第16話
「さよならだ。デカリボン」
そう言った俺を、瞬きもせず大きな目で見ていたミルミラが。
「さ……よな……ら?」
揺れる木々のざわめきに消されてしまいそうな、小さな小さな声で俺の言葉を繰り返し……直後。
「セッ……セッ……セセセッ」
チョコを行儀悪く食い散らかした後みたいに泥で汚れた口が、これ以上はないくらい開いて。
「セレの……ばかぁああああ~っ!!」
「っ!?」
ぽこん。
ぽこんぽんぽん。
ミルミラが連打した俺の両頬から、間抜け極まりない音がした。
ぽこぽこぽここん。
ぽこぽん、ぽすん。
蔦に覆われた薄気味悪い<監視者>の塔のある此処には不釣合いな、軽い音。
俺は地べたに座っていたので、小柄なミルミラでも非常に殴りやすいせいか調子っぱずれな音が途切れず続く。
「…………」
「ばかばかばかぁああ~っ!」
ぽすんぽすんぽこぽこぽこん。
ぽこぽんぽん。
「もぉおお~う、私、怒ったんだからね~っ!!」
これは食堂の時と同じく殴ってるつもり……だよな?
「嘘吐きぃいいい~! セレのばかばかばかばかぁああっ! 嘘吐きは泥棒さんに弟子入りして島流しなんだから!!」
蜂蜜色の目は真っ赤な顔で叫ぶ持ち主の熱で、今にも溶けて流れ落ちそうだった。
その姿を見る俺の口から出たのは。
「はぁ?」
なんとも気の抜けた疑問符。
「あなたが島流しになったら、私だって島暮らしなのよ!? 私、泳げないしわかめ嫌いなのにぃいい~!」
「…………俺が島だとなんでお前も島? は? で、わかめってなに!?」
島流しって、流刑のことか?
聞いた事無い単語……わかめってなんだよ!?
いろんな意味であっけにとられている俺を、ミルミラは叩き続けた。
ぽこぽこぽん。
ぽこすん、ぽこここん。
俺を叩くミルミラを応援するかのように、雲間から月が顔を出した。
夜風に騒ぐ木々さえミルミラの奮闘に声援を送っているかのように、なぜか俺は感じてしまった。
「セレなんてっ、セレなんてっ!」
ミルミラとしては全力で叩いて(殴ってるのか?)いるつもりなんだろうが、この程度じゃ俺にはまったく痛もダメージも無い。
むしろ、叩いている本人のほうが辛そうだった。
「セレなんて、私はっ!」
ぎゅっと握った手は赤くなり始め……小刻みに震えていた。
俺は細い手首を掴み、左右に振られていた腕を止めた。
「もうやめろ、そんなにしたらお前のほうが痛いだろうが……っ!?」
俺はミルミラの腕を止め。
ミルミラは俺の言葉を止めた。
口で。
俺の言葉だけじゃなく、思考も止めた。
唇に。
マシュマロ。
マシュマロの隙間から、小さな小さな飴玉が俺の口の中にころりと落ちた。
それは乾いた大地に落ちた雨粒みたいに、舌に触れたとたん染み込むように消え去った。
「イザ」
マシュマロはゆっくりと離れ。
謎の単語を紡ぎだす。
「イザ?」
イザ。
イザって?
「イザのお口、嘘を言ってる」
吐息が触れる距離で、蜂蜜色の瞳から光が溢れる。
「いっぱいいっぱい嘘を言ったから、お口はとっても悲しくなって……お口は泣けないから、お目々が代わりに泣いてるよ? 自分で分かってなかったの?」
闇の中で。
俺の心を照らすのは。
星でも月でもない。
「お顔を隠してたのは、だから? 泣いてたから、恥ずかしかったの? だから、お顔を見せてくれなかったんでしょう?」
手首を掴んだ俺の手をそのままに。
額と額をくっつけて。
「イザ」
呪文のように、繰り返す。
「イザ、イザ。イザ……イザ」
それは。
俺の中の何かをそっと拾い上げ。
しっかりと強く、強く握る。
「俺…………が、イザ?」
イザ。
初めて聞いた単語は俺の何かをぎゅっと握って、すとんと落とす。
「うん、イザ。そうよ、セレはイザなの」
大きな蜂蜜色の眼は閉じることはなく、迷いのない答えを返してきた。
「そっか、俺はイザ……って、お前っ!?」
ミルミラが、俺に名を。
それは、俺に“名付け”をしたってことだ。
「なんで……なんて事し……」
さっき。
口の中に……まさか竜珠っ!?
俺に竜珠を食わせて、名付けをしやがったのか!
「なんて無茶しやがるんだっ! 同意の無い雄にこんなことして……拒絶反応で俺が死んじまったらどうすんだよ!?」
俺が死んじまうのはかまわない!
でもな、竜珠を手放したお前はもう誰とも‘つがい‘になれねぇし、子を持つことも出来ない!!
俺はっ、俺はお前に幸せになって欲しくて……だからっ!!
「馬鹿はてめぇだっ! おおおお前はっ、自分がなにやったか分かってんのかっ!?」
怒鳴るように言った俺に、ミルミラは木の実を溜め込むリスのように不満気に頬を膨らませた。
「むむ~、どうして怒るの? セレ、嬉しくないの?」
その危機感ゼロの姿に、俺は自分の脳天から血が引いていくのを感じた。
「今は嬉しいとか嬉しくないとかが問題じゃねぇんだよっ! ……があああぁ、どうしたらいいんだよ!? こんな事例、聞いたことねぇぞ!? 頼りになりそうなクソババアは死んじまったし、俺はどうしたらいいんだよ!!」
このドアホめっ。
事の重大性を分かってないのかっ!?
こいつは、人間から救い出されてから養い親の元で暮らしていた。
竜族の繁殖に関してのタブー……知識が乏しいのかもしれない。
だいたい立場逆っていうか、いつから逆になったんだ?
惚れてたのは俺であって、ミルミラは……ん?
この状態はミルミラが俺に求婚してるってことかっ!?
「大丈夫よ! 拒絶反応なんて、そんなことになるわけないわ。セレスティスは私が大大だぁあああ~い好きなんだって、カッコンツェルさんも団長さんも食堂のお姉様も言ってたもんっ!!」
「なっ!?」
げっ!?
あいつ等ぁあああ~!!
うう、否定できない自分が恨めしい。
「あなたが私に竜珠くれてお名前くれたら、めでたしめでたしで終わりだわ。もう、早くしてよ!」
「あのな、俺はお前をあきら……がぁっ!?」
「黙んなさいっ、嘘吐きセレ!」
額がこつんではなく、がつんと音を立てた。
俺は衝撃で舌を噛んでしまった。
こ……こいつ、この俺に頭突きしやがった!
この石頭!
殴りは“ぽこん”なのに、頭突きは“がつん”かよ!
「だいたいねぇ、泣きながらあんなこと言ってるんだもん。あれじゃぁ、説得力無いよ? ほら、セレはぜんぜん元気でしょ? それは同意してるって証拠だもん!」
「俺の決意はどうなるんだよ!? 俺がどんな思いでお前を諦めようと……」
「嘘吐きなお口はストーップ!」
「ぶごっ!?」
再び驚異的な威力の頭突きを喰らい、俺はまた舌を噛んだ。
今度は見事に噛み切ってしまい、自分の舌が咽喉に詰まった。
「……ぐっ!」
ミルミラの前で舌を吐き出すわけにもいかず。
俺は気合でそれを飲み込んだ。
「私のお話、聞きなさい! いい?」
俺に俺の舌を食わせた張本人は、駄々っ子言い聞かせるように鼻息荒く強気で言った。
「…………」
俺は頷いた。
どっちにしろ誰かさんのせいで、数分は喋れない。
俺は自分の口を押さえるために、ミルミラの手首から手を離した。
ミルミラは俺の手が離れた両手を自分の膝の上に置き、ぎゅっとピンク色のドレスを握りこんだ。
その手は、小刻みに震えていた。
「あの……えっとね、セレには内緒にしておきたかったけど、私……私、竜体にもなれないの。だから飛ぶことも出来なくて……皆よりずっと背も低いし……暗いと目もあんまり見えないし……ダメダメな竜族なの」
その震えは寒さのせいだけじゃないと。
身体の奥から無理やり押し出したような声が、教えてくれた。
「こんなダメな私だけど、セレが……あなたが求婚してくれて……でも、私にはセレが自分のつがいなのかも分からなくて、お返事できなくてっ……お、お返事、どうしたらいいか分からなくてっ。かっ、母様に聞いたの……」
手が震えても、言葉に詰まっても。
ミルミラは、うつむかなかった。
「セレが私のたった一人の伴侶かどうか、どうしたら分かるのって……そしたらね、母様は言ったの。明日を考えてごらんなさいって」
泣きそうな顔を隠さず、俺を見上げて。
俺だけを、その瞳に映して。
自分の弱さに屈しない、誇り高き貴婦人のように。
「明日の次は明後日を、明後日の次は……ずっと先を、未来を思い描いた時、隣には誰がいるの?って……誰と笑ってるの?って……」
その姿に。
俺は見惚れ。
「明日の私も、明後日の私も、未来の私も。あなたの隣で笑ってた」
その言葉に。
俺は救われ。
「私、あなたと笑ってた」
そう言ったミルミラの顔は。
菓子を食ってた時以上に幸せそうで。
泥だらけでも、とんでもなく綺麗で。
今まで見た中で、最高の笑顔だった。
ああ、俺は。
カッコンツェルの菓子に勝ったんだ。
「……ミルミラ」
お前に嘘をついた舌は消え、真新しい舌が最初に紡いだのは愛しい人の名。
ミルミラ。
お前には負けた。
ミルミラ、お前には俺は一生勝てないだろう。
それはなんて、甘美な敗北感。
こいつに、俺は敵わないのだと思い知った。
「お前はすげぇな。この俺が、完敗だぜ?」
言いながら小さな身体に手を伸ばし、引き寄せ抱きしめた。
「俺はお前のモノだ、お姫様。竜珠も命もなにもかも……」
柔らかな胸に顔を埋めて言う俺の頭を、細腕が包み込むように抱き。
癒すように、優しく優しく撫でてくれた。
「セレを私の王子様にしてあげるから、私をあなたのお姫様にしてね?」
誓うよ、お姫様。
俺はお前と共に生き。
お前と共に、死のう。
「ずっと、ずっとよ?」
最期のときも、その先も。
「ああ。ずっと、一緒だ」