第13話
*残酷な描写があります。ご注意ください。
「すまねぇ、俺は仕事が入った。急いで城へ戻らなくちゃなんねぇんだ」
作業場へと続く扉を閉めながら、談笑を中断して俺を見る2人に声をかけた。
「カッツェ。ごめん」
朝からずっと俺に付き合ってくれたカッコンツェルに、謝った。
そんな俺に、女神のような美貌の雄竜は心底困ったような微妙な顔をした。
「なんで僕なの? あのねぇ、僕より先に言うべき人がいるでしょう!? 僕のことは気にしないでいいよ。お仕事、気をつけてね。ふふっ、その顔に傷をつけることだけはしないでよね?」
カッコンツェルは優雅な仕草で空になったティーカップに二杯目の紅茶を注ぎ、席から半立ちのミルミラに声をかけた。
「ミルミラさん。この妙に可愛らしい朴念仁なんか放っておいて、お茶のお変わりいかが?」
「え? セレ、お城に帰るの!? じゃあ、私も一緒に帰る!」
ミルミラはカッコンツェルの問いが終わるより前にそう言い、俺へと転がるように走り寄ってきた。
栗色の髪が意外に機敏な動きにあわせて揺れ、髪から花飾りが一つ落ちた。
「ミルミラ!?」
腹にどすんと体当たりしてきた小さな身体の扱いに困り、両手を不自然に挙げたまま助けを求めてカッコンツェルを見た。
カッコンツェルは灰青色の目を細め、苦笑しながら頷いた。
……手、使っても良いってことだよな?
俺、触って良いんだな……。
なぁ、カッツェ。
俺は拒絶されてなんかないよな!?
さっき作業場で感じてしまったあれは、俺の気のせいで……踏み潰して消していいよな!?
「ごめん、ミルミラ。せっかく来たんだ、お前はゆっくりしていけ。夕方になったら、おっさん……エヌバチェンス団長が迎えにきてくれる。あのおっさんも強いから、安心していい」
力を込めたら砕いてしまいそうな華奢な身体に、恐る恐る回した自分の腕が。
離したくないと。
この小さな身体を離したくないと、駄々をこねている。
「送ってやれなくて、ごめんな」
「……ううん」
クソババア陛下からの連絡を切った後、俺から団長に電鏡で連絡をいれて頼んでおいた。
俺は一秒でも早く城へ帰りたかった。
俺は決めた。
言うんだ、クソババア陛下に。
「また会いに行くから。絶対、行くから」
もうあの仕事は、嫌だって。
ミルミラを妻にして子作りするつもりだから、繁殖実験……人間の女の相手は出来ない、したくないと言う。
「うん、待ってる! セレ、あのねっ……言うの遅くなっちゃったんだけどっ、唐揚げありがとう! ちっともロマンチックじゃなかったけど、とっても美味しかった」
俺の腹から顔を離し、でっかい飴玉みたいな眼が俺を見上げた。
俺はその目玉に吸い寄せられるように、身をかがめた。
吸引力に逆らわずにいたら、額と額がこつんと触れ合った。
「ロマンチック? ……今度求婚するときは、もっとお姫様っぽいものを持っていく。なにか希望とかあるのか?」
今考えてみると。
お姫様になりたいって言ってる天然不可思議ドリーマー娘なこいつに、唐揚げでの求婚は確かにロマンチックの欠片もなかった。
けど。
いったい何がお気に召すのか、ロマンチックとやらに縁遠く生きてきた俺には分からない。
「お耳、貸してくれる?」
背伸びをして手を伸ばしたミルミラの指先が耳たぶに触れるのを感じ、心臓が跳ねた。
「っ……わ、わかった」
ミルミラの口元へと耳を寄せ……耳介にかかる吐息に酔わされそうになりながら、踏ん張ってミルミラの言葉を聞いた。
「あのねっ…………がいいの」
「なるほど。そっか、そりゃお姫様っぽいアイテムだな。どんなのがいいか俺にはさっぱりわかんねぇから、一緒に買いに行ってくれるか?」
求婚するのに物は特に要らないんだが、こいつに何かを贈りたいという気持ちが強かった。
ミルミラの好きな物をやって、カッコンツェルの菓子を食ってる時みたいな笑顔が見たい……笑顔にしたい。
「うんっ!」
元気よく答えたミルミラを、カッコンツェルが満足気に見ながら言った。
「もう、俺やめて僕って言ってよね。ま、ゆっくりでいいけど。それにしてもプレゼントする本人に訊いちゃうなんて……あ、さりげなく次のデートに誘ったわけ!? うんうん、やるじゃない。いい感じだね」
そんなつもりじゃなかったが、まあ、うん。
また一緒に出かけられるのはかなり嬉しい。
「なぁカッツェ。スキッテルの店の定休日知ってるか?」
ミルミラからのリクエストは、お姫様になるって言ってるあいつらしい物だった。
俺はそれを身に着けてる奴を帝都で見たことは無いけれど。
まあ、普通の雌はしねぇよな……。
「スキッテル……つまり宝飾系をご希望なんだね? 彼のとこは不定休なんだけど、帝都でアクセサリーを買うならあそこが一番! ま、値段も一番だけど。ミルミラさん、買い物の帰りにまたお茶に寄ってね、今度はクレープを作ってあげるから」
「はいっ! わぁ~い、クレープ大好き! お出かけが楽しみね、セレ!」
「……そ、そうだな」
兎のようにぴょんぴょん跳ねながら言うミルミラは、とても嬉しそうだった。
俺とのデー……買い物より、カッコンツェルのクレープへの反応のほうが……またカッツェの菓子に負けたような気がする。
でも、喜んでるならいい。
こいつが笑ってくれるなら。
「楽しみだな」
離したくない、離れたくない思いでいっぱいだったが気合を入れて身体を放した。
「世話になったな、カッツェ。また明日な、ミルミラ」
「私、さっきのところでご本読んで待ってる」
さっき?
<監視者>の塔の近くだな。
「ああ。昼過ぎにあそこで会おう」
「うん!」
大きな瞳が微笑みと共に輝いた。
「……じゃあな」
未練たらしく動かぬ脚を拳で叩いて、戸口へと向かった。
ドアベルの音を聞きながら、一度だけ振り向いた。
何度も振り向いたら、立ち去れなくなる。
だから、一度だけ。
幻のように美しいカッコンツェルと、多少珍妙な格好をしていようが、誰もが美少女だと認めざる得な容姿のミルミラ。
甘い菓子の匂いと柔らかな紅茶の香りが満ちたそこで、この2人が並んで俺に手をふるさまは、なんかこう……現実離れしてるっていうか……御伽の国?
これがメルヘンってやつなのかもしれないと、俺は思ってしまった。
メルヘンの世界へ続く扉を閉める俺のこの手には血が染み込んでいるけれど、この手は俺の大切なものを守る……カッツェとミルミラの[世界]を守る力がある。
俺は悪い魔法使いからも何者からも、ミルミラを守るためなら喜んで<化け物>になるだろう。
「さて、急いで帰るとすっか」
カッコンツェルの店の戸を閉めて、空を見上げた。
そのまま視線だけを流し、‘道順’を決める。
ミルミラと通った道とは違い、最短距離を選んだ。
「よし」
向かいの家屋の屋根へと跳んだ。
ここから家々の屋根の上を走り、一直線に城へと向かうことにした。
禁止されていない行為だが……竜族といえ、竜騎士以外はさすがにしない。
人間より身体能力に優れた竜族だが、普通の奴等と竜騎士とでは比較の対象にならないほどの違いがある。
「っ!?」
最初に左脚を付いた時、靴底から伝わる振動に息をのんだ。
こんなへまは初めてのことで、思わず足元を確認してしまう。
「……あ」
カッコンツェルの3軒先の建物の屋根に跳んだ俺は、瓦を一枚割ってしまった。
テラコッタ瓦には粘土中の成分が現れて、朱色のそれの一部を白く変えていた。
カッコンツェルの店は使われていなかった古い建物を改築したものなので、瓦は開店時に新しいものにかえていた。
まだ赤いそれも、時間をかけて落ち着いた朱色の瓦へと変わっていくのだろう。
この瓦は帝都の建物に昔から使われていて、高台から見下ろせば揃いの瓦が美しい街並みを作っている。
空から見るとなかなか壮観で、帝都に住む竜族の自慢でもあった。
「今度の休みに来て、直さないとだな」
俺とミルミラの子供にも、この美しい街並みを見せてやりたいと思った。
つがいを得て、子を生す。
家族を作り、命を繋ぐ。
それは竜族にとって、とても大切で……喜び。
「クソババア陛下、俺がミルミラとつがいなるつもりだって言ったら、驚くだろうな」
最近しかめっ面ばかりだった陛下だって、ニングブック達の時みたいに‘めでたいな‘って言って……笑ってくれるかもしれない。
「ははっ。笑ったらもっと皺々になっちまうかもな」
宿舎に帰って急いで制服に着替えた。
こんな格好であそこへ……実験棟へは行けない。
着慣れた詰襟の青い騎士服。
蜥蜴蝶を素材に使ったこれは、返り血を受けても簡単に水で洗い流せる。
頑丈で多少のことでは破れず、便利だ。
俺達の仕事は汚れ仕事が主体だからな。
刀を差し、鍔からその上へと撫で上げ握る。
手のひらに感じる柄の感触が、急いた心を静めてくれた。
「……俺も手袋、すっかな」
初めて、俺は白い手袋をつける気になった。
団長達が仕事中は絶対に手袋をする気持ちが、やっと理解できた。
しまいこんでいた手袋を探すのに手間取った俺は、宿舎の階段じゃなく部屋の窓から北庭の隅にある実験棟へと駆け出した。
実験に使われている部屋の扉を、ノックしないで開けた。
気配と足音で中にいる<主>には分かってるんだ、するだけ無駄だ。
だから俺はしない。
ここの扉をお上品にノックするほど、御人好しじゃない。
「……髪を切ったのか」
陛下は床にうつぶせに寝かせた女の横に膝をつき。
その白い背に、指先を滑らせながら俺を見上げた。
外套のフードがその顔を覆い、俺からは皺に囲まれた口元しか見えなかった。
「幼いお前を城へ連れて来た時のようだ。……懐かしいな」
言いつつもその声音からは、なんの感慨も感じられない。
陛下は緩慢な仕草で女達へと顔を戻した。
人間の5人の女が床に並べられ、陛下は淡々と前処理をこなしていく。
刃物のように鋭く伸ばした青い爪を、背骨に沿って深く差し込んでいく。
咽喉を潰され、薬を使われた女達は抵抗するどころか恍惚とした表情を浮かべ、毒々しい青い爪を受け入れていた。
「陛下。俺は聞いて欲しいことがあるんだ」
すっかり見慣れた光景に、まるで今日始めて目にしたような嫌悪感が生まれる。
「ほお……珍しいな。言ってみるがいい」
言いながらも作業の手は止めない。
それを気にする余裕なんか、俺には無かった。
「俺はつがいになりたい雌を見つけた。ミルミラと……あいつと家族を作って、あいつを幸せにする。だから、この『仕事』は嫌だ。つがいを見つけたんだから、俺をこんなことから解放してくれるんだろう!?」
少しでも早く、陛下の言葉が欲しかった。
もうやらなくてもいいと。
言って欲しいかった。
「つがい……ミルミラは、あの子はお前の求婚に応えなかったのだろう?」
「陛下……知って?」
知ってるのに。
なのに、俺にこの仕事を?
あの時、断られたからかっ!?
「お前は食堂で派手に求婚し、失敗した。そのせいで混乱し、竜騎士相手に暴れまくった。私がお前を止めたんだぞ? 知っていて当然だろう。……哀れな私の竜騎士よ、教えてやろうではないか」
「ば……ばあ? てめぇ、なにを……」
クソババア陛下は爪の伸びた手を軽く左右に振った。
いつもならそれで元の長さに戻るのに、爪の長さに変化が無かった。
「ここにもがたがきたか。まあ、良い。セレスティス……ミルミラはお前を拒否したのではない。受け入れたくとも、できなかったのだ。あれはお前とは違った意味での特殊個体なのだ」
横たわる女の身体を背に立ち上がり、数歩俺へと近づきながら、クソババアが話し始めた。
「……特殊個体? あいつが!?」
確かに変わってるというか、ミルミラは妙な雌だ。
なんというか……良くも悪くもアンバランスというか……。
「そうだ。生まれ持ったものではなく、育ちによるものだが。そのせいで他の適齢期の雌と違い、心身ともに幼い。育った環境が劣悪だったため視力も人間程度しかない。知識として求婚を知っていても、あの子は心身に少々問題が有るゆえ……身体と心が上手く連動しないのだろう。そのために竜珠も出せぬし名づけも出来なかった。……今朝あの子は私に会いにきた。‘びちょぼろもさもじゃさん‘が何処にいるか訊かれたぞ?」
俺を、びちょぼろもさもじゃさんを探してくれたのか。
ミルミラ……視力が普通より悪かったのか。
そういや食堂でも俺をおじさんと勘違いしたし、髪を切った後に会った時も匂いを嗅いでいた。
「あの子は……ミルミラは生まれて直ぐに、性質の悪い術士に連れ去られた。以後ずっと行方知れずだったあの子を、30年前にやっと見つけた。エヌバチェンスを派遣し、人間から奪い返した」
「ミルミラは人間にさらわれたのか!? 団長が奪い返し……!? な……なんだよ、それ? そんなことがあったなんて、誰も……知らな……っ」
そうか。
秘密裏に動いてたのか。
竜族に動揺を与えないように……一族の宝からである子供を奪われ救出できなかったなんて、<青の竜帝>に対する信頼を損なう。
四竜帝は竜族にとって絶対的な保護者なのだから。
「幼生の時は愛玩動物として、檻で飼われていたらしい。時が経ち、持ち主が移り変わっていくうちにミルミラは愛らしい幼竜へと変化期を迎えて成長した。だが、その容姿が仇になった」
「愛玩動物……檻!?」
ミルミラ、お前はっ……!
「愛らしい幼子を嬲ることに性的興奮を得る人種がいるのを知っているか? そういった輩にとって、竜族はまことに都合が良いのだ。人間と同じように痛みに泣き叫ぶが、その肉体はずっと強い。人ならば死に至るほど痛めつけても、加減を間違えねば死ぬことは無い」
クソババアの言葉を、隠されたいた事実を聞くたび、俺の頭は冴えていった。
「力のある貴族は術士を抱えている者が多い。竜騎士であるお前や竜帝である私と違い、普通の竜族では術士には敵わぬので自力で逃げることも不可能だった。……人間で言えば赤子の時から異常な環境にいたため、あの子は逃げるという考えすら思いつくことが出来なかったようだ」
怒りが、とっくに沸点を過ぎていたからだろう。
「地下牢で日々寵愛という拷問を受け、死と寄り添って生きてきたのだ。あの子が救い出された時、そのあまりの姿にエヌバチェンスは怒り狂い、ミルミラを囲っていた貴族だけでなくその家族も使用人も殺した。赤子も老人も、全て殺してきた。加害者の四肢を折り、ミルミラの全身に刺さっていた鉄串で舌を床に縫い止め、その口に切り落とした下郎の指を詰め、目の前で泣き叫ぶ親族を一人一人三等分に切り裂いたそうだ」
冴え渡る頭と、煮えたぎる心。
すでに殺された人間達を、俺の脳内で握り潰していく。
「あれは竜騎士の性を抑える才に長けている個体だ。だが、そのエヌバチェンスをもってしても抑えられぬ惨状で、ミルミラは発見されたのだ」
団長以上に残酷で凄惨なやり方で。
顔すら分からない奴等を嬲り殺す。
「その貴族は三代に渡りあの子を……私は間に合わなかったのだ。高価で貴重な愛玩動物として飼われているうちに助け出すことができず、最悪な事態に……<青の竜帝>として、私はあの子にどう償っても足りぬ」
ミルミラが苦しみ抜いて……生き地獄にいたのに。
俺はその時、何をしていたっ!
「私がエヌバチェンスに好きなように殺せと命じていたのだ。竜族にとって子は宝。それを奪ったものには、相応しい罰を与えるべきだからな。人間との共生は大事だ。だが、なめられては困る……竜族は一族を傷つける者を許さないのだと、必ず復讐するのだということ事を知らしめる必要がある。でなければ、我々は人間共にとって‘有益な動物’として狩りつくされる」
ミルミラを傷つけ、貶めた奴等と同じように。
俺は俺自身も脳内で惨殺した。
錆の味が、咥内に満ちた。
いつのまにか拳を強く握っていた……初めてした白い手袋が、内側から赤く染まっていく。
「ミルミラの両親はあの子が連れ去られるさい、術士に殺されていた。だから私は不慮の事故で子を無くした気象観測官アクセディとシンデーナを、ミルミラの親にした。私が過去の記憶を消したので、あの子は何も覚えていない。幼い時の記憶が無いのは熱病の後遺症だと言い聞かせた。あれはその不遇な育ちにより身体が弱いので、なんの疑問も感じておらぬ」
「記憶……を消す?」
記憶を?
どういうことだ!?
そんなこと、なんでこのババア陛下が……。
「<青の竜帝>の能力だ。それを知っているのは四竜帝とヴェルヴァイドのみ」
<青の竜帝>の能力。
このクソババアは、記憶を消せる。
ミルミラは辛い記憶を全て消し、今のミルミラになったのか。
人間に飼われて……そして玩具にされてたなんて、そんな記憶を覚えている必要など無い。
ミルミラの小さな頭には、幸せな記憶だけでいい!
「ヴェルヴァイド……私の死後、この青の大陸にあの方が戻ってきてくれる。死ぬ前に一目御会いしたかったが……この醜い姿を、あの方に晒す気にはなれぬ」
ババアは今にも折れて落ちそうな蹴れ枝みたいな指がついた右手で、自分の顔を撫でた。
背の曲がった身体は青い外套に隠されていたが、フードから微かに見えるその顔は皺だらけでやせ細り、死んだ魚みてぇな目玉が……一つ付いていた。
「ああ、これか。咳をしたら左の眼球が外れたのだ。もう元に戻す力はこの身体には無いので捨てた」
咳なんかで目玉が!?
クソババア、あんたまさか……。
「なぁ、陛下。医務室に……」
「さあ、お喋りはここまでだ。私には時間が無い、やるべきことを始めよう。今回は若い娘……新鮮な生きの良い素材が手に入ったのだ。お前も準備をしろ」
「!?」
薬瓶を投げてよこしたが、俺はそれを右手で床に叩き落した。
瓶は割れ、中身が飛び散った。
「ふ……ふざけんな、このクソババア! 言っただろうが!? 俺、求婚中なんだっ! こういうの、もう勘弁してくれよっ!!」
口はなんとか動いた。
手も俺の意思に従い、薬瓶を壊した。
なのに。
なのに、脚が動かない。
今すぐに此処から逃げ出したいのに、動いてくれない。
「や……嫌だ。嫌だ……俺、ミルミラが好きなんだ……どうしようもなく、好きなんだよ……これからは俺が、この俺があいつを守って……守ってやるんだ……」
精一杯の抵抗で、しゃがみこんだ俺に青い髪が降ってきた。
「セレスティスよ。私から見ても、ミルミラはお前に惹かれている」
俺の前に膝をついた陛下の棒切れみたいな両腕が外套から伸びて、俺の身体をそっと……抱きしめた。
ゆっくりと背を撫でるそれは、とても優しかった。
「お前を。お前達を祝福してやれたなら、どんなにか……」
でも。
俺は、その感触に。
恐怖した。
「私が求めるのは竜騎士の強さと人間の繁殖力を持った混血種。先祖返りの可能性が高い特殊個体のお前がいたからこそ、私はこれを始めたのだ。お前抜きでは成り立たぬ……ミルミラがお前を受け入れ子を孕んだら、お前の生殖機能が止まってしまう。それは困るのだ」
身体が震えだし、氷水に浸かってるみたいに身体が冷えていく。
がちがちという耳障りな雑音。
それは俺の口から生まれていた。
「お前の頭から、ミルミラを消してやろう。いや、全てを空っぽにしてやろうではないか。そうすればそのように苦しむことも無くなる。すべて忘れれば……楽になれる」
その言葉を理解するのに。
「ミルミラを……消す?」
数秒かかった。
「じょう……だ……うそだ……ろ?」
「安心するがいい。これでもう、お前は苦しまない……そのような顔をしなくてすむのだ」
俺を抱くクソババアの腕に、力が加わった。
背を優しく撫でていた手が、俺の背骨の上を……何かを確かめるように動く。
「……っ」
本気だ。
脅しじゃない。
クソババアは、本気で言ってるんだと理解した。
「やめてくれ! それだけは……記憶をっ、俺の中のミルミラを奪わないでくれよ! 何でもするからっ……わかった、俺はあいつを諦める! あいつには……もう会わないから! もう二度と、誰も好きになったりしねぇからっ! だから……だからっ!!」
振りほどきたいのはらえない、枯れ木のような腕の中で。
俺は懇願した。
青い外套を震える手で掴み、叫んだ。
「ミルミラとの記憶だけは、奪わないでくれっ……義母さんっ!」
俺を城にひきとって。
本当の息子みたいに、バイロイト兄と同じように育ててくれた。
生意気で手に負えないクソ餓鬼だった俺に。
2人きりのときは‘かあさんっ’て呼べと、あんたは頭を撫でてくれたのに。
「……私は<青の竜帝>。お前の<主>だ。<主>として命じる」
ミルミラ。
「青の竜騎士セレスティスよ」
俺。
「お前に居場所は此処だ」
お前の側で。
お前と、生きたかった。