第六十九話 踏み越えてはいけない領域 そのに
『聞こえるか?』
「う、うー」
目だけ見開いて、こちらを見ようとしているが、松任谷の瞳には何も映っていない。それでも耳には自分と同じ声が聞こえているはずだ。
『こうなっている段階で、お前は死んでいるのと同等。聞こえているなら、頷け』
松任谷は頷いている。だが目にはまだ力を失っている感がみられない。
(『隠形の術』を解いて、と)
すると足下から人の足が現れ、膝、腰、お腹、胸元、首、顔が見えてくる。
『十四年前のことだ。この女性を知っているな?』
松任谷は目を更に大きく見開いた。若干の驚きと、若干の恐れの色がみえてくる。
『知っているなら頷け』
ゆっくりと被りを振る松任谷。
(額当たりから血が流れる演出、お願いできますか?)
『はい。できました』
徐々に頭から額を血の色に染めていく。ぴちゃり、ぴりゃりと滴り落ちる音も聞こえてくる。
『知っているなら、頷け』
これでも被りを振る松任谷。
(さてどうするかな?)
『あの、一八さん』
(なんでしょう?)
『よろしければなのですが、『恐れの術』というものがございまして、あの人が得意な術なのですが、ワタシも短ければ一応使えますが』
(どのような術なんです?)
『かけられた対象が、この世で一番恐ろしいと思うものが目の前に現れて苦しめる。そういう術です』
(あ、じゃそれでお願いします)
『では、まいります。むむむむー、どうで――』
「う゛ぁべばばばばー」
何が起きたかわからないが、恐怖の色に染まった松任谷の表情。一八は松任谷の猿ぐつわにしているタオルを外す。
(うーわ、ばっちぃ……)
「た、頼むからやめてくれ、お、お前さえいなければ、うちの麗華が……」
(麗華ってあれですよね。箱崎麗華のことだと思うんですけど? あ、……こいつ漏らしてる)
全体にではないが、スラックスの股間にあたる部分の色味が変わっていた。特有の匂いもしてくるから間違いないだろう。
(とりあえず『恐れの術』、止めてもらえます?)
『はい、止めました』
『臭いなぁ。あぁ臭くてたまらない。何を漏らしているんだい? まさか、大きいほうまで漏らしていないだろうね? 仕方ないからそのカツラで拭いておこうか?』
自分の声で緩く罵られる。屈辱だろう。徐々に表情が歪んでくるのがわかる。
『お前の内縁の妻、箱崎麗華にパンツの替えでも持ってきてもらうかい?』
松任谷響を調べているときに、ある記事がでてきた。いわゆるゴシップ系タブロイド誌のものだったが、『ヒビキ・エージェンシーの松任谷響と女優の箱崎麗華は内縁関係にあるのが濃厚である』というものだ。だからこの場での問いかけは、確定情報ではなく煽りである。
『冗談はここまでにしておこうかな? さて、件の被害者。八重寺絵梨佳を死に追いやることとなった。その原因を作ったのは、誰だ?』
「…………」
(はい、もう一度『恐れの術』をお願いします)
『いいですよ?』
『――うぁあああ、やめ、やめてくれっ、お前さえ』
(はいストップ。ありがとうございます)
『はい。止まりました』
(ありがとうございます。次からは僕が右手を上げたらスタート。降ろしたらストップでお願いします)
『いいですよ』
「――うぁあああああ」
(いや、僕まだ手を上げてませんから。その『お願いします』じゃないですから)
『あ、すみません。間違えました』
(いえ、いいです。大丈夫です)
『さて、件の被害者。八重寺絵梨佳を死に追いやることとなった、その原因――』
「……俺じゃ、ない」
(ほら、尻尾現しました。誰も『お前だな?』なんて言ってませんからね)
『なかなかやりますね』
(えっへん)
一八は右手を上げた。
「――うぁあああああ。やめ、やめてくれっ」
今度は右手を下げる。
『件の被害者。八重寺絵梨佳を死に追いやることとなった。その原因を作ったのは、誰だ?』
「……俺じゃありません」




