3話
3 話
村の方角だ。
アレフがポツリそう呟いた時、ヒノエは既に走り出していた。
それをただ見ていた。
「…っ!」
待ってくれ。
1拍の後、口まで上がってきたその言葉を、必死で噛み殺した。
「貴方は避難していなさい!」
既に木々に紛れかけたヒノエがアレフにそう声をかけた。
やっと走り出すことが出来たアレフを見兼ねての事だった。
「俺も行きます。次期村長です。多少なら戦える!」
実際の所、アレフがヒノエの姿を見た時に感じた感情というのは、落胆よりもむしろ、歓喜だった。
見るからに華奢な女が、不釣り合いで不気味な程の破壊力を見せた。
それは、むしろ魔物を超えた怪物的強さだった。或いは、ただ見た目通り、立場通り強いだけの騎士がそこにたっているよりも、嬉しかった。
村を守りたいという感情よりも、この人を逃がしたくないという感情の方が強くなる程に。
「次期村長……モリア・アントニーの……?」
意外にも、その辺の村人よりも足の遅かったヒノエに追いついた時、ヒノエは一方的に告げた。
「そう……なら少しだけ任せるわ。仲間を呼びます」
「………ッ!お願いします!」
ダメだ。そう言おうとして、仲間が増えるような気がした。だからそれを見送った。
聞くまでも無い、村中に悲鳴が響いていた。
アルテナ村に辿り着いついたアレフの目に飛び込んだのは、中心に居座る1匹の魔物。
保護色など知らぬと、場に合わぬ黒茶色の毛皮を纏い、黒曜石をすら思わせる牙を覗かせている。
荒々しいドラム合唱の様な唸り声。
つまり、先程と同じキバガミだ。
「やっぱり、キバガミだ。でも…デカい」
ただ違うのは、それが体高が2mにも届く巨大であったという事。
アレフは、自らの浅慮を感じた。
キバガミの周りは、死体で溢れていた。
それは、父が歳を感じ始めた時に、手慰みで発足した自警団の面々だった。
はっきり言って、彼らは大して戦力ではない。魔力というものを知覚はすれど、動かすことすらままならない。ただの村人だ。
だが父が、モリア・アントニーがそこに居た。
「親父を、殺したのか…」
腰を悪くしたとはいえ、その力に衰えは殆ど見られなかった。まともな戦闘というものを殆ど知らないアレフの戦い方は、即ちモリアのコピーであり。たった1匹の魔物を殴り殺すのに、腰への負担は無いに等しかった。
つまり、モリアよりもキバガミが強いという事実が、そこにはあった。
「■■■■■……!」
「ふぅ……ッ!」
アレフは、全身に澱みなく魔力を漲らせた。
それ以外のやり方を知らなかった。普段と何ら変わりのなく化け物に近づく、融通の効かない自分の力に、軽い失望を覚えた。
だが、やる事は変わらない。
殴り掛かる。吹き飛ぶ。それだけで終わらせる。
キバガミに近づく為に1歩を踏み出す。
「ぐぅおッ!?」
足が、切れた。
「何だ…?」
キバガミの毛皮よりも丈夫な筈の足が、突如として切れた。
「■■■■━ッ!」
「しまったッ!」
その事に一瞬怯み、アレフは気が付いた。
本当に不味かったのは、足が突如として切れたことではなく、ただそれだけで足を止めてしまったことだと。
その事を後悔する間もなく、キバガミはその黒檀色の牙でアレフに迫った。
「くッ…ガァッ!」
躊躇なく差し出されたアレフの左腕に、その牙は突き立てられた。
皮膚を割き、肉を割りながら突き進むキバガミの牙。しかしそれは、力を込めたアレフの腕を貫通するには一歩、至らなかった。
「■■ッ!」
「ざまぁみろ!………捕まえた…ぞッ!」
一閃。アレフの右ストレートがキバガミを捉えた。
キバガミの体は宙を浮き、後方に吹き飛ぼうとして、引っ張られた。
「ダァッ!」
一閃。また一閃。
キバガミの土手っ腹を捉えた拳は抉りこんだ。
「ッ!」
自身の拳が、キバガミの肉を抉っていない。
それまで、魔物生来の防御力というものを、全て貫いて来たアレフの拳はここに来て初めて攻撃に留まり、必殺とならなかった。
「ッ!回った!?」
自身の防御力がアレフのそれを上回った事を悟ったのか、はたまた危機を逃れる為の野生の勘か、キバガミは牙の下側だけを引き抜き、攻撃を恐れずに体を捻った。
アレフはそのままの勢いで、地に叩き付けられた。
気付けばキバガミの牙が抜けていた。
キバガミはアレフの腕を爪で突き刺す事で押さえつけた。
「ヤバい…ッ!」
唯一動く足、それでキバガミを蹴ろうとした時。アレフは気付いた。
村人の悲鳴が、止んでいない。
(1匹じゃ……ないのか?)
思考に意識を奪われた一瞬。
キバガミはアレフの喉元に噛み付こうとしていた。
「しまった…また同じことをッ!」
思わず足で蹴ろうとして、間に合わない事を悟った。
死を覚悟し、思わず目を閉じたアレフの耳に、風切り音と、鈍く重い音が響いた。
「■………っ」
一拍遅れて、キバガミの倒れる音が聞こえた。
「え……?」
「遅くなってごめんなさい。でも、ギリギリ間に合った見たいね」
「…………」
声が出なかった。
キバガミに突き刺さったのは奇妙な形の槍。
それは、キバガミの肉を切り裂き、確かに命を奪っていた。
ただ、その威力の怪物性が、アレフに痛覚をも忘れさせた。
「大丈夫…?深い怪我は無い!?」
なんでもない事をしたように平静なヒノエは、アレフの介抱をしながら、しきりにそう声をかけていた。
「あ、ヒノエさん。まだ魔物はいるんです!早く殺さないと!」
アレフがそう言えた時、アレフの応急手当は終わっていた。
それくらいの時間が過ぎていた。
「それなら心配しなくていいわ。私の仲間が追い払ったから」
「そう、ですか」
仲間を見つけたという充足感に、少しの敗北感。
村民の命を心配する言葉を吐く口とは裏腹に、
アレフの心中は歓喜に打ち震えていた。
「ありがとうございますヒノエさん。お墓まで作って貰っちゃって」
「気にしないで頂戴。簡単なものだし、報酬も頂いたもの」
翌日、村の共同墓地に1つの墓が建った。
それはなんてことの無い、オリーブの木で作られた簡素でありふれたものであったが、今回の騒動で命を落とした50人。アルテナ村の人口、その4分の1にも上る人々が眠る慰霊碑だった。
「……酷い事を言うようだけど。村という共同体にとって。いちばん大切な頭と、労働力を一度に無くしてしまった事を、どう思っているのかしら。」
「大変な事になりました」
アレフのその言葉に、実感というものは何も籠っていなかった。
まるで、空気よりも軽い風船の様に、現実というものを噛み締めていなかった。
「貴方……」
ヒノエには、それが不気味に思えた。
「ヒノエさん。俺、酷いやつなんです」
「え?」
一転、強い感情の籠ったその言葉に、ヒノエは困惑した。
「俺、さっきは負けたけど。それでも強かったんです。魔力を漲らせるだけで、ただそれだけで、人間よりも、むしろ魔物に近いものになれたから。
だから、貴女を見た時、嬉しかったんです。仲間を見つけたみたいで」
「……」
それはヒノエからすれば、贅沢な悩みであった。だが、疎外感という意味で近しいものを感じたヒノエは、悪いと思いつつも、黙って話を聞く事に決めた。
「俺は村長の息子です。村長を継ぐことも求められてました。
はっきり言って気に入らなかった。それでも、少なくとも幼馴染や隣人が死ぬ事は嫌だったから、村に居続けてました。
でも……」
「でも?」
ヒノエがそう聞き返した時。アレフは嬉しそうに笑った。少し引き攣っていた。
「そんな事、どうでも良くなった。全部放り出してでも、神樹の実を、この村で唯一価値のある物を捧げてでも、貴女に着いていきたくなった。俺は、酷い奴です」
「そう……ままならないわね」
アレフの言葉に、一切の嘘は無かった。
彼の今までの価値観を破壊してしまう程の魅力が、『剛投』にはあったのだ。彼の想像の中のヒノエとは違い、むしろ一般人ですら相対的に怪物的な強さに感じるヒノエの事では無い。
ヒノエは誠実だった。未だ地球での人間性を引きずっている事は自覚していた。それが虚構への嫌悪をもたらしていた。
だから、夢を叩き潰す事になったとしても、それを告げなければ気が済まなかった。
「………本当に強いのは私じゃない。
私はむしろ、魔力を一切使えないくらい弱い。
この槍の、魔道具の力を使っていると言えば、貴方は信じてくれるかしら」
恐る恐る、アレフの顔を見た。
きっと絶望的な顔をしているのだろう。そんな予想を立てながら。
「……その、随分と嬉しそうね。何故?私は貴方を騙していたと罵られるのも覚悟していたのだけれど」
そこにあったのは、寧ろ納得した様子で、思いがけない幸運を喜ぶ少年の様な、晴れやかな笑顔だった。
あまりに不可解だったが為に、ヒノエは生前の1部、タチの悪い人種がそうであったように、それを噴火の前兆かと身構えた。
杞憂だった。
「ヒノエさんには悪いですけど。あんなに足が遅かった理由が分かりました。それに、その辺のおばさんよりも弱い貴女が、俺よりも強い力を発揮出来るのなら。きっと皆が化け物に近い、俺の仲間になれるじゃないですか。それが嬉しいんです」
良い意味で、それは裏切られた。
そうなれば、俺が村長になんてならなくて済むって思ってるのが大きいんですけどね。
そんな事を言いながら。アレフは私に見せ付けるように、歯を見せて笑った。
「それ、良いわね。
無理に普通になろうとしなくて良かったんだ。
そんな簡単なこと、なんで気付かなかったんだろう。
常識を疑ってるつもりでも、変な所で普通を考えてたんだなぁ……」
「ヒノエさん?」
ついと独り言を言ってしまった為、アレフが不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「………ねぇアレフ。君、私に着いていきたいって言ったよね。それ、今も変わらない?
一応、今の君より強い仲間も居る。損はさせないよ?」
「変わってませんよ。例え野垂れ死にする事になったとしても。貴女について行きます」
「そっか。じゃあ、一緒に行こっか」
久しぶりに、屈託のない笑みを浮かべられている。
ヒノエは、そう感じた。