第11話 夜会のドレス
王宮の夜会。それは社交界における華やかな戦場であり、人嫌いのクラリス・フォン・アルゼインにとっては、処刑台に登るのと同義だった。
夕刻。第一地区にあるクラリスの私邸、「氷の鳥籠」の衣裳部屋は、切羽詰まった空気と、どこか妖艶な熱気に包まれていた。
「……だめだ、まだ緩い。もっと締めろ、ベラ!」
「団長、これ以上は危険です。肋骨が悲鳴を上げていますよ」
「構わん! 息ができるからまだ余計だ。物理的に締め上げて、私の脆弱な精神を固定しろ!」
鏡の前で、クラリスは悲壮な顔で叫んでいた。
今夜は王家主催の舞踏会。騎士団長として出席義務がある。だが、煌びやかなシャンデリアの下、上流階級の人間たちに値踏みされる時間を想像しただけで、クラリスの胃は裏返りそうだった。
「ほら、何を躊躇っている! 早く紐を引け!」
「……はぁ。分かりました。でも、苦しくなったらすぐに言ってくださいね」
ベラがドレスの背後に回り、編み上げの紐を手に取る。
クラリスが身につけているのは、ベラが仕立て直した儀礼用のドレスだ。深いミッドナイトブルーの生地は、彼女の銀髪と白い肌を、夜空に浮かぶ月のように際立たせていた。
ギュゥッ。
「んぐっ……!」
「いきますよ。……せーの」
ベラが体重をかけて紐を引く。
クラリスの華奢な体が反り返り、細い腰がさらに限界まで絞り上げられる。
「あ、ぁ……っ! そ、そこ……きつい……っ!」
「動かないでください。紐が食い込みます」
「んっ、くぅ……! ベラの手、熱い……背中、もっと……!」
「もう、変な声を出さないでください。廊下の使用人が聞いたら、どんな『折檻』をしているのかと誤解されますよ」
ベラは呆れながらも、その手つきは慈愛に満ちていた。
コルセットの紐を結び終えると、その上からドレスのホックを丁寧に留めていく。ベラの指先が背骨をなぞるたび、クラリスの背中に甘い電流が走る。
それは苦痛による引き締めではない。ベラの手によって「守られている」という、絶対的な安心感による梱包だった。
「……ふぅ。これで、鎧はかぶさった」
クラリスは荒い息を整え、鏡の中の自分を睨みつけた。
蒼白だった頬には、興奮と酸欠で微かな赤みが差している。
「完璧です、団長。……夜の女神のようにお美しい」
「お世辞はいい。……それより、貴様だ」
クラリスは振り返り、部屋の隅に用意させておいたハンガーを指差した。
そこには、控えめだが仕立ての良い、淡いグレーのドレスが掛かっている。
「着ろ」
「え?」
「私一人で行くなど絶対に無理だ。途中で気絶する自信がある。……だから、貴様も来い。私の『侍女』として、片時も離れるな」
それは命令というより、捨てられたくない子供の懇願だった。
ベラは目を丸くしたが、すぐにふわりと微笑んだ。
「お供します。……貴女が、鎧を脱ぐその瞬間まで」
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数十分後。
今度はクラリスが、不慣れな手つきでベラの背中のリボンと格闘していた。
「……くっ、なぜだ。なぜ縦になる……」
「団長、くすぐったいです」
「黙ってろ! 私の専属衣装係が、だらしない格好で歩いていたら私の恥だ!」
クラリスの指先が、ベラの背中に触れる。
普段、騎士たちの頑丈な服を縫っているベラの背中は、意外なほど柔らかく、温かかった。
その体温が指先から伝わり、クラリスの心臓をトクン、と鳴らす。
(……ベラ。私だけの、ベラ)
リボンを結ぶという口実で、その背中に触れられる時間が愛おしい。
ようやく歪なリボン結びを完成させると、クラリスは満足げに頷いた。
「よし。……行くぞ」
二人は馬車に乗り込み、光の渦巻く王宮へと向かった。
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王宮の大広間は、むせ返るような香水の匂いと、弦楽器の音色に満ちていた。
シャンデリアの輝きが、磨き上げられた床に反射し、視界をチカチカさせる。
「王立騎士団長、クラリス・フォン・アルゼイン閣下のお着きだ!」
衛兵の声と共に、扉が開く。
その瞬間、数百の視線が一斉に突き刺さった。
好奇、嫉妬、欲望、嘲笑。
それらの粘着質な視線を、クラリスは氷の仮面で跳ね返した。
(……足が震えそうだ)
背筋を伸ばし、顎を上げ、優雅に歩を進める。
その一歩後ろには、侍女に扮したベラが控えている。その気配だけが、今のクラリスを支える唯一の杖だった。
「やあ、アルゼイン団長。今宵も冷たく輝いておられる」
「一曲、いかがですかな?」
「ぜひ、我が領地のワインについてお話を……」
すぐに、燕尾服を着た男たちの壁ができた。
貴族、軍の上層部、有力商人。彼らにとって、若く美しい「騎士団の団長」は、格好のトロフィーであり、権力への足がかりだ。
「……光栄です」
クラリスは、凍りついたような微笑みを浮かべた。
断れない。
彼女は高位貴族の娘であり、軍の顔だ。ここで無礼な振る舞いをすれば、後見人であるヴァルデング判事の顔に泥を塗ることになる。
「では、お手を」
男の手が伸びてくる。
クラリスはその手を取り、ダンスの輪へと入っていった。
ワルツの調べ。
男の手が腰に回される。革手袋越しの感触が、まるでナメクジが這うように気持ち悪い。
(帰りたい。帰りたい。帰りたい)
一曲終われば、また次の男。
息つく暇もない。
回る景色。男たちの媚びた笑顔。混じり合う香水の強烈な匂い。
「はぁ……はぁ……」
呼吸が浅くなる。
視界が白く霞んでいく。
広間の壁際で、ベラが心配そうにこちらを見ているのが分かった。
助けて、ベラ。
その時。
クラリスは、ドレスの腰元に隠された、小さな結び目を思い出した。
(……そうだ。『お守り』)
出発前、ベラが耳打ちしてくれた言葉。
『どうしても辛くなったら、右の腰のリボンを引いてください』
クラリスはダンスのターンに合わせて、こっそりとそのリボンを引いた。
シュッ。
その瞬間。
「……っ!」
ドレスの内部、背中と脇腹にあたる部分の裏地が、きゅうっ、と均等に収縮した。
それはただの締め付けではない。
まるで、温かい掌で背中全体を支えられ、後ろから抱きしめられているような――そう、ベラのハグそのものの圧迫感だった。
(あ……ベラだ……)
男の腕の中にいながら、クラリスの感覚はベラの幻影に包まれていた。
パニックになりかけていた心臓が、その「布の抱擁」によって落ち着きを取り戻していく。
コットンリネンの裏地からは、微かに、あの日向の匂いがした。ベラが縫い込んでくれた、秘密のサシェの香りだ。
(あったかい……。守られてる……)
クラリスの頬に、自然な赤みが戻る。
瞳が潤み、とろんとした甘い光を帯びる。
目の前の男は、「おっ、私に気があるのか?」と勘違いして鼻の下を伸ばしたが、クラリスが見ているのは彼ではない。
ドレスを通して、遠く壁際に立つベラを感じていたのだ。
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しかし、限界は来る。
十人目の相手と踊り終えた時、クラリスの足は悲鳴を上げていた。
慣れないヒールが踵を削り、激痛が走る。
「……失礼。少し、風に当たりたいので」
これ以上のダンスは不可能と判断したクラリスは、男たちを振り切ってバルコニーへと逃げ出した。
夜風が冷たい。
人気のない石造りの手すりに凭れ掛かり、クラリスは深く息を吐いた。
「はぁ……はぁ……」
「団長」
すぐに、背後から声がかかった。
振り返らなくても分かる。あの日向の匂い。
「……ベラ」
「お疲れ様でした。よく、頑張りましたね」
ベラがショールを広げ、クラリスの肩に優しくかけた。
その本物の温もりに、クラリスの張り詰めていた糸が切れた。
「……充電切れだ。補給させろ」
クラリスはベラの肩に額を押し付け、ぐりぐりと擦り付けた。
「もう嫌だ……。男どもの手はヌルヌルするし、足は痛いし……。帰りたい。屋敷でオムレツを食わせろ」
「ふふ。はい、帰りましょう。とろとろのチーズ入りを作りますから」
ベラはクラリスの背中を、子供をあやすようにポンポンと叩いた。
月明かりの下、二人だけの静寂。
このまま、手を取り合って抜け出してしまおうか。
そう思った、その時だった。
「おやおや。私の可愛い小鳥は、こんなところに隠れていましたか」
粘着質な、それでいて洗練されたバリトンの声。
クラリスの肩がビクリと跳ねた。
闇の中から現れたのは、初老の紳士だった。
上質な黒の礼服に身を包み、銀の杖をついた男。
治安判事、ヴァルデング。
クラリスの亡き父の友人であり、彼女の後見人である人物だ。




