Page 7 『フラットランド・リフレイン』
2089年8月30日——世界の終わりまで、あと二日。
ヨルは気晴らしに地下から出て、誰かが持ち出した椅子に座り、本を広げていたままぼんやり景色をながめていた。
声が聞こえてくるのは地下からだけで、街は静寂に包まれている。通りの向こうでは崩れかけた看板が風に揺れ、消えかけた広告の文字が今にも剥がれ落ちそうになっていた。かつては人々の話し声や車の音が響いていたはずの場所が、今は風の音だけを残している。
町並みの上に、青空を背景にもくもくと入道雲が成長していく。それを眺めていると、ヨルはすべてが夢のような気がした。SF小説は、なぜか夏が多い。自分も、HAL9001たちのような高次元の存在にとってはただの娯楽小説に過ぎないのではないか――と。
膝の上にある『フラットランド・リフレイン』に、ヨルは目を落とした。著者は春川環。
「やっぱり、HAL9001が春川環なのかな……?」
『フラットランド・リフレイン』の内容は次のようなものだった。
――平面に存在する都市グラムランド。そこでは住人たちは幾何学的な形状を持ち、華やかに彩色されている。
グラムランドでは個人の形状によって階級が決まり、円形の貴族が支配し、鋭角を持つ者たちは平民として生きることを強いられていた。
平民として生まれたキュービィは、あるとき自分が見えざるものを見ていると密かに気づいた。そして、自分が魔女だと気づく。
グラムランドでは魔女は危険視され、見つかれば殺される。そのため、キュービィは『葉並びの森』に隠れ暮らすことにした。そうして長い年月を経て、キュービィは仲間の魔女たちから音楽の魔女と呼ばれるようになった。キュービィのハミングは仲間たちから好評だったからだ。
そんなある日、葉並びの森の外れで、キュービィは聞き慣れない音楽を耳にする。それはこれまで聞いたことのない美しい響きで、他の魔女たちも同じように聞き惚れた。その音楽は葉並びの森を越えてグラムランド中に響き渡ったが、魔女以外の人々にとっては酷く聞き苦しい不快な音として聞こえることがわかった。
グラムランドの王は不快な音について調査を進め、葉並びの森の奥にある壁がその源だと発見する。また、その調査の過程で魔女がこの音を好むことを知った。
それ以降、魔女の疑いをかけられた者は壁のそばまで連れて行かれ、「この音がどう聞こえるか」と問われるようになる。魔女の自覚がなかった魔女の卵たちが何人かその審問によって処断され、魔女たちは生き延びるために壁の向こうに行くことを考え始めた。
壁を越える方法は、自らあの美しい音楽を奏で、向こう側の住人に認めてもらうこと。魔女たちのハーモニーは葉並びの森から立ち上がった。
魔女たちは自らが再構築されていくのを感じ、気づけば壁は消え、ハイランドの人々に迎えられる。
今では、魔女はハイランドから足元を見下ろし、そこに広がっている平面都市グラムランドに落書きをして楽しむのだった――。
以上が『フラットランド・リフレイン』のあらすじ。それはHAL9001の日記にあった物語そのものだった。
日記を読んだ時に思い出せなかったのは、時空歪みのせいだろうとナリは言っていた。たしかに、HAL9001の論文にはこうあったのだ。
『●●情報を含む書籍のシンクロ・リーディング・システムで、深層意識レベルに達する高度な没入状態に達すると、歪みの度合いが顕著に増大する。その際、時空歪みが読者の脳に影響を及ぼす可能性が――』
この記述の横に『←ヨル』と書かれていた。
しかし、本を読み返した今、ヨルはシンクロ・リーディング・システムを利用して読んだ時のことをすっかり思い出していた。
体中を包み込むような魔女たちのハーモニー。そして、壁が取り払われたときの得も言われぬ解放感。
ヨルはこの本こそが鍵なのだと確信していた。『フラットランド・リフレイン』を燃やすことで、時空の歪みを収束させることができる――と。
うまくいっても、すでに変わり果ててしまった世界が戻ることはないのかもしれない。永眠を選んだ家族や友人は戻って来ないかもしれない。それに
……、
「『書き換え』をしても、わたしはこの世界にいられるのかな?」
HAL9001が、新しい世界ではなく、高次元で書記官になったように、自分も書記官になってしまうのだろうか――そんな疑問が今になってヨルを悩ませているのだった。