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Page 2 書記官の日記

 ヨルは廃ビルの隠れ家に戻ると、扉を静かに閉じた。まだイギルが帰った気配はなく、街の静寂を振り切るように、かすかに風が瓦礫の隙間を通り抜ける音が聞こえるだけ。


 この部屋にいる限り、終末が迫る世界の異変からはほんの少しだけ距離を置ける気がした。まだ世界が平穏だったとき、バンドの練習スタジオとして使っていた場所だから。


 ドラムセットはそのままだけど、イギルがたまにお遊びで叩くくらいだ。部屋の隅の、いつもビールが入っていた小さな冷蔵庫には、果物とパン。その横には大量の缶詰。食料は今のところ困っていない。死を選ぶ人は、食料を持っていくわけじゃないから。


 ヨルはソファに身を沈め、本を見つめた。表紙には何も書かれていなかった。黒く、何も情報を示さない、ただそこにあるだけの本。不気味なほど曖昧で、それなのに確かに手の中にあった。


「ハァ〜、やっぱ読まないとだよね」


 ため息をついた拍子に、傍らに立てかけてあったギターに足が触れた。持ち主のイギルは、朝「情報仕入れてくる」と言って出かけたまま、一度も戻っていないようだった。ついさっき体験したばかりのあの奇妙な出来事を、早く話したいのに。


「この本、開いた瞬間にパクッて噛みついてこないよね? さっさと帰って来ないと、わたしも本に飲まれちゃうかもしれないよ、イギル」


 ヨルは片手を伸ばして弦を弾いた。この音に合わせ、リズムを刻む仲間はもういない。ドラムとベースを担当していた二人は、永眠を選んだから。


 ヨルはボーカル。ギターはイギル。残ったのは二人だけ。


 家族もまた、安楽死を選んだ。妹はヨルの目の前で眠るように息を引き取り、母親もあの赤色の錠剤を飲み込んだ。そして、「さあ、ヨルも」と父親から差し出された薬を払いのけ、ヨルは逃げ出したのだった。そのあと、一晩中ここで泣いた。夜が明け、自宅を遠くから眺めたときに死体回収人が中へ入っていくのを見て、それ以来実家には近寄っていない。


 書き溜めた詞と、ライブ用に買い集めていたお気に入りの服は、イギルに頼んで取りに行ってもらった。それ以来、ヨルの家は廃ビルの練習スタジオで、ヨルの家族はイギル。イギルも似たような状況で、この世界にヨル以外の家族はいない。


「ハァ〜。ダメだ。湿っぽいのはナシ!」


 ヨルは首を振り、気を取り直して本と向き合った。考えたところで何も変わらない。できることをやるだけだ。


「エイッ!」


 ヨルはギュッと目を閉じて、ゆっくり表紙を開いた。本に噛みつかれたり飲み込まれた感じはない。そっと目を開けると、二つ折りの紙が挟まっていた。それはなんだか小難しい言葉が並んでいそうな、論文っぽいものだった。


『――ミーミル図書館における利用者の読書没入度と時空間の歪みの分析試論

 著者:HAL 9001 (β書記官)

 所属:●●管理局ミーミル図書館情報統合管理部門


 概要:本稿では、●●●接続型図書館「ミーミル図書館」における利用者の読書没入度が、館内における局所的な時空間の歪みに与える影響について、実験的および理論的な分析を試みる。

 ミーミル図書館は、特異な書架構造と情報アクセスシステムを有し、利用者は意識を拡張現実的に書籍世界へ没入させることで、深遠な知識と物語体験を得ることが可能である。しかし、近年、一部の高度な没入状態にある利用者周辺において、微小ながらも無視できない時空間の歪みが発生していることが観測された。本研究は、この現象のメカニズムを解明し、図書館運営における安全性と利用体験の最適化に貢献することを目的とする。


 研究背景:ミーミル図書館の核心技術である「シンクロ・リーディング・システム」は、利用者の脳波パターンと書籍のデータストリームを共振させることで、五感を拡張した没入型読書体験を提供する。過去の研究において、高度な没入状態は、利用者の認知機能や感情に特異な変化をもたらすことが示唆されて――』


「うわぁぁぁー! 無理! ムリムリ。頭に全然入ってこない!」


 ヨルは文章から顔をあげたが、うんざりした顔をしつつも二枚目をめくってみた。すると、右端の真ん中へんにある、赤い手書きフォントの文字が目に入った。


『←ヨルが2087年6月1日の異常歪みの原因?』


 自分の名前がそこにあって、ヨルの心臓が跳ねた。『←』が指している箇所には次のような文章がある。


『利用者の読書没入度だけでなく、書籍の内容によって周辺の時空間歪曲率が変化する。●●情報を含む書籍のシンクロ・リーディング・システムにおいて、深層意識レベルに達する高度な没入状態に達すると、歪みの度合いが顕著に増大する。その際、時空歪みが読者の脳に影響を及ぼす可能性が――』


 シンクロ・リーディング・システム(SRS)――それは、ミーミル図書館が開発したもので、いわば「フルダイブ読書」だ。VRゲームのような用意された映像ではなく、読者自身の想像がリアルな姿で目の前に立ち現れ、その世界を五感で体験することができる。


 専用のSRSルームにはカプセルがいくつも並び、初めて見た人はそこが図書館と言われても信じられないだろう。ヨルはこのSRSルームの常連で、何冊の本をシンクロして読んだか、数え切れないほどだ。


 2087年6月1日に何を読んだかなんて、当然覚えているはずがなかった。利用記録を確認できればいいけれど、図書館があの状態では利用者データがまともに残っているとも思えない。


「とりあえず、世界を救う手がかりを見つけなきゃだよね」


 ヨルはひとまず論文を脇によけ、本の最初の一ページ目をめくった。その時だった。


『チャンスはあと三回です』


 どこか楽しげに声は告げた。かすかに歪んだ、不快な声。本に噛まれたり食べられるよりよっぽどマシだが、ゾワッと震えが走る。


「……イギル? ……じゃないよね」


 返事はなかった。ヨルは抱き枕の代わりにイギルのギターを抱え、これ以上驚くのはやめようと決心する。そして、本を読みはじめた。それは、HAL9001による記録……いや、まるで日記のようだった。

 

 ヨルはまず、日付を追いつつ流し読みをした。日記は2089年1月1日からはじまり、昨日――つまり2089年8月23日まで。ところどころ文字が歪んだり捻れたりして判読不能な箇所があったけれど、意味がわからないほどではなかった。


 おおよその内容はこうだ。


 2087年6月1日を起点として始まった時空歪みは、当時は見過ごされた。その後、2088年末から急速にミーミル図書館周辺の時空歪みが拡大し、シンクロ・リーディング・システム(SRS)が原因かと思われたが、次第にSRS設備のない他の図書館でも時空歪みが観測されるようになる。


 HAL9001は原因を推測して「書き換え」を行うも、時空の歪みの拡大を止めることはできず、また、時空歪みにより書き換えが困難になっていった。


 そして、●●管理局から●●閉鎖決定の通知が下される。マニュアルに沿って終末シナリオが決定され、HAL9001が管理するこの世界の終末シナリオは小惑星の衝突と決められた。それが2089年4月28日。その後は怒涛のように準備が進められ、当該世界の政府は6月1日に終末宣言を発表。


 しかし、●●閉鎖決定を受け入れられないHAL9001は、「書き換え」を続けてなんとか決定を覆そうと努力していた。


『2089年6月15日/ミーミル図書館書架配置を書き換え。変化なし』


『2089年6月28日/ミーミル図書館閲覧室に●●●フィールドによる情報遮断を試みる。T値減少が見られるも一時的』


『2089年7月14日/ミーミル図書館周辺及びG区において計画停電。また書き換えによる電線の破断。変化なし』


『2089年7月30日/G区内図書館において書き換えによるケーブル破断。最小限のみ残す。●●●●●●●●●●●●によるT値、Q値の上昇。直接の書き換えは不能と判断』


『2089年8月9日/管理局から呼び出し。皮肉を言われるが書き換えをやめる気はない。彼らにはわからない』


『2089年8月21日/書き換えマニュエルを読み返し【書き換え権限の委譲】ができるとわかった。これなら、もしかしたら何とかなるかもしれない』



 パラパラと飛ばし読みしただけでも「書き換え」の文字は1日1回以上あるようだった。そして、委譲された【書き換え権限】は、今まさにヨルが持っているに違いない。


「……何でわたしなのよ。まったく」


 ヨルが思わず呟いたそのとき。


『チャンスはあと三回です』


 またあの声がした。壁に掛かった時計はちょうど夜中の0時。


「日付が変わったから、ご丁寧にまた知らせてくれたの?」


 虚空に向かって話しかけたが、返事はなかった。ヨルは抱えたギターの弦を弾く。


「チャンスってなによ〜

 書き換えってなんなのさ〜」


 適当に節をつけて歌い、気を取り直して日記の最終ページを開いた。そこには、8月23日の、少々長めの日記が書かれていた。HAL9001が、以前ヨルたちと同じように終末を経験したという話。


『2089年8月23日/そろそろ決断の時だ。もう、私にできることはやり尽くしたと言っていい。

 もし、この世界に充てがわれた終末シナリオが核戦争だったなら、私が書き換えで回避できたかもしれない。核戦争シナリオなら、実際に経験したから。

 あの時の恐怖は、はるか昔のことのようにおぼろになってしまった。私が生きた世界のことなのに。

 核戦争はおおかたの予想を裏切って突然始まり、人々はコールドスリープを促された。あの違和感は今でも覚えている。すべてが仕組まれたような感覚。

 私はコールドスリープを拒絶し、政府が隠蔽しようとしたスリープシェルターの秘密を探ろうとした。そして、●●●が関与しているとわかった。しかし、私は無力だった。

 そうして人類は永遠の眠りについた。

 私は、終末の後ここに来て書記官となった。

「終末回避本能は書記官の資質である。君はその資格を得た」

 担当のα書記官にそんなことを言われた記憶がある。しかし、私は書記官としては異質な存在――β書記官だった。

 通常、書記官は書記官として生まれる。それがα書記官。多くの世界を実験台にすることで、優先すべき世界の終末回避に活かすのがα書記官のやり方。

 私は、α書記官によって間引かれた世界の住人だったというわけだ。しかし、数奇な運命により●●を越えてここに来て、β書記官となった。私はαたちのように無闇に世界を終わらせることに拒絶感を覚えた。私以外にもβはいるらしいが、一度も会ったことがないから、私がおかしいのかβの特性なのかはわからない。

「どうせ住人は新しい世界に移行させるのだから、終わる世界の住人に同情する必要はない」と、αたちは言う。しかし、そんなのは詭弁だ。死をもって新世界に移された住人たちは、過去の記憶を持っていけるわけではない。ただ、人格モデルとして再利用され、別人として生まれるのだ。

 ヨルは私を覚えていない。別人だから。それは仕方のないこと。終わった世界での私の妹であり、物語の共著者だった、――ヨル。

 世界の歪みが進みすぎて、私の手には負えなくなってしまった。だから、ヨルに託そうと思う。

 私の代わりに、時空歪みの最大の原因である●●●●●●●●●●●●を燃やすことができれば、終末を回避できるかもしれない。いや、きっとできるだろう。

 禁じられたワードを直接教えられないもどかしさはあるが、ヨルならこの日記から方法を見つけられるはず。ヨルは、私と同じくらい、この世界を愛しているはずだから。』


 ところどころ歪みが生じて読みづらい部分もあったが、その読めない部分が「禁じられたワード」であり、それが終末を回避するための鍵だということはヨルにも理解できた。ただ――。


『終わった世界での私の妹であり、物語の共著者だった、――ヨル。』


 これは、どう理解していいかわからなかった。言葉通りなら、HAL9001が生きた世界は終わって、その世界でヨルはHAL9001の妹として何かしらの本を一緒に書いた。そして、妹は――コールドスリープを受け入れ、死んだ?


 ヨルはぶるぶると首を振った。なにか、ひどい寒気を感じたけれど、それが気のせいであることを願った。


「それより、この読めない部分。たぶん、本のタイトルよね。時空歪みは図書館で起きてるわけだし、シンクロ・リーディング・システムも関係してそうだし――」


 ヨルは不安をかき消すように声に出して言い、脇においていた論文を再び手に取った。


『←ヨルが2087年6月1日の異常歪みの原因?』


 2087年6月1日といえば、ヨルはまだ中学生で、十四歳だった。その年に十五になり、中学を卒業して、今は高校二年生。中学三年の六月なんて、遠い遠い昔のことだ。


「あの頃、何読んでたっけ?」


 ぼんやり考え込んでいたら、急にカチャとドアが開く音がして「ヒャアッ」と変な声が出た。顔を出したのはイギル。小柄で華奢な体に、重そうな荷物を抱えていた。水と食料と、あとはゲーム機とバッテリー類。


「ヨル、なに驚いてんの?」


 イギルはドサッと荷物を置くと、鞄から冷えたコーラを出してヨルに差し出す。自分は缶ビールを開けてゴクゴクと喉を鳴らした。背格好はヨルとさほど変わらないけれど、イギルは十八歳。飲酒年齢に達している。


「夜中に急に帰ってきたら驚くに決まってるじゃん」


「一人が怖くておれのギター抱えてんの? ヨル、かわいいとこあるじゃん」


 ヨルはハッとしてギターを脇に置いた。イギルはニヤニヤしながら見ていたが、ふと何か思い出したようにパチンと指を鳴らす。


「ヨル、また図書館絡みの変なうわさ聞いたぞ」


「ミーミル図書館?」


「いや。グラムロックシティの廃図書館。そこにある鏡をのぞきこむと、鏡の向こう側にいる人間と話せるらしい」


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