中編
ローテーションの関係で、先週から外科でお世話になる事になった。そして今週から初めての夜勤。夜通しで働くのは初めての経験だが、今のところ体の方はなんとかなっている。たまに多少の眠気が来る事はあるが、医大生時代にもよく勉強で夜更かししていた経験もあってか、そこまで辛くはない。まあ今のところ急患に出くわしていないおかげもあるだろうけど。
そんな中、僕は消灯時間になった病棟の外から一人で非常口の中へと入ろうとしていた。
通常、この時間帯の非常口は中から鍵が掛かっている。そのため、一般の訪問者はもちろん、僕のような関係者でも外から入る事はできない。できないはずなのだが──
「開いてる……」
ギギィという音を立てながら開いたドア。その事にドン引きしつつ、僕はドアの隙間から中の様子をキョロキョロと窺う。
消灯時間のため、当然ながら辺りは暗く、人気はもちろん物音ひとつ感じられない。普ポツポツと等間隔に設置されている非常灯の仄かな灯りが、今だけは視界を照らす唯一の頼りとなっている。当然ながらライトを使うわけにもいかないので、歩く時は細心の注意を払う必要がありそう
それにはしても、まさか本当に鍵が閉まっていないままになっているとは。ここに来るまでは半信半疑というか、正直ほとんど信じてなかったくらいなのだが……。
「あいつの企み通り、というわけか……」
カナの企み──それは以前から懇意にしている看護師に頼んで、非常口の鍵をあらかじめ開けてもらうというものだった。
しかもこれだけではない。なんとカナは見回りの時間帯やルートまで件の懇意にしている看護師から聞き出した上、それを僕のスマホにメールを使って伝えてきたのだ。ご丁寧な事に手書きの地図まで添付して。
「一体どこのどいつなんだ。あいつにここまで協力している不良看護師は……」
などと悪態を吐きつつ、こっそり病棟内に入る。まるで泥棒にでもなったかのような気分だ。
その後、泥棒よろしく周囲を警戒しながら忍び足でカナのいる病室へと向かう。カナの言葉を信じるなら今の時間帯はこのルートを巡回する看護師はいないはずだが、用心に越した事はない。人の気配に気を付けながら向かうとしよう。
そうして息を殺しながらひっそりとした歩調で数分進んだあと、何事もなくカナの病室の前に到着した。
さて、到着したはいいがさすがにいきなり開けるわけにもいかない。この時間帯はまだ起きているとカナは言っていたが、もしかしたら早めに寝ている可能性もあるし、何より年頃の女の子の病室の戸を突然開けるのはさすがに気が引ける。
そのため、入る時は必ずノックをすると事前に伝えたら「普通のじゃわからないから、私と奏先生だけで通じるノックの仕方を考えようよ」と返され、最終的にカナのゴリ押しで決まったのが、これだった。
コン、コココンコン──
という三三七拍子のリズムでノック。ややあって僕のスマホに『どうぞー☆』というメッセージが届いた。手筈通りだ。
メッセージを確認したあと、音を立てないよう(ノックをした時点で今更感があるが)気を払いながらゆっくり病室の戸を開けて中に入る。
しんと静まり返った室内。当然ながら照明は点いておらず、視界は墨を塗りたくったように暗かった。さすがにこのまま歩くのは危険と判断し、それまで使うのを控えていたスマホのライト機能で正面を照らす。カナのいるベッドに辿り着いた時点で消せば、問題はないだろう。
そういうわけで前を照らしつつ、ベッドへ向かう。十秒とかかわらず到着したベッドには、こんもりと膨らんだ布団が目の前にあった。
まさか寝ている……? いやさっきメッセージが届いたばかりなので、それは考えにくい。となると、寝たふりか?
「おい。約束通り来てやったぞ。だから寝たふりはやめろ」
そう声をかけるも、ベッドの主は無反応だった。イタズラ程度で意地を張り過ぎだろ、こいつ。
こっちも暇ではないので、さっさとこの茶番を終わらそうと布団を一気に引っぺがす。だがそこにいたのはカナではなく、大きなクマのぬいぐるみだった。
ポカンと呆気に取られる。それから数秒ほど固まったのち、うっかり消し忘れていたスマホのライトでもう一度全身を照らす。やはりどこをどう見てもクマのぬいぐるみだった。だとしたらカナは一体どこに?
なんて内心混乱している時だった。突如としてベッドの下から足首を掴まれたのは。
思わず「うわっ!」と声を上げて仰け反ると、ベッドの下から「ふっふっふっ」という怪しげな笑声と共に人影が這い出てきた。
「ドッキリ大成功〜。やーい、奏先生のビビリん坊。仁王像の名が泣いてるぞ〜」
「……そんなもの一度も名乗った覚えはないし、どちらかというと揶揄い気分で流行らせたのはそっちじゃないのか」
「というか」と溜め息混じりに言葉を継ぎつつ、僕はスマホのライトをベッドの下に向けた。
「何をやっているんだ、君は……」
「何って、見ての通りだよ。奏先生を驚かせようと思って、ずっとここでスタバってたの」
「本当に何をやっているんだ君は。くだらない事をしてないで、病人なら病人らしくちゃんとベッドで寝てなさい」
「だって、奏先生のビックリした顔をどうしても見たかったんだもーん。いつも無表情で何考えてるのかわからない奏先生をビックリさせられたら自慢にもなるし。今日の事を話したら絶対病棟にいる子供達から羨望の眼差しを受ける事間違いなしだね、これは」
「失望の間違いだろ、それ」
僕だったら呆れて言葉を失っていたと思う。あまりのくだらないドッキリに。
「というより、そんなもの証拠も無しにどう信じてもらうつもりなんだ?」
「あっ。しまった〜。スマホで写真でも撮っておくさけばよかった〜。残念〜」
「残念なのは君の頭の方だ」
などと返しつつ、カナの両腕を引っ張ってベッドの下から引きずり出す。幸い、いつも清掃員の方々が床を掃除してくれているおかげもあってか、パジャマに汚れや埃は付着していなかった。
「ふい〜。ありがと、先生」
「どういたしまして、と言いたいところだが、万一怪我でもしたらどうするつもりだったんだ、君は。まして君はちょっとの怪我でその箇所から骨化するかもしれないんだぞ」
「大丈夫大丈夫。怪我しないようにベッドにマットを敷いておいたから。ベッドの下に潜る時はちょっと大変だったけどね」
言われて見てみると、確かに厚手のマットがベッドの下に敷かれてあった。いつの間にこんな物を持ち込んでいたんだ、こいつは。
「いやそもそも、だ。ただでさえ足が不自由な状態なのに、下半身に負荷をかけるような真似はさすがに褒められたものじゃないぞ」
現に今だって関節が骨化して曲がらない左足を伸ばしたままの状態で床に転がっている。最近は右足も怪しいと言っていたから、本当はこうして右足を曲げているだけでもキツかったのではないだろうか。
「そう怒らないでよ〜。こういうイタズラだって、いつ出来なくなるかわからないんだからさー」
その一言に、僕は声を詰まらせた。事実その通りだと思ったからだ。
「ほら、先生。いつまでもそこで突っ立ってないで、いい加減ベッドまで運んでよ。私、病人だよ?」
「あ、ああ……」
平素なら悪態のひとつでも吐いていたところなのだが、つい大人しく従ってしまった。カナの一言で、この子の先行き短い将来を無意識に想像してしまったからだろう。
だからだろうか、別段表情に出したつもりはなかったが、カナを慎重に持ち上げてそっとベッドに横向きで寝かせたところで、
「奏先生、どうかしたの? ちょっと変だよ?」
「……変って、何が」
「さっきから歯切れが悪いっていうか、ツッコミに冴えが無いっていうか……」
そこまで言ったところで、カナは何かに気付いたように「あっ」と口を開けた。
「もしかして、さっき私が言った事気にしてる? こういうイタズラもいつまで出来るかわからないってやつ」
「………………」
「あ、その目は図星だー。先生って基本無表情だけど目だけはけっこう素直だよね。何かにあるとすぐに目線が泳ぐっていうか」
「……そういう君は、能天気そうに見える割に案外目敏いところがあるな」
「これでもドラマーだからねー。一番ギターやベースに合わせなきゃいけない楽器だから、後ろからよくみんなの調子を観察しなくちゃいけないんだよー。ギターが走り過ぎてるなーって思ったら、わざとこっちで音を外して気付かせてあげたりとかね。まあわたしは今まで助っ人でしかバンドに入った事がないから、あんまり偉そうな事は言えないけど」
なるほど。だから妙に察しが良かったのか。
「それはともかく、奏先生もいちいち気にしなくてもいいからね? 別に同情してもらいたくてあんな事言ったわけじゃないしさ。ただ事実を言っただけだよ」
「君は、本当にあっけらかんとしているな……」
「だって暗くなったところで仕方ないし。ほら、よく難病を患っている人のドキュメンタリーとかでさ、難病の人がテレビの前でけっこう明るく振る舞っていたりする事が多かったりするじゃない? 私も同じような境遇になっちゃったから言えるんだけどさ、こういう病気になっちゃうと、いっそ開き直らないとやってられないんだよね。もちろん先の事を考えて不安になっちゃう時もあるけどさ、いくら考えたって病気が治るわけじゃないし、周りの人を心配させるくらいだったら陽気に振る舞った方が気持ちも楽になるんだよ。この際だし、バカみたいに今を楽しんじゃえーって感じでさ」
「だから君は、いつ会ってもニコニコしているわけなのか……」
「まあねー。あ、でも私がいつもニコニコしていられるのは奏先生のおかげっていうのが一番の理由かな。前にも話した事があるけれど、奏先生と出会う前はお先真っ暗っていうか、ほとんど抜け殻みたいに生きてたから」
「……別に僕は何もしていない。君が自力で復帰しただけだ」
「奏先生は相変わらず自己評価が低いなあ」
もっと素直に褒め言葉として受け取ればいいのに、と寝転びながら苦笑するカナ。
「まあそういうところも嫌いじゃないけど。もしかしたら私だけじゃない? 先生みたいな偏屈な人を受け入られる女の子って」
「……少なくとも、君みたいな物好きな女の子は他にいないかもしれないな」
「やっぱり? もうこの際だし、私に告っちゃう? ここでランデブーしちゃう?」
「しちゃわない。医者が患者に手を出すわけがないだろ。しかも未成年に」
「でもさ、禁断の恋って逆に燃えたりしない? 反対されると余計止まらなくなっちゃうっていうかー」
「燃えないし、君の言っている事はさっぱり理解できない」
そもそも、と僕は嘆息を吐きつつ続ける。
「そういうのは両想いでないと成立しないだろ。それとも君は僕の事が好きだったりするのか?」
「んー。奏先生はどっちだと思う?」
「わかるわけがないだろ、そんなもの」
「えー? 私、けっこう態度に出やすいタイプなんだけどなー。あ、でも奏先生っていかにもニブチンそうだし、見ただけじゃわかんないかー」
「遠回しにすごくバカにされているような気がしてならないが……つまりそれは好きって事でいいのか?」
「どっちだと思うー?」
「またそれか……」
どうしてもはぐらかしたいらしい。何をそんなに意地を張る必要があるのか。
「なんていうか、人に対してあんまり『好き』って言葉を使いたくないんだよね。ちょっと軽々しく感じちゃうっていうか、自分で言うのも他人に言われるのもなんか白々しく思えてきちゃうっていうかさ。口だけならどうとでも言えるしねー」
「割と疑い深い方なんだな。恋愛に関してだけは」
「そうかも。だから好きかどうか訊かれても、ちょっと困っちゃうかな。今の私の気持ちを言葉だけで表現したくないからさー」
「言いたい事はわかったが、結局どっちなのかはわからずじまいのままか……」
まあ、僕としては別に曖昧なままでも構わないが。好かれていたところでその気持ちに応える事は絶対できないのだし。
「あ、じゃあ口で言う代わりに音で伝えるっていうのはどう? こんな感じでさ」
言いながら、カナは胸ポケットに入っていたボールペンをおもむろに取り出し、ベッドのパイプ部分をカンカン、カンと微妙に間を空けて打ち鳴らした。
「はい。どうだった?」
「どうと言われても。金属音が鳴ったとしか」
「んもー。先生は情緒っていうものがないなあ。私の奏先生に対する想いを心を込めて伝えたのにー」
「何か、無茶苦茶な事を要求されているような気がしてならないのだが……」
「そんな事ないよー。私だったら一発でわかるね、何が言いたいのか」
「そりゃ君自身が鳴らしているんだから、わからないわけがないだろ。なんなら、今度は僕が試しに鳴らしてやろうか? 今の気持ちを込めて」
「それは別にいいよ。どうせ『面倒くさい』とか『どうでもいい』とかそんな感じでしょ?」
当たってる……。
「あー。その顔は図星だー。まあ元から奏先生にそういう音楽的なセンスは求めてないし、無理はしなくてもいいよ。どうしても奏先生の返事が聞きたいわけでもないしねー」
「……さんざん僕を煽るような事を言っていたくせにか?」
「だって、奏先生の反応が面白いだもーん。だからついね、つい」
ペロっと舌を出しながらはにかむカナに、僕は溜め息を吐いた。まったく、本当にイタズラ好きな困った奴だ。
「でも」
と、これからどう叱ってやろうかと黙考していたところで、不意にカナが声のトーンを幾分下げながら言葉を紡いだ。
「いつか奏先生の真剣な気持ちを聞かせてね。私が元気にいられる内に、さ……」
□ ■
次にカナの病室に来れたのは、二週間後の夜だった。
覚悟はしていたつもりだったが、やはり外科関連の研修はいつも慌ただしい。特に急患が相次いだ時は地獄のような忙しさだ。一刻を争う現場ではたとえ研修医でも馬車馬のごとく動き回らないといけないのだ。もちろんまだ研修医なので出来る事は限られてくるが、危険な状態にある患者の前では常に全力を尽くすのが医者の役目であり至極当然の使命でもあると言える。そもそも患者の前で怠けていい道理などあるはずもないのだが。
そういう事情もあり、カナから言われていた『せめて週一くらいには来てよ』という約束をあっさり破ってしまった。そもそもちゃんと約束を交わしたわけではないし、カナには事前に週一で来れるかどうかはわからないと伝えてあったが、あの子の事だ、きっと難癖を付けてくるに違いない。憂鬱だ。
だったら行かなければいいのに、と心の内の自分が嘆息混じりに呟く。実に正しい意見だ。それでも以前のように非常口から侵入し、看護師の目を盗みながらカナの病室へ向かう僕がいる。
我ながら矛盾していると思う。いくら彼女の支えになっているとしても、僕がここまで──こんなコソ泥めいた行動までする理由はない。僕は主治医でなければ、あの子の親類縁者というわけでもないのだから。
それでも、あえて言うのであれば。
「友達、ではあるのか……」
友達だという実感は未だにないけれど。
などと、まだ自分でも消化しきれていない関係にモヤモヤとしながらも、前回同様カナの病室の戸を『コン、コココンコン』と叩く。
ややあってスマホに届いた『どうぞ』という前回に比べると少し素っ気なく感じるメッセージを確認したあと、周囲に視線をやりながらひっそり戸を開けて中に入る。
そういえば、前に入った時はドッキリを仕掛けられたなとふと思い出し、スマホのライトであちこち照らしながら警戒して歩を進める。万一この間みたいに床にいたりでもしたら、甚大な怪我に繋がりかねない。相手がFOP患者となればなおさらだ。
そうして神経を尖らせながらベッドまで進んでいくと、布団がこんもりと盛り上がっているのが見えた。一見カナが大人しく寝ているように思えるが、まだ安心はできない。またぞろ悪戯の可能性がある。あいつの事だから、ビックリ箱のようなものを仕掛けいるかもしれない。
などと布団の中身を警戒してしばらく声をかけずに注視していると、不意に布団の中が蠢いた。ややあって、
「……奏先生、さっきからそこで何をしてるの?」
「……いや、別に」
布団からちょっとだけ顔を覗かせながら不審そうな眼差しを向けてくるカナに、僕は気まずげに答える。てっきり悪戯を仕掛けてくるかのかと思ったら、普通に布団から顔を出してきて拍子抜けしてしまったとは言えない。
そんな僕に「まあ、いいけど……」と一言だけ返したあと、なぜかジーッと僕を凝視してきた。
「なんだ? 僕の顔に何か付いているのか?」
「そうじゃないけど、そういう事でもなくて……」
「じゃあどういう事なんだ。はっきり言ってくれ」
いまいち要領を得ない言い方をするカナに、僕は真っ直ぐ見つめ返しながら単刀直入に訊ねる。
「…………週一には絶対来るって約束したのに」
と、恨みがましく半眼で見つめてくるカナ。ああそうか。さっきから妙に虫の居所が悪そうだったのは、会いに来るのが遅くなってしまったからか。
「いや約束した覚えはないし、そもそも場合によっては月一程度になると言ったはずだぞ」
「聞いてないもん、そんなの……」
言って、カナは再び布団に潜ってしまった。どうやら拗ねてしまっているらしい。実に面倒くさい。面倒くさいが、このまま帰ったら余計拗ねそうだ。そっちの方が遥かに面倒くさい。
「はあ。じゃあどうしたら許してもらえるんだ?」
「……一度だけ私の言う事をなんでも叶えてくれるのならいいよ」
こいつめ、人が下手に出ているのをいい事に、ずいぶんとまあ調子に乗った事を。こっちには一切非はない(はず)というのに。
「……言っておくが、僕が出来る範囲内のみだぞ」
「ほんと? じゃあ許す〜」
今泣いた烏がもう笑ったとばかりにカナが布団から顔を出して、にへら締まりのない笑みを浮かべた。まったく現金な奴め。
「で、一体僕に何をしてもらいたいんだ?」
「あ、それに関してはとりあえず保留って事で。奏先生になんでも言う事を聞いてもらえる権利なんてすごく貴重だし、とっておきにしておこうかなあって」
「とっておき、か。あとが怖いな……」
「大丈夫大丈夫。そんな無茶な事は言わないつもりだからさ。せいぜい『目から牛乳流して』って言うくらいだよ」
「すでにまあまあ無茶苦茶なんだが。その願いを叶えるのに鼻から牛乳を流し込まないといけないという過程を一度踏まないといけない時点でかなり憂鬱でしかないんだが」
というか単なる嫌がらせとしか思えない。僕の苦しむ姿を見て溜飲でも下げたいのだろうか。
などとこの先に起きるかもしれない嫌な妄想を強引に振り払いつつ、そばにあったパイプ椅子を引き寄せて腰を落とす。スマホはライトを点灯させたまま机の上に置いてベッド側に向けておいた。ここなら見回り中の看護師が来ても気付かれる心配はないだろう。
と、僕の一連の行動を見ていたカナが、えへへと突拍子なく微笑んだ。その屈託ない笑顔に、僕は眉根を寄せる。
「なんだ唐突に」
「んー? なんか楽しいなあって思って」
「まだここに来て何もしていないのにか?」
「こうして話しているだけでも楽しいんだよ。お気に入りの人とお話すると、自然と元気になってくるっていうか」
「そういうものなのか」
「そういうものなのです」
そういうものらしい。僕にも数少ないとはいえ友人はいるが、話していて落ち着く事はあっても元気になったという事は一切ないので、いまいちよくわからない感覚だった。別にどうでもいいが。
「もっと言うなら、奏先生がもう少し頻繁に会いにきてくれたら、もっと元気が出るんだけどなー」
「あんまり無理言わないでくれ。こうして夜中に会いに来ているだけでもけっこうなリスクを背負っているんだぞ。まあ、あらかじめそっちに連絡して非常口の鍵を開けてもらったり看護師の巡回時間を教えてもらっているおかげでなんとかなってはいるが。……というか一体何者なんだ、君の協力者は。ほんとに看護師か?」
「それは企業秘密だよ。正体を誰にも明かさないという条件付きで協力してくれているんだからさ。あ、ちゃんとお礼はしているから心配しないでね。今度はボブの『欲望』ってアルバムを貸すつもり」
「まるでその協力者のためにあるかのようなアルバムタイトルだな」
別の意味で心配になってくる。協力者の今後の人生とか。
「ていうか、またボブ・ディランか。そんなに好きなのか? 君と同じドラマーでもないのに」
「確かにドラマーじゃないけど、曲が好きなんだよねー。英語はわかんないから何言っているかもわからないけど、聞いているとこっちもリズムを取りたくなるっていうか、そんな感じ?」
「リズムを取りたくなる……僕は一度も聞いた事はないけれど、ボブ・ディランってけっこう昔のシンガーソングライターだよな? どうやって彼の音楽を知ったんだ?」
「最初はお父さんが観ていた映画の影響かな。劇中歌でボブの『風に吹かれて』が流れるんだけど、それがすごく良くてさー。気付いた時にはボブのアルバムを集めるようになっちゃってたなあ」
ほとんどお父さんに買ってもらった物ばかりなんだけどね、と舌先を出すカナ。まあプレミアが付いている限定盤を持っているくらいだから、そうだろうとは思っていたが。
「最近だとアプリがあればいつでもどこでも聴けるけどさ、やっぱこういうのは生のCDでないとねー。やっぱ音感が違うよね、音感が」
「音楽は全然聞かないから音感とか言われてもよくわからないが、君なりのこだわりがあるんだなって事はなんとなくわかった」
「こだわりっていうか、音楽好きのポリシーってやつかな。お父さんも言ってたんだけど、スマホとかだと音量や音質に限界があるから、聞くならやっぱりそれなりのオーディオ機器を使ってCDやレコードを聞いた方が断然いいんだよね。臨場感ってやつがダンチなんですよ」
「ダンチ」
「うん。特にボブだとほんとにダンチ。リフやフックはもちろん、ひとつひとつの発声や息遣いがすごく鮮明でさ、まるで生のライブを聞いているみたいになれるんだ。やっぱ神様って言われるだけの事はあるよねぇ」
「神様……?」
「え、知らない? よくロックやフォークの神様って呼ばれてるんだけど」
「初めて聞くな」
というより、すごく有名なミュージシャンという印象しかなかった。元より音楽の世界には疎いので、大抵のミュージシャンは名前しか知らない場合の方が多いが。
「まあ私も知ったのは映画を観てからなんだけどね」
「それって、例のお父さんと一緒に観たっていう映画の事か?」
「うん。神様って言われているボブの曲をカセットテープに録音して、それをコインロッカーに入れるシーンがあるんだけど、それが今でも忘れられなくてさ。神様を閉じ込めて悪事を見なかった事にしてもらおうとする話がすごく切ないのに、流れてくるボブの『風に吹かれて』の曲調がとても優しくて、それがまた心に沁みるんだよねー」
特に今は、と視線を遠退かせながら意味深な事を口にしたカナに、僕は眉をひそめた。
「『今は』? 何か神様に見なかった子にしてほしい悪事でもした覚えがあるのか?」
「神様を隠さなきゃいけないほど悪い事をした覚えはないかなあ。ちょっとした悪戯くらいなら何度もしたけれどね。でもさ……」
と、そこで不意に言葉を止めたカナに、「でも?」と続きを促す僕。
「でもさ、何か悪い事をしたからこんな病気になっちゃったんじゃないかって気もするんだよね。でなきゃ治す方法が見つかってない難病に罹っちゃう理由がなんて全然ないもん。因果応報っていうか、そういう感じのやつ」
「悪事と難病は何の繋がりもないぞ。不摂生が祟って重い病気になる事はあってもな」
「わかってる! 私もわかってるよ、それくらいの事は……」
いきなり怒声を上げたカナに、僕は思わず面食らって固まってしまった。
いつも陽気で笑ってばかりいるカナが、あんな怒鳴り声を上げるなんて……。
ややあって、カナはバツが悪そうに顔半分を布団で隠して「ごめん……」と弱々しく謝った。
「別に構わないが……もしかして何かあったのか? 君が突然大声を上げるなんて珍しい」
「うん、まあ。ちょっと……」
歯切れの悪い言い方だ。それだけ話したくない内容なのかもしれない。
「いや、言いたくないのなら無理して言う必要はないが……」
「……ううん。どうせその内わかる事だから……」
言いながら、カナはおもむろに布団を捲った。そして右足を指差す。
「裾、上げてみて。私がやるとちょっと時間が掛かるからさ」
「あ、ああ」
戸惑いつつ、言われた通りにカナの寝巻きの右足部分を爪を立てないよう慎重に裾を上げていく。
そしてもう少しで膝というところで、僕は息を呑んだ。
膝の周辺が、歪に盛り上がっていた。
「右足がね、もう動かなくなっちゃった。膝の関節部が骨化しちゃってるんだって」
とっさに言葉が出なかった。事前にカナから話を聞いてはいたとはいえ、想像を超える進行具合に。
「兆候自体は少し前からあったんだけどね。ちょうど奏先生が初めて夜に会いに行った時かなあ、フレアアップが出始めたのは」
「……薬は? ステロイドや消炎鎮痛剤は?」
僕の問いにカナは無言で首を横に振る。
「効かなかった。まあ左足の時も効かなかったから、今回もダメかもしれないって気はしたけれど」
「そうか……」
「主治医の先生もすごく動揺してたよ。いくらなんでも進行が早過ぎるって。薬も効かないし、シャレになんないよね……」
だからいつもと様子が違ったのか。右足もついに動かせない状態になってしまったから……。
「ほんと、神様に頼んでもどうにもならないのなら、神様に見なかった事にしてもらいたい気分だよ。映画みたいにコインロッカーの中にカセットテープを閉まってさ」
まあボブは万病に効く神様じゃなくて音楽の神様だから、全然意味ないかもしれないけれど。
そう苦笑混じりに言うカナに、僕は静かに裾を直し、ついでに捲れたままだった布団も掛け直した。それからカナと向き合って、
「その映画の中だと悪事を見なかった事にしてもらうためだったんだろ? 病気を見なかった事にしてもらったところで、病気そのものが無くなるわけじゃないんじゃないか?」
「……なんで奏先生はそういう夢も希望もない事をしれっと言っちゃうかな……」
と、すごく呆れたような顔をされてしまった。僕としては事実を口にしただけなのだが、確かにわざわざカナを前にして言うような事でもない。予想以上の骨化の進行に内心動揺していたせいだろう。我ながら無神経な発言だった。
「すまない。君の言う通りだ……」
「わ。奏先生も謝るところ、初めて見たかも……」
「なんで意外そうなんだ。僕だって自分に非があるとわかったら普通に謝りもするぞ。君が普段どんな目で僕を見ているのかは知らないが」
「聞きたい?」
「いや、やめておく……」
どうせロクな事しか言わないに決まっている。
と、僕が反応の何が面白かったのか、カナは枕に顔を埋めながら「ぶふっ」と失笑をこぼした。
「あはっ。奏先生は相変わらずだねー。相変わらず変わってる」
「変わっているのか変わっていないのかいまいちわからない言い方だな」
「良い意味で何も変わってないって事。つまり褒め言葉だよ褒め言葉」
「まったく褒められている気がしないんだが……」
「ちゃんと褒めてるよー。それとも、言葉だけじゃあ足りない?」
言いながら、カナが僕の手に指先で『トントン、トン』と小突いてきた。
「……これで信用しろ、と?」
「だって言葉だけじゃ信じられないんでしょ? だったらこれで伝えるしかないっしょー。お手軽だし、二人だけの秘密のやり取りって感じでワクワクするし、なにげに最高だよねー」
「どちらかと言うとモールス信号で会話している海軍のような気分だけれどな」
もっとも実際のモールス信号だと「好き」は『ツーツーツートンツー、ツートンツートントン』になるらしいが。前にカナとのやり取りがまるでモールス信号みたいだと思って興味本位で調べてみたが、実際はこんなに長かったとは。
「で、先生の返事は?」
「褒め言葉に返事がいるのか?」
「『どういたしまして』くらいはあってもバチは当たらないんじゃない? まあ私はそっちの意味じゃなくて別の意味の方のお返事でもいいけれど」
つまりに「好き」に対する返事を要求しているわけか。となれば僕の返事は決まっている。
「どういたしまして」
「……ヘタレ」
「ヘタレも何も、あの時の返事はいつでもよかったんじゃないのか?」
「確かにそれっぽい事は言ったけどさー。だからって返事が欲しくないわけじゃないんだからね。奏先生、ちゃんとそのへんわかってる?」
「……………………」
「あ、これ絶対わかってない顔だ」
奏先生、いかにも乙女心がわからなそうだしなあ、と聞こえよがしに溜め息を吐くカナ。いちいち失礼な奴だ。否定こそしないが。
「まあ奏先生だし仕方ないかあ。奏先生だもんね。しょうがないね」
「……まるで僕という存在そのものがしょうもないみたいな言い方だな」
「いくら私でもそこまで酷い事は言わないよー。どうしようもないとは思っているけれど」
「大差ないじゃないか」
「ついでに覇気もなければ愛想もないよね。あ、こうして考えてみると、奏先生ってないない尽くしだよねー。相方は矢部さんかな?」
「それはナイナイもといナインティナイン。僕とは一切関係ないぞ」
「奏先生の場合、99じゃなくて救急だもんね。医者なだけに」
「上手い事言ったつもりか。ほんとに君はああ言えばこう言うな」
「ふふん。私、けっこう弁が立つ方でしょー」
「どちらかと言うと腹の方が立つ」
うちの病院の患者でもなければ無視していたところである。
いや、普段の僕ならばたとえ患者でも適当に距離を置いていたはずだ。それなのに僕がここにいるのは、やはりカナに興味を抱いているせいなのだろうか。だからこうして面倒な手順を踏んでまでカナに会いに来ているのだろうか。
今となってはどうでもいいと切り離せないほど、僕の中で大きな存在となりつつあるこの悪戯好きの天真爛漫な少女に。
──なんて事を考えていたせいだろうか、いつの間にかそっと握られていた右手の感触に、今になって気が付いた。
「なんだ急に」
「んー? なんとなく握りたくなかったから。……ダメだった?」
「ダメってわけじゃないが……」
「奏先生にしてみれば、数少ない女の子との直接的な触れ合いだもんねー」
「君はいちいち一言余計だな……」
「にしし。だって奏先生の反応が面白くて仕方ないんだもーん。こればっかりはやめられないなあ」
「まったく君って奴は……」
まるで反省の色が見えないなと続けて苦言を入れようとしたところで「ほんと楽しいなあ」と囁くような声でカナが呟きを漏らした。
「ずっとこうしていたいなあ。いつまでもこんな時間が続けばいいのに……」
「────」
ふと漏らされたカナの呟きに、僕はとっさに反応できなかった。カナの表情から切実な何かを感じ取ったからだ。
「……でも、いつまでもは続かないんだよね。いつかは終わりが来ちゃう。それもきっと早く……」
「……どうしてそう思う?」
「だって奏先生、来年には研修期間が終わっちゃうんでしょ? そしたらもう、こんな風に会う事なんてできなくなっちゃうじゃないの?」
「いや、確かに今より忙しくなる可能性はあるが、ちょっと見舞いに行く程度なら──」
「でも奏先生、内科の方に行っちゃうんでしょ? だったらこのままずっと会えない可能性だってあるんじゃないの?」
「………………」
思わず口を閉じてしまった。外科や救命救急科に比べたら内科はまだマシな方であるが、どこの病院でも同じなように、他の科に比べて内科は受診する人が多いため、拘束時間もその分長くなってしまう。今みたいな夜勤は少なくなると思うが、今後は気軽に会いには行けないだろう。体力や精神面での意味でも。
「……………………ごめんね。急にワガママ言い出しちゃって」
いつまでも僕が閉口しているのを見て困惑していると受け取ったのだろう、カナはおもむろに握り締めていた手を離して小さく謝った。
「いきなりこんな事言われても困るよね。先生には先生の人生があるんだから」
「僕は……」
僕は、どうしてここにいるのだろう。
何のために医者になろうと思ったのだろう。
親に言われたから? 借金があるから? その方が正しい道だから?
僕の人生は、一体誰の何のためにある──?
「本当にごめん。私の言った事は忘れていいから」
胸中で自問自答を繰り返していた内に、カナが再度言葉を発した。
彼女らしからぬ、今にも消え去りそうなほど儚い微笑を浮かべながら。
そんなカナを前にしても、僕は何も応えられなかった。
病室の窓から仄かに聞こえてくるクビキリギスの鳴き声が、いやに身近に感じられた。
□ ■
あれから夏、秋、冬と季節を巡り、また麗かな春がやって来た。
新年度となり、研修医だった僕もついに上級医となった。指導される側から指導もしなければならない側となったわけで、その分責任やプレッシャーがすごく重く感じられる。まるで年が明ける度に肩の荷を乗せられているような気分だ。社会人ならどこにもで転がっている話なのだろうが。
そんな新しい肩書きと共に僕はミーティングに参加するため、会議室に向かっていた。ミーティングの内容はとある骨肉腫患者の今後の治療方針に関して。術前抗ガン剤治療から腫瘍切除の流れになると思うが、その細部を詰めるためのミーティングだろう。
ミーティング自体は研修医時代に何度も経験してはいるが、今回の重要度はこれまでのそれとはワケが違う。なぜなら広範切除……つまり腫瘍を取り除く手術に僕も参加するからだ。
そのせいもあってなのか、朝から喉の渇きが止まらない。きっと緊張しているからだ。手術に参加すると言っても僕はあくまでも執刀医の補佐でメスを握る機会はおそらくないと思うが、それでも可能性がないわけではない。少なくとも手術の経過や患者の様子ばかり気にしていた頃とは違うのだ。緊張するなと言うが無理な話である。
「今からそんなに固くなってどうすんだ」
と、そばを歩いていた先輩医師(僕より二つ上の男)が、唐突に僕の肩を叩いてきた。
「まだミーティングをするだけだぞ。緊張感を持つ事自体は悪くないが、過剰な緊張は手元を狂わせるだけだぞ」
「あ、はい。すみません……」
「いや、別に謝るような事じゃないが……」
そう言って僕の顔色を覗き込んでいた先輩医師が、不意に「ふっ」と失笑をこぼした。
「……? あの、何か……?」
「いや悪い。あの鉄仮面とすら言われていた櫻井の強張った顔が見られる日が来るなんて思わなかったもんだから、つい感慨深さよりも可笑しさの方が込み上げてきてしまってな。前までは俺が話しかけても無味乾燥っていうか、業務連絡以外は毎回上の空みたいな目をしやがるもんだから、ぶっちゃけお前とはあんまり関わりたくないって思ってたんだよなあ。むしろ話したくもないっていうか」
「ぶっちゃけというか、もはやぶち撒けてるレベルで僕への不満を漏らしてきますね。その歯に衣を着せない言い方がいかにも先輩らしいと言えますが」
「そういうお前も先輩に対して遠慮なしに皮肉ってくるじゃんか」
まあそっちの方が俺的には面白いけどなー、と言いながら僕の首に腕を回してくる先輩医師。
「前までは周りにいる人間なんて心底どうでもよさそうな面してたお前が、いつからか周りにも目を向けるようになって、仕事にも身が入るようにもなってさ。そんなお前が本気で整形外科医を目指してるって話を聞いた時はマジで驚いたけど、お前の真剣な目を見ていたら普通に受け入れている自分がいたわ。きっと俺の中で『今のこいつとなら一緒に仕事をしていい』って思えたからなんだろうなあ。それくらい変わったっって事だよ、お前は」
「僕自身はそこまで変わったつもりはありませんよ。もしも変わったと思うのなら、たぶんあの子の影響ではないかと」
「叶ちゃんか。まあそれも大きいかもな。まさかお前が叶ちゃんといつの間にやら親しい間柄になっていたなんて夢にも思わなかったし。ビックリしたぞー、お前から叶ちゃんの話を聞いた時は。しかも特定の患者に肩入れしようとするなんて、以前の櫻井なら想像もできないな」
「……その節は身勝手な事を言い出してしまって本当にすみませんでした」
「いやいや、新米ならありがちな話だから。医者としてはあんまり褒められた行為じゃないが、別に謝るような事でもないだろ。俺の目から見てもお互いに良い関係を築いているみたいだし、叶ちゃんもすごく楽しそうにしているしな。何よりお前が本気で医師の道を志すようになったっていう意味では逆に良かったとすら思うぞ。ただ俺個人の意見を言えば、なんでお前と叶ちゃんみたいな全然タイプの違うもん同士が仲良くなれたのかって疑問は尽きないけどな」
「月と太陽くらい違いますからね」
「おっ。なかなか良い例え方するなー」
どっちが月でどっちが太陽なのか実にわかりやすいわー、と先輩は一笑しながら話を継ぐ。
「叶ちゃん、いつも明るいもんなー。お前が研修医の頃に比べて話しやすい雰囲気にもなったのも、叶ちゃんのおかげかねぇ」
「さあ。それはどうでしょうね」
「おいおい。もしかして照れてるのか? ほんと櫻井は素直じゃないなあ。あっちはあんなに懐いてくれてるのに」
まあなんにせよ、と先輩医師は僕の隣りを歩きながら言葉を紡いだ。
「せっかくこうして整形外科に入ったんだ。今回だけじゃなく、色々な経験を積んで成長しろ。叶ちゃんのためにもな」
「まさか奏先生が本当に整形外科に来るなんてねー。今年一番のビックニュースだよ」
ビックニュースというかビックリニュースかも、と冗談を交えながら、カナはクスクスと笑い声を漏らした。
昼休み。時間に余裕ができた僕は、約一週間ぶりとなるカナの病室を訪れていた。ちなみに僕が整形外科に入ってこれで二度目になる。
「ビックリも何も、君には事前に伝えていたはずなんだけどな」
「そりゃ去年の暮れに聞かせてはくれたけどさー、やっぱりビックリの方が大きいよ。だって最初は内科に行くって言ってたのに、突然整形外科の方に入るって言うんだもん。あの時はビックリっていうよりたまげたって感じだったね」
「いくらなんでもそれは大袈裟だろ」
「大袈裟じゃないって。だって私のために希望先を変えてくれたんでしょ?」
「……前にも話した事はあるが、それは違う。単なる気まぐれだ」
「えー。本当にー?」
「本当だ」
「まあ、そういう事にしておいてあげる」
私は奏先生と違って大人だからねー、とドヤ顔するカナに肩を竦めつつ、その全身をそれとなく眺める。
今日は四月にしては気温が高めなためか、掛け布団が足の先まで捲れている。そのため、カナの体の状態がパジャマ越しながらも窺う事ができた。
まず両足の方だが、膝の周辺が去年に比べて一段と盛り上がっていた。あれから何度もフレアアップを繰り返し、その度に骨化した結果だ。足首の方はそれほど変化がないように見えるが、カナの話ではほとんど動かせないらしい。足関節の靭帯が骨化してしまったせいだろう。
次に腕だが、利き手である右手の方は特に変化は見られない。が、左手の肘部品はフレアアップが始まっており、痛みがあるのか、袖が二の腕まで捲られている。以前に見た時は小さく盛り上がっている程度だったが、今ではまるでたんこぶのように腫れ上がっていた。
最後に背中だが、ここが一番顕著に骨化が進行していた。パジャマ越しにも関わらず、明らかに背骨のようなものが布を押し上げて隆起しているのだ。実際に背中を見せてもらったわけではないが──僕が触診しようとするとカナが嫌がるので──レントゲン写真で背中の筋肉が骨化しているのはすでに確認済みだ。
通常、FOPは背部から徐々に四肢へと骨化が始まる傾向にあるが、カナの場合は先に足の方から始まったためか、背部の骨化はそれらよりも幾分進行が遅めだったようだが、数ヶ月前からその遅れを取り戻すかのように骨化が進んでしまっている。もちろんこれまで何の対処もしなかったわけではなく、現段階で最も有効とされるFOPの対処療法として消炎鎮痛剤やステロイドを使用しているものの、症状は芳しくない。二年近く投与しているが、やはりカナの体には消炎鎮痛剤やステロイドといった薬では効果が薄いのだろう。かと言ってそれ以外の薬はまだ未承認の物ばかりなので、現状は今の治療法しか対処の仕様がない。
なら他に薬は存在しないのかというと、決してそういうわけでもない。実際2017年にとあるFOP患者から作成したiPS細胞を使った効果が期待できる候補物資を見出し、2020年にラパマイシンと呼ばれる薬によってFOPマウスの骨化の抑制効果が見られている。だが論文こそ発表されているものの検証が不十分な面もあり、現段階ではFOP患者への投与は承認されていない。
つまるところ、カナの病を治すには、まだまだ時間が必要というわけだ。
こうしている間にも、カナの病状は悪化していく一方だというのに。
「なぁに? さっきから私の体を舐め回すようにジロジロ見て。やらしいんだ〜」
「人聞きの悪い事を言わないでくれ」
などと嘆息混じりに応えつつ、僕はそばにあったパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「ほんと、君はいつ会っても相変わらずだな」
「そんな事ないでしょー。日に日に可愛くなっていく私の顔が目に入らないのかな」
「日に日に生意気になっていくの間違いだろ」
「そう思っているのなら、それは奏先生の目が節穴って事だよ。先生が整形外科医を目指して頑張っている間に、私もプリティーでキュートかつブリリアントな自分を追求していたのです」
「具体的にはどんな風に?」
「まずは美白かな。ほら、前より白くて肌がきめ細かくなってるでしょ? いつも使ってる化粧水や美容液を変えてみたり、美肌になれるマッサージを自分で調べて試してみたり、けっこう頑張ってたんだよ?」
「そうか。どうせなら腹の中も白くなってくれていればよかったのにな」
「あはは。奏先生の腹黒さには負けるよー」
「いやいや。君の腹黒さに比べたら僕なんて驚くような白さだよ」
「あっはっはっ。こやつめ、言いおるわ」
まるで悪代官みたいな笑い方をするカナに、僕もつい「ふっ」と失笑をこぼす。ほんとにこの子は、ボケに余念のない奴だ。
なんて笑っていると、ふとカナがこちらをジーッと見つめているのに気が付いた。
「なんだ? 僕がどうかしたか?」
「ううん。ただ、奏先生の雰囲気が去年初めて会った時よりもだいぶ変わったなあって」
その言葉に、数時間前まで話していた先輩医師を思い出した。あの人も同じような事を言っていたが、そんなに変わったように見えるのだろうか。
「主治医の先生や看護師さんも言ってたよ。奏先生は前より雰囲気が柔らかくなったって。うん。これは私のおかげで間違いないね」
「そういうのは自分で言わない方がいいぞ。謙虚さのない奴だと思われる」
「でもさ、少なくとも私と関わっていなかったら周りの人達と仲良く話す事もなかったんじゃない?」
「それは……」
言葉が続かなかった。否定できなかったからだ。
「そういえば看護師さん達に教えてもらった事があるんだけど、奏先生って周りの人にも整形外科を目指すって言ってたんでしょ? それって少しでも私との時間を増やそうとしてくれていたからじゃないの? 前みたいにこそこそ会うよりは、堂々と整形外科を目指すって言った方が私と会いやすくなるから」
ニヤニヤと挑発的な笑みを浮かべながらこっちを見つめてくるカナに、僕は露骨に溜め息を吐いた。
「……君はいつから探偵志望になったんだ?」
「おっ。じゃあ認めるんだ、さっき私が言った事」
「それは君の想像に任せる」
「あー。誤魔化したー。大人のクセにー」
「大人は狡い生き物なんだ。これを機によく覚えておくといい」
それよりも、と僕は話を変える。
「最近、体の調子はどうなんだ?」
「……なんか、久しぶりに自分の子供と会話する、気難しいお父さんみたいな言い方だね」
「茶化すな。僕は君の担当医ではないから、カルテ以外で体の調子を聞けるのは今みたいな時間しかないんだよ。君だって知っているはずだろ?」
「そりゃ知ってるし、実際これまでも何度か診察まがいな事をされたけどさー」
「診察まがいじゃない。正真正銘の診察だ」
「じゃあ訂正して、お医者さんごっこ」
「余計いかがわしい」
ともかく、と僕のツッコミをさらっと流して、カナは語を継ぐ。
「担当の先生……生川先生にはちゃんと診てもらってるわけだし、奏先生まで診察する必要なくない? ていうかこれ言うの、もう何度目だし」
「確かに何度も言われたが、僕も知っていて損はないはずだろ。担当医がいつでも君を診られるわけじゃないんだから」
「それはそうかもしれないけどさ……」
どうにも歯切れが悪い。何か診てもらいたくない理由でもあるのだろうか。
「ほら、なんとなくわかるでしょ? 男女的なあれとか色々さ……」
「男に触れられるのが嫌って事か? だが君の担当医だって男のはずだろ」
「それはそうなんだけど! そうじゃなくて、奏先生にだけは触られたくないの! んもう、どうしてわかってくれないの!」
バンバン! と横向きで寝ながら布団を叩くカナ。何をそんなに荒ぶっているのか見当も付かないが、よほど僕に診察されたくないらしい。もうカナと出会って一年以上になるが、一体いつになったら診察させてくれるのやら。
「じゃあせめて体調だけでも聞かせてくれ。ここ最近気になるところはないか?」
「別に何もないですー。普段通りですー」
と頬を膨らませながら応えてきたカナに、僕は「本当か?」と三度訊ねる
「少し前にとある看護師から聞いた話だが、この間食事の際にご飯を吐き出したと聞いたぞ」
「……むー。奏先生のクセして妙なコミュ力を発揮しちゃって……」
「で、実際のところどうなんだ?」
僕の問いかけに、カナは気まずそうに目線を逸らしつつ、
「……吐いちゃったのは本当だけどさ、でもあれだから。ちょっとむせちゃっただけだから。ほんとそれだけだから」
「……………………」
カナはこう言うが、おそらく嘘だろう。なぜなら食事中に吐き出したのはこれが一度だけではないと前もって件の看護師から聞いていたからだ。
おそらく、顎関節にも骨化の進行が始まりつつあるのだろう。それでうまく噛む事ができず、喉を詰まらせた可能性が高い。すでにレントゲン写真を撮っているはずなので、それさえ見れば済む話だったのだろうが、どうしても本人から直接聞きたかったのだ。
カルテやレントゲン写真だけでは、カナの心情までは読み取れないから。
きっとこんな風に強がっているが、カナ自身が一番恐怖に感じているに違いない。そのためにはカナから今の心の内を曝け出してほしかったのだが、そうはうまくいかないか。自惚れかもしれないが、割と僕には心を開いてくれている方だと思っていたのだが。
「しょうがない。今日は諦めるとしよう」
言って、僕は椅子から立ち上がった。そろそろ問診が始まる時間だからだ。
「えー。もう行っちゃうのー?」
「ああ。まだ新米医師だからな」
「あ、そっか。もうヒヨコ先生じゃなくてピカピカのニワトリ先生になれたんだねー。立派になったもんだー。うんうん」
「どうして君が誇らしげなんだ……」
「私が育てたようなものだからね。えっへん」
「どこから来るんだ、その自信は……」
さっきまでプリプリと怒りを露わにしていたのが嘘のようである。
「あ、先生。仕事に戻る前に、ひとつだけ教えてほしい事があるんだけど」
椅子を元の位置に戻そうと手に掛けたところで、脈絡なく言葉を発してきたカナに、僕は眉をひそめつつ「なんだ?」と訊ね返す。
「──奏先生は、どうして整形外科医になろうと思ったの?」
「……前に言わなかったか、それ」
「私のためじゃないってのは聞いたけど、ちゃんとした理由まではまだ聞いた事なかったからさ」
「……………………」
カナの言葉に、とっさに返事ができなかった。答えに詰まったわけではなく、考えなしにただ思い浮かべた言葉だけを並べたくなかったからだ。それくらい、僕にとっては重要な問いかけだった。
だからこそ、適当な言葉で流したくなかった。特に子の前では。
「……君のためじゃない。それは本当だ」
椅子を片付けたあと、僕は改めてカナと正面から向き直った。カナから見えやすいよう、少し腰を屈めながら。
「まあ、そういう気持ちがまったく無かったと言えば若干嘘にもなるが」
「だよね。そんな気はなんとなくしてた。奏先生、なんだかんだ言ってもお人好しだからねー。だから奏先生が整形外科医になったのも、きっと私のせいでもあるんだろうなあって」
「いや、さっきも言ったがそれはあくまでも理由の一部であって……」
「うん。それもちゃんとわかってる。もしも私の同情心だけで整形外科医を目指そうとしていたのなら、今頃グーパンチでぶっ飛ばしていたところだよ」
言いながら、まだ自由の利く右手で「シュシュッ」と空パンチを繰り出すカナ。
「それは怖いな……肝に銘じておくとしよう」
「むしろよーく刻んでおいてね。そういう勝手な同情心で将来を決められたら堪ったもんじゃないし。私を理由に色々な事を諦められちゃうのは、もう家族だけで十分だよ」
家族だけっていうか家族だけでも十分キツイんだけどさ、と苦々しい笑みを浮かべるカナを見て、僕は人知れず拳を握り締める。
こうして言葉として聞かされて今からながら痛感させられる。医者の無力さを。体だけでなく、患者やその家族の心の苦しみすら満足に取り払う事もできない自分の不甲斐なさを。
「それで? 私が理由じゃないのなら、本当は何が理由だったの?」
「本当の理由、か……」
カナの質問に少しだけ黙考したあと、やおら語を継いだ。
「君が理由ではないが、整形外科医を目指そうとしたきっかけにはなったかな……」
「私がきっかけ……?」
「ああ。君には話した事はなかったけど、僕は元々医者になりたくてなったわけじゃないんだ。ただ他になりたいものもなかったし、親の言いつけとか祖父母の借金もあってなし崩し的に選んだだけというか、そんな感じでな。本当に不誠実な志望動機だったんだ」
「いや、それで医者になれちゃうというのも十分すごい話だと思うけど……だって医大に入るのってめちゃくちゃ大変なんでしょ?」
「勉強だけは昔から得意だったからな。まあそれはともかく、本当になりたくてなった職業じゃなかったんだ。だから研修医になった頃もほとんど作業感覚で実務をこなしていた。日々を死んでいるように生きていたんだ」
だから、毎日をどうでもいいとばかりに過ごしていた。心が砂漠のように乾き切っていた。
「そんな時に君と出会った。最初は『なんだこいつ』と思っていたもんだが、難病になっても明るく振る舞う君を見ていたら、なんだか目が離せなくなってな。気が付いたら君の言いなりばかりになっていた。我ながら主体性がないからだとその時はそう思い込んでいたが、今ならわかる。
──きっと僕は、君が羨ましくて仕方なかったんだなって」
「私が、羨ましい……?」
「ああ。全力で今を楽しもうとしている君の姿が、僕の目にはとても眩しく見えたんだ」
それこそ、まるで道標のごとく頭上でいつも輝いている太陽のように。
「そんな君を見ていたら、今まで自分が恥ずかしくなってしまってな。自分の意思でなった職業ではないけれど、せめて君の前では胸を張れる自分でいたいと思うようになって──それで色々と模索した結果、整形外科医を目指す事にしたというわけだ」
一息にそう告げたあと、カナは目元を緩ませながら「そっか……」と情感たっぷりに相槌を打った。
「私の知らないところで、色々考えて一生懸命になって働いていたんだね」
「今さら感はあるけどな」
「そんな事ないよ。なりたいものができたっていうのはすごくいい事だと思う。それが何年経ったあとでもね。でもなんで整形外科医だったの? 奏先生が元々なろうとしていた内科医だって、十分立派だと思うけれど」
「……それも話さなきゃいけないのか?」
「え、ここまできて話してくれないの? それともけっこう複雑な話だったり?」
「いや、割と単純な方だが……」
「じゃあいいじゃん。こんなに可愛い女の子友達からのお願いなんだよ? ほら、早く早く!」
「……………………」
思わず頬を掻く。確かに単純ではあるが、単純であるがゆえに話しづらいのだ。特にカナの前では。
とはいえ、こんな曖昧な理由では納得してくれないだろう。カナの事だからしつこく追求してくるに違いない。それこそどれだけ月日が経ったとしても。
仕方がないと諦めの溜め息を吐きつつ、僕は顔を逸らしながらゆっくり口を開いた。
「……ちゃんと医者を目指すなら、まずは目の前の友達を救いたい。──ただ、それだけの話だ」
言い終えたあと、何故か沈黙が流れた。こっちら絶対カナにいじられると身構えていたのだが。
そんな感じで拍子抜けしつつ、そっとカナの表情を横目で窺ってみると、当の本人は面食らったと言わんばかりに口をポカンと開けていた。
「なんだ、その顔は」
「いや、まさか奏先生からあんなドラマでしか聞いた事のないようなセリフが出るとは思わなかったから、つい……。え、本人に奏先生だよね? 実は偽物だったりしない?」
「正真正銘、嘘偽りなく僕本人だ。それよりも、いくら何でも驚き過ぎだ」
「驚くよ! めちゃくちゃ驚くよ! だってあの万年朴念仁の奏先生が『友達を救いたい』なんて歯の浮くような事を言ったんだから!」
「万年朴念仁……ていうか歯が浮くって……」
「そもそも私の事を友達だって言ってくれた事自体、なにげに初めてだし!」
そこに関しては確かに初めてだったかもしれない。色々と気恥ずかしくて、今までカナ本人にはなかなか言い出せなかったが。
「でも、そっかー。奏先生、ちゃんと私の事を友達だと思ってくれていたんだー。嬉しいなあ」
言葉通り締まりのない顔でにへらと笑うカナを間近で見て、僕は思わず頬を掻いた。恥ずかしい思いこそしたが、まあ喜んでもらえたのならいいか。
「あ、けど私としては友達以上の関係になるのもやぶさかじゃないですよ? どう? 今なら関係を進展するチャンスだよ? 襲いたい放題だよ?」
「そういうセリフは大人になってから吐け。もう用がないのなら、いい加減僕は戻るぞ」
言って今度こそ踵を返す。いくら友達のお見舞いとはいえ、いつまでもカナの相手をしているわけにもいかない。
「……先生は、ちゃんと少しずつ前に進んで行っているんだねー」
と。
ともするとうっかり聞き逃しそうなほどの木枯らしが吹いたかのような幽けき声に、僕は誘われるように後ろを振り返った。
「これからもそうやって一歩ずつ進んでいって、私の見ていない間にどんどん成長していっちゃうだろうねー」
振り返ったその先にいた少女は、静かに微笑んでいた。
どこか寂しげに。そこはかとなく儚げに。
その触れたら消えてしまいそうなほどセンシティブな表情から目が離せじ、僕はそのまましばらく立ち尽くしてしまった。
口 ■
あれから半年ほどが過ぎた。
この半年の間、僕は目まぐるしく日々に忙殺されていた。上級医にこそなれはしたが、先輩やベテラン医師の熟練した腕を前にすると、自分なんてまだまだ未熟者なんだと痛感させられては医学者や論文などを読み漁ったりオペの練習をしたりと、通常の業務もこなしながら己のスキルアップにも励む日々に明け暮れていた。
それは自分のためではなくカナを救うためという理由が一番大きかったのだが、そんな僕の決意とは裏腹に、カナの容態は日に日に悪化していった。半年前と同様、こちらの想定を上回るスピードで。
例を挙げると、半年間ほど前はまだ固形物を口にできていたカナだったが、数週間前から流動食に変更される事を余儀なくされていた。口周囲の筋肉が次第に骨化していき、咀嚼する事が困難になってしまったのだ。
開口障害そのものは十八歳までに七割の確率で起きるものだが、カナの場合は経管栄養……つまりいずれはカテーテルやチューブで胃や腸に直接栄誉を注入しなければならない段階までは迫っていた。いや、担当医である生川先生の話では呼吸障害に陥るのもそう遠くないかもしれないと深刻な面持ちで話していた。
もしそうなれば、FOP患者の四十代以上がほぼ全介助になるという過酷な未来が、まだ十代半ばというカナの身に迫ろうとしている事になる。未だ有効性が証明された治療法がないと言うのに、だ。
そんな中、新米医師である僕のできる事なんて、ちょくちょく時間の隙間を見つけてはカナの見舞いに行く事くらいしか思い付かなかった。
そして今日も例によって昼休みになってからカナの病室を訪れたのだが──
「ここ最近、ちょくちょく見舞いに来てくれる回数が増えたよねー。もしかして、医者って思っていたより暇なの?」
「そんなわけないだろ。僕はまだ新人だから、ベテランに比べたら時間に余裕があるってだけだ」
相も変わらず憎まれ口を叩くカナに、僕は嘆息混じりに言葉を返す。実際は新人の方が学ぶ事や自己練などか多くて忙しい場合もあるので一概には言えないのだが。
というより僕もご多分に漏れず忙しい方なのだが、生川先生の勧めもあり、見舞いに行けるだけの時間をどうにか必死になって作っているだけである。もちろんこんな事、カナ本人に言うつもりはないが。
「ふーん。てっきり私に会うために時間を作ってくれているのかと思ったけど、そうじゃないんだー。へー違うんだーふーん」
「……君は、ほんとに意地が悪いな」
ついでに言うと性質も悪い。こっちの心情をわかった上で言っているに違いないので。
「えー? 意地が悪いのは奏先生の方でしょ? 最初から素直になって私のためだ言ってたら、私だってこんな言い方はしないのにー」
「そんな気恥ずかしい事言えるか」
「あ、じゃあ私のためっていうのは認めるんだ?」
「……さあ。どうなんだろうな」
「あー。またそうやって誤魔化すー。ほんと。そういうところだぞー?」
ぶーぶーとブーイングを垂れるカナ。そんなカナに僕は「それよりも」と露骨に逸らす。
「体の具合はどうだ? 何かおかしいところとか気になるところはないか?」
「それ、ここ最近私に会うたびに訊いてくるよね。まるで束縛の強い彼氏みたい」
「誰が彼氏か。僕は医者として君の体を気にかけているだけだ」
「主治医でもないのに?」
「主治医でもないのに、だ。……なんか前にも同じような事を言ったような気がするな」
「言ってたねー。もしかしてループしちゃってるのかも?」
「そんな映画みたいな事があってたまるか」
またぞろ、何かしらの作品を観て影響でもされたのだろうか。
などと呆れていた最中、カナが「さっきの質問だけどさー」と不意に話を戻した。
「私の事は気にしなくていいよ。別にいつもと変わりないからさ」
「変わりないって……」
そんな事があるはずがない。前にも述べた通りカナの開口障害は進み、両足だけでなく両腕さえほとんど使えない状態になってしまっている。背中の骨もどんどん質量を増し、まるで背鰭のようになっているのはレントゲン写真で確認済みだ。
中でもこの半年で一番変わったのは頭だ。FOPの影響で毛髪が薄くなってしまっているのだろう、以前は無かったはずのシルクのヘアキャップを僕の前では常に被るようになっていた。
なんていう僕の視線に気付いたのか、カナはヘアキャップを指先で触りながら、
「ああ、これ? 確かに最近よく被るようになったけどさ、こんなのオシャレだよオシャレ。別に気にするような事じゃないから」
「本当にそれだけの理由か?」
「…………いや、ぶっちゃけ嘘だけどさー。それとも奏先生は私に『最近抜け毛が気になってー』とかオッサンみたいな事を言わせたいの? さすがにありえなくない?」
「そ、そうか……うん、言われてもみれば確かにその通りだ。すまん、配慮に欠けていた……」
半眼で見つめてくるカナに頭を下げて謝った。
「うん。今のはさすがにデリカシーが無かったかな」
「今回ばかりは全面的に君が正しい。医者であるはずの僕が患者の心に寄り添えてなかった。本当にすまない事をした……」
「そ、そこまで深刻に受け止めなくても……」
奏先生ってたまに扱いが面倒臭い時あるよね、とカナに嘆息混じりに言われた。面倒臭いって……。
「そもそもさー、どうしたって治りようがない病気なんだから、こんな風にどんどん悪化していくのはすでにわかりきっていた事だったし。だから一応覚悟くらいはしていたつもりだよ。それなのに私より私の体を気遣ったりしちゃってさ、そういうの、正直微妙な気分になる」
「微妙な気分になると言われても、僕は医者だぞ? 患者の体を気遣わなくてどうするんだ」
「でも主治医じゃないじゃん」
「主治医じゃないが友達ではあるだろ。前にも言ったような気がするが」
こんな事を言ってらまた揶揄われそうだと内心苦笑していた僕ではあったが、カナの表情は思いの外険しかった。
「確かに前にも訊いたけどさー。でも友達だからって何でも答えないとダメなの? 黙って何でも友達の話を受け入れないとダメなの? そもそも奏先生の思う友達って何なの?」
「どうした急に。君がそんな風に刺々しくなるなんて珍しい……」
カナの質問に答えず、逆に訊ね返す。いつもは能天気に笑ってばかりいる彼女が、いつになく厳めしい物言いをしてくるので、どうしても違和感を覚えてしまったのだ。
「別にいつも通りだよ。これが普段通りの私。それとも先生は私を万年脳内お花畑のお気楽娘とでも思ってた? 友達とか言う割にはずいぶん勝手なイメージを押し付けてくるんだね」
困惑するあまり無言のままでいる僕をよそに、カナはさらに毒づく。
「それとも、単純に私を憐れんだとか? まあわからなくもないよ。ただでさえ難病を患っているのに、これまでのFOP患者と比べられないくらい悪化しちゃってるもんね。そんな私を見てたら可哀想で仕方なくてついつい過保護になっちゃうんでしょ? それってもう友達の振る舞いって言えないよね」
「……本当に今日はどうしたんだ。僕はただ君の体を少しでも良くしたいと思っているだけだ。僕だけじゃない……君の主治医である生川先生だって『あの子はとても心が強いから、きっと病気も治る』とよく言っているし、看護師の方々だって『叶ちゃんはいつも元気だから、逆に私達の方が元気をもらっている』と笑顔で話していたぞ。つまりみんな君の事が大好きで、君のために日々頑張ってくれている。それは僕だって同じだ。だから──」
「他の人なんて関係ないでしょ! 私は奏先生がどう思っているかだけを聞きたいの!」
と、今まで聞いた事もないカナの怒声に、僕は茫然自失と固まってしまった。
そうして言葉を失ったまま、互いに押し黙ったまま体感的に数分ほど過ぎた頃、カナが気まずそうに顔を枕で埋めながら「ごめん……」と口火を切った。
「私、先生に八つ当たりしちゃった……。先生は何も悪くなんてないのに……」
「……いや、きっと僕の言葉選びにも問題があったんだろう。配慮が足りなくてすまない」
「謝る必要なんてないよ。ほんと、ただ私がイライラしちゃっただけだから……」
「そうか……ちなみにだが、そのイライラの理由とやらを聞いて大丈夫か? 嫌なら無理に答えなくてもいいが……」
僕の問いかけに、カナはチラッと枕から半分だけ顔を覗かせて、
「…………私が奏先生を初めて見た時の話って、まだ覚えてる?」
「あ、ああ……」
むしろよく覚えている。カナが僕に興味を持つようになった始まりでもあり、またそれまで難病という現実を前に打ちひしがれていた彼女の転換期になったとも言える印象深い話だからだ。
そしてそれは自分とて例外ではなく、無気力同然に生きていた僕の意識を多少なりとも変えるきっかけになった話でもあった。忘れるはずもない。
「あれさ、別に嘘ってわけでもないんだけれど、今にしてみれば全部本当ってわけでもなかったんだよね」
「……どういう意味だ? 自分で言うのもなんだが、屋上で自堕落に過ごしていた僕を見て、気楽に生きようと決めたんじゃなかったのか?」
「うん。それは合ってるし、実際あれから病気の事なんて気にしないで適当に生きちゃおうって思うようになったんだけど、こうしてFOPがどんどん進行していくのを自分の体で味わっちゃうとさ、やっぱどうしても気持ちが塞ぎ込んでくるんだよね。前向きな考えができなくなってくるっていうか、だんだん自分が保てなくなってくる感じって言えばいいのかな……」
そう語るカナの瞳は、まるで生気を失ったかのようにどこか虚ろだった。
相槌を打つ事すら、躊躇いを覚えるくらいに。
「特に今回のは本当にキツかったなあ。髪の毛がごっそり抜けてくるなんてさ、こんなの女の子として致命的っていうか即死級だよね。まあ、ちゃんとしたご飯が食べられなくて、味気ない流動食しか口にできないのも地味に堪えるけどさあ」
けどいつかそれすらもできなくなるんだよねえ、と困ったように微苦笑を浮かべるカナに、僕はかける言葉が見つからず、無力さながらに俯く。
経口摂取が困難になった患者が、満足に食事が取れない事にストレスを感じるというのはよくあるケースだ。だが塩分などを濃いめにすればその分体に負担もかけてしまう。ただでさえ弱っている体に医者として無理をさせるわけにはいかない。たとえ患者に不満を抱かれたとしても、だ。
しかも完全に経管栄養仕様ともなれば、見た目も加わりより一層ストレスを感じる事になってしまうだろう。まだ経管栄養の話は親御さんにしか話していないが、カナの様子を見るに、彼女自身、薄々何か勘付いているものがあるのかもしれない。
「でさ、さっきも言ったけれど、こういう状態になると考えも後ろ向きになってきちゃうの。私、いつまでこうして生きていられるのかなあ、とかね。酷い時は見舞いに来てくれる友達に対して『なんで私だけこんな目に遭わなきゃいけないの』って思っちゃう始末でさ。そのたびに自己嫌悪しちゃってますます暗い気持ちになったりしちゃうんだけど、正直に言っちゃうとね、最近はもう奏先生とこうして会うのが一番キツいんだ……」
「僕が……?」
訊ねる僕に、カナは申しわけなさそうに目線を逸らしながら、枕の上でこくりと小さく頷く。
「先生がね、どんどん変わっていく姿を見ていて……それまで人間関係なんてどうでもいいって感じだった奏先生が他の人の話をするようになったのを見て、すごく胸が苦しくなるようになっちゃってさ。最初は単純に友達が取られたみたいで寂しいのかもって思っていたけれど、最近になってようやくわかった。私は寂しいんじゃなくて、変わっていく奏先生を見て嫉妬しているだけだって」
「嫉妬……」
「うん、嫉妬。だって前向きに変わろうとしている友達に対して全然応援しようって気分になれないんだもん。本当に友達だって思ってるのら、寂しいと思っても普通は応援するもんじゃない? でも私はできなかった。奏先生の前では無理して明るく振る舞っていたけれど、本当は『変わらなくていいのに』ってずっと心の中で願ってた。そう気付いた時、私は奏先生を見て安心していただけだったんだって、今になってようやくわかったよ。
私は自堕落に生きている奏先生を見て、ただ優越感に浸っていただけだったんだ。難病になった自分を肯定して気楽に生きようと決めたんじゃなくて、奏先生と自分を比べて『あの人よりはまだ私の方がちゃんと生きている』って、他人を見下してホッとしたかっただけだったんだよ……」
話しながら、カナは自嘲的な笑みを浮かべる。罪悪感に苛まれて打ちひしがれているかのような、苦渋に満ちた笑みで。
こんなカナを見るのは初めてだった。明るくて悪戯好きで、難病に侵されているとは思えないくらいにいつ会っても無邪気に笑っている姿しか思い浮かばかない少女が、今は沈鬱な表情を浮かべている。
想像していなかったわけではなかった。いつも天真爛漫に振る舞っているが、心の中では次第に病魔で蝕まれていく自分の身体に不安を抱いているかもしれないと──恐怖に震えているかもしれないとは考えていた。
認識が甘かった。もはやそういう段階を通り越していた。
カナはずっと前から、自分の生を諦めていたのだ。
諦めていたからこそ、やがてそう遠くない内に訪れる死を受け入れてからこそ笑っていられたのだ。
しかも、僕という欠陥品もそばにいてくれたおかげもあって。
そんな欠陥品だった僕が、いつしかだんだんと人間らしくなっていくのを、彼女はどんな気持ちで抱いていたのだろう。
自分よりも不出来だと思っていた存在が次第に前へ進んでいく姿を、カナはどんな目で眺めていたのだろう。
いつもどんな感情を内に秘めながら微笑んでいたのだろう。
わからない。少し前までずっと無為に無駄に無気力
に生きていた僕なんかでは到底想像も付かない。
静寂が刻々と流れる。何か発言すべき場面のはずなのに、依然として頭の中は暗闇に包まれていて光明のひとつすら見出せない。
いつまでそうしていただろうか。ふとカナが「ねえ先生」と呟いた。
「前にさ、なんでもひとつだけ私の願い事を叶えてくれるって約束してくれたじゃない? あれ、今使っていいかな?」
カナの脈絡ない言葉に、僕は身構えるように一歩後ろに引いた。
嫌な予感がする。このタイミングでお願い事を使ってくるなんて、絶対良い事でもなければ、まして簡単な事でもないはず──。
何か、これまでの関係が一変してしまうような予感を覚える僕に対し、カナは今にも泣きそうな精一杯の微笑を浮かべて言った。
「私達、もう友達やめよっか……」
□ ■
雨が降っていた。早朝から降っていた雨は昼を過ぎても止まず、夕方からはさらに雨足が強くなるという予報が出ていた。その内、大雨注意報が出るかもしれない。
今日はカナの病室には行かなかった。というより、ここ二週間近くカナと話すらしていない。カナから絶交じみた宣言をされてから以降、どうにも気まずくて足を運ぶ気になれなかったのだ。
きっとカナにしてみれば、二度と会わないつもりであんな事を口にしたに違いなかったから。
さすがにそんなカナの心情を無視してまで会いに行けるほど、無神経でもなければ厚顔無恥でもない。前の僕ならどうだったかはわからないが。
しかしこのままだと、一切会えなくなるような気がする。いやカナはほとんどベッドから離れられない状態なので会いに行く自体は可能なのだが、カナ本人が一体どんな顔をしてくるか。怒られるくらいならまだマシだが、泣かれでもしたら目も当てられない。
そんな事を考えてばかりいるせいか、最近業務にも身が入らない。もちろん診察や手術の補佐に入る場合などは命に関わる事なので完全に頭を切り替えるが、書類仕事をしている時についカナの事を考えてしまう時がある。どうやら気を抜いている時にカナの事を思い浮かべてしまうらしい。
「このままだとよくないのはわかっているつもりなんだけどな……」
休憩スペースにあるベンチに座りながら、僕は独りごちる。周囲に誰もいないからいいものの、項垂れながら独り言を呟いている医者なんて、他の人からしてみれば異様な奴としか思われないだろう。
それでも、ここから離れる気も独り言をやめる気にもならなかった。
「久しぶりだな。こんな気分になるのは……」
どうにもならない事に直面して、ただ流されるように生きていくこの感覚は。
ただあの時と違うのは、どうでもいいと割り切る気分にはなれなかった事だ。
前の僕ならきっと諦めていた。どうでもいいと自分を誤魔化して生きていた。現実から目を逸らそうとしていた。
けどそんな気分になれなかったのは、カナが僕の中で大きな存在になりつつあるからだと思う。いや、違う。カナはすでに僕にとって特別な存在だ。
この先一生出会えるかどうかわからないくらいの、大切な友達として。
絶交宣言こそされてしまったが、今でも僕はカナを友達だと思っている。だがそんなカナを元気付ける方法を──ドン底の暗い淵から救い上げる方法を何ひとつとして思い付く事ができない。
医者なのに。友達であるはずなのに。
「情けない……」
これじゃあ一体何のために整形外科医になったというのか。患者の心すら救えないなんて、医者失格だ。
「最近は浮かない顔ばかりだね、櫻井くん」
と、いつの間にそこにいたのか、カナの主治医である生川先生が自販機の前で財布を取り出しながらこちらに顔を向けていた。
「まあでも、君の浮かない顔自体は研修医時代にもよく見ていたからそれほど新鮮味はないかな。むしろ懐かしさが込み上げてくるような気分だよ」
言いながら、生川先生は財布から取り出した小銭をコイン口に投入した。
生川先生はこの道二十年以上のベテラン医師だが、このフランクさと経歴を鼻にかけない物腰柔らかな人柄もあり、医師や看護師だけでなく、患者からも絶大な信頼を寄せられている。そして僕が整形外科医を目指そうとした要因のひとつでもある。
それくらい尊敬している生川先生が、しばらく自販機の前で「何にしようかな」と指を彷徨わせたあと、ややあって炭酸ジュースを購入した。
「はい、櫻井くん。どうぞ」
「え。僕に、ですか?」
「炭酸は苦手かね?」
「いえ、平気な方ですが……」
「なぜ炭酸を選んだのかって事かい? 君が沈んだ表情をしているものだから、炭酸でも飲んで弾けてもらおうかなと思ってね」
「はあ。ありがとうございます」
生川先生なりの小粋なジョークだろうかと戸惑いつつ、差し出された炭酸ジュースを受ける。
「おや、イマイチな反応だねぇ。君はツッコミ上手だと聞いていたのだけど」
「……それ、誰から聞いたんですか?」
「主に叶ちゃんから」
あのやろう。余計な事を生川先生に吹き込みおってからに。
「まあ私は君よりも一回りは年上だし、気軽には突っ込めないか。あはは」
そう大笑したあと、さらにもう一本炭酸ジュースを買う生川先生。ちなみに僕とは違ってカロリーゼロの方だった。
「最近腹回りが気になっていてね。嫁にも食い過ぎや飲み過ぎは気を付けろと言われているから、なるべくカロリーを抑えようと気にかけているんだよ。医者の不養生とは言われたくないからね」
「見た目にはわかりませんが……」
「ぱっと見はね。でも実は服を捲るとけっこう腹が出ていたりするんだよ」
周りのみんなには内緒にね、とはにかんで見せたあとに生川先生は炭酸ジュースのタブを開けて口に含んだ。
「見た目と言えば、君も前に比べてだいぶ雰囲気が変わったよねぇ。話しかけやすくなったというか」
「それ、先輩にも言われました」
「そっか。その理由には気付いているのかい?」
「先輩にも言われましたが、カナ……雪村叶と接するようになったからではないかと」
「うん。私もそう思う」
言ってもう一度缶ジュースを口に運んだあと、「けどそれだけかなあ」と生川先生は続けた。
「……どういう意味ですか?」
「君が変われたのは、君自身変わりたいという意思が心のどこかにあったからじゃないかな」
「僕自身が、変わりたい……?」
「これは僕の持論だけどね、人は変わりたいと思った時にしか変われないと思うんだよ。周りの人にどんな言葉を掛けられたとしてもね。だから叶ちゃんがきっかけになったのは間違いないけど、君が変われたのは君の意思あってこそだと僕は思うよ」
「そう、でしょうか……」
そう返しつつ、僕は今の複雑な心情をどうにか言葉として吐露する。
「僕は少し前まで流されるように生きて、特に自分の考えも持たずに無為な生活を送っていました。そんな僕にとって雪村叶という少女は自由奔放かつ天真爛漫で、僕にはとても眩しく見えました。だから僕が変われたとしたら、彼女が意識的にしろ無意識的にしろ僕を明るいところへ引っ張ってくれたからだと思っているんです」
「なるほど。君にとって叶ちゃんは道標のような存在だったんだねぇ」
「はい。その通りです」
「けど、それは叶ちゃんも同じだったと思うよ」
「え? カナが……ですか?」
「うん。君も本人から聞いているかもしれないけど、叶ちゃんがここに来始めた時は今よりもずっと暗くてねえ。まあFOPになったと聞かされたら無理はないけど、本当にドン底の最中って感じだったよ。
それが途中から何故か時代に明るくなって、私は特に何もしていないのに一体どういう事なんだろうと不思議に思っていたけれど、君から叶ちゃんの話を聞かされた時に合点がいったよ。ああ、きっとこの子が叶ちゃんを元気にさせてくれたんだってね」
「いや、僕は何も……。ただ彼女に振り回されていただけです」
「それで良かったんだよ。きっと君といるのは本当に楽しかったんだろうねえ。知っているかい? 君は当たり前のように叶ちゃんを『カナ』って愛称で呼んでいるけれど、君以外には呼ばせた事は一度たりともないんだよ」
「えっ。僕だけ、なんですか……?」
驚く僕に「私の方が付き合いは長いのにねえ」と苦笑しつつ、生川先生は言の葉を紡ぐ。
「前に理由を聞いた事があるけれど、笑って誤魔化されたよ。元々櫻井くんの話はあんまりしたがらない感じだったけれどね。きっと、それだけ君を独り占めにしたかったんだろうねえ」
まあ一度も私の前で「カナ」って呼んでくれた事がないって前に叶ちゃんが愚痴を零していたけどね。
と続けた生川先生に、僕はただポカンと口を開けながら放心してしまった。
信じられない。そりゃ好かれているという自覚はあったが──本人からも好意に近い事を言われているし──まさかそこまで僕を慕ってくれていたとは。
「だからって言うわけでもないけれど、叶ちゃんを元気にさせられる人がいたとしたら、君しかいないと私は思うよ」
そう言って缶ジュースを真上まで傾けたあと、生川先生はおもむろに立ち上がった。
「私は叶ちゃんの症状を少し抑える程度しかできないけど、君は叶ちゃんの心を明るく照らす事ができる。それは医者として最高の治療法なんじゃないかな」
「生川先生……。もしかして、僕達の事を何か聞きました……?」
「何があったかまでは知らないけれど、最近の君と叶ちゃんを見ていたら何かあったんだろうなって事くらいはわかるよ。私だって伊達に医者はやっていないからね」
「でも、僕にできるでしょうか。本当にカナを元気付ける事なんて……」
「さっきも言ったけれど、人は変わりたいと思った時にしか変われない。以前の君のようにきっかけさえあれば、叶ちゃんも今の暗い淵から抜け出す事も無理じゃないと思うよ。そうでなきゃ私が病室を訪れるたびにガッカリした顔なんてしないさ」
「ガッカリ……? カナが……?」
「あっはっはっ。きっと私みたいなおじさんには眼中にないって事なんだろうねえ」
私の中ではまだ若いつもりなんだけど、と冗談混じりに言ったあと、生川先生は空き缶をゴミ箱に捨てて踵を返した。
「まあ何かあったらいつでも相談しなさい。叶ちゃんが元気になってくれるなら何でも協力するから」
そう温和な表情で告げたあと、生川先生は廊下を歩いて去ってしまった。
そうしてまた一人になった僕は、少し温くなってしまった缶ジュースをしばらく両手で握りしめたまま黙考する。
今の僕に何ができるかはわからない。だが生川先生の言葉を信じるなら、まだカナを明るい場所へ引っ張り出す事ができるかもしれない。かつてのカナが僕にしてくれたように。
「けど一体どうすれば……」
と、不意に缶ジュースがベコっと音がなった。知らぬ内にどうやら力強く握りしめていたらしい。
幸い中身こそ漏れ出てないが、少し凹んでしまっている。かなり不恰好になってしまった。
とその時、僕の頭の中で何か閃くものがあった。
まだ完全に形となっているわけではないが、その天啓というべきアイデアに、僕は我知らず立ち上がる。
上手くいく保証はない。だがどのみち何もしなければ最悪な状態が続くだけだ。だったら試さない理由なんてない。
思い立って、タブを開けて一気に缶ジュースを飲み干す。やはり少し生温かったが、シュワシュワと弾ける炭酸が僕の気分を高揚させる。
やれる事はやってみよう。失敗したって構いやしない。僕の挫折なんて、カナの苦悩に比べたらどうでもいいような事なのだから。