどの怒りの気配は消えている。だが、その瞳には、今まで見たことのない哀しい色が漂っていた。
「……あの方のことが、お好きなんですね」
唐突な問いかけに、クラリスは瞬きをした。
「お義父様のこと? ……ああ。両親が事故で死んで、誰も私に見向きもしなかった時、あの人だけが私を拾ってくれた。私を強くしてくれたのも、騎士団長でいられるのも、全部あの人のおかげだ」
クラリスは誇らしげに語る。
しかし、ベラの手がピタリと止まった。
「……サイズが、合っていません」
「え?」
「靴のことです。……そして、もしかしたら、その『お父様』も」
ベラは顔を上げ、真剣な眼差しでクラリスを見つめた。
「貴女を傷つけ、血を流させる靴は、貴女の足に合っていないんです。どんなに高価で、立派な靴だとしても……貴女が痛いのなら、それは『悪い靴』です」
「な……何を言っているんだ。お義父様は私を愛して……」
「本当に、愛している人の目でしたか?」
ベラの脳裏に、あの腐臭と、クラリスを「人形」と呼んだ冷徹な響きが蘇る。
「私には……貴女の綺麗な肌に、見えない泥を塗っているように見えました」
クラリスは言葉を失った。
ベラの言っている意味が分からない。いや、分かりたくない。
唯一の肉親のような存在を否定される恐怖。
「……ベラ。今日は疲れているようだ。……もう、いい」
クラリスは足を引っ込め、布団に潜り込んだ。
拒絶。
ベラは一瞬、悲痛な顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな従者の顔に戻った。
「……申し訳ありません。出過ぎたことを言いました」
ベラは手当て道具を片付け、立ち上がった。
部屋の明かりを落とす。
「おやすみなさい、団長」
背を向けて出ていこうとするベラ。
その背中が、永遠に遠ざかってしまうような錯覚に襲われ、クラリスは布団の中でシーツを握りしめた。
(待って)
(行かないで)
(ここにいて。一緒に寝て。……怖いんだ)
喉元まで出かかった言葉を、クラリスは飲み込んだ。
ヴァルデングへの忠誠心と、ベラへの依存心。二つの感情が板挟みになり、声が出ない。
バタン。
扉が閉まる音が、重く響いた。
+++
廊下に出たベラは、扉に背を預けたまま、深く息を吐いた。
手には、クラリスの踵を拭ったガーゼが握られている。
(……焦ってはいけない。今、無理に引き剥がせば、あの子は壊れてしまう)
ベラは自分の手を顔に近づけた。
ヴァルデングとすれ違った時に微かに付着した、あの忌まわしい残り香。
「……絶対何かある」
ベラの瞳が、夜の闇の中で鋭く光る。
「エミリー。お姉ちゃん、やっと尻尾を掴んだかもしれない」
ベラは、クラリスの寝室の扉を振り返った。
その視線は、もはやただの「お針子」のものではない。
愛する主を蝕む害虫を駆除しようとする、冷徹な狩人の目だった。
「待っていてください、団長。……その歪んだ縁の糸、私が必ず断ち切って差し上げますから」
冷たい月の光が差し込む廊下を、ベラは一人、足音を忍ばせて歩き出した。
その背中には、誰も知らない決意の刃が隠されていた。




