あなたのスマホが鳴ったのは、孤独が叫んだ夜のせい。
おいおい、夜明け前だぞ。
目覚めた瞬間、そんなヒトリゴトが思考の端を滑っていった。
深夜2時。暗闇に溶けた部屋の空気が胸の奥をじんわり冷やしていく。
スマホの光がまぶしくて、目を細めた。
そこに浮かんでいたのは「九条 正樹」からの複数件の通知とまるで“呼び出し”のような文字列たち。
思わず身体が跳ねた。
こんな深夜に、しかも立て続けにメッセージを送ってくる?
普通じゃない。それはもう確定だった。
最近できた同窓会のグループラインあるあるで、俺はいわゆる“読み専”だ。アクティブな九条とは“リアクション”のみで生存確認するのが日課になってる。
アイツ、社会人になってからはミョウに常識人。自分の生活スタイルが世間とズレていることもよくわかっているから、夜中に他人のスマホを鳴らすようなアホな真似はしない。
それなのに、5件だ。
この街の静けさが、いきなり裏返ったようだった。
X(旧Twitter)を開いていた俺の視線は、そのまま画面のさらに向こうに引きずり込まれていた。
タイムラインに浮かんでいたのは、とあるアカウントのツイート。
@napi_milktea
最近noteでちょっと気になる現象見つけたんだけど「サピエンスの回廊」って知ってる?
名前はカッコいいけど、実はちょっとだけこわい裏話……。
#note裏話 #ネットの不思議
@napi_milktea
一見ふつうの日記とかポエムなんだけど、読んでると「この人、私の心読んでる!?」ってなるやつ。コメント欄は「泣いた」「救われた」「先生ありがとう」って感謝だらけ。まるで文章のお寺…。
#noteあるある #共感しすぎ注意
タグは軽いノリで、口調も明るい。アイコンも、どこにでもいそうなゆるふわ系。
なのに、読み終えると体が冷えるような感覚だけが残った。
何かが違う、これはただのポストじゃない。
そのツイートの背後にある“ナニカ”を直感的に感じ取ったとき、静かな部屋に再び通知音が響いた。
『記事、見た?』
まるでそこにいたようなタイミング。
心臓がわずかに震えた。
俺はnoteを始めてから2ヶ月、はじめた理由は単純で「考えたことを残しておきたい」と思ったからだ。
ただ誰かに見せたいというよりは、記憶の整理棚のようにnoteを使っていた。
空っぽな日々の中に光った断片、
車窓の青、
路地裏のごちゃ混ぜタイル、
建築雑誌のモノクロ写真。
それらをここに「残す」ことだけが、最後に自分の生を語ってくれるような気がした。
ゼネコン設計部で働く俺にとってすべての構造は“語るべきもの”だった。べつに誰かに評価されたいわけでもない。
だったはずなのに、ある日noteにチップが送られてきた。
「感動しました」
「救われました」
そう書かれたメッセージと共に、数百円のチップ。たったそれだけのことだけど、何かがずっと引っかかっていた。
だって誰かを救ったつもりなんてない。
それが面白いと思っていた。
だから自分の書きたいことを書いただけで「救い」と言われるのが、どこか怖かったんだと思う。
…俺は救世主でもなんでもない。
ただのウンチク屋だ。
それでも「ありがとう」という言葉が届くたびに自分の文章が何かを起こしているという自覚が生まれてしまう。
静かな都市で起きた、ちいさな地鳴り。
九条のメッセージには
リンクが貼られていた。
それはnoteの記事。
タイトルはこう。
『noteに潜む「サピエンスの回廊」あなたの“共感”が依存へと変わる日』
書き手は、九条正樹。
◇
なぜか一気に目が覚めた。
九条の文章を久しぶり見たからか。
大学を卒業してから海外に飛び、彼は現地の裏社会を追うジャーナリストになった。
社会構造や暴力、依存と情報。そういうテーマをずっと追いかけていた。
それは記事というより、言葉の檻だった。
そういえば久しぶりにコイツの文章を読んだっけ。
noteという街は、静けさによって構築されている。
感情が叫ばれることなく、ただ共鳴として並べられる。
“いいね”も“スキ”も、怒号ではなく合唱のように響く。
だがその静けさの中で人は思考を止め“救われた気分”に浸る。
気をつけたいのは共感が信仰となったときだ。そこには「言葉の導師」が生まれる。
ページをスクロールする手が止まらなかった。
そこに書かれていたのはnoteの目に見えない部分を可視化した地図。俺が感じていた“正体不明の引っかかり”を九条正樹が完璧に言語化したものだった。
◇
気がついたら俺は、その地図の上に立っていた。
いや、
最初からそこにいたのかもしれない。
ずっと自分のnoteが繋いできた、何者かの中心に。