初恋の残滓は儚く消え去る
人によっては好き嫌いが分かれる結末かもしれません。
婚約者に浮気された。
しかもお前が悪いと主張して公衆の面前で婚約破棄を言い渡された。
動揺を隠しきれず棒立ち状態だった私だったが、昔親交があった男性から、「初恋でした。私と婚約してください」と申し込まれた。
動揺が続いていた私は、周囲の興奮を肌に感じつつ、何も考えずにそれを受け入れた。
まるで物語のような逆転劇。
でも、時間が経つ程に後悔が増していく。
私はあの時、どうして冷静な判断ができなかったのだろう。
「お嬢様、ハワード様から花が届いていますよ」
「ありがとう」
受け取った花はピンクのガーベラ。瑞々しく大輪のそれは可愛らしくも美しい。
『愛しい君の一番好きな花を贈るよ』
添えられた手紙の一文にふっ、と笑みが浮かぶ。
ハワード·コーレル
私の新しい婚約者だ。
とはいっても、元々の婚約を破棄する手続きもまだ済んでいないため、あくまで予定である。ちなみに破棄予定の婚約はもちろん相手有責の上慰謝料をもらうつもりだ。まだ相手がごねているため手続きは難航中だった。でもどちらが悪いかははっきりしているので概ねこちらの思い通りになるだろう。馬鹿な男だ。
コーレル侯爵家と私の家の領地は隣同士である。しかし、中堅で歴史も浅い伯爵位のうちにとって名門のコーレル侯爵家は隣でありながら雲の上の存在。向こうから声がかからない限り交流など皆無だった。
隣といっても領地の規模が全く違う。
私が幼い頃親交があったのはたまたま当時コーレル侯爵がうちの領地との境目あたりで新規事業を計画していたからで、事業が軌道に乗ると自然と関わりもなくなっていた。
まさか、あの短い数年間がハワード様にとって掛け替えのない時間になっていたなんて、思いもしなかった。
当時、二つ年上のハワード様のことは兄のように慕っていたけれどそれも昔のこと。私個人としては幼少期の淡い思い出として昇華していた。だから、彼からの婚約の申し出は息ができないほど驚いたのだ。
両親は戸惑いつつもこの婚約を受け入れた。そもそも格上の侯爵家からの申し出を断れるはずがない。
ただ、心配はしていた。私が本当にハワード様の妻になれるのか、と。
私も同意見だ。
まだ気が楽なのはハワード様が次男ということ。もしも嫡男であれば絶対に無理だった。ちなみにハワード様はお兄様の補佐をしている。彼らの治める領地は広大で、補佐といえど多忙であろう。
そして、彼らの妻はそんな夫を献身的に支える義務がある。
どう考えても、私には荷が重い。
「早く、ハワード様に話さないと」
ガーベラを花瓶に生けながら、私はため息交じりに呟いた。
「ああ、フィー、私の愛しのフィオナ、会えてよかったよ」
会いたいとハワード様に手紙を出せば、彼はすぐに時間を作ってくれた。
緩くウェーブのかかった金髪に碧眼。
少し垂れ目の甘いマスクはまるでおとぎ話の王子様のようで、その瞳は目の前の女性が愛しくてたまらないと言わんばかりに蕩けている。
優しい人だった。
頼れる兄のような人だった。
でも、その瞳に映るのは“私”ではない。
「君は寂しがり屋だから待たせてしまっただろう?」
出会った時の幼子ならともかく、今は数日会えないくらいで拗ねるような年齢じゃない。特にあの頃は弟が生まれたばかりで、父は侯爵家との事業、母は子育てで忙しく、私は放置され気味だった。だから余計ハワード様に懐いていたのだけれど。
今は逆に慣れてしまって一人時間を楽しむ術を身に付けている。
「フィーの好きなアーモンドの菓子を持ってきたんだ。一緒に食べよう?」
昔は好きだったけれど、ある時からナッツ類を食べると具合が悪くなって、今は食べていない。
私が好きなのはドライフルーツのお菓子だ。
「ああ、私が贈ったガーベラ、飾ってくれているんだね。また用意するよ」
確かにピンクのガーベラも好きだが、今一番好きなのは青いネモフィラだ。
全部、全部そう。
ハワード様の瞳は、私を見ているようで見ていない。彼の目には幼い頃の天真爛漫で甘えん坊な可愛いフィオナしか映っていない。
そもそも人の好みは変わるものだ。
特に私は移り気な子どもだった。あの頃はたまたまピンクのガーベラが好きだったけれど、翌年には赤い薔薇が好きになって、よく花びらを浴槽に浮かべてうっとりしていた記憶がある。
今もネモフィラがいいと思っているけれど、来月には一番は違う花になっているかもしれない。
ハワード様だって、昔は騎士になるのが夢だといっていたと思ったが、今はお兄様の補佐をしている。
人は、変わるのだ。
まあ、そのことはこの際どうでもいい。
愛のない結婚なんてざらな貴族社会。過去の私とはいえこんなにも愛されているなんて幸せなことだ。
でも、ハワード様には、今の私も受け入れてもらわなければならない。
私の夢のために。
「ハワード様、婚約を少し待っていただきたいのです」
「それはもちろんだよ。確定的な未来とはいえ、忌々しいことに前の婚約はまだ破棄されていない。婚約破棄後にすぐに新たな婚約を結ぶのもよくないだろう。十年以上君と結ばれる日を待ち望んでいたんだ。あと一年二年くらいおとなしく待つさ」
「いえ、もっと、最低三年は延ばしていただきたいのです」
「は?」
「私は、次期王太子妃となるクリスティーヌ様の侍女になりたいのです」
クリスティーヌ様は私の憧れの女性だ。幸運にも学園で同じクラスになり、ありがたくもお声をかけていただいて友好な関係を築けている。
彼女の隣にふさわしい淑女となるよう努力した。もっともっと彼女のそばにいたい。クリスティーヌ様のお役に立ちたい。
私は、学園卒業後侍女になることを決意した。
家族は私の夢を応援してくれた。
クリスティーヌ様の侍女に内定した時は共に喜んでくれて、大変な誉れだと褒めてくれた。
こんな私が、ハワード様の望む花嫁になれるとは思えない。
そもそも、私はあの婚約破棄に納得していた。
もちろん浮気は許せないし、何故よりによって自らが主催したわけでもないただの一招待客の立場であの騒動を起こしたのか理解に苦しむ。
でも、結婚してすぐに家庭に入ってもらいたい彼と、侍女になりたい私とではもはや修繕できない溝ができていた。
他の家庭的な女性に目移りするのもしかたがないことだ。
長年婚約者だった彼とはそれほど関係も悪くなく、愛はないが情はあった。それでも、情と夢を天秤にかければ私は迷うことなく夢を選ぶ。
何せ、あの瞬間、私が真っ先に思ったのは、こんな騒動を起こして内定が取り消されたらどうしようだったのだから。
私は彼に対して、どうしようもなく薄情な女だったのだ。
だから、あんなことをしなくとも、近々白紙又は破棄を申し出るつもりだった。慰謝料のために借金をする覚悟もあった。
馬鹿な男だ。
黙っていれば金が入ったのかもしれないのに、逆に払う羽目になるなんて。
こちらも、あのパーティーの主催者や参加者へ詫びの品と手紙を手配するのが大変だった。ちなみにその経費分慰謝料に上乗せしている。
不幸中の幸いはあの場にいた人たちは物語のような逆転劇に面白いものを見せてもらったと表面上は良い反応を見せてくれているところか。
「ハワード様のお気持ちは嬉しいです。けれど、私には夢があります。私の夢を受け入れられないなら、あの時の言葉はなかったことにしてください」
幼少期とは違う、可憐さなど欠片もない冷酷な顔をしているだろう。
でも、これが今の私だ。
今と昔の私の共通点は、好きなものがはっきりしていること。
私が今好きなのは、クリスティーヌ様。
私は今、あの方に全てを捧げたい。
ハワード様は、ただひたすらに困惑した顔をしていた。
「おかーさま、赤ちゃん、もう生まれる?」
「まだもう少し後ね。楽しみ?」
「うん!」
膨らみが目立つお腹に頬擦りをする娘の頭をそっと撫でて、私は柔らかく微笑む。
ああ、なんて愛おしいのだろう。
「ただいま」
「おとーさま!」
「お帰りなさいませ。今日は早いんですね」
「いや、少し立ち寄っただけなんだ。ほら、お菓子を買ってきたからお食べ」
「わあ!おいしそう!」
「まあ、あんまり甘やかしては困ります」
「フィーにもストールを買ってあるよ」
そういうことではないのに。
どうにも娘に甘い夫に困りつつ、でも口元の笑みが消えることはなかった。
そう、結局私はハワード様と結婚した。
あんな逆転劇を周囲に見せておいて、実は勘違いでしたで済むわけがなかった。
ハワード様のご両親は、侯爵家の嫁が侍女になるなんてと反対していたが、そんな嫁を連れてきたのはあなたたちの息子で、別に私は生涯独身でもかまわないと宣言すると、世間体を考えてしぶしぶ結婚を認めてくれた。
それを見ていたハワード様が「私を頼ってくれたあの可愛いフィーはもういないんだ」と呟くのを聞いたときは、何を今さらと思わず鼻で笑ってしまった。
そんなこんなで、私は学園卒業後クリスティーヌ様の侍女になり、仕事に慣れてきた二年後にハワード様と婚約し、翌年結婚した。
結婚しても侍女は続けた。その頃には王太子妃の侍女のコネクションは馬鹿にならないと悟った義両親も反対せず、ハワード様も少し何か言いたげにしていたけれど受け入れてくれた。
初恋の女の子が思ったような成長をしていない、いやむしろたくましすぎる成長を遂げたと気付いたハワード様は再会時に比べずいぶんよそよそしくなった。
喜び勇んで贈っていたプレゼントの数々が今の好みではないと知ってからは、逐一私に確認をとるようになった。
その、おずおずと言う装飾が似合うような気弱な態度にキュンと心臓がなってしまった辺り、私はなかなか趣味が悪いのかもしれない。
結婚して半年ほどで子供ができた。
それが今私にベッタリの娘である。
クリスティーヌ様の二人目のご懐妊と重なったこともあり、乳母になることも考えたが、妊娠をきっかけに侍女を辞めた。
侍女でなくとも、お側にいなくとも、クリスティーヌ様のお役に立てることはある。
王家から賜った領地を正しく盛り立てることも、巡り巡ってクリスティーヌ様のためになる。
そして何より、自分の体の中で少しずつ成長している我が子としっかり向き合いたい。
そう、自然と思えた。
「初めての出産の時、不安で仕方がなかったけれど、フィオナが側にいてくれて、とても心強かったの」
まだまだやり足りないこともあるけれど、クリスティーヌ様にそういってもらえて、私はその言葉で満足した。憧れの方からの感謝の言葉は一生の宝物だ。
だから、この二人目もクリスティーヌ様の三人目のお子と時期が重なるけれど、私は今回も乳母の打診をお断りするだろう。
人は、変わる。
「フィー、体を冷やさないよう気を付けるんだよ」
肩にかかるクリーム色のスカーフ。
花瓶にはヒマワリが生けてある。
「おかーさま、キレイね」と満面の笑みでヒマワリを抱えた娘を見てから、娘共々、一番好きな花はヒマワリになった。
背後の夫を見上げる。
こちらを見つめる瞳は以前のように蕩けてはいないけれど、穏やかで優しかった。
初恋の残滓は儚く消え去った。
けれど、新たな芽吹きは少しずつ、けれど確かに育っている。
王太子の護衛騎士と結ばれるエンドも考えましたが、これが現実的なのかなと思います。
ハワード様は時折当時のお花畑な自分を思い出して羞恥で悶えていることでしょう。