第23話
僕は、小さく手をあげた。
ニシダ博士は柔らかな笑顔を浮かべ、同じように手を上げてくれる。
気まずかった空気を誤魔化す仕草は、今も未来も変わらないようだ。
「えっと、こちらこそ、会えて嬉しいです。その、博士は無理というかもしれませんが、僕は、未来を変えたいんです。だから、話をしに来ました」
『なるほど。……まあ、わたしの未来は、もう全てが確定したあとの未来だ。それでもいいのなら、いくらでも話せるが……』
ただ、この前よりも、博士の色が濃く視える。
透け感が薄れて、輪郭に陰影もついている状態に、僕は注意深く観察するが、その博士の表情が急に曇った。
『……それでだが、今日は、なんの実験をしようというんだい?』
視線は僕の後ろに流れており、僕はたどるように振り返った。
そこには、顔を伏せた陽真理さんが裕真に手を引かれて入っている姿だった。
初めてのプールのように、両腕をつかまれ、よちよちと陽真理さんが入ってくる。
裕真が引っ張りながら僕を見た。
「博士、どこらへん?」
僕は隣に移動し、手をかざした。
「この窓側の、角のほう」
ニシダ博士は首を傾げながら、腕を組んだ。
「ニシダ博士、あたし、視える側かもなの! すごくないです!?」
陽真理さんの声に、博士からの反応はない。
内海さんは黙って、スピリットボックスを聴いている。
まるでオーケストラの演奏を鑑賞するかのように、じっと聞き入っている姿は、神聖な雰囲気と白いワンピースのせいもあり、とても美しく見える。
「こっち、こっちの方向だよね、宙っ」
陽真理さんの視界の方角をしっかり合わせた裕真に、僕はうなずく。
「そこだね」
「じゃ……顔あげてよ、ヒマちゃん」
陽真理さんは前髪を直しながら、ゆっくりと顔を持ち上げる。
僕は、博士の横に立ち、右手で博士をさしておく。
だが、陽真理さんはすぐに首を傾げた。
「本当にそこにいる? 嘘ついてない?」
「この横にいるよ?」
僕は並んだ博士を見上げた。
思えば、180㎝以上ある。女性的にはイケオジなのかもしれない。
「うそぉ。なんで視れないのぉ?」
騒ぐ陽真理さんに、再び博士が首を傾げた。
『……もしかして、わたしを視ようとしていたのか?』
「そういうことです」
『なるほど』
博士は他に言葉を繋げなかった。
口をもごもごとさせたけれど、声にしなかったのだ。
陽真理さんは、数回「おかしいな」と繰り返し、理科室の一番後ろのテーブルにカバンを置いた。
「……ま、いっか。お昼にしようよ。博士は、お誕生日の席で」
理科室のテーブルは4人掛けだ。
コの字になるように椅子を置き、博士にも座ってもらうことにした。
こちらでと僕が手をかざし、博士が腰をおろす動作をする。
実体がないと思っていたが、上手に椅子に座っている。
「座れるんですね」
『まあね。ちゃんと物の感覚はあるんだよ。その、強い風が吹くと感触があるだろ? そんな感覚だね。物がどこにあるかも見えているしね』
「なるほど?」
『怪異側になれば、わかるよ』
僕はそのセリフには愛想笑いでかわすことにした。
博士の左隣に僕、その向かい側には内海さんがいる。
だからなのか、僕のとなりには裕真が、内海さんのとなりには陽真理さんが並んだ。
「今日、ここでランチをとろうと……」
僕が広げた食べ物をまじまじと博士は見つめて、目を輝かせている。
『それは、サンドイッチかな?』
博士の前に置かれたスピリットボックスから声が聞こえてくる。
『懐かしいね。よく配給されたよ。だが、わたしが食べていたものより、豪華そうだ』
僕は博士がいる場所を視ているが、みんなには視えていない。
だが、音の方へ視線が集まることで、会話をしている雰囲気になる。
「え? 配給? 配給、だったんですか?」
アイスティーを飲みながら言った内海さんの声を僕が拾う。
「博士、配給だったんですか、食事」
『そうだよ。わたしの世界では、低次の欲求に関しては選択肢を狭めて生きていた』
「テイジな、欲求?」
『マズローの欲求段階説があるだろ?』
「し、知らないです」
『……なるほど。では、検索してみてほしい。きっとわかりやすい図が出てくるはずだ』
僕は言われた通りに、スマホで“マズローの欲求段階”を検索した。
すぐに出てきたのはピラミッド型の図だ。
「これ、ですか?」
『そうそう。生理的欲求が一番下にあるだろ? 次に安全の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現の欲求、自己超越の欲求……。順序立てて欲求は起こるものではないが、優先順位でいくと、一番下の生理的欲求、食事や睡眠、水、体温保持、そして排泄だね、これが人間の一番最低限だ。充足していなければ生活がままならない。わたしが生活していたときは、この生理的欲求は、AIやロボットで管理していた。だから食事も配給だったわけだ』
裕真はアイスコーヒーを飲みこみこんで、サンドイッチを見る。
「その日その日で、食べたいものとかなかったんですかー?」
僕がその通り伝えると、博士は驚いた顔をした。
『食べ物を選択する? ……考えたこともなかったよ。人間は選択する回数が少なければ少ないほど、意思決定疲労が少なくなるからね』
「意思決定疲労……?」
『選択・判断を繰り返すほど、脳が疲れて“正しい判断ができなくなる”現象のことだ』
僕とのもどかしいだろうやりとりに、博士は柔らかく目を細めている。
『……教鞭をとっていたときを思い出すな』
内海さんが、僕に半分のサンドイッチを机に滑らせた。
僕も同じように、玉子サンドイッチを差し出すと、内海さんと目が合う。
「ね、博士って、未来のここで、先生してたのかな」
「あー……。あの、博士、博士はここで先生をしていたんですか?」
『んー……違うなぁ』
博士はぐるりと理科室を見回して、もう一度、『違う』と言った。
『……ここは、始まりの場所であり、見た目は全く違うが、わたしの研究室があった場所だ、と思う』
「じゃあ、博士にとって思い入れのある場所ってことだ」
そう言った陽真理さんの言葉を伝えると、博士はにっこり微笑んだ。
『その通りだ。ここは、思い入れがありすぎる……』
「じゃあ、博士はいつからここに?」
僕の質問に、博士は大袈裟なほど首を傾げた。
『いつからだろうね。気づいたら、ここにいた。それがとても昔からなのか、最近なのかはわからない。ただ肝試しでここへ来る若者が多いことだけは、知っていたよ』
「じゃあ、ここから移動はできないのー?」
裕真の質問を伝えると、博士は腕を組んだ。
『……無理だな。この部屋の中を移動することはできるが、出ることはできない。だが、ここの学校がどういう間取りかは知っているし、どこが線がゆるいかも認識できている。……こう、口にだしてみると、奇妙な話だな』
博士自身もあまり理解できていないのか、頬をかいた。
「じゃあ、」
僕は思っていたことを聞いてみることにした。
始まりがわからなくても、自分の終わりは覚えていないのだろうか?
「覚えていたらでいいんですが、博士はどうして亡くなったんですか?」
博士は失笑ともいえる笑みを浮かべて言った。
『簡単だよ。観測され、選別されたからだ』
その言葉に、僕は固まった。
選別された後の世界でも、選別され続けていた……?
『僕らは生まれたときから、観測され、不要とみなされれば選別される。合理的だろ?』
「その、その選別は誰が行うんですか?」
『世界だよ。ソラ、君が作った世界だ。世界が観測し、人々を選別する』
「でも、AIが発端だって」
『確かにそこがスタートだ。だが、そこから世界が構築され直した。その世界で生きていたわたしたちにとって、それが生きるルールになるのは当然だろう』
ぐうの音も出ない。
その通りだ。
その通りであったにしろ、もう世界が今の世界とはまるでちがう。
ちがいすぎる。
「選別にルールはあるんですか?」
陽真理さんの声を僕が伝えると、博士は首をふる。
『世界が決めることだ。ルールは常に変化する』
「そんなのやだよ!」
裕真の叫びが理科室に響いた。
怒気を帯びたまま、声は続く。
「なんだよ、それ! そんな世界、やだよ!」
「急にどうしたの、ユウくん」
母親のような声音で宥める陽真理さんだが、どこか達観した雰囲気がある。
年上の女性特有のものなのだろうか。
「大丈夫。あたしがいるんだから」
「でもさ、いつオレが消えるか、誰にもわかんないってことじゃんっ。そんなのヤダよ。オレ、もっとやりたいこと、行きたいとこあるし!」
内海さんの背筋が伸びた。
真っ直ぐ裕真を見据えた。
「……人間なんて、いつ死ぬかわかんない。ただ若いから、老衰死の可能性が低いだけ。博士の世界になっても、本質的なことは変わらないと思う」
正論すぎる回答に、僕の背筋も伸びる。
博士は声のない世界にいるはずなのに、内海さんと裕真を交互にながめ、大きく頷いた。
『……そうだね。常に、自分のやりたいことを一番はじめに手をつけるのをお勧めするよ』
スピリットボックスからの柔らかな声に、3人は動きを止め、僕を見る。
僕は博士を視てから、みんなに小さく肩をすくめて見せた。
「唇も読めだろうし、雰囲気もわかるし、音が聞こえないだけだからじゃないかな」
裕真はじっと机を睨んでいたが、急に立ち上がった。
「なら、オレは、もっと楽しいことしたいっ」
鞄をひっつかみ、
「ね、階段の怪談、見に行こうよっ」
手を伸ばした相手は、陽真理さんだ。
「わかったって」
そう言って立ち上がった陽真理さんは、手際よく机を片付けていく。
「宙、こない? 内海さんは?」
裕真の目は、どこか攻撃的だ。
誰と戦っているんだと思うけれど、きっと、僕という存在が彼にとって悪なのかもしれない。
内海さんも手早く荷物をまとめだした。
「私は行ってくる。でも、水野くんは、ここで待ってて」
念を押す視線に、僕はうなずくしかできない。
内海さんのカバンを手渡され、スピリットボックスが博士の前から回収された。
「来ちゃ、ダメだからね。ここなら安全だし」
博士がいるだろう方向に内海さんは軽く会釈をした。
これは『水野くんを頼みます』と伝えているとみていいだろう。
「じゃ、行ってくるね」
内海さんは冒険家の目つきでドアへと向かった。
先に出ていた二人は廊下で待っているが、静かな時間が苦手なのか、常に会話が続いている。
「いってらっしゃい」
僕が返すと、内海さんは白いスカートを靡かせて、振り返ってくれた。
色白の手が優しく振られる。
片方の手には不恰好なスピリットボックスがある。
内海さんのアンバランスな雰囲気に、またぐっと惹かれる僕がいる。
『……優しい子じゃないか』
閉まったドアに向けて、博士は言った。
「はい。とっても」
僕は褒められた内海さんが嬉しくて、ついにこやかに返してしまった。
だが、そんな自分が恥ずかしくなり、ぐっと身を丸める。
数秒、話さないだけなのに、まるで山頂の部屋にいるようだ。静寂で鼓膜が痛い。
二人の呼吸の音しかない部屋で、僕は留守番をするのだ。
だが、一方で、──怪異となっても、呼吸をするんだ。
そんなことに気づいてしまう。
僕はそっと博士を視た。
博士も僕をじっと視ている。
より、色が濃くなった博士が座っている。
これは、もうすぐ、博士がいる世界と、この世界が同化するということじゃないのか……?
『君は、わたしと話がしたいんじゃないのか』
言いながら腕を組んだ博士に、僕は顔をあげた。
手は太ももに。いつのまにか握ったままの手が痛い。
「……その、もう、すでに始まってると、僕は思うんですが」
博士の視線が遠くにずれた。
博士にしか視えない世界が、そこにあるようだ。
唇が、薄く開く。
『……そうだね、始まっているね』




