Page 5 グラムロックシティの廃図書館
8月27日。ヨルと不眠享楽(SR)の仲間たちは、グラムロックシティへの来訪者が最も多い夜中に潜入することにした。
深夜0時、グラムロックシティへの道は、今夜も静かに人々を吸い込んでいる。永遠の眠りを求める者たちは不安がピークに達する夜中にこの街へやってきて、迷いながらも沈黙の中を歩き、受付の前に並ぶのだ。そして、白い服をまとった信徒たちが淡々と応対する。
「どうぞ、安らぎの地へ——」
「新しい世界へ——」
かすかに聞こえてくるその言葉は、優しく、冷たくヨルの耳に響いた。
「……今がチャンスね」
スュンが低く言い、手元の通信機のスイッチを入れた。
「別働隊、準備は?」
『——異常なし』
通信の向こう側で確認の声がする。肉体派のSRメンバーはすでに配置につき、都市の反対側で爆破作戦を仕掛ける手筈になっている。その爆発が起きれば信徒も信者も混乱し、こちらの警備が薄くなるはずだ。
「ヨル、イギル、ナリ——準備は?」
「問題ないよ〜」とナリ。軽い口調は、年下のヨルたちの緊張をほぐそうとしている。
「オッケー、じゃあ行くわよ」
スュンは周囲を確認すると、グラムロックシティの境界線へ向かって静かに歩き出した。
*
グラムロックシティを囲う分厚い防壁。ある時突然、その一部が崩壊していたらしい。今は間に合せのフェンスで覆われているが、まるで「どうぞお入りください」と言っているようにめくれ上がっていた。
「わたしたちも罠かと警戒したんだけど、問題なかったわ。ここから侵入して廃図書館に行ったの。今思えば、ハルが書き換えで侵入通路を作ってくれたのかもしれないわね」
スュンの言葉は冗談か本気か微妙なところだったが、ヨルはそれがHAL9001の仕業だと、なんとなく確信している。あの日、うわさを聞いてミーミル図書館に向かったのもHAL9001がそう仕向けたのではないかと思っていた。
息をひそめ、足音を忍ばせて防壁内に侵入し、建物の隙間に身を隠しながら、別働隊からの連絡を待った。崩壊後しばらくは警備が手薄で簡単に街まで抜けられたらしいが、今は周辺を警備兵がうろついており、それをどうにかする必要があったのだ。
スュンの手元の通信機がザザッと音をたてた。
『準ンビィ完リョウ、……こっちハァいつでもォいける』
別働隊の声は、防壁の外で聞いたときよりも歪みがひどく、想像で補ってなんとか理解できるくらいだ。
スュンはヨルたち三人を見まわし、うなずく。
「じゃあ、カウント始めるわよ——。5、4、3、2、1——」
轟音とともに、わずかに地面が揺れた。警報が鳴り響き、すぐそばの通りをバタバタと足音が過っていく。
「爆発地点、確認!」
「全員、向かえ!」
予想通り、警備の意識が都市の反対側へと向かう。その隙を突いて、ヨルたちは細い抜け道へと身を滑り込ませる。しばらくして、周囲に人の気配が完全になくなった頃――、
「今よ」
スュンが先導し、イギルがすぐ後ろについた。ヨルはイギルに手を引かれ、足音を抑えてかつての繁華街を行く。最後尾では、ナリが手元の測定器と背後を交互に確認している。
しばらくすると、まったく明かりのない区域に出た。夜風がひんやりと肌をなで、誘われるようにヨルは夜空を見上げる。流星雨はおさまっていたが、畏怖を覚えるほどの満点の星がそこにあった。地上の明かりがほとんどないせいだ。
しかし、そんな街の一角にボウッと光を放つ場所がある。白だけでなく、赤、青、黄色のチカチカ瞬くネオンの光。それはどこか冷たい輝きだった。ヨルが知っているグラムロックシティも同じ輝きを放っていたけれど、今の光には熱がない。自由がない、音楽がない。
「ナリ、あのあたりって」
「収容施設のへん。あれだけあかあかとネオン光らせてたら侵入なんて無理だろ。すぐ見つかる」
慎ましやかな白い服を着た信者たちが、あの派手な光に吸い込まれていくのを想像すると、それはなんだか奇妙な光景だった。つい足を止めたヨルの手を、イギルがぐいと引く。
「油断するなよ。やつらはじきに戻って来る」
四人は歩調を早め、じきに目的地にたどりついた。
*
かつて、グラムロックシティ唯一の図書館だった建物は、今や廃墟と化していた。鉄製の門は半壊し、建物の外壁はひび割れ、ツタが絡みついている。窓ガラスはほぼすべて砕け、ところどころに板が打ち付けられているが、その隙間からは闇の奥へと続く静けさが覗いていた。
すぐ前の通りにはいくつものネオン看板がかかっているが、そこに光はない。知識の拠点は、忘れ去られた亡霊のように佇んでいる。
スュンは二度目の侵入ということで迷いがなかった。壊れた門をすり抜け、慎重に足を踏み入れる。割れた窓を外してそこから建物内に侵入すると、廊下は冷たい空気に満たされていた。
「懐中電灯はまだ点けないで」
暗闇に目が慣れていたせいもあり、星あかりの差す廊下をさほど問題なく進む。電源が落ちて半開きになった自動ドアの前で、スュンが足を止めた。
ガラス張りの扉の向こうに薄っすらと見えるのは、床に乱雑に積み上げられた書籍、途中で止まったドミノ倒しのような状態の本棚。
「手分けしましょう。ヨルとわたしは図書室の鏡があった場所に行くわ。イギルはナリについてデータ管理室に行って」
スュンはそう言って、腰に差していた拳銃をイギルに渡した。
「おれが持つの? そっちの武器は?」
「催涙スプレーと発光弾がある」
「ハァ……、おれはいつから武装集団の仲間入りしちゃったのかな」
イギルがため息をついた。その背をナリが勢いよく叩き、「行くぞ」と引きずっていく。イギルは心配そうにヨルを見ていたが、彼女がスュンと二人で図書室に姿を消すと、大人しくナリについて行った。
「ヨル、こっちよ」
スュンはドミノ状態の本棚を避け、左奥へと足を進めた。ペンライトで足元と本棚を交互に照らしているが、時々光がねじれてあらぬ方向を照らす。
「あ、ここよ、ここ」
スュンが差したのは、貸出カウンターの正面にある特設コーナーの棚だった。
「なんでこんなところに鏡があるの?」
「たぶん、これじゃない? 『Mirage Route〜鏡境航路』。この本、鏡が異次元につながってるって話でしょ。ここのコーナーにあるのはSF関係の本ばかりみたい」
ヨルは興味をひかれ、ペンライトでタイトルを照らしていった。そのたびに光が波打ち、影が奇妙な軌跡を描く。
「ヨル、読んだことのある本、ある?」
「うん。何冊か知ってるのがあるけど、こっちの専門書みたいなのはさすがに読んだことない」
「でも、専門書の方が歪みがすごいわね。このねじれた感じ、指でも突っ込んだらズルっと向こうの世界に引き込まれそう」
スュンがそう言いながら戯れに指を近づけた時、その闇の渦の中にキラッと何かが光った。空間のねじれは徐々に広がり、スュンが指を引っ込めてもそれは止まらない。
『ニャニニャァヌ、ウゥニャア?』
そんな声が聞こえた。
「猫?」
渦の奥に見えてきたのは、まさに猫の目のようなふたつの光。そして、突然ニュッと何かが伸びてきた。
ヨルとスュンは短い悲鳴とともに後退る。それは獣のように毛むくじゃらだが、五本指はしなやかで人間のようだった。
「何よ、これ。手?」
スュンはそう言いながら、渦めがけて催涙スプレーを吹きかけた。
『フギャッ、ギャギャ、ウニャァアァァ……』
おかしな叫び声は徐々に小さくなり、空間の歪みも収まっていく。そうして、わずかな闇の揺らめきを残して元通りになると、二人はほっと息をついた。
「意味わかんない。さっさといるものだけ持って合流しましょう。今みたいなのはこりごり」
「同感」
ヨルは深呼吸のあと、気を取り直して本棚をながめた。そして、読んだ気がするものを手当たり次第リュックの中に詰め込んだ。全部で五冊。それを見ていたスュンが、「たったそれだけ?」と、意を決したように歪みの強い本に手を伸ばしてリュックに投げ込んでいく。
「まあ、チャンスはあと二回なんだし、これくらいで十分でしょ」
そう言うと、ずっしりと重くなったリュックをヨルに背負わせる。
「半分くらい持ってくれないの?」
「武器持ってるのはわたしなんだから、身軽じゃないと、ね」
「仕方ないなぁ。スュンは年寄りだから、肉体労働は若者が引き受けますよーだ」
ヨルは諦めてリュックを背負い直すと、大人しくスュンについてデータ管理室へと向かったのだった。
*
二人は歪みが残る図書室を出て、ロビーを抜けてデータ管理室へと向かった。遠くで爆発音が響き、どこで点滅しているのか、警告灯の赤い光が窓越しにちらつく。
「急いだほうがいいかもしれない」
スュンが窓を一瞥し、緊張気味につぶやいた。スタッフ専用通路を何度か右に左に曲がると、通路の先の開け放った扉からかすかな光が漏れている。
「スュン、あそこがデータ管理室?」
「うん。明かりあるってことは、なんとか動いたみたいね」
中途半端に開いた扉に手をかけて引くと、目の前でイギルが銃を構えていた。お互いビクッと体をこわばらせ、次の瞬間に「ふわぁ〜」と脱力する。
「だから言ったろ。どうせ二人だって」
ナリは振り返りもせずそう言った。目の前のモニターに目を走らせ、キーボードに添えられた指は軽やかに踊っている。
何枚も並んだモニターの大部分が暗く沈黙し、青白い光を頼りなく放っているのはナリの前にあることさら古びた小さな画面だけ。天井から垂れ下がった配線が虚空に揺れるのを、モニターの光が淡く照らしている。まるで知識の亡霊が囁いているようだ。
この部屋は、かろうじて生きている――いや、死に損なったというふうにヨルには見えた。
「で、どう?」
スュンが息を整えながら尋ねた。
「まあ、想定の範囲内?」
ナリの前のモニターはよく見るとあちこちがヒビ割れ、そのせいで記号の羅列はところどころ判読不能になっている。しかし、ナリはさほど気にしていないようだった。
「読めるの?」
「これくらいなら予想はつく。データ自体は問題ないから、あともう少し……」
ナリの声はいつも通り軽いが、かすかに緊張が滲んでいた。
スュンが部屋の奥へ進み、壁際の端末を確認する。
「こっちのデータはシャットダウンされてるみたいだけど、復旧できる?」
「無理だ。完全に遮断されてる。今抜き出してるデータが唯一の手がかりだよ」
ナリの額には汗が浮かんでいた。目にも止まらぬ速さでコードを走らせていたが、そのとき室内の警告灯が点滅し、警報音が鳴り響いた。
「くっそ、バレた!」
ナリの声に、イギルがふたたびび銃に手をかけた。しかし、ナリはまだ立ち上がろうとしない。
「もうちょい、……もうちょいだけ待って!」
「急いで!」
ヨルは通路の様子をうかがい、スュンは窓の外を警戒する。
「ナリ! あと何秒?
警備ドローンがじきに来るわ。窓からこの光を見られたらアウトよ」
「十秒……いや、五秒!」
ナリの声はかすかに震えていた。どこからか、「侵入者だ!」「廃図書館だ!」と声が聞こえてくる。
「外よ。敷地内に入ってきてるみたい」
「嘘だろ。オッサン! 早くしろよ!」
イギルがオッサン呼ばわりすると、ナリは「うっせぇ、クソガキ」と吐き捨てる。普段の余裕はすっかり消え去っている。
「ナリ!」イギルが叫び、彼の腕を掴んだ。
「もう終わるっつってんだろ!」
その瞬間、『データ転送完了』の文字がモニターに表示された。ナリは端末を引き抜き、立ち上がって椅子を蹴る。
「行くぞ!」
「正面から来てるみたいだから、裏口に向かいましょう。こっちよ」
「スュン、詳しいよね」とヨル。
「ここの職員だったから」
スュンはそう言うと、先に通路に飛び出した。ナリがヨルの背中からひょいとリュックを奪い、それを見ていたイギルが「おれが」と手を伸ばしたけれど、パシリとナリに払われる。
「イギルは最後尾で背後の警戒。銃持ってるのはおまえなんだから」
「オッサン、兵役経験済みなんだろ。変われよ」
「オッサンは繊細な精密機械を抱えてるから無理。心配しなくても、裏口はもうすぐそこだ」
ナリの言う通り、突き当りを右へ曲がれば数メートル先に扉が見えた。
「ナリ! 鍵! 銃で壊せる? パスワード変わってるみたい」
扉脇の小さなディスプレイにはボウッと明かりが灯っていた。ナリはそのディスプレイと扉周辺を確認する。
「これは、力技はやめたほうがよさそうだ。完全に閉じ込められる可能性がある。
パスワードは、たぶん内側からなら回数制限はないと思うけど。スュン、緊急時の脱出コードみたいなのはないの?」
「あった気がするけど、データ管理室から操作するようになってたはずよ。今から戻ったらやつらと鉢合わせるだろうし、それに、もう管理室との接続が切られてる可能性が高いわ」
ヨルはデータ管理室の天井にぶら下がった大量の配線を思い出した。
ナリは「仕方ねえな」と、ノートパソコンのモニターを確認しながら手当たり次第にパスワードを入力しはじめる。0から9までの数字とアルファベット26文字。文字数もわからないから組み合わせは無限だ。
「ナリ、何を根拠に入力してるの?」
「盗んだデータから目についた文字列を適当に入れてる。スュンも、なんか思い当たる言葉ないか? 館長の誕生日とかさ」
「そんなの知らないわよ」
そうしている間に、遠くから足音が近づいてくるのが聞こえた。
「クソっ!」
「なあ、オッサン。もう、やりあうしかないんじゃねえの?」
イギルが銃を構えて、廊下の突き当りに向ける。あの曲がり角から警備兵が現れたら――ヨルは想像してブルッと震えた。
ナリは入力し続けているが、何度やっても虚しく弾かれる。
「まったく、なんでハルは『書き換え』で鍵を壊しておいてくれなかったのよ!」
スュンが腹立たしげに口にした瞬間、ヨルの頭にパッとひらめいた文字列があった。しかし、ここはHAL9001が管理するミーミル図書館ではなく、グラムロックシティの廃図書館だ。
「こっちだ!」
警備兵の声がさらに近くで聞こえ、懐中電灯の明かりが突き当りの壁に映った。ヨルは躊躇いを振り払い、「貸して」とナリを退ける。そして、――HAL9001――と入力した。
カチャと音がし、ディスプレイが暗く沈黙する。
扉が自動で開き、四人がなだれ込むように外に出た。目の前は肩あたりまで雑草が生い茂っている。
「閉めて!」
スュンに言われ、イギルが力任せに扉を蹴った。ピーッという電子音がして再び鍵がかけられる。
「あいつら、暗証番号知ってるかもしれないわ。急ぐわよ」
「あ、スュン。ちょっと待って」
ナリはポケットから小さな端末を出し、スイッチを押した。すると、廃図書館の正面のほうで爆発音が鳴り響く。スュンは呆気にとられている。
「ナリ、いつ仕掛けたのよ」
「念には念を入れないとね。ちゃんと作動して良かったよ。時空歪みで信号が届かないかもしれないと思ってたから」
その後、ヨルたちは草むらに隠れて警備ドローンの目を避け、壊れた塀の隙間から脱出したのだった。
アジトに戻ったあと、ナリが「パスワードはハルが書き換えたんじゃないか」と言ったが、ヨルもそんな気がしていた。