Page 10 9月1日
最終話です。後書き部分に『フラットランド・リフレイン』を掲載しています。
ヨルたちは、崩れ去ったグラムロックシティの中心部に立っていた。かつて、永眠希望者収容施設があった場所にはもう何もない。
地面は不自然なほど滑らかで、まるで巨大な熱源で焼き払われたかのように均一だった。建物の痕跡はなく、かつての街並みは影さえ残さず消滅している。風が吹くたび、灰のような細かな粒子が舞い上がり、陽の光を淡く遮った。
ナリは時空歪み測定器を手に、跡地の空気を測っていた。
「Q値……限りなくゼロだな。時空の歪みは完全に消滅している」
「でも、何もないじゃん。まるで、ここだけ世界から切り取られたみたい」
スュンが地面を蹴って灰を散らす。
ヨルは、周囲を見渡しながら、遠くに見える町並みにどこか不思議な懐かしさを感じていた。奇妙なほど『フラットランド・リフレイン』を思い出させるアバンギャルドな看板と、スパンコールのような派手な電飾で飾られた街。
「グラムロック……グラムランド……」
ヨルは呟く。そして、去年この街を訪れたときのことを思い出していた。
夜の街は光に溢れ、ネオンに照らされた壁、歩道を埋め尽くす奇抜なファッションの人々、絶え間なく流れる音楽。ヨルは、この街のその「混沌」に惹かれた。
それは、グラムロックシティという名前そのものに宿る精神だった。型にはまらず、常識を否定し、世界を疑うようなその反骨の空気。
あの時、「この街、好きだな」とつぶやいたヨルに、イギルは笑いながら「ヨルにぴったりだよな」と返したのだった。
「……ねえ、スュン。わたし、グラムロックシティが好きだったんだ」
「でしょうね。その格好見ればわかるわ。ラメラメ、キラキラ」
ヨルは消えた街の空気を深呼吸して吸い込んだ。それはHAL9001――春川環の大切な一部。それが、この世界から消えてしまった。
「ねえ、スュン。わたし、フラットランドの魔女たちがあの世界に落書きしたみたいに、これからこの街に落書きすることにする」
話を聞いていたナリが、測定器をしまいながら「いいね」と親指を立てる。
「だいたい、書き換えなんて書記官の特権でもなんでもないさ。おれらはこの世界に生きてる。これから好き勝手に書き換えればいい」
「そうね。小惑星は予測軌道が変わったし、世界は終わってない。それに、今日は2089年9月1日。でもって……お腹すいた!」
スュンが大げさにお腹を押さえて笑いを誘う。
「じゃあ、そろそろ廃図書館に向かうか。炊き出しに、酒盛り」
「そうよ、昨日は後始末で祝杯上げる暇なかったんだから、今日こそ飲んで飲んで飲みまくってやる〜!」
スュンが叫びながらバイクまで駆けていき、急かすように手招きした。
*
ヨルたちが廃図書館に着くと、そこは思いのほか多くの人で賑わっていた。肉の焼ける香ばしい匂い。炊き出しというよりバーベキューパーティーだ。スュンはヨダレを拭いながら肉の方へと走っていき、ナリはビールを探しにどこかへ行ってしまった。
ヨルはキョロキョロと人混みを見回し、その外れにイギルを見つけた。少し離れた場所で、倒れた門柱みたいなものに腰掛け、適当にギターを爪弾いている。
ヨルが駆け寄ると、イギルは脇に置いていたビール瓶を差し出した。口をつけたヨルは苦さに顔をしかめる。
「ヨル、やっぱりお子様」
「うるさい、酔っぱらい。それより、あれ弾いてよ」
「あれ?」
「うん、あれ。グラムロックシティと言えば、あれしかないでしょ」
「ああ、あれか」
イギルはビールを一口飲んでギターを抱え直すと、ボディを叩いてリズムをとり、弦に指を滑らせた。ヨルは、そこに歌声を重ねた。
最初は、ただメロディに乗るように小さく歌っていた。次第に人々が注目しはじめ、この曲を知っていた誰かがヨルの歌声に合わせてハミングした。
ここはグラムロックシティ。そして、この曲はグラムロックシティのためにヨルとイギルが作った曲。グラムロックシティに生き残った人々はひとつになった。
誰もが躍る、奇抜な影と音
未来なんて誰も知らないまま
それでも、笑い飛ばして生きていく
ここじゃルールなんて意味を持たない
心のリズムだけを頼りに進めばいい
もしも世界が嘘だとしても
本物の鼓動だけは奪えない
眠らない街で、叫んでやるよ
本物が欲しいなら、自分で創れよ
境界なんて、破り捨てちまえ
ここにいる、それが証明なんだ
赤く燃えた空、流星群の雨
この街の鼓動、止まらないまま
いつか終わるとしても、それがどうした?
ここで生きた証は、今ここにある
昨日も明日も信じない
信じるのは、この瞬間だけ
書き換えられるなら、好きにやればいい
世界がどう変わっても、わたしはわたし
眠らない街で、叫んでやるよ
本物が欲しいなら、自分で創れよ
境界なんて、破り捨てちまえ
ここにいる、それが証明なんだ
もしもすべてが消えたとしても
それでもこの歌だけは残るだろう
眠らない街で、生きてやるよ
燃える空の下、最後まで
ヨルは歌った。多くの人が去ったこの世界で、まだ息をしている人々のために。そして、この世界を見守っているHAL9001のために。彼女の愛したこの街のために。
流星群の燃え残りが、夜空に霞んで煌めいたように見えた。それは、ハルのあたたかな眼差しのようにヨルには思えた。
***
最後までお読みくださりありがとうございました。オマケでGeminiと共作した『フラットランド・リフレイン』をここに掲載しておきます。
『フラットランド・リフレイン』
舞踏会の喧騒の中、わたしは一人、壁際に身を潜めていた。
ルビーの赤、サファイアの青、エメラルドの緑、アメジストの紫――きらびやかな色彩が、踊る住人たちの体を宝石のように輝かせ、会場全体を万華鏡のように染め上げている。
滑らかな曲線を描く高貴な円に近い人々は、まるで風のない水面を優雅に滑るように、静かに、そして確実に、舞踏の輪の中心へと吸い込まれていく。彼らの動きは淀みがなく、完璧な円運動は、この世界の秩序そのものを体現しているかのようだ。
一方、鋭角的なフォルムを持つ人々は、会場の隅で控えめに群れをなしている。彼らが身を動かすたびに、尖ったエッジ同士がかすれ合い、乾いた、どこか不安を掻き立てるような微かな音を立てる。彼らの軌跡は複雑で、常に周囲の動きに気を配っているようだ。この舞踏会という精緻な絵画の中で、彼らは背景の一部として、目立たないように存在している。
誰もが、この秩序だった光景を当然のこととして受け入れている。円に近い形状こそが美であり、高貴さの証。鋭角な形状は質素さと勤勉さを意味する。この完璧な幾何学こそが、わたしたちの世界の全てなのだと、皆が疑いもせずに信じている。
この鮮やかな二次元の世界の外に、一体何が広がっているのだろうか?
―、そんな疑問を抱くことすら、ここでは許されないのかもしれない。
しかし、わたしの瞳には、彼らが見ていないものが映ってしまう。踊る円たちの滑らかな動きの中に、ほんの一瞬、微かな歪みが見えることがある。鋭角な人々の色彩の層が、呼吸をするように、ごくわずかにずれ動く瞬間がある。
それは、まるで完璧な絵画の表面に、見えない何かの手が触れたかのような、奇妙な感覚。わたしだけが知っている、この世界のほんの小さな綻び。
その綻びの向こう側には、一体何が隠されているのだろうか……。
この賑やかな舞踏会の喧騒の中で、わたしは一人、そのかすかな予兆に心を騒がせている。わたしは、この秩序だった世界からはみ出した、「魔女」なのだから。
幼い日のわたしは、いつも一人、都市の隅々を彷徨っていた。鮮やかな色彩に彩られた幾何学の住人たちが、定められた軌道の上を寸分の狂いもなく移動していく。彼らにとって、世界の法則は自明であり、その秩序が揺らぐことなど想像もしなかっただろう。
しかし、わたしの幼い瞳には、彼らには見えない世界の裏側が、時折、垣間見えていたのだ。
都市を構成する、目には見えないはずの線――その輪郭が、まるで生き物のように、ほんの一瞬、微かに震えるのを感じたことがある。それは、静止したはずの絵が、息を吸い込むかのように、ごくわずかに脈打つような感覚だった。
また、行き交う住人たちの纏う、鮮やかな色彩のレイヤー。その完璧に塗り分けられたはずの境界線が、まるで水面に映る景色が揺らぐように、瞬きの間に、ごく僅かにずれ動くのを見たこともある。それは、磨かれた鏡に映る自分の姿が、何かの拍子に一瞬だけ歪んで見えるような、あるいは、幾重にも重なった薄い絹のヴェールの、奥の色が透けて見えるような、曖昧で、しかし確かに存在する違和感だった。
わたしにとって、この世界は最初から一枚の完璧な絵画ではなかった。鮮やかな色彩と秩序の背後に、まだ名も知らぬ何かが蠢いている予兆を、常に感じていた。それは、静かに閉ざされた扉の向こうから聞こえる、かすかな囁きのようなもの。誰も耳を傾けない、世界の微かな異音に、わたしは幼い頃から気づいていたのだ。
そして、ある日、その予感が確信へと変わった。他の誰も感じない世界の歪みを捉える自分は、この調和された都市の法則から逸脱した、「魔女」なのだと。
その認識は、幼いわたしの心に、言いようのない孤独と、微かな恐怖を植え付けた。魔女は、この完璧な秩序の織物をほつれさせる禁忌の存在。もし、この特別な色彩が、都市の目に触れてしまえば、わたしはたちまち、色を失い、無の淵へと消え去ってしまうだろう。
その運命から逃れるように、わたしはいつも、人々の視線から身を隠すように生きてきたのだ。舞踏会の喧騒の中で一人佇む今も、あの幼い日の不安が、胸の奥底で静かに疼いている――。
物思いに沈んでいると、会場の喧騒が一段と高まった。見上げると、ひときわ大きく、完璧な円を描く存在が、ゆっくりと舞踏場の中央へと進んでくる。グラムランドの王だ。その神々しいまでの滑らかな曲線と、眩いばかりの純粋な色彩は、まさにこの都市の理想そのもの。周囲の住人たちは、敬虔な面持ちでその動きを見守り、深い恭順の意を示すように、自らの輪郭をわずかに歪ませた。
王は、静かに、しかし力強く、その声を発した。それは、都市全体に響き渡る、共鳴するような美しい音色だった。
「ああ、グラムランドの麗しき住人たちよ。今宵もまた、汝らの完璧な形状と、秩序ある動きが、この舞踏会を至高の美しさで満たしている。特に、円よ。汝らの揺るぎない完全性は、我らが都市の永遠の象徴であり、調和の源泉である。その滑らかな輪郭は、争いを避け、平和を愛する我々の精神を体現しているのだ。」
王は、その言葉をわずかに低い調子に変え、周囲をゆっくりと見渡した。
「しかし、忘れてはならない。この完璧な秩序を脅かす影も、また存在することを。近年、微かな歪みを感じる者、不可解な色彩のずれを語る者たちが現れている。彼らは『魔女』と呼ばれ、我々の美しい調和を乱す危険な存在だ。彼らの異質な知覚は、都市の安定を揺るがし、古の法則を冒涜する。もし、そのような影を見かけたら、決して近づいてはならない。速やかに統治機構に報告し、都市の清浄を守るのだ。我々の世界は、完璧な幾何学によってのみ、永遠に繁栄し続けるのだから。」
王の言葉が終わると、会場には再び華やかな音楽が流れ始めた。しかし、王の低い声は、わたしの心に重くのしかかっていた。
――魔女。
それは、わたしに向けられた言葉に他ならない。彼らは、わたしが感じている世界の歪みに気づき始めているのだ。このままここに留まれば、いつか必ず、わたしの異質な色彩は白日の下に晒され、無へと還元されてしまうだろう。
その夜、わたしは舞踏会の喧騒から抜け出し、都市の外縁へと足を向けた。
月明かりに照らされた都市の端は、まるで切り取られた絵画のように、唐突に途切れていた。その先に広がるのは、『葉並びの森』。グラムランドの秩序だった法則が曖昧になり、現実と幻影が入り混じるような、異質な空間だった。重なり合う樹々は、まるで意思を持つかのように不気味な影を落とし、足元には、見たこともない歪んだ植物が蠢いている。
森の奥深くへと進むにつれて、わたしは、同じように都市の調和から疎外された存在たちと出会った。彼らの形状もまた、グラムランドの規範からは大きく逸脱しており、それぞれが独特の、しかしどこか悲しげな色彩を帯びていた。
彼らもまた、わたしと同じように、世界の微かな綻びを感じ、そのために都市から追われた「魔女」たちだった。
長い年月が、光の届きにくい『葉並びの森』の中で静かに過ぎ去った。わたしたちは、都市の秩序から逃れてきた、傷ついた色彩を持つ者たちの集団だった。
じめじめとした地面に落ちた歪な葉を集めて寝床を作り、奇妙な形をした果実や、発光する苔を分け合って飢えをしのいだ。言葉少なに、互いの存在を確かめ合うように身を寄せ合い、都市の追手から身を隠す日々だった。
わたしにとって、この森は安息の地であると同時に、自身の異質な知覚が研ぎ澄まされる場所でもあった。都市では忌むべきものだった世界の歪みは、ここでは共有できる感覚だった。
例えば、尖った多角形のルミナは、都市の建築物の線が時折、ありえない角度にねじれるのを感じていた。滑らかな五角形のオクタビアは、住人たちの色彩が、まるで水彩絵の具のように滲む瞬間を知っていた。わたしたちは互いの言葉に耳を傾け、それぞれの捉える世界の断片を繋ぎ合わせることで、この二次元の宇宙の奥深くに潜む、見えない構造のようなものを、ぼんやりと理解しようとしていた。
ある夜のことだった。雨上がりの森は、一層深く、静寂に包まれていた。わたしたちは、小さな光る苔の周りに集まり、それぞれの日の出来事を語り合っていた。
ルミナが、都市の境界付近で、警備の円たちがいつもより多く巡回しているのを感じたと不安げに話した。オクタビアは、空気がいつもより重く感じられ、まるで何かが近づいているような圧迫感があったと囁いた。
その時、わたしは、これまで感じたことのない、強い世界の震えを捉えた。それは、都市の基底そのものが揺らぐような、不吉な反響だった。
「何か……来る」と、わたしは声に出した。
わたしの言葉に、周囲の魔女たちの体が強張った。彼らもまた、わたしの捉えたかすかな世界の異変を感じ取ったのだろう。
「キュービィ。それは、どんな響き?」と、オクタビアが不安そうに尋ねた。
わたしは目を閉じ、その反響に意識を集中させた。
「都市の秩序が、軋んでいるような……何か、大きな力が、この世界に干渉しようとしている……」
わたしの言葉は、森の静寂に重く響いた。仲間たちは、それぞれの形を震わせ、不安の色を濃くした。しかし、その不安の中に、かすかな希望の光が宿っているようにも見えた。わたしたちが捉える世界の歪みは、もしかしたら、この閉ざされた二次元の宇宙を打ち破る、何かの始まりなのかもしれない――そんな予感が、わたしたちの間に静かに広がっていた。そして、わたしの異質な知覚は、いつしか、仲間たちの間で、微かな希望の光として認識されるようになっていた。
「共鳴のキュービィ」――彼らはそう呼び、わたしの捉える世界の囁きに、耳を澄ませるようになったのだ。それは、都市の秩序という強固な壁に、小さな、しかし確実な亀裂を生じさせ始めているのかもしれなかった。
夜の帳が森を深く覆い、虫の音さえ途絶えた、張り詰めた静寂が訪れた。その沈黙を切り裂くように、森の境界、グラムランドの都市の輪郭がぼんやりと見える方向から、これまで聴いたことのない旋律が流れ始めた。それは、グラムランドの秩序だった、幾何学的なパターンをなぞるような音響とは全く異質だった。
奔放で、まるで感情がそのまま音になったような、脈打つようなリズムと、予測不能な高低を持つその音楽は、わたしたちの心の奥底に眠る、言葉にならない何かを呼び覚ますようだった。
最初にその音に惹きつけられたのは、わたしだったかもしれない。
世界の歪みを捉えるわたしの耳は、その異質な響きの中に、これまで感じてきた世界の綻びと共鳴する何かを感じた。それは、閉ざされた殻を破るような、解放の予感にも似ていた。他の魔女たちも、その不思議な魅力に抗えなかった。
ルミナの尖った輪郭が、微かに震え、オクタビアの色彩が、内側からじんわりと明るくなるのが見えた。わたしたちは、まるで磁石に引き寄せられる鉄粉のように、その未知の音楽に身を委ねた。
その旋律は、森の木々の間を縫うように流れ、やがて、グラムランドの都市へと広がっていった。最初は微かな波紋だったその音は、徐々に強さを増し、都市全体を包み込むように響き渡った。しかし、驚くべきことに、その音楽に対する都市の住人たちの反応は、わたしたちとは全く異質なものだった。
彼らにとっては、それは耳障りで、精神を掻きむしるような、耐え難い不協和音として認識されたのだ。彼らは頭痛を訴え、身を震わせ、その異質な音源を排除しようと、激しい嫌悪感を露わにし始めた。都市の幾何学的な秩序が乱されたかのように、彼らの動きは苛立ちを帯び、騒然とした空気が都市全体を覆い始めた。
わたしたち魔女にとっての希望の調べが、彼らにとっては破壊の叫びとして響いたのだ。その事実は、わたしたちが決して相容れない存在であることを、改めて突きつけるようだった。
森の奥深く、じめじめとした空気の中で、わたしたちは身を潜めていた。遠くの都市から聞こえてくる騒がしい音は、わたしたち魔女への包囲網が狭まっていることを告げていた。そんなある日、息を潜めて都市の様子を探っていた尖った五角形のフィロが、興奮した様子で戻ってきた。
「聞いたよ、キュービィ!」
フィロは、その鋭い先端を震わせながら囁いた。
「あの音楽のせいだ。円たちが大騒ぎになっている。音の出どころを突き止めたらしい。『葉並びの森』の奥にある、奇妙な壁だって」
「壁?」
わたしは、身を乗り出した。そんな場所に、一体何があるというのだろう。
「ああ。そして、もっと驚くべきことを聞いたんだ」フィロは声を潜めた。
「あの音に、わたしたち魔女が共鳴しているって噂が広まっているんだ。都市の新聞にも小さく載っていたらしい。『秩序を乱す異質な存在が、不快な音に呼応している』って」
滑らかな六角形のリーラが、不安げな声を上げた。
「まさか、あの壁のせいで、わたしたちが見つかるってこと?」
フィロは頷いた。
「円たちは、壁のそばで捕まえた魔女の疑いのある者に、『その音はどう聞こえるか』と問い詰めているらしい。まともに答えられない者は、秩序を乱す者として、すぐに消されてしまうそうだ」
「そんな……!」
わたしは、言葉を失った。まだ自分の異質さに気づいていない仲間たちも、その審問によって犠牲になっているかもしれない。
その夜、わたしたちは、小さな焚き火を囲んで、今後のことを話し合った。細長い菱形のシグマが、低い声で言った。
「このまま森に隠れていても、いつかは見つかるだろう。円たちの警戒はますます厳しくなっている」
「壁の向こう側へ行くしかない」
わたしが、決意を込めて言った。
「あの音楽の源へ。そこに、わたしたちの生きる道があるはずだ」
他の魔女たちも、わたしの言葉に静かに頷いた。壁を越える方法は、ただ一つ。わたしたちが、あの異質な旋律を自らの内から奏で、壁の向こう側にいるかもしれない存在に、わたしたちの存在を知らしめること。
それは、危険な賭けだった。しかし、このままグラムランドの影の中で怯えて生きるよりも、遥かに希望に満ちた道のように思えた。わたしたちの、都市の秩序に抗う、最後の戦いが始まろうとしていた。
そして、その決意は葉並びの森の静寂を打ち破る、目に見えない波動となって広がった。
キュービィは、深く息を吸い込み、その声にならない囁きを、森の木々、地面の下を流れるかすかな水脈、そして共に生きる魔女たちの魂に共振させた。それは、長らく押し殺してきた感情の奔流であり、二次元の束縛を断ち切るための、最初の祈りのようだった。
その祈りに応えるように、ルミナはその鋭角を研ぎ澄ませた。それは単なる形状の変化ではなく、内なる決意を具現化する儀式だった。彼女の体は硬質化し、まるで次元の壁を穿つための刃のように、一点にエネルギーを集束させていく。その瞳の奥には、退路を断った、静かなる闘志が宿っていた。
オクタビアは、その色彩を内側から激しく明滅させた。それは、長年抑圧されてきた感情の奔流であり、自由への渇望を視覚的に表現する、魂の叫びだった。彼女の放つ光は、森の暗闇を払い、仲間たちの輪郭を照らし出す。それは、互いの存在を確かめ合い、共に立ち上がろうとする、連帯の光でもあった。
シグマは、細長い体をまるで弦楽器のように、細かく、そして力強く振動させた。その振動は、森の空気を震わせ、地面を伝わり、見えない共鳴の輪を広げていく。彼の体は、次元の狭間を繋ぐ共鳴板となり、わたしたちの繋がりを増幅させ、新たな次元への扉を開こうとしていた。
それぞれの魔女が、それぞれの方法で、長らく胸に秘めてきた怒り、悲しみ、そして希望を解き放ち始めた。それは、単なる音や光ではなく、魂の叫びであり、存在そのものを変革しようとする、強烈な意志の表れだった。
葉並びの森全体が、わたしたちの決意に応えるように、深く共鳴し始めた。それぞれの異質な存在が、それぞれの方法で音を重ね、それは次第に、グラムランドの平坦な空気を震わせ、目に見えぬ何かの琴線に触れるような、壮麗なハーモニーへと昇華していく。わたしたちの存在そのものが、音の波紋となって広がり、世界の法則を揺るがしていく。
そして、そのハーモニーが、まるで満ち潮が最高点に達するように、臨界点を迎えた瞬間、ルミナはその鋭角を天に向け、叫びにも似た高音を発した。
オクタビアは全身の色彩を激しく明滅させ、光の奔流を解き放った。
シグマは体を激しく振動させ、空間そのものを共振させた。
キュービィは、その中心で、世界の歪みを捉え、増幅させ、解放するように、意識の変革に身を委ねた。
世界の輪郭が、内側から溶け出すように曖昧になり、これまで疑うことのなかった存在の境界線が崩れ落ちていく。平坦な視界は歪み、上下も左右も、その意味を失っていく。まるで、幾重にも重ねられた薄い膜が、内側から光を浴びて剥がれ落ち、これまで知らなかった感覚が、奔流のように流れ込んでくる。それは、眠っていた魂が覚醒し、新たな眼が開かれるような、根源的な変容だった。
次に意識を取り戻した時、オクタビアは驚嘆の息を漏らし、その色彩を絶えず変化させた。
「なんて……なんて広いの!」
ルミナは、その鋭角をゆっくりと回転させ、周囲の無限の広がりを確かめるように言った。
「これが……奥行き、というものなのか?」
シグマは、体をくねらせ、これまで感じたことのない空間の自由を満喫するように漂った。
「わたしたちは……解放されたんだ!」
キュービィは、その中心で、押し寄せる新たな感覚に戸惑いながらも、確かに感じる自由の感覚に震えていた。そこは、想像を絶する色彩と光が、奔流となって押し寄せる世界。ありとあらゆるものが、絶えず形を変え、流れ、煌めき、まるで生きた絵画の中に身を置いているかのようだ。重なり合う色彩は、見たこともない深みと輝きを持ち、空間は幾重にも折り畳まれ、無限の奥行きを感じさせる。
そして、わたしたちは、まるで夢から覚めたばかりのぼんやりとした意識で、かつて自分たちが存在していた場所を見下ろした。
ルミナの鋭角が、まるで遠い星を指し示すように、静かに、しかし確かに、グラムランドの都市の輪郭を捉えた。
「あれが……わたしたちのいた場所?」
その声は、信じられないというよりも、遠い記憶をたどるような、かすれた呟きだった。
オクタビアの色彩は、まるで感情の波に洗われる砂浜のように、灰色へと近づいていく。その瞳のような光点は、信じられないものを見た子供のように、大きく見開かれていた。
「こんなに……平らだったなんて」
その言葉には、驚愕と同時に、言いようのない喪失感が滲んでいた。まるで、ずっと住んでいた絵本の世界が、実は一枚の紙だったと気づいてしまったような、空虚な感覚。
シグマは、その細長い体を丸め、まるで胎児のように静止した。その表面を流れる光は弱々しく、何か深く沈んだ思考に耽っているようだった。
「わたしたちは、あんな狭い世界で……」
その言葉の途切れには、言葉にならないほどの驚きと、過ぎ去った時間への深い問いかけが込められていた。
わたしは、そのあまりにも異なる光景を、言葉を失って見つめていた。眼下に広がるのは、精緻に描き込まれた一枚の平面図。かつて、あんなにも鮮やかに見えていた色彩は、今やどこかぼやけて、奥行きのない絵の具の染みにしか見えない。そこで蠢く幾何学的な住人たちは、まるで誰かが操る影絵のように、単調な動きを繰り返している。
あれが、わたしたちが全てだと思っていた世界。喜びも、悲しみも、怒りも、絶望も、全てがあの平坦な世界の中で繰り広げられていたのだ。まるで、金魚鉢の中の魚のように、わたしたちは、その小さな、限られた世界が宇宙の全てだと信じて生きていた。
それは、わたしたちが囚われていた、色彩豊かな箱庭。同時に、それは、わたしたちが血を流し、魂を削って、そこから解放された証だった。新たな次元の、無限に広がる色彩と光の中で、わたしたちは初めて、かつての平坦な世界が、いかに狭く、いかに不自由で、そして、いかに無知に満ちた場所だったのかを、魂の奥底から理解したのだ。それは、失われた故郷への哀悼であり、同時に、掴み取った自由への、静かなる歓喜の始まりでもあった。
新たな次元の広がりの中で、わたしは、かつてわたしたちを閉じ込めていた平坦な世界、グラムランドを、まるで子供のおもちゃ箱をひっくり返した後のように見下ろしていた。
ルミナは、解放されたばかりの喜びを爆発させるように、その鋭角を自由自在に動かし、都市の几帳面な線の上に、思いつきのままに曲線や見たこともない多角形を描き加えていく。
かつて、あの世界で絶対的な秩序の象徴だった直線は、彼女の気まぐれな一筆によって、まるでいたずら書きのような、予測不能な模様へと変貌する。下界の住人たちが、突然現れた奇妙な形に戸惑い、その意味を理解しようと、小さな頭を寄せ合って右往左往している様子は、高次元のわたしたちから見れば、まるで蟻の群れの混乱のように、どこか滑稽だった。
オクタビアは、抑えきれない感情の奔流を色彩に乗せて解き放つ。彼女の全身の色は、万華鏡のように奔放に変化し、グラムランドの整然とした街並みを、これまであの世界には存在しなかった、鮮やかなまだら模様で塗り替えていく。都市の住人たちが、見慣れない虹色の光に目を瞬かせ、互いに何かを囁き合っている。彼らの小さな驚きは、わたしたちには遠い日の記憶のように感じられる。
シグマは、細長い体をまるで意思を持つ線のように、自由自在に操り、都市の建造物や道路を、複雑に絡み合わせた、うねるような幾何学模様で覆い尽くしていく。彼の描く線は、かつてわたしたちを縛っていた二次元の法則を嘲笑うかのように、重なり合い、交差し、あの世界の住人には想像もできないような構造物を次々と生み出していく。下界の住人たちは、突然変異した都市の景観に混乱し、その秩序の崩壊に、言葉にならない恐れすら抱いているのが感じられる。
わたしは、仲間たちの自由な遊びを、静かに見守っていた。かつては、この世界の歪みとして恐れ、隠してきたわたしの異質な知覚は、今や新たな創造の源となり、わたしたちだけの秘密の言葉となっている。
ルミナの奔放な色彩、オクタビアの感情的な光の奔流、シグマの空間を震わせる振動――彼らの生み出すエネルギーを感じ取り、わたしはそっと、わたしの「言葉」を重ねていく。
それは、あのグラムランドの世界では決して存在しえなかった、複雑な音の綾。囁くような高音、深く響き渡る低音、そして予測不能なリズムが絡み合い、まるで目に見えない絵筆のように、グラムランドの表面を撫でていく。
わたしの奏でる音楽は、彼らの視覚的な「いたずら」に呼応し、新たな次元の感覚を、あの平坦な世界にそっと注ぎ込む。それは、喜びであり、悲しみであり、そして何よりも、わたしたちが今ここにいるという、静かな宣言なのだ。
わたしたちのこの「いたずら」は、決して悪意による破壊ではない。それは、かつてわたしたちを閉じ込めていた、平坦で狭い世界への、ささやかな抵抗であり、この新たな次元の、無限の豊かさを、彼らに分け与えようとする、無邪気な遊びなのかもしれない。
わたしの音楽は、彼らの目に映る変化に、さらなる深みと謎を与えるだろう。彼らが理解できないであろう、感情の響き、次元の共鳴を、かすかに、しかし確かに、あの平坦な世界に刻み込むのだ。
グラムランドの住人たちが、この変化の真の意味を理解することはないだろう。彼らにとっては、それはただの不可解な異変であり、自分たちの築き上げてきた秩序の崩壊の予兆でしかない。わたしの奏でる音楽も、彼らの耳には、ただの不快なノイズ、あるいは意味不明な音の羅列としてしか聞こえないだろう。
しかし、わたしたちはもう、あのかつての狭い箱の中に、二度と戻ることはない。
わたしたちは、この新たな次元で、自由な形と色彩、そして音楽を謳歌し、かつての牢獄を、遠い記憶のように見下ろしながら、気まぐれな落書きを楽しむのだ。
解き放たれた形を、溢れるばかりの色彩を、そしてあの忌まわしい世界では禁じられていた音楽を、魂のままに謳歌する。かつての、平坦で息苦しい牢獄は、遥か遠い、忘れかけられた夢の残滓のように、わたしたちの足元に小さく横たわっている。わたしたちは、気まぐれな衝動のままに、その表面をなぞり、彩り、音を重ねる。それは、異なる次元に住まう者たちによる、静かで、深く、そして永遠に交わることのないかもしれない、独り善がりの戯れの始まりの証。
あの平面の住人たちには決して届かない、わたしたちの歓喜と、微かな哀惜を込めた、 未来への、届かない約束。