後編
一週間後。
諸々の準備を終えた僕は、今回の作戦には必要な小道具を運びながらカナの病室に向かっていた。
小道具自体は大して労力のかからないものなので直ぐに済んだが、作戦を実行するための準備というか、必要となるスキルを磨くのが一番大変だった。というより、まだ未完成というか不恰好というか、とてもじゃないが人様に見せられるようなものですらない状態だ。これまでの人生で最も縁遠い能力だったからというのもあるが、まさか自分がこんなにも才能無しだったとは思わなかった。これならまだ医学の勉強をしていた方がまだマシだ。
とは言いつつ、時間を見つけては必死に練習した甲斐あってか、人様に見せられるものではないにせよ、それなりに形にはなったとは思う。さすがにこれ以上のレベルを求めるなら更なる時間と根気と才能が必要になるどころか、それこそその道のプロの手解きを受ける必要性も出てきたのだが、色々と不足した部分や不安が残りつつも現状の能力で挑む事にしてみた。先延ばしにするあまり、カナの心の傷が手遅れな状態になってしまっては元も子もないと思ったからだ。
そもそも、カナには時間がない。
僕にとっては何気ない日々も、カナにとっては間近に見える寿命が刻一刻と迫っているようなものだ。その不安や恐怖は僕なんかでは推し量れない。
僕にできるのは、その不安や恐怖を少しだけでも取り去る事だけだ。
「まだ上手くいくかどうかはわからないが……」
などと独り言を零しつつも、僕は病棟内の通路を歩く。先ほどからすれ違う患者や見舞いの人に怪訝な視線を向けられながら。
無理もない。僕も向こうの立場ならきっと同じような顔をしていたはずだ。正直言うと少し恥ずかしい。
しかしまあ、この作戦を行うための許可を得るために、生川先生や看護師に話を通しに行った時に比べたらまだマシな方であるが。皆一様にしてニヤニヤと好事家のような笑みを浮かべた時は何とも言えない気分を味わったものである。とはいえ快く承諾してくれたので、結果的には良かったとも言えるが。
それだけみんなもカナの様子が気にかかっていたという事なのだろう。
と、まあ、諸々の準備なり許可なりは今日までに済ませたが、いかんせん不慣れな真似をしようとしているわけで、正直緊張が半端なかった。もしかしたら医大を受験した時よりも緊張しているかもしれない。
そうこうしている内に、カナの病室のそばまで来てしまった。
ちなみに、カナはこれから行われた事を何も知らないままでいる。僕が生川先生や看護師達に口止めしたせいあるが、できるだけカナにはサプライズという形で披露したかったのだ。
上手くいく保証なんてどこにもないが。
それどころか悪手に繋がる危険性もあるが。
とはいえ、どのみちこのままにもしておけない。患者の精神状態は体にも悪影響を及ぼすケースだってあるのだから。
それにもう決めたはずだ。僕の心象がどれだけ悪くなったとしても、カナの心だけは救ってみせると。
決意を新たに、カナの病室の前で深呼吸を繰り返す。それから意を決して、ドアをノックした後に中へと入った。
カナからは特に何の応答もない。もしかしたら寝ているのだろうかと思ったが、ベッドのある方からもぞもぞと何かが動く気配があった。どうやら起きてはいるようだ。
今の僕を見たら、きっと目を丸くして驚くだろうなと内心苦笑しつつ、ベッドへと歩む。
カナはドアに背を向ける形で、窓から覗ける青空をぼんやりと見つめていた。僕の存在にも気付かず、生気のない瞳で。
さながら人形のような無表情で窓を眺めたままでいるカナに、僕はいったん小道具を横手にあるテーブルの上に置いたあと、そっと近寄って、
「まるで抜け殻というか、地面に落ちた蝉みたいな感じだな」
「え──っ」
と、今のでようやく僕に気付いたのか、カナは驚いたような声を漏らしつつ、必死にこちらへ目線を送った。
「ひょっとして奏先生? ウソ。だってあんな事を言ったあとなのに奏先生が来るわけない。来るはずないよ!」
「現実を受け止めろ。僕はここにいるぞ」
「ウソウソ! 奏先生なはずない! もう友達でも何でもないんだからっ!」
「そういえばそんな事も言われたな。けど僕は承諾した覚えはないし、会いに来るなとも言われた覚えはないぞ」
「屁理屈だよそんなの! 言いから出てって!」
「暴れるな。シーツが乱れるだろ」
と、地面に落ちた蝉が突然動き出すようにジタバタし始めたカナをしばらく宥めつつ、落ち着きを取り戻した頃を見計らって、僕の方へと体の向きをそっと小脇に両手を差し込みながら慎重に変えさせた。
「……本当に奏先生だ」
「ああ、正真正銘僕だ。それとも偽物の方がよかったのか?」
「それはそれで見てみたいかも」
「おい」
それじゃあ本物の僕が立つ瀬がないだろ。
「で、奏先生は──」
言いながら、カナは胡乱な目でテーブルの上に置かれている小道具を見た。
「あれ、なに……?」
「見ての通り、グラスと箸だ」
「それはわかるけど、何でそのグラスがおぼんの上にいっぱいあるの? 今からタワーでも作るの?」
「そんな危ない真似するか」
などとツッコミを入れつつ、僕はおぼんの上にあったグラスをひとつずつテーブルに並べる。それからグラスと共に持ってきていた水差しを手にして、一度洗面台へと向かう。
「え。一体何が始まるの……?」
「まあ黙って見ていろ」
水差しに水を入れたあと、再びテーブルの方へと戻ってグラスひとつひとつに水を注ぎ込む。ひとつひとつ量だけ調整しながら。
と、ここまで見てカナもようやく察しが付いたのだろう──少し驚いたように眉を上げて、
「……ひょっとして先生、それで演奏するつもりでいるの?」
「正解」
そう首肯して、僕は一本ずつ箸を両手に取った。
緊張しているせいか、箸を握る手に汗が滲む。力が入り過ぎているせいか、手が少し震えていた。
正直、未だに自信はない。補佐役として手術に加わった時と同じくらい動悸が止まらないが──手術と比べるのもどうかという話でもあるが──これは手術と違って僕にしかできない事だ。僕がやらないといけない事だ。
何より、僕がカナのためにやりたい事なのだ。
──だったら、あとは全力でこの曲をカナに送るだけだ。
気付けば、手の震えが止まっていた。それを確認したあと、僕は静かに深呼吸を繰り返して、出だしのイントロを奏で始めた。
コーン コンコンキーン カンカンコーンキーン
水の量が違うグラスからそれぞれ鳴り響く硬質的な音色……それは静かな病室内で反響し合い、僕達を音楽の旅路へと誘う。
「………………この曲は……」
さすがはドラマーというべきか、イントロだけで何の曲かがわかったようだ。
しかしその反応に構わず、僕はグラスを鳴らし続ける。
リンキーン リンリンリンキン カンカンコンリーン
僕はこの曲の事をよくは知らない。ただ世界的に有名で僕も少しなら聞いた事があるという認識だけだ。
コーン コンコンキーン カンカンコーンキーン
リンキーン リンリンリンキン カンカンコンティーン
それまでは同じ曲調が何度も続くな、くらいの感想しかなかった。しかし、この日のために何度も聴くたび、それにはちゃんと意味が込められていたのだと理解した。
これは身近な日常を謡ったものだ。世界中にある、ありふれたどうにもならない日々を、誰かに答えを求めず自分の中で見つけようと謡ったものだ。
もちろんこれは僕が個人的に感じたものであって、正しい解釈だとは思っていない。世の中にはこれが反戦の歌だと言う人もいる。それもひとつの解釈だ。ボブ・ディランがこの曲のインタビューで語っていたように、答えは本にもテレビ、映画を見ても分からないのだから。
キーン リンリンティン キンキンリンキィン
リンリンティン キンキンリンキィン
曲は最初のサビに入ろうとしていた。答えは風の中に吹かれていると。どこか切なく、儚げに。
リンキーン リンリンリンキン カンカンコンリーン
そして音色はまた同じ曲調のイントロに戻る。しかしその意味を次々に変えて。風の中に答えを見つめながら。
カナからは特に反応は見られない。というより、反応を見ている余裕がなかった。一瞬気を抜いただけで音を外しそうで、視線を目の前のグラスから逸らせないでいた。
「音を外す」とか、まるでいっぱしのミュージシャンみたいだなと自分の滑稽な感覚に苦笑しつつ、僕は依然としてグラスを奏でる。
それから一心不乱にグラスを叩き続け、ついに最後のサビを迎えようとしていた。
海を渡り、砲弾の雨をくぐり抜け、何度も顔を背けながら、それでも空を見上げて。
やがて「リーン」と最後の音を鳴らしたあと、僕は手に持っていた箸をテーブルに置いた。
ふぅー、と深く一息。それから無事に演奏し終えたあともバクバクと高鳴る心臓を宥めるように胸を撫でたあと、僕はおずおずとカナの方に顔を向けた。
これまで一言も発さずに演奏を聞いていたカナの表情は、驚きというよりも呆然とした面持ちだった。どうしてと言わんばかりに。
ややあって、カナは「はあー」とゆっくり静かに息を吐いたあと、
「ボブの『風に吹かれて』……だね、今の」
「さすがはドラマーだな。素人の演奏でもすぐに気付いたか」
「うん。下手っぴだったけどね。私の方が断然上手く演奏できるよ」
「……悪かったな。下手な演奏を聞かせてしまって」
というかドラマーと比べないでくれ、とぶっきらぼうに応えると、カナは可笑しそうにクスクスと口許を綻ばせた。
「まあ下手っぴだったけど、それでもとても良かったよ。辿々しかったけれど、一生懸命で、ひとつひとつの音に気持ちがこもっていて。きっと今日までいっぱい練習したんだろうなあっていうのがすごく伝わってきて……」
でもさ、とカナは続ける。
「どうして『風に吹かれて』だったの? 前に私が好きな曲だって言ったから?」
「それもあるけど、それだけじゃないぞ」
言いながら、そばにある椅子を引き寄せて腰を落とす。
「お前、前に言っていたよな。『神様に見なかった事にしてもらいたい』って。『自分が過去に犯した罪でこんな病気になったのなら、神様を封じ込めてなかった事にしてもらいたい』って」
「うん……」
「けどな、僕はこう思うんだ」
前のめりになるような形でカナの方に身を寄せながら、僕は言の葉を紡ぐ。
「身に覚えのない罪で病にさせてくるような神様なのなら、逆にケンカを売ってやれってな」
「ケ、ケンカ……?」
「ああ。そんなふざけた神様、こっちが遠慮する理由なんて全然ないだろ。逆にお前の生き様を見せつけてやればいい。『どうだ、私は楽しく生きているぞ』って。それで最期まで人生を謳歌したあとに、神様の目の前でこう言ってやれ」
──ざまぁみろ、てな。
そこまで言ったところで、僕は口を噤んだ。
見ると、カナは先ほどよりも呆気に取られた面持ちで呆然としていた。よく魂消たとは言うが、まさに魂がどこかに吹き飛んだかのような表情だった。
それからしばらくして。
「…………ぷっ。ふふふあははははははっ!」
と、さながら堰を切ったようにカナがいきなり笑い出した。
心底可笑しそうに──堪えきれないとばかりに涙目で腹を右手で押さえながら。
そして少し経ったのち、カナは「はあ〜」と盛大に呼気を吐いた。
「急に何を言い出すのかと思ったら、神様相手に『ざまぁみろ』って……いくら何でもめちゃくちゃすぎない?」
「僕は素直な気持ちをありのまま言葉にしただけだ。それにボブもこう言っていただろう? 『泳ぎ出した方がいいよ。そうしないと石のように沈んでしまう』って。それならなにもせず現状を嘆くよりは、文句のひとつくらい口にしてもバチは当たらないだろ」
「……もしかしてわざわざ調べたの? ボブの事」
「君ともう一度ちゃんと話すには、まずボブ・ディランの事を詳しく知る必要があるかもしれないと思ったからな」
「私がボブ好きだって事、ちゃんと覚えてくれてたんだね……」
なにげにけっこう嬉しいかも、とはにかんだあと、カナは一息つくように瞼を閉じた。
「それにしても、石のように沈むかあ。うん。確かにその通りだね。私、自分で勝手に奏先生を拒絶して、石のように沈んでたのかも。底に沈んだまま、ただ綺麗に輝く海面を眺めているだけだった。体だけじゃなくて、きっと心まで骨になっちゃってたんだね。ほんと、何も見えてなかった……」
「そう自分を責める事はない。誰だって悩んだり苦しんだりする事くらいはある。それは難病患者だって何も変わらない。君はただ、少しだけ余裕がなかっただけだ。『生きる』という答えから目を逸らしてしまったくらいにな」
「『生きる』という答え……」
「まあ、口で言うだけなら簡単かもしれないが。ある意味この世で最も難しい、ありふれた答えと言えるかもな」
「『答えは風に吹かれている』……だね」
「ああ。和訳や解釈は人それぞれだが、僕はどんな難しい問題も答えはすぐ目の前に転がっているっていう風に感じ取った。実際ボブ・ディランがどういった気持ちでこの歌詞を書いたかは本人にしかわからない事だが、僕は世の中の理不尽な出来事を嘆きつつも、救いや希望は必ずあると歌っているように思えた。たとえそれが事件や戦争……難病でもな」
「だから『風に吹かれて』だったんだね……。今の私に一番必要な曲だったから……」
「まあな。それに、さっきも言っただろ?」
そこで僕は口角を上げた。
前まではよく鉄仮面と揶揄されていた僕が、ニヤリと笑みを浮かべながら。
「君を苦しめるろくでもない神様なんて、どこかに隠すよりもケンカを売ってしまえって」
僕の言葉に、カナが「ぷふっ」とまた噴き出した。
ぼろぼろと大粒の涙を流しながら。
「あーあ。先生がヘンテコな事ばかり言うから、可笑しくて涙が止まらなくなっちゃった。どうしてくれるの、ほんと」
「この際だから存分に泣いておけ。今まで色々溜まっていた分、だいぶスッキリすると思うぞ」
「やだ先生。年下の女の子に溜まっているとかスッキリとか、セクハラのつもり?」
「なんでそうなる。不満やストレス解消という意味で言っただけだ」
「でもさ、目が腫れちゃったらどうするのさ」
「こっちとしてはしてやったりという気分だ」
と、薄笑みを継続したまま返答した僕に、カナは泣き笑いのような表情を浮かべたまま、
「なにそれー。しかも笑い方までヘンテコだし。奏先生って前より変わっちゃったけれど、変なところは全然変わってないよね」
「ゲシュタルト崩壊が起きそうな言葉だな」
「ありがとね、奏先生」
と、いつものノリで突っ込んだ僕に、カナが口許を撓ませながら感謝を述べてきた。
「あんな酷い事を言った私に、こんなステキなサプライズをしてくれて。本当にすごく嬉しい」
「礼を言われるような事はなにもしていない。僕がしたかったのは、君ともう一度友達になる事だったんだから」
「あ、それもボブの名言のひとつだね。奏先生ったらすっかりボブのファンになっちゃって〜」
「いや、今のは僕の本心だが?」
「……先生ってさ、たまにすごく素直だったりそうじゃなかったりする時があってややこしいよね。反応に困るっていうか」
「そうか?」
「そうだよ。んもー、今ので涙も引っ込んじゃったよー」
言って目尻に溜まった涙を指で拭ったあと、カナはゆっくりとした動作で僕の白衣へと手を伸ばしてぎゅっと掴んだ。
今ではもう、ろくに力も入らないその弱々しい手で白衣の襟元部分を握りながら。
「私、最期までちゃんと生きてみるよ。それで最期まで笑って楽しく過ごしたあとに、あの世で神様にケンカ売ってくる」
「ざまぁみろって?」
「うん。ざまぁみろって」
僕の問いにカナはニカっと破顔一笑した。
とても見慣れた、しかしながら不思議と懐かしさが込み上げてくる向日葵のような笑顔で。
「そうか……だがこれだと、まるで僕にケンカを売っているようにしか見えないぞ?」
「予行練習だよ予行練習。だって神様にケンカを売るんだよ? だったら奏先生が思わず泣いちゃうくらい強くならないと」
「僕が年下の女の子にケンカを売られた程度で泣くタマに見えるか?」
「うーん。お化けだったらワンチャン?」
「そんなものでビビるわけないだろ。だいたいお化けが怖くて医者なんてやってられるか」
病院なんて墓と並ぶくらいのお化けのメッカだろうし。
「あと、そういう非科学的なものは信じない派だ」
「えー? 神様は信じてるのにー?」
「それとこれとは話が別だ」
「そんなのズルい〜。じゃあ私がお化けになって会いに行っても、無視されるかもしれないって事じゃん。どうしてくれるのさ」
「だったら、せいぜい僕より長生きする事だな」
「くそうっ。見てろよ〜。絶対絶っっっ対、奏先生よりも長生きしてやるんだから〜!」
と、ペシペシと蚊が触れるような力で僕の胸を叩いてくるカナ。口では怒りながらも、顔は思い切り楽しそうに笑いながら。
すべてはこの笑顔のためだった。
この笑顔のために、僕は寝る間も惜しんで頑張ってきたのだ。
そしてその頑張りがこうして報われた事で僕は改めて理解する。
僕にとって、カナは友人以上にとても大切な存在なのだと。
そしてそれは、この先も変わる事はないだろう。
カナの笑顔のために、僕はこれからも全力を尽くし続ける。
カナが難病を克服する、その日まで。
…………………………。
………………。
……。
この一年後、カナは息を引き取った。
享年十七歳だった。
□ ■
今日は雲ひとつない晴天だった。
時間はすでに宵のうちに迫っていたのだが、今日は日の入りが遅いのか、未だ夕陽が山脈の隙間から垣間見える。そのせいなのか、街中を歩く人並みもどこか元気を余り残したように揚々として見えた。明日は土曜日なので、これから遊びに出掛ける人も多いのかもしれない。
そんな茜色に染まった空の下で、公園のベンチで一人座りながらぼんやりとしていた。
夕刻という事もあってか、公園内に利用者は僕以外ほとんど見かけない。いるとすれば、ジョギング中の男女や犬の散歩で公園を横切っていく飼い主がたまに目の前を横切っていく程度だった。
そんな中でも桜の花びらだけは絶えず頭上を舞っており、公園内は桜の絨毯を敷き詰めたかのようになっていた。
そうなれば言わずめがな、こっちの方にだって桜の花びらが降りかかってくるわけで、さっきから僕の喪服がパーティー仕様かのごとく桜色で溢れていた。これほどアンマッチな姿もなかなかないだろう。
「カナが見たら指を差して笑いそうだな……」
肩に付いた花びらをひとつ指でつまみながら、僕は苦笑混じりに呟く。そもそも四月も折り返しだというこの時期に、喪服で桜の木が並んだ公園内に訪れるなという話でもあるが。
「……………………」
指で摘んでいた桜の花びらをそのままパッと放す。すると花びらはくるくる旋回しながら地面へと降り、すでに落下していた他の花びらと共に風邪に誘われてどこぞへと散ってしまった。あれだけの数だ、もはや元の花びらがどれだったかも見分けが付かなくなってしまった。
そんな風と共に消え去った大量の桜の花びらを見るともなしに眺めながら、ぼんやりと思う。そういえば今日の葬式場もたくさん人がいたな、と。
カナ──雪村叶の通夜は、彼女が生前通っていた中学校の近くにある葬式場にてしめやかに行われた。
人の価値はその人が亡くなった時にどれだけの涙が流れたかでわかると何かの本で読んだような気がするが、その言葉が真ならば、きっとカナの価値はご家族や友人はもちろん、周囲の人達にとって欠けがけのないものだったに違いない。そう確信を抱けるほど、葬式場には多くの啜り泣く声で溢れていた。
その中にはカナの担当だった看護師、主治医である生川先生、他に彼女と親しかった同じ病院関係者も見受けられた。
医者や看護師は人の死に慣れているのだから、葬式でも患者が死んだくらいで泣いたりはしないはずと思い込んでいる人もたまにいたりするが、そんな事は決してない。医者や看護師だって感情のある人なのだ。たとえ家族や友人ではなかったとしても、それまで笑顔で接していた患者が亡くなれば当たり前のようにショックを受けるし、涙が出る事くらいだってある。人の死には慣れる事はあっても、悲しみに慣れるわけではないのだから。
だというのに、カナが亡くなった日から一度も、僕は泣けないままでいた。
決して悲しくないわけではない。今でもカナが息を引き取る瞬間が頭から離れないままでいる。朝から夜までずっと。それこそ眠れないほどに。
それなのに泣けないのは何故だろうか。あの時何も出来なかったという無力感からだろうか。もしくはカナの最期を看取った今でも、彼女が本当に死んだという実感が未だに湧いていないせいなのだろうか。
「最期……最期、か」
一人呟きつつ、まだ意識を失う前のカナの姿を思い出す。
去年に比べてさらにFOPの症状が悪化してしまったカナは、脊柱や肋骨における異所性骨化により、脊柱・胸郭変形の進行による呼吸不全により、自発呼吸すらままならない状態まで陥っていた。
無論、人工呼吸器を用いて臓器に酸素を送っていたのだが、もはやそれだけではどうにもならないくらいに、カナの体は病に蝕まれていた。意識が混濁とするのも珍しくない日が続くほどまでに。
そして最期の日、カナの急変を聞かされた僕は、急いで病室へと駆け付け、生川先生や看護師達と一緒に懸命な治療を続けた。
FOPは手術での蘇生処置ができない。手術跡からフレアアップが始まり、そこから骨化の要因を作ってしまう危険性があるからだ。
つまり緊急時にも薬の投与か心肺蘇生くらいしか手はなく、カナが危篤状態に陥った時もほとんど生川先生が処置するだけで、まだ整形外科に勤めてから一年しか経っていない新人同然の僕ができる事なんて何もなかった。できた事といえば、せいぜい意識を失っていたカナに必死になって声を掛けていた事くらいだ。
そんな折だった。意識を失っていたカナが少しだけ目を覚ました瞬間があったのは。
その時のカナは、それまで声を掛け続けていた僕に柔らかく微笑んだあと、何事か伝えたそうに口を一瞬モゴモゴ動かしていた。だが顎の関節まで骨化が進んでしまっていた上、声帯も弱っていたカナに言葉を発するだけの力などあるわけがなく、空虚に何かを呟くだけだった。
それはカナも自覚があったようで、すぐに口を閉じて表情だけで何かを伝えようとしていた。
しかしそれも数分にも満たないやり取りで、結局真意を聞けないままカナは再び意識を失い、懸命の処置も虚しく旅立ってしまった。
今でも瞳に焼き付いたように脳裏から離れないでいる、あの時のカナの表情。一体カナは、今際の際に何を伝えようとしていたのだろうか──。
「……あの、櫻井奏さんですか?」
と、一人物憂げに耽っていた時だった。いつの間にか正面に立っていた人物にふと声をかけられたのは。
はいそうですが、思考を止めて伏せていた顔を上げてみる。するとそこに四十代くらいの喪服を着た女性が立っていた。
「貴女は……カナの……」
「はい。カナ……叶の母です」
僕の言葉に、喪服の女性もといカナの母親が小さく頭を下げた。
そうだ。ぼんやりとした頭で参列していたので印象は薄かったが、間違いなく喪主席の隣りに座っていた方だ。
こうして改めてちゃんと見ると、確かにカナの面影がある。もしもカナが無事に成人して中年を迎えていれば、こうなっていただろうというくらいには。
「よかった、まだ近くにいてくれて……。式が終わってからすぐ声を掛けるつもりだったのだけど、うっかり見失っちゃって……」
「という事は、前から僕の事をご存知で?」
「はい。一度だけ、娘がスマホで撮った写真を見せてもらった事があったので」
そういえば以前に「待ち受けにしたいから、奏先生の写真撮らせて」と強引に撮影された事があったような気がする。もはやいつの事だったかも覚えていないくらいに記憶が朧げではあるが。
「娘から話を伺っています。カナの面倒をよく見てくれていたようで、本当にありがとうございました」
再度頭を下げてくるカナの母親に、僕は慌ててベンチから腰を上げて、
「いえ。僕はただ医者として……友達として普通に接していただけですから」
「そうでしたか……。でもカナは、いつも楽しそうに貴方の事を話していましたよ」
「カナが、ですか?」
「ええ。そりゃもう会うたびに『奏先生がー。奏先生がー』って」
よっぽど貴方の事を気に入っていたのね。
そう微笑みながら語るカナの母親の目元は、今日まで泣き腫らしたのであろう跡が色濃く残っていた。
もしかしたら人前というのもあって気丈に振る舞っているだけで、今も涙を堪えながらカナの思い出を語っているのかもしれない。そしてそれは、きっとこれからもしばらくは変わる事はないのだろう。いつかカナの死が彼女の中で思い出に変わるまでは。
「私もね、一度は貴方に会ってみたいと思っていたのよ。あの子があんまり奏先生の事を嬉しそうに話すものだから。でもそのたびにカナから『奏先生は私のだから会っちゃダメ』って止められちゃって」
「カナが、そんな事を……」
「ふふ、ほんとワガママな子だったでしょう?」
「そう、ですね……」
視線をカナの母親からその後方にあるブランコへと移す。
今日は少しだけ風が強いせいか、まるで小さな子供が乗っているかのように少しだけブランコが揺れていた。あるいは、僕や周りの人には見えない誰かがブランコを漕いでいるかもしれないというのは、さすがに僕の考え過ぎだろうか。
「カナには……娘さんにはいつも振り回されてばかりでした。よくドッキリを仕掛けられたり、しょっちゅう揶揄われたり、たびたび無茶苦茶な事を言ってきたり」
「あの子、気に入っている人がいるとちょっかいを掛けずにはいられないところがあったから……迷惑じゃありませんでした?」
「いえ。最初は戸惑う事もありましたが、嫌だと思った事は一度もありません。というより、いつも楽しそうに笑っていたカナを見ていたら、怒る気も失せるというか……」
「つい許しそうになっちゃう?」
「はい。そうですね」
「ふふふ。私や夫と同じですね」
あの子、昔から要領と愛嬌だけは良かったのよ、と微笑を零すカナの母親。
「ほんと気分屋で見栄っ張りで、そのくせ寂しがり屋でちょっとでも素っ気なく接するとすぐにへそを曲げるような気難しい面もあったけれど、それでも不思議と無邪気に笑っている顔しか思い出せなくて……あの子の笑顔を見ているだけでなんだかこっちまで自然と笑顔になってしまうような、そんな天真爛漫な子でした」
「わかります。僕もカナのあの明るさに救われた面も多々あったので……」
周りに流されるがまま無気力に生きていた僕が、初めて自分の意志で整形外科医になりたいと──カナの病気を治せる医者になりたいと本気で思うようになったくらいに。
「でもこうして思い返してみると、難病になる前よりも、貴方と出会うようになってからの方がよく笑うようになった気がするわ」
「……僕と、ですか?」
「ええ。と言っても難病になったあとは見てられないくらい陰鬱としていたし、難病にかかっていなかったらまた話は違っていたのかもしれないけれど、少なくとも貴方がきっかけでカナが難病と向き合うようになったのは間違いないと思います。だって貴方と出会う前と出会ったあとじゃ、瞳の輝きが全然違うもの。何があったかは知らないけれど、きっと貴方という存在が心の支えになっていたのでしょうね。私や夫、同級生の友達でさえ変える事ができなかったあの子の心の闇を払えるほどに」
「そんな……僕なんて何も……。結局カナの病を治すどころか、症状の進行を抑える事すらできなかったのに……」
「そう卑下なさらないで。確かに難病になった事自体は不幸な事だったかもしれないけれど──他のFOP患者と比べて短い命だったかもしれないけれど、カナの人生は決して不幸ではなかったと思います。だってバンドを組んでプロのドラマーになるという夢が潰えて、ずっと抜け殻のように沈んでいたあの子が、奏先生と知り合ってからはずっと一緒にいたいくらい楽しいって嬉しそうに何度も何度も私に話していたくらいなんですから」
「カナが……ですか?」
「はい。とても幸せそうでしたよ」
全然知らなかった。カナがそんな事を語っていたなんて。
「特に去年の春になってからは笑顔を絶やさないようになったような気がします。それも無理して愛想を振り撒いているような感じじゃなくて、心から笑っているような。カナったら奏先生の事は秘密にしたがるところがあったから、あの頃に何があったかは知らないけど、きっとすごく良い事があったのでしょうね」
去年の春というと、僕がカナの前で『風に吹かれて』を演奏した時か。
「その証拠に」と去年のカナとのやり取りを追想していた僕に、カナの母親がおもむろに懐から便箋のような物を取り出した。
「ほら。あの子、去年の今頃にこんな手紙を貴方宛てに書いていたんですよ」
「僕に、ですか?」
「ええ」
どうぞと差し出された便箋を受け取り、まじまじと見つめる。
それはカナが着ていたパジャマと似たような花柄の便箋で、表に「奏先生へ」と宛名が書かれてあった。
「中身は見ていません。あの子に奏先生以外には絶対見せるなと言われていたので」
「……去年の今頃というと、起き上がる力もだいぶ弱まっていたと思うんですが、本当にカナが一人でこれを?」
「少し手助けはしましたが、字はカナ本人が書きました。私が代筆すると言っても『絶対私が書く!』と言って全然聞かなかったものですから。きっと本格的に体が動かなくなる前に、貴方に対して何でもいいから形になる物を残したかったのでしょうね。ですがなにぶんベッドに横になった姿勢で書いていたので、少々読み辛いかもしれませんけれど……」
「いえ、きっと大丈夫だと思います」
確かに宛名からして字が少し歪んでいるが、読めないほどではない。これなら中身の方もさほど苦労せずに読めるだろう。
「では、私はこれで失礼したいと思います。手紙を渡したら奏先生一人にしてほしいってカナに頼まれていたので」
「そうでしたか……。けど、どうして今日になってこれを? 僕と会うのを止められていたとはいえ、看護師伝てに渡す事もできたのでは?」
「……『手紙を渡すのは、私が死んだあとからにしてほしい』ってカナに言われていたものですから」
その言葉に思わず目を見開く。
という事は、カナは遺書のつもりでこれを……?
「──もうじき終わりそうですね」
不意に漏らされた呟きに、僕は「えっ?」と便箋から顔を上げて聞き返す。
見ると、カナの母親は頭上から舞降る桜の花びらをどこか遠い目で眺めていた。
「春が、です。まだ花びらの方が多いけれど、所々新緑も目立つようになって。きっとこれからもっと桜の花が散り出して、徐々に夏らしくなっていくのでしょうね。それで季節を繰り返して、また桜の木々が咲き誇るようになる。まるで自分の綺麗な姿を何度も誰かに見せたがっているかのように」
なんだかあの子の一生を見ているかのようだわ、と最後に何やら感傷的に呟いたあと、カナの母親は小さく会釈だけして、そのまま静かに公園から去って行った。
その後ろ姿を当惑したまま黙って見送る。最後に何を伝えたかったかはわからないが、彼女にとって春という季節は、娘であるカナを自然と彷彿させるものがあるのだろう。僕としてもカナとの思い出は何故か春の方が印象深いので、気持ちはわからなくもない。
などと事を考えながら、僕は手に持ったままの便箋に目をやり、呼気を吐きつつ再びベンチに座った。
カナの遺書。まだ遺書と決まったわけではないが、本当に僕が最初に読んでいいのだろうか。いや、カナが僕に宛てた手紙ならやはり僕が最初に読むべきだろう。カナの親御さんにあとで返却するかどうかは、ひとまず読み終えてから決めればいい。
そう決断し、便箋の封を開けて中に入っていたA用紙程度の折り畳まれた紙を取り出す。
紙を開いてみると、端から端まで長々と文章が綴られており、一文字一文字ベッドの上で悪戦苦闘しながら書いたのであろう努力の跡が垣間見えた。
歪んでこそいるが、読めなくはない字。あの時のカナの状態でこれだけの字を書くのにどれだけの労を費やした事か。少なくとも僕ら健常者が書いた文章よりも長時間費やしたのであろう事は想像に難くない。
そんなカナの姿を思い浮かべながら、最初の文章に目をやる。
《奏先生へ。
貴方がこの手紙を読んでいる時、私はきっとこの世にはいないでしょう。
なんてテンプレートな文章から始めてみました。どうどう? なんかいかにも泣かせ系ドラマの最終回みたいな感じがしてエモくない? ちなみに私はヒロイン気分を味わえてなかなかいい感じ! 映画化したら全米が爆笑しちゃうね》
「いや、笑わせてどうする」
思わず手紙にツッコミを入れる僕。
まったくあいつは。手紙の中でもふざけずにはいられないのか。しかし同時にカナらしいと苦笑が漏らしつつ続きを読む。
《まあお母さんには私が死んでから渡してって伝えておるから、別に嘘や冗談ってわけでもないんだけどねー。ついでに言っておくとこれ、奏先生の演奏を聞いてから少し経った日に書いてます。もちろん奏先生には内緒でね。やっぱサプライズにはサプライズで返さないと私の気が済まないっていうか、トリックスターである私の沽券に関わるっていうか、そういうあれなわけです。どうかな? 少しはビックリしてくれたかな?》
「むしろ君のやる事に驚かない事なんてなかったよ」
なぜなら初めて会った時も、二度目に会った時も、君は突然現れて、こっちが面食らうほどの押しの強い会話で強烈な印象を与えてくれたのだから。
《で、ここから大事っていうか、ぶっちゃけサプライズはついでみたいなものなんだけど、直接はめちゃ恥ずかしいからこうして手紙で伝えるね。
奏先生、改めて、ステキな演奏を聞かせてくれて本当にありがとね。お仕事もあって色々と忙しかったはずなのに、私のために時間を作ってくれて。きっとすごく大変だったよね? あの時も言ったけど、ほんとに嬉しかったよ。
で、ここまでされたら私も奏先生に何かお礼がしたくなっちゃってさ。何がいいかなーって色々考えたんだけど、体が満足に動かせられない私にできる事なんて知れてるから、めちゃくちゃ悩んじゃったー。
それで思い付いたのが、これ。奏先生にいっぱい笑ってもらおう大作戦! はい拍手ー。パチパチパチパチー。
あ、今バカっぽいって思ったでしょ? 奏先生は何もわかってないなー。そんなんだからトンチキメガネ野朗って言われるんだよ》
「いや言われた事ないし、そもそもメガネなんて今まで一度もかけた事もないんだが」
《でも人に対して色眼鏡はかけてたでしょ?》
「ツッコミを先回りするな」
予知能力者か、君は。まったく、手紙であるはずなのに油断も隙もない。この分だと僕の考えていそうな事なんて色々とお見通しな気がして末恐ろしいな。
《話を戻すよー。んで、なんでこんな作戦を考えたのかというと、頭が良くて顔も良くてついでに性格も良いカナちゃんは未来を先読みしてみたわけですよ。
たぶん奏先生の事だから、私が死んだあとも上手に泣けずに落ち込んでるんだろうなあって》
その一文を読んで、僕は思わず瞠目した。
《どうせあれでしょ? ネガティブが人の形をしたような先生の事だから、私が死んだあとで「自分は何もできなかった」とかなんとか悲壮感いっぱいになってるんでしょ? そんで「こんな無力な医者なんかに涙を流す資格なんてない」とか思って泣けないでいるんでしょ?》
なんで君にはわかってしまったんだ。
どうしてそこまで僕の心境を言い当てる事ができるんだ。
あの時の君は、一体どこまでわかった上でこれを書いていたというのだろう。
《ほんと、奏先生はどうしようもないくらい意固地で根暗だよねー。変な時だけ素直なくせに。
まあこんなの書いてる時点で私もけっこう根暗かもしんないけどねー。でもやっぱ自分の体だからなのかなあ。なんとなくわかっちゃうんだよね。「ああ、きっと私はそんなには生きられないんだろうなあ」ってさ。奏先生より長生きしてやるって言っちゃったのにこんな事を書くのもどうかと思うけど、でも体は正直っていうか、ここまで骨化のスピードが早いと、さすがに医者でもない私でも死期ってやつを悟っちゃうわけですよ。残酷だけど、世の中どうしようもならない事って本当にあったりするもんだよね。
でも誤解しないでね? だからってまた自暴自棄になったりはしないから。そりゃ悔しいし悲しいけれどさ、それで自分に負けていい理由にはならないもん。まして運命なんかに絶対屈したりしないよ。だって私には神様に「ざまぁみろ!」って言う大事な使命があるからね! 長生きはできそうにないけど、奏先生としたこの約束だけは絶対守るよ。
けどその前に心残りっていうか、どうしても奏先生の事だけが心配でさ。それでこの手紙を書いたんだけど、捻くれ者の奏先生の事だから、どうせ泣いてもいいんだよって言ったところで素直に泣いたりはしないでしょ? そりゃ私の死を泣いて悲しんでもらえるのはそれはそれで嬉しいけれど、それができないならせめて笑っていてほしいと思ってさ。んで、奏先生にいっぱい笑ってもらおうって考えたわけ》
「君は……」
君は、そんな事まで考えてくれていたのか。
文字ひとつ書くのも大変だったろうに、僕のためにここまで心を砕いてくれていたなんて、今まで想像すらした事がなかった。
この先どこまで症状が進行するかもわからない恐怖の中、こうして誰かを想えるなんて普通はできない。その普通はできない事をやってのけているカナに、言葉では表せられない感情が胸から押し寄せてくる。
カナは本当に強い子だったのだと。
時に子供らしく弱い面も見せる事もあったが、それでも芯の強い子だったのだと、この手紙を読んでいて改めて実感させられる。
《あ、心残りって言えばまだ奏先生の返事を聞いてないままだったね。まあでもこれは訊かないままにしておくよ。今訊いちゃったら後戻りできなくなっちゃいそうでちょっぴり怖いし、何よりあんまり奏先生を困らせるような事はしたくないから。いやほんと、私ってば仏様級に良い子だよねー。もはや私に後光が差しちゃうレベルだね。輝くぜ、光輪が》
「光輪って」
よく言う。さんざん僕を困らせるような真似をしてきたくせに。
なんて苦笑しつつ読んでいると、とある文章でふと目を止めた。
《それに私の気持ちは奏先生にいっぱい伝えたはずだしね。だから後悔はしてないよ。それはたぶん、死ぬ最期の瞬間まで変わらないと思う》
「死ぬ最期まで……」
脳裏に浮かぶのは、病床で今際のカナが僕に何かを伝えようとしていた姿。
今にして思えば、あの時のカナは不自然に瞬きが多かったような気がする。『パチパチ、パチ』と妙に間を空ける不思議な瞬きを規則的に続けながら。
そう例えるならば、まるで暗号でも発しているかのような──
「あ……」
そこで気付く。
今さらになってようやく気付く。
そうだった。あの時のカナは、まさに僕に対して暗号を送っていたのだ。僕とカナにしかわからない暗号を。
カナは瞬きで僕に想いを伝えていたのだ。「好き、好き、好き、好き」と息を引き取るその最期まで何度も繰り返しながら。
「何で……何で僕は……っ」
どうしてもっと早く気付いてやれなかったのか、こんな大切な事を。
あの子は、命の灯火が消えかかっているその瞬間まで、僕を想ってくれていたというのに……っ。
気付くと、目尻に溜まった涙が今にも流れ出そうになっていた。カナが死んだ直後は少しも出なかったはずの涙が、こんな今になって。
すぐさま目元を袖で強引に拭い取る。泣いたらダメだ。カナの死を悼んで泣く事はあっても、自分の不甲斐なさで泣くのは間違っている。そんなの、カナに対して失礼だ。それだけはあってはならない。
涙が収まるまで待った時には、いつしか「ジー」というクビキリギスの鳴き声が聞こえ始めていた。宵が迫ってきているのだろう。
だが、これはカナの想いが詰まった大切な手紙だ。こんな中途半端なところで止めるわけにはいかない。
《なんて、ちょっとしんみりしちゃうような事を書いちゃったね。奏先生を笑わせるための手紙なのに、いけないいけない(笑)
あ、そうだ。この際だから言っておくけど、私に負い目を感じちゃダメなんだからね? 私が奏先生に想いを伝えたのは、別に奏先生を縛り付けるためなんかじゃないんだからさ。ましてそのせいで先生の重荷になるなんて冗談じゃないし。ていうか、もし本当にそうなっちゃったら死んでも死にきれないよ。
私はさ、奏先生にはずっと笑っていてほしいんだ。私はもう近い内に奏先生を笑わせる事はできなくなっちゃうんだろうけどさ、私じゃない誰かの存在でもいいんだ。奏先生の隣りで一緒に笑ってくれる人がいてくれたらさ。
まあ寂しくないって言ったら嘘になっちゃうし、ちょっぴり妬いちゃうかもしれないけど、それでも奏先生に笑ってもらえるのが一番大事だからね。しょうがないから、雲の上から生温かい目で見つめててあげるよ。
あ、だからって、私の事を忘れていいわけじゃないからね? もしも忘れちゃったりしたら絶対許さないんだから!》
「忘れるわけがないだろ……」
忘れるはずもない。君みたいな強烈な存在を。
それこそ瞼の裏に焼き付いたように、いつでも君の笑顔が思い浮かぶ。君との応酬の日々が頭を過ぎる。
忘れたくても忘れられない、そんな楽しい思い出ばかりを。
《ま、奏先生なら大丈夫か。だって私は奏先生にとって一番の友達だからねー。むしろ唯一無二? もはや救世主? そんな偉大な私を忘れられるはずがないだろうしー。
なんて色々書いてたら、余白がだいぶ少なくなっちゃった。他にも書きたい事がたくさんあったんだけれど、あんまり書き過ぎるとキリがないからこのへんでやめておくね。ていうか、これ以上は体とか指が痛くて書けそうにないし(苦笑)
どう? めっちゃ笑えた? 悲しい気持ちなんて吹っ飛んじゃった? 手紙だし、これを読んでいる時は私は信じちゃってるから確認はできないけど、いっぱい笑ってくれていたら嬉しいなあ〜。奏先生が爆笑するところなんて前想像できないけどね!
というか奏先生の笑顔そのものがレアだし、笑わせる事自体が難問かもしれないけれど、そこはまあ私が代わりに笑ってあげるって事で。ほら、笑いは伝播するっていうじゃん? 私が笑う事でみんなが笑ってくれるなら、それだけで十分満足だし。もうテンション爆上げって感じ(笑)》
──そうか、と。
ここにきてようやく、カナの母親が去り際に呟いていた言葉の意味を理解できたような気がした。
カナがいつも僕の前で笑っていたのは、きっと悲しい思い出よりも楽しい思い出を胸に刻んでほしかったからだ。
だから辛い時や悲しい時があった時も、笑顔でいる事を忘れなかったのだろう。
少しでも僕との思い出を綺麗なものばかりになるように願って。
それはさながら、桜の木が何度も繰り返し葉を散らして芽吹いては、美しい花を咲かせるように。
春の方がカナとの思い出が深いのも、きっとそのせいなのだろう。
《そうそう。最後にこれだけは伝えておくね。
前にさ、奏先生を初めてみたのは、たまたま屋上で黄昏れている姿を見た時って話した事があると思うけど、あれ、実はちょっとだけ嘘なんだよね。
ほんと言うとね、ここに入院する前に一度だけ奏先生とすれ違った事があるんだー。ちょうどFOPだってわかる前だったから、その時は何も考えずに病院の中を歩いていただけなんだけど、奏先生の顔だけは妙に印象に残っていてさ。もちろんあの頃は奏先生の事なんて全然知らなかったし、一言も話さずにただ廊下ですれ違っただけなのに、なんでこんなに奏先生の事を覚えていたんだろうってずっと考えていたんだけど、最近になってようやくわかったよ。
たぶん私は、あの時から奏先生の事が気になって仕方なかったんだなあって。まあつまりは初恋ってやつですよ。
きゃ♡ 初恋とか言っちゃった♡
でも、あれだね。あの頃の奏先生って死んだ魚みたいな目をしていたのにさ、そんな男の人を好きになっちゃうなんて私も大概ヤバいよね(苦笑)
けどさ、今になってこう思うんだ。私が難病になっちゃったのって、もしかしたら奏先生と出会うためだったのかもって。そう考えると、神様もなかなか憎い演出してくれるよね。まあだからって難病にしたのは許せないし、あっちで会ったら絶対マシンガン並みに文句言ってやるつもりだけどさ。それこそ体中に風穴が空くくらいに(笑)》
「そう、だったのか……」
君と僕は、ずっと前から出会っていたのか。
そして君は、その時から僕なんかの事を……。
そう考えたら再び涙腺が緩んできた。だが今はまだダメだ。涙で視界が滲んではカナの手紙が読めなくなったしまう。最後までしっかり読むまでは、涙はまだ流せない。
《あー、なんか色々書いてたらほんとに余白が無くなってきちゃった。そろそろこれで最後にするね。
奏先生。私はもうすぐいなくなっちゃうかもしれないけどさ、それでも奏先生の人生はこれからも続いていくんだから、落ち込んでばっかじゃあダメだよ。泣いても腐ってもいいけれど、奏先生がずっと落ち込んだままだったら周りの人が笑えないんだからさ。それに奏先生は医者なんだから、まずは先生が笑ってないとね。でないと患者さんだって元気になれないよ。
まあ奏先生は笑うのが下手だから色々難しいかもしれないけど、でも大丈夫。だって奏先生には私っていう最高の相方がいたんだからさ。ツッコミは言うまでもないけど、これからはボケだって問題なくやれるよね?(笑)
心配しなくても、私が太鼓判を押すよ。奏先生は絶対良い芸人になれる! それと、ついでに良い医者にもね!
じゃあ奏先生、これからも笑って生きてね。
カナカナコンビの相方、もといカナより。
PS.お母さんが美人だからって、手を出しちゃいけないんだからね。不倫はダメ、絶対!》
そこまで読み終えて。
僕は頭上を仰いだ。
まったく、君って奴は……。
「さんざん人の事を泣けない奴とか言っておいて、素直に泣かせてくれないのは君の方じゃないか……」
今度こそ泣けそうだったのに、これでは泣くに泣けなくなったじゃないか。「笑って生きて」なんて書かれたら、なおさらに。
「はは。ほんと君は、最後までボケてばかりの困った相方だったよ……」
頭上を仰ぎながら、目元を隠すように覆う。
今頃空の上にいるであろうカナに、口許だけ見せるように。
夕闇の中、桜の花びらが次々と舞い散る。
まるで空が笑い泣きしているかのようだった。
□ ■
あれから八年の歳月が流れた。
今も僕は変わらず整形外科医をやっている。数年前からオペの執刀も任せられるようになり、何かと忙しい日々を送っている。
私生活面も新人の頃と様変わりして、今では去年結婚した妻と最近購入したマンションで一緒に暮らしている。数ヶ月後には新しい命が生まれる予定であり、順調満帆な毎日だ。
ちなみに妻は元患者で、しかも出会った当初はまだ高校生だった。アプローチしてきたのは向こうからだったが、周りからロリコン扱いされたのは今でも理不尽だと思っている(しかも前科一犯のロリコンという渾名まで付けられる始末だった。遺憾である)。
そんなかつてロリコン疑惑をかけられていた僕は、今はせっせと食器を洗っていた。食器洗い自体は新婚当初から進んでやっていたが、今は臨月が近くてまともに動けない妻に代わってほとんどの家事を僕が担当している。独身時代と違って家事のやり方も変えなきゃいけない面も多々あり、またこれから家族が増えるとなるといっそう家事が大変になりそうだ。
まあこれも家族のためと思えば大した苦にもならないが。
「あの子がいたら、今の僕を見てなんて言っていたんだろうな……」
なんて昔の思い出に耽っていると、「ねぇ、あなた。ちょっとこっちに来てみて」とリビングにいた妻から呼ばれた。急になんだろうと思いつつ、蛇口を閉めたあとに「なに?」とソファーに座っている妻の元まで歩いて訊ねる。
「聞いて聞いて。さっきこの子が私のお腹を蹴ったのよ」
「ほんとか? 初めてじゃないか」
「そうよー。だからこうして呼んだの」
言いながらお腹をさすっていた妻が、ふと僕を見て「ぷっ」と失笑を漏らした。
「ふふっ。なにその締まりのない顔。まるで子供みたいな笑顔だったわよ」
「し、仕方ないだろ……。嬉しかったんだから」
「まだ生まれてもないのにこんだけデレデレしているようじゃ、この子が生まれたあとなんてデロンデロンになっちゃうかもしれないわねー」
「人をスライムみたいに言わないでくれ……」
「じゃあ、メタルスライムの方がよかった?」
「君は僕に、経験値が高いだけの逃げ足の早い男になってもらいたいのか?」
「もちろん家族を守ってくれる勇者に決まってるわよねー? スーパースターになって家計を支えてくれるのもありだけど」
「それだとまず遊び人に転職する必要があるぞ。しかも職と言えるのかもわからないものに」
「その前に、あなたが踊り子になれるかどうかの方が問題な気がするけれど。あ、ほら、この子も『そうだそうだ』ってお腹を蹴ってるわ」
「……本当にそんな事を言っているのか?」
「ごめん。適当言ってみただけ」
なんて、茶目っ気たっぷりはにかみつつ、妻は「でも変なのよね」と続けた。
「話に聞いてた蹴り方と違うっていうか、なんか妙にリズミカルなような気がするのよね。もしかしてこの子の方が踊り子志望だった……?」
「だとしたらずいぶんとダンス好きな子だな。本当にリズムを取っていたらっていう話になるが」
「本当だってー。疑うならあなたも聞いてみてよ」
ほらほら、とまん丸と張ったお腹をこっちに向けてくる妻に、僕は半信半疑で妻のお腹に耳を当てる。
トン、トトトントン──
と。
聞き覚えのあるリズミカルな音に、僕は思わず目を見開いた。
これは、この叩き方は──
「あなた……? どうしたの、急に涙なんて流したりして……。何か悲しい事でも思い出した?」
「いや……」
首を振る。
悲しいわけがない。だってこれは、僕とあの子しか知らないはずの合図なのだから。
「違うよ。これは嬉しい事があったからなんだ」
笑顔で妻に答える。静かに涙を流しながら。
そうして僕は、相も変わらずイタズラ好きな相方に向けて話しかけるように、妻のお腹を優しく撫でるように軽く叩く。
これまでずっと保留し続けていた、君への返事を込めて。
ポンポン、ポン──。




