前編
作中にて実在する難病を扱っていますが、一部誇張表現が使われております。あらかじめご了承ください。
太宰治著の「人間失格」の一文に「恥の多い生涯を送ってきました」というのがあるが、それで言うと僕の場合は、意味のない生涯を送ってきたと言うべきなのかもしれない。
これまでなんの喜びも楽しみもなく、これと言ったドラマチックな苦労も悲壮もないまま無為に生きていた僕にとっては。
今までは、そんな風に思っていた。
あの日、彼女と出会う前は──
□ ■
「どうでもいい……」
春日野中央病院。春日野市内で最も大きい総合病院の屋上からぼんやりと眺めながら、僕は吐き捨てるように呟く。
空は昨日の予報通り快晴ではあるが、たとえ雨が降っていたところで僕にはどうでもいいような事だ。雨に振られて雨に濡れたところで別段問題はない。医者の卵である研修医が風邪でもひいたら患者の信用に関わるかもしれないが。
だがそれにしたって、僕にとってはどうでもいい。
所詮親の言いなりで医者を目指しているだけなのだから。
「そろそろ昼休憩か……」
腕時計で時間を確認する。あと数分で研修医室に戻って、午後診療の準備をしなければならない。
はあーと嘆息を吐きつつ、僕はベンチから腰を上げて踵を返した。
僕の家は昔からかなりの貧乏で、それこそ給食費すらいつもギリギリで払っていた。どうにか中学、高校、大学と行かせてもらえたが、修学旅行どころか友達と買い食いした経験すらない。少しでも学費を貯めなければならなかったからだ。
そうまでして──それこそ一人息子である僕を巻き込んでまで──親が僕を大学に行かせたかったのは、ひとえに貧乏から脱出するためだった。僕を医者にさせる事によって。
しかしそれは貧乏からくる見栄もあったのだろうと思う。親類は医者が多いのに、自分達だけなぜ貧乏なのだろうと。どうして肩身の狭いをしなければならないのだろうと。
理由を突き詰めれば、僕が生まれたばかりの頃……ちょうど同時期に祖父が亡くなった直後に発覚した借金のせいなのだが、そのせいで僕が医者を目指す事になってしまうとは、亡き祖父も夢にも思わなかっただろう。何せ祖父母や両親にしても、普通の会社員でしかなかったのだから。
しかも家族揃って高卒。加えて高校もどこにでもある公立校。そんな家系の中で僕だけが医大にまで進んで研修医になったというのだから、祖父も今頃あの世でひっくり返っているかもしれない。
もっとも、別段僕は医者になりたかったわけではない。幼少の頃から耳にタコができるほど両親に医者になれと言われ続けて、それで仕方なく医者になったにすぎない。
いや、違うか。そもそも僕になりたいものなんてなかった。子供の頃から冷めていたというか、何かに熱中した事なんて一度もなかった。だからどうせ就職するなら親孝行も兼ねて少しでも生活の質を上げるために医者になるのもありかと思ったのだ。
結局のところ、どうでもよかったのだ。
この先、自分がどうなろうかなんて。
ただ、苦痛を伴わない人生さえ送れたら。
それは二十五歳になった今でも、変わらないままでいる。
だからと言って、仕事をおざなりにしていいわけでも周囲に迷惑をかけていいわけではない。まして他者の命を預かっている身が適当に仕事をしていいはずもない。
だから研修医として働いている時はこれまで以上に集中しているわけなのだが、その反動か、最近はすっかり表情筋が死んでしまい、同期の研修医や患者にすら「鉄仮面」などと揶揄されるようになってしまった。
元来愛想のいい方ではなかったが、他者とのコミュニケーションが最も必要とされる仕事で表情が死んでしまうというのは、何かと死活問題ではある。場合によってはクビにされるかもしれない。まあ、そうなったらその時はその時という心構えでいるのだが。
そんなわけで、僕が病院内を歩く時は大抵周りから距離を取ってくる事の方が多い。まあこっちも積極的に絡みたいわけではないので、僕としては正直助かっているくらいなのだが、指導医には渋い顔をされるのがほとんどなので、やはり現状維持というわけにはいかなさそうだ。
しかし今すぐどうこうできる問題でもなく、ましてこうして病院の廊下を歩いている時も警戒されるような目で見られては、こちらとしても距離を詰めようと気にはならない。僕だって腐っても人間だ。どうでもいいが口癖の僕でも、敵意や悪意を向けられて何とも思わないほど神経が図太いわけでもない。
そうして肩を竦めながら廊下を歩いていると、ちょうどMRI室の近くを通りかかったところで、足元にコツンと何かが当たったような気がした。
下を見てみると、それはどこにでも売られているタイプのボールペンだった。蓋が取れていたので、どうやらこっちまで転がってきたようだ。
「先生ごめーん。それ拾ってー」
声がしてきた方、つまり顔を上げて前を見てみると松葉杖を突いた少女が立っていた。
歳は十五、六といったところだろうか。ショートヘアのパジャマ姿で、左足が悪いのか、左手で松葉杖を突いている。こうして病院内を一人で歩いているという事は、一般病棟の子だろう。覚えはないが。
それはともかく、さっきまでは前方にいなかったはずの子がここにいるという事は、おそらくそばの角を曲がってきたのだろう。
なんて事を頭の隅で考えながら、僕は言われた通りにボールペンを拾って「はい」と彼女に手渡した。
「ありがと先生」
「どうも。けどここは人の往来があるから、遊ぶなら外の方がいいぞ」
「別に遊んでたわけじゃないですー。たまたまボールペンを落としちゃっただけですー」
幼児のように唇を尖らせながら反論する彼女に「ボールペンなんて普段患者が持ち歩くようなもんじゃないだろ」と淡白に言葉を返す。
「でも急にサインを求められるかもしれないじゃん。芸能人とかにさ」
「逆ならともかく、芸能人が一般人にサインをねだる機会なんて滅多に訪れるシチュエーションじゃないだろ」
「それもそっか。あはっ」
「………………」
先ほどからコロコロと表情がよく変わる女の子だ。元々の性格が明るいのか、もしくは感情が表に出やすいタイプなのだろう。俺とは正反対だ。
「ともかく、今度から気を付けるように」
「はーい。ところで先生、さっきから眉一つ動かないね。表示筋をお母さんのお腹に置き忘れちゃったのかな?」
「これは元からだが、そんなものを置き忘れるほど親不孝者じゃないつもりだ」
「じゃあ普段から笑ったり怒ったりしない人なの? やめた方がいいよー。そういうのって周りから見たら不気味でしかないから。それこそお父さんとお母さんが『オギャアオギャア』って泣いちゃうよ?」
「赤子返りした両親の方がよほど不気味だと思うが。というより、医者としては頭の病気の方を疑う」
それ以前に自分の目を疑うと思う。そんな奇怪な光景を目の当たりにしたら。
「ん? 先生って脳外科専門なの?」
「いや、僕は内科医を目指しているから。もっとも今は研修中だから、いずれローテーションの関係で外科にも行くと思うが」
「あ、じゃあまだお医者さんのタマゴなんだー。孵化するのはいつ頃なの?」
「研修医になって一年経ったばかりだから、まだまだ孵化するには程遠いな」
「そうなんだぁ。早く一人前のヒヨコになれるといいねぇ」
「そうだな。ヒヨコという時点で一人前というのもおかしな気もするが」
「ものの例えだよー。兎にも角にも頑張りたまえよ青年!」
「……激励どうも。君みたいな年下に言われるのは複雑な気分だけど」
そう応えると女の子は「にしし」と悪戯っぽく笑った。
さっきからなんとなく思ってはいたが、どうやら僕はこの子に揶揄われているらしい。僕みたいな自他共に認める朴念仁を揶揄ったところでなんの面白味もないと思うのだが。
「それはそうとタマゴ先生」
「せめて研修医と言ってくれ。周りにタマゴが好きなのかと誤解されてしまう」
「じゃあ研修医のおにぃさん。こんなところでいつまでも油を売っていていいの? おにぃさんが売っていいのは医術の方じゃないの?」
「有無を言わせない勢いで君の雑談に付き合わされていただけなのだが……」
「ああ言えばこう言う!」
「それは主にこっちのセリフだ」
口が減らないとは、まさにこの子の事を言うに違いない。
しかも初対面相手にこれだけでかい態度を取れるなんて、一体どんな人間関係を築いているのやら。
「閑話休題」
「人の口から聞いたのは初めての文言だ」
「話を戻すけど、お仕事に戻らなくていいの? それとも研修医って意外と暇なの?」
「その認識は間違いという事だけは伝えておく」
まだ研修医なので色々な科に回って経験を積まなければならない必要があるし、特に急患があった場合などは帰宅時間も遅くなりがちなので、決して暇という事はない。一年経った今でも目まぐるしいくらいだ。
「そういうわけだから、もう行っていいか?」
「いいよー。よかったら私も付いて行こうか?」
「なにもよくないのだが。むしろ研修医が患者に付き添われていたら一体何事かと周りに不審がられてしまうのだが」
「にひひ。それじゃあね研修医のおにぃさん」
そんな風にまた悪戯っ子のような笑みを浮かべたあと、少女は松葉杖を突きながら入院棟のある方向へと去ってしまった。
何故だろう。特になにをするでもなくここで立ち話をしていただけに、やたら疲労を感じる。人との会話は元から得意な方ではないが、ここまで苦労するものだったろうか。
「いや、あの子が特別変わっていたせいか」
心ともなく嘆息を吐く。本当に嵐のような子だった。色々な意味で。
それこそ、あんな底抜けに明るい入院患者というのは初めて会った気がする。大抵の入院患者はそこはかとなく憂いた表情を浮かべているか、もしくはあからさまに気落ちしている人のどちらかが多いのだが、ああいったタイプも世の中にはいるのか。なんにせよ僕と気が合う類いの人間ではないのは確かだ。
まあこの病院は広いし、今回みたいにすれ違う事なんてそうそうないだろう。
といった僕の予想は、数日後にあっさり裏切られる事となる。
その日、僕は現在研修でお世話になっている消化器内科で内視鏡介助を行うため、一度トイレを済ませたあとに検査室へと向かっていた。
内視鏡介助の研修はこれで二度目なのだが、担当の指導医がなかなかに厳しい人で、なかなか気が休まる時がない。患者を相手にしているのだからそもそも気を張っているのが当然の状態なのだろうが、介助が終わったあとに怒涛の質問攻めと苦言が待っているので疲労感が半端ないのだ。
なので、一度トイレに行って気を落ち着かせたあとに検査室へ行こうと思っていたのだが、その最中でコロコロと足元にボールペンが転がってくるというシチュエーションにまたしても出くわしてしてしまった。
まさかと思いつつ、以前のようにボールペンを拾って再び顔を上げてから曲がり角の方を見てみると、
「あー。タマゴ先生だ〜」
そのまさかだった。
前に会った時と寸分変わらない姿──花柄のパジャマを着たショートヘアの女の子が、松葉杖を突きながら笑顔で手を振ってきた。
「また君か……。しかも前回同様こんな所でボールペンを転がして……」
などと溜め息混じりにボールペンを差し出すと、女の子は「ねー。奇遇だよねー」と僕の苦言を馬耳東風とばかりに聞き流しながらボールペンを受け取った。
「あ、でもひとつだけ違う点もあるよ。ほら、今回は赤のボールペンだし」
「黒か赤の違いなんて些事でしかないだろ」
「あー。タマゴ先生って、女の子の些細な変化もあっさりスルーしちゃうタイプ? そういうのはよくないと思うなあ」
「僕だって相手くらいは選ぶ」
「それって私は恋愛対象外って事? 恋愛という枠を通り越して夫婦になりたいだなんて、タマゴ先生も思っていたよりなかなかストレートな男だねぇ」
「なんでそうなる。もはやそれは通り越すというより崖から飛び降りる勢いになっているぞ。まだ僕は社会的に死ぬつもりはないし、未成年を恋愛対象として見る趣味はない」
「あー。タマゴ先生ってあんまり人に興味なさそうだもんねー。どちらかというと無機物派って感じ。けどピグマリオンコンプレックスはさすがにどうかと思うよ?」
「人形を恋愛対象として見る趣味もない。あとタマゴ先生はやめてくれと前に言ったはずなのだが」
「はーい、研修医のおにぃさん」
まるで反省を感じさせない言い方とかなり緩い挙手の仕方だった。というより、前と一切態度が変わっていない。飄々としているというか、人を食った性格をしているというか、どうにも捉えどころのない子だ。
「で、君はまたこんな所で何をしているんだ? 検査でもあるのか?」
「ちっちっちっ。観察力が足りないねワトスン君。検査待ちの患者があちこち歩き回ると思うのかね」
「微塵も思わない」
「なら導き出される答えはただひとつ、探検中という事さ」
「早く病棟に戻りなさい」
キメ顔で小学生男子のような事を言う推定女子高生に正論をぶつける。
すると推定女子高生はいじけたように唇を尖らせて「だって暇だったからぁ」と幼児じみた言葉を返してきた。
「なら、病室に戻ってスマホでもいじっていればいいじゃないか。見たところ女子高生のように思えるが、連絡を取り合っている友達の一人や二人はいるんだろう?」
「うん。友達が全然いない研修医のおにぃさんとは違っていっぱいいるよ」
一言余計だった。否定こそしないが。
「でも平日の女子高生は、普通に学校で授業中なんスよ、おにぃさん」
「なるほど。それは失念していた」
「それにスマホとかゲームとかしていると、体が鈍ってくる感じがして落ち着かないんだよねー。だからこうしてたまに出歩いたりしてるってわけ」
「気持ちはわからなくもないが、それは病棟や中庭じゃダメなのか?」
「知っている景色よりも知らない景色の方がワクワクしていいじゃん」
「患者である君が診察室や検査室の前を用もなくウロウロしているという時点で何もよくはないのだが」
「そこは寛大な心で許しておやりなさい」
「なぜ上から目線なのか」
今の言葉で僕を甘く見ているという事だけはよくわかった。仮にも年上だというのに。
「僕はともかく、他の先生方に見られたらそんな戯言は通用しないぞ」
「うっ。なかなか痛いところを突いてくる……さすが患者さんの体に何度も針をぶっ刺しているだけの事はありますな」
「誤解を招きかねない言い方はやめてくれ。医者としての沽券に関わる」
「ぶー。しょうがないなぁ。研修医のおにぃさんがそこまで言うなら、病室に戻るのもやぶさかではないですぞ」
「ぜひそうしてくれ。周りに迷惑をかけない内に」
そして何より、僕の心の平穏のためにも。
「あ、そうだ。病室に戻る前に、聞きたい事があるんだけど」
「キャッシュカードの暗証番号なら教えられないと先に伝えておく」
「やだなぁ。私がそんなお金にがめついタイプに見える?」
「見えないが、そういった個人情報を言いふらしそうなタイプには見える」
「え〜? 私、これでも口は堅い方だよ? あずきバー並みにカチコチだよ?」
「つまり、常温で放っておけば勝手に溶けて口を滑らせるかもしれないというわけか。ますます信用ならない」
「んもー。おにぃさんは屁理屈ばっかり言う〜」
言いながら、少女が不満をぶつけるように僕の腹を拳で小突いてきた。痛くはないが、こそばゆくはあるのでやめていただきたい。
「ほんと、おにぃさんはへそ曲がりなんだから〜。私はただ、おにぃさんの名前を聞きたかっただけなのにさ〜」
「僕の名前? なぜ?」
「え、そこで聞き返しちゃう? 患者さんがお医者さんの名前を教えてもらうのって、別に普通の事じゃないの? それとも許可がいるようなものなの?」
「いや、そんな事はないけど……そうか、患者に名前を訊ねられるのは普通の事なのか……」
「……おにぃさんって、やっぱり他のお医者と違ってどこかズレてるよね」
まあ、個人的にはすごく面白いと思うけど。
そう言って少女はクスクスと微笑を漏らした。いつもは悪戯っぽい笑みだったり、どこか人を揶揄うような嘲笑じみた表情ばかりだったので、こういう笑い方もできるのかと素直に見入ってしまった。
それにしても、ズレているか……昔からよく言われていたが、ほとんど面識もない少女にまで指摘されるという事は、よほどズレているのだろう。あんまり自覚はないが。
「で、おにぃさん。お名前は?」
「名前……名前か。本名じゃないとダメか?」
「むしろなんで偽名だったらいいなんて思ったのか謎なんだけど……」
「君に本名を知られたら、なにかよくない事に利用されそうな気がしたから」
「そんな事するわけないでしょー。ほら、沖縄に猛吹雪が降るくらいの寒いギャグ言ってないで、早くおにぃさんの名前を教えてよ」
ギャグではなく、純粋に本音だったのだが。
とはいえ、ここでいつまでも押し問答をしているわけにもいかない。今から僕は検査室に行かねばならないのだ。指導医や患者を待たせるわけには当然いかないし、何より病院全体の信用にも関わる。僕個人の評価が下がるだけならさほど気にしないが、周りに迷惑をかけるのだけは如何ともしがたい。
そうなると、ここは変に奇を衒わずさっさと本名を言った方が一番手っ取り早いか。
「櫻井奏だ」
嘆息と共に僕の名前を告げると、少女は意表を突かれたように目を丸くしながら「奏? おにぃさん、奏って名前なの?」と聞き返してきた。
「ああ。それがどうかしたか?」
「偶然だねー。私もカナっていうんだよ。二人合わせてカナカナだね!」
「なんだかひぐらしの鳴き声みたいだな」
「双子の方じゃなくて?」
「それはマナカナ。ていうか、どうして君の年齢でそれを知っているんだ」
「それ、おにぃさんにも言える事だと思うよ?」
まあ、それは確かにその通りではある。
「あ、これからはおにぃさんじゃなくて奏先生って呼んだ方がいいのかな?」
「好きに呼んでくれ。タマゴ先生とか変な呼び方じゃなければ別になんでもいい」
「じゃあこれからは奏先生って呼ぶね。奏先生奏先生奏先生奏生成奏先生奏先生」
「何度も呼ばなくていいから。いや待て。途中で僕を生み出すような事を言わなかったか?」
「おー。奏先生、なかなか耳がいいね。褒めて遣わそう」
「こんな微塵も嬉しくない褒め言葉は初めてだ。しかも謎の上から目線」
「そんなお利口さんの奏先生に、私の名前を好きに呼べる権利があげよう。なにがいい? 私のオススメは『奏先生』だよ」
「ややこしい。普通にカナさんって呼ばせてもらう事にする」
「別にカナでもいいよ。もしくはマナ」
「誰だマナ。ていうか双子の話はもういいから」
というより、なぜそこまで双子芸能人を引き合いに出してくるのかがわからない。年代的にはズレているが、実はファンだったりするのだろうか。
いや、この子の場合、単に僕の反応を見て面白がっているだけのような気もする。一体何がそんなに面白いのか、さっぱり理解できないが。
「じゃあやっぱりカナでいいや。私、友達に敬称付きで呼ばれるのって好きじゃないし」
「……友達? 僕と君が?」
「うん。え、なんでそんな訝しげ? だって私と奏先生、どう見ても相性バッチリじゃん。こんなにボケとツッコミが小気味良く決まる事なんて、私の人生の中でもそうそうないし。ぶっちゃけ最高のお笑いコンビって感じ」
「別に僕は好き好んでツッコミを入れているわけじゃないんだが……」
「またまた〜。実は密かに楽しんでいるくせに〜。奏先生っていつも仏頂面だけど、意外とノリは良い方だよねー」
ノリがいいなんて初めて言われた。自分はただ普通に反応を返していただけだったのだが、どのへんがノリが良かったというのだろう。極めて謎だ。僕を知っている人間のほとんどが無愛想で近寄り難いと評してくるだけに。
「そんなわけだから、これからは私の事を友達だと思って接してね」
「友達……か」
「あ、もしかして初めてできた異性の友達にドキドキしているとか? 奏先生って絶対女友達なんていなさそうだしねー。いやそもそも、生まれてから一度も友達なんて一人もいなかった可能性も……。奏先生、ちょー不憫……」
「勝手に人を憐まないでくれ。僕にだって友達の一人や二人くらいはいる」
本当に一人か二人くらいしかいないが。
「そういう事じゃなく、患者に対して友達として接するのは少しどうかと疑問に思っただけだ」
「えー? 別に気にする必要なくない? 仲が悪いよりは仲がいい方が断然いいでしょ?」
「一理あるが、何事も距離感というのもある。あまり患者と医者という関係を逸脱するのは良い傾向とは言えない。君みたいに人を揶揄って喜ぶタイプは特に」
「私なりの愛情表現なんだけどなー。忙しそうにしている奏先生に私という清涼剤を提供しているわけなのですよ」
「忙しそうにしているとわかっているのなら、邪魔しないでほしいのだが。清涼剤というか人によっては怒りの起爆剤になりかねないのだが」
なんて話している内にも、僕の腕時計は十分ほど長針が進んでしまっていた。これ以上の時間のロスはさすがにまずい。
「話の途中で悪いが、僕は行かせてもらう。君の言う通り、僕は忙しいんだ」
「安心して。私は困らないから」
「僕が大いに困るんだ」
それだけ言葉を返して、足早に検査室へと向かう。もはや悠長に返事を待っている余裕はなかった。
少女──もといカナは、そんな僕の気を知ってか知らずか、呑気な声で「奏先生〜。またね〜」と声をかけてきたが、振り返るとまた絡まれそうな気がしたので、あえて背中を向けたままにしておいた。あの子の事だから、元気に手を振っていたのかもしれなかったが、今はどうでもいいとしか思えなかった。
□ ■
研修医になると、厚生労働省が定めた内容を二年間ですべて経験しなければならないわけだが、一年も経てば体もそれなりに慣れてくるもので、一ヶ月でコロコロと科が変わるという慌しさも前ほど苦に感じなくなってきた。
もっとも多忙が過ぎるせいで体が疲労を感じなくなるほど不調をきたしているだけかもしれないが、上級医に言わせるとこの程度の忙しさはまだまだ序の口らしい。上級医にもなると指導医の要求が以前よりも増して高度になり、研修医時代よりもプレッシャーがすごいんだよと苦笑しながら語っていた。その上級医は僕のような無愛想な奴にも穏和に接してくれる数少ない気徳な人なので、色々と心労が絶えないのかもしれない。
そんな助言もあり、昼食を済ませたあとはこうして屋上で一人ぼんやりと景色を眺めながら休憩するようにしている。屋上自体は前々からちょくちょく行く事が多かったが、毎回昼休みになってから屋上に来るようになったのはわりとここ最近だ。タバコでもあればいっそう気晴らしになったかもしれないが、生憎と僕とは相性が悪かったようで、どうにも体が受け付かなかった。どのみち無駄に金がかかるような事は極力しない主義ではあるが。
しかしながら屋上からの景色はなかなかのもので、天気の良い日は登頂が白く染まっている山脈を眺める事ができる。また僕以外にここを訪れる人は滅多にいないので、タバコが無くとも気晴らしをするにはちょうど良かった。
もっとも、単に一人になりたいだけという理由が大部分を占めていたりするが。
こういう単独行動ばかりしているから、周りから協調性がないとか人付き合いが悪いとか言われてしまうのだろう。
「どうでもいい……」
屋上の縁に両腕を乗せながら嘆息混じりに呟きを零す。問題視している当人達にしてみればどうでもよくはないのだろうが、僕個人としては自分の性格を矯正する気は毛頭ない。今さら自分の性格をどうこうできるとは思えなかったからだ。まあ本音を言えば他人とのコミュニケーションが面倒くさいだけだったりするが。
こんな物臭な奴が本当に医者になっていいものなのだろうかという考えがたまに頭を掠めたりするが、親の言いつけもあるし、それにせっかく研修医になったのだからというのもある。要は主体性がないだけとも言えるが、実家の借金地獄から脱するには一流企業に勤めるより医者になった方が早い。どのみち僕に選り好みしている余裕なんてないのだ。どれだけ僕が対人関係に難があるつまらない人間だったとしても。
そういえば、そんなつまらない人間を面白いと言ってくれた変わった少女がいたか。
名前は確か──
「カナ……」
「はいはーい。奏先生の大好きなカナちゃんだよ〜」
ふと背中から聞こえたおちゃらけた声。その聞き覚えのある声に、僕はまさかと思いながら後ろを振り返った。
すると目の前に、ここにいるはずのない少女……カナが、屋上の出入り口に背をもたれながら陽気に手を振っていた。いつも通り松葉杖を突きながら。
「なんで君がここに……最上階から屋上までは階段を使わないと来れないはず……」
「階段なら、仲のいい看護師さんに頼んだらここまで連れて来てくれたよー。それくらいならお安い御用だって言って」
「いや、それはおかしい。病棟ならともかく、ここは外来診療棟だぞ。関係者以外は絶対立ち入り禁止のはずだ」
「でもその仲のいい看護師さん、私と同じ洋楽好きなんだけど、今度ボブ・ディランの『ブートレック・シリーズ』を貸してあげるって言ったら喜んでここまで案内してくれたけど?」
「その『ブートレック・シリーズ』というのが何なのかはわからないが、君をここまで連れて来た看護師がとんでもなく問題のある奴だという事だけはよくわかった」
というより、よく看護師免許を取得できたものだと思う。汚い金でも使ったのだろうか?
「どう? ビックリしたー?」
「……まあ、割と」
「にひひ。じゃあドッキリ成功って事だね」
「ドッキリって……。もしも関係者に呼び止められでもしたらどうするつもりだったんだ……」
「んー。その時はその時?」
ヘラヘラと軽佻浮薄な笑みを浮かべるカナに、無謀過ぎると呆れ口調で言葉を返す。
そんな僕に対し、カナは相変わらず人を喰ったような笑顔を浮かべながら、
「だって、奏先生に会いに行きたかったんだも〜ん。友達に会いたいと思うのは普通の事でしょ?」
「手段や状況にもよる。あまり下手に目立つような行為をしたら、君自身があとで窮屈な思いをするだけだぞ」
「……もう十分に窮屈だし……」
一瞬聞き逃しそうになったほどのか細い呟き声。そんないつもの無邪気な彼女には不釣り合いな憂いに満ちた表情に、僕は眉をひそめた。
そういえば、カナも患者とは思えないほどの元気印とはいえ、一応は患者だったか。だとするなら彼女は彼女で何かと鬱憤や不満が溜まっているのかもしれない。
などと一人思案する僕に、カナは「ともかく」と話を切り替えた。
「こうしてここまで来てくれた友達に、他に言う事はないの?」
「病室に戻ったら?」
「んもう! そうじゃないでしょ! ここは一緒に遊ぼうって言うところでしょ!」
バシバシと胸を叩かれた。ごくごく当たり前の事を言っただけなのだが。
「遊ぶと言ってもここは屋上だぞ。周りには何もないし、それ以前に患者に負担をかけるような真似は医師として看過できないな」
「医師って言ってもまだ研修医でしょー? それに足は不自由でも、腕なら普通に使えるし。なんならこの松葉杖で素振りでもしようか?」
「やめなさい。普通に危ないから」
即刻止めた。どうしてこの少女はこうもやたらアクティブなのだろうか。マグロみたいに常に動かないと死んでしまうわけでもあるまいに。
「ところでさっきからずっと疑問だったけど、どうして僕がここにいるって知っていたんだ? 昼は大抵ここにいるけど、誰にも話した事なんてないはずなのに」
「前に奏先生が屋上にいるところをたまたま庭先から見かけた事があってさー。奏先生、しょっちゅう屋上の縁で黄昏れてるでしょ? だから今日も絶対いるって思ってたんだよねー」
「そうか……」
つまり、前々から行動パターンを把握されていたという事か。
我ながら迂闊だったというか、運が悪かったというか、よりにもよってこんなウザ絡みしてくる奴に見つかってしまうとは。今後は気を付けよう。
「で、結局何して遊ぶ? あんまり激しい運動がダメなら、鬼ごっこでもする?」
「どうしてそうなる。君の中では鬼ごっこは激しい運動の部類に入らないのか?」
「じゃあ、かくれんぼ」
「どこに隠れる場所があると……」
「缶ケリは?」
「鬼ごっことかくれんぼの合作みたいなものじゃないか、それ」
とにかく動きたくて仕方がないらしい。これだけ元気なら、いっそこのまま退院しても問題ないような気がしてならないが、足以外に何か不具合でもあったりするのだろうか。あるとすれば性格くらいしか思い付かないが。生憎と精神科はまだ研修を受けてすらいない専門外なので、残念ながら僕にはどうする事もできない。実に悔やまれる。
「あー。奏先生、何か失礼な事考えてない?」
「逆に訊くが、心当たりでもあるのか?」
「こっちも逆に訊くけれど、私が失礼な事をするようなお茶目な子に見える?」
「見えるな。お茶目だけを除けば」
「ぶー。奏先生は本当に歯に衣を着せない言い方をするよねー」
ほんと女心がわかってないんだから〜、と唇を尖らせるカナ。失礼な奴に失礼と言うのは女心どうこう以前の問題ではなかろうか。
「しかもあれはダメこれはダメってダメ出しばかりだし〜。だったらなんの遊びだったらいいの?」
「だから医師として、患者に対して体に負担をかけるような行為は推奨できないと言っているだろ。素直に病室へ戻りなさい。いや、一人じゃ階段を下りられないか。じゃあ僕が病室まで送っていってやるから」
「やだー。このまま帰るなんてつまんな〜い。せっかく屋上まで来たのに〜」
「悪いが、今回は諦めてくれ。あんまり君だけを特別扱いしてしまうと、他の患者達からクレームが発生しかねない。そうなると僕だけでなく、君自身もこの病院に居づらくなるぞ」
「え〜っ」
と、心底不満そうに顔をしかめるカナだったが、ややあって少し思うところがあったのか、「でも、そっかあ。奏先生がこの病院にいられなくなっちゃうかもしれないのかー」と残念そうに呟きを漏らした。
「しょうがないなあ。今日のところはこれくらいにしておいてあげる。でもこれで勝ったとゆめゆめ思わないでよね。次に会った時、先生は私に平伏しているであろう……」
「去り際の悪役みたいなセリフはやめろ」
などとツッコミを入れつつ、カナの肩を支える。こうして肩に触れてみると見た目以上に華奢な体躯で、まるで枯れ枝を掴んでいるかのような危うさすら感じられた。ちょっと力を入れただけで粉々に壊れてしまいそうなほどに。
なんて、ぼんやり突っ立っているとカナに上目遣いで「奏先生?」と不思議そうに声をかけられてしまった。すぐになんでもないと首を振って、彼女の歩行を補助する。
そうしてカナと一緒に屋上を出て階段を下りてみると、すぐそばに車椅子が置いてあった。「ここまで来るのにそれに乗って看護師さんに押してもらったんだー」と無邪気に語るカナに、僕もありがたく車椅子を使わせてもらう事にした。
その後、病棟に着いたあたりで「ここからは私一人で大丈夫だよー」というカナに、僕は預かっていた松葉杖を渡して早々にその場を後にした。まあその間にもカナが「また会おうねー」だの「今度は遊ばなくてもいいから、そのかわりお喋りいっぱいしちゃおうぜー。もちろん夜通しで」なんて最後までふざけた事を宣っていたが。
そんなこんなあり、今度からはもうあまり屋上を利用しないようにしようと胸に誓う僕であったが、道すがらに拾ってしまった見覚えのある赤いボールペンをきっかけに、思わぬ形でカナの秘められた事実を知る事になる。
ボールペンを拾ったからには、落とし主に届けるのが世の道理だと思うが、あれから数日が経った現在、未だに僕はカナの元へ行けずにいた。
誤解がないように言っておくが、決してボールペンを返すのを面倒くさがったわけではない。ボールペンを拾った日からずっと患者リストを調べてカナの病室まで行こうと思っていたのだ。
だが患者リストを見ても、「カナ」という名前に該当する患者はどれも三十代以上の女性ばかりで、僕の知っているカナはどこにも存在しなかった。いや、この病院をパジャマ姿で徘徊している以上、ここの入院患者である事は間違いないはずなのだが、「カナ」という十代中頃の女の子が患者リストには載っていないというのは紛れもない事実。そうなると、偽名を使われた可能性が高い。
「もしくはニックネームの方を教えられたのか」
自分の席の背もたれに体重をかけながら、誰もいない研修医室の中で一人呟く。
偽名にしてもニックネームにしても、わざと本名を告げなかったのはなぜなのか。会ったばかりの人間に本名を知られたくなかったとは言えばそれまでの話だが、医療関係者にまで隠す必要があるとは思えない。ただ向こうは僕を友達として見ているようなので、ニックネームだけで十分だと思ったのかもしれないが、どちらかにせよ、このままでは病室ひとつひとつをつぶさに訪問しなければならなくなる。当然ながら、そんな時間はどこにもあるわけがない。
となれば、ここはもう看護師の方々に訊ねるしかないだろう。
そんなわけで、善は急げとばかりに椅子から立ち上がって研修医室を出る。休憩は残り八分しかないが、まあ病棟に行ってちょっと看護師に質問するくらいなら問題はないはずだ。
診療棟から続く渡り廊下を進み、そのまま病棟へ。それから看護師の方々がいるスタッフステーションへと赴くと、向こうもちょうど時間に余裕があったようで、片手間に仕事をしながら話に花を咲かせている二人組がいた。
その二人組に「すみません」と出し抜けに声をかけつつ、
「カナという十五歳くらいの女の子の患者を探しているのですが、どこの病室かわかるでしょうか?」
僕の唐突な質問に、二人はきょとんとしつつも一度作業を止めてこっちに向き直った。
「カナさん、ですか? 名字はわかりますか?」
「いえ、カナという名前しか。それも本名かどうかはわからないんです」
「本名がわからないとなると……ねえ?」
「そうね……愛称だけではなんとも……。何か特徴だけでも言えますか?」
「えっと、ショートヘアにいつも花柄のパジャマを着ていて……あ、それとよくボールペンを持っている子ですね。覚えているのはそれくらいなんですが」
「花柄のパジャマにボールペン……。あ、ひょっとすると叶ちゃんかも?」
「あー、確かに。それならカナちゃんって愛称もわかるし、十代でショートヘアなら叶ちゃんがぴったり当てはまるし」
「叶……。ちなみに上の名前は?」
「雪森ですね。雪村叶ちゃんです」
雪森叶。まだ断定するには早いが、それがカナの本名らしい。
その後、カナの病室番号を聞き、いったん研修医室へと戻る。そのままカナの元へ行ってボールペンを返すくらいはできたかもしれないが、喧しいあいつの事だから、用だけ済ませて帰ろうものならどんな文句を言われるかわかったものではない。
いや、文句だけならまだしも、同じ病室の患者にまで不満を垂れる可能性もある。そうなっては色々と困る。周りの評価なんて気にしない俺ではあるが、さりとて指導医や上級医に小言を言われても平気というわけでもない。俺だって叱責に対して落ち込む事くらいはあるのだ。
そういった事情も踏まえた上で、再度研修医室へと戻ってきた俺は、残り少ない休憩時間を気にしつつノートパソコンで患者リストを開き、「雪森叶」で検索した。
「該当者一件……これか」
ヒットした項目にカーソルを合わせて、ダブルクリック。
数秒ほどして、「雪森叶」という名前の下に身長や体重、血液型などの情報が画面上に表示された。その中には当然ながらどこの病室で入院しているのかも記載されているのだが、そこには大部屋ではなく個室と書かれてあった。
「個室……?」
いや、個室自体は入院前に申し出れば──個室の空きさえあれば誰でも入れるものだが、しかしながら記録を見てみると一年も前から使用されているようだった。大部屋とは違い、保険適用外になるので毎日個室代が発生するにも関わらずに、だ。
「たかが骨折で一年も入院……? もしかして骨折ではない別の原因があるという事か……?」
疑問が脳裏を渦巻く中、カーソルを下げてさらに詳しく情報を読み取る。
すると、そこには。
「進行性骨化性繊維異形成症……」
一瞬空目してしまったのかともう一度読み直す。だが二度三度読み直しても、そこに書いてある文字は何も変わらなかった。
進行性骨化性繊維異形成症──通称FOPとも呼ばれ、世界でも稀な病気として難病指定されている。日本での患者数は六十人から八十人程度。特に十歳代に多い。
主な症状は全身の骨格筋や筋膜、腱や靭帯などの繊維性組織が進行性に骨化し、四肢関節の可動域低下や強直、体幹の可動性低下や変形並びに開口障害など。
その進行性骨化性繊維異形成症に、カナが罹患している……?
という事はあの左脚も骨折なんかではなくて、すでに筋組織の骨化が進んでいるせいとなる。しかも進行性なので、今後片足だけでなく、他の部位もやがて動かなくなる可能性が高い。それも遠くない将来に。
だが一番気になったのはそこではない。もちろん今の状態も十分に留意すべき点ではあるが、僕の頭に過ぎったのはもっと最悪な想像だった。
何故なら、この病は──……。
□ ■
今日は朝から雨だった。
春は雨が多いと聞くが、窓から覗く桜の木々もすっかりこの雨で枝が目立つようになってしまった。元々散り際だったが、どうやらこの雨がトドメとなってしまったらしい。
そんな桜雨が窓を打つ様子を研修医室から見るともなしに眺めながら、手の中で遊んでいたボールペンを持ち上げた。
数日前に拾ったカナのボールペン。結局あれから一度も返せず、ずっと僕が所持したままでいる。返そうと思えばいつでも返せる機会はあったのだが、カナの病を知ってからというもの、どうしても気持ちの整理が付かなくて足を向けずにいた。
カナの病を知った今、以前と変わらない態度でいられるのか、とか。
そもそもあの子は自分の病気を把握しているのだろうか、とか。
そんな考えばかりがいつまでも脳内を巡り、決心を鈍らせる。研修医とはいえ医師である自分が、患者を特別視するなどあってはならないはずなのに。
「いっそ他の人にでも頼もうか……」
いや、ボールペンくらい自分で返せと言われるのが関の山か。まして親交のあった関係(決してカナを友達と認めたわけではないが)ともなれば、却ってカナに不信感を与えかねない。僕だけならともかく、医師そのものが信じられなくなってしまったら今後の治療にも差し障る。ゆえに軽率な行動は取れない。
「結局のところ、自分で返しに行くのが一番無難という事か……」
結論は出た。あとはどう返しに行くべきか、それを考えなければならない。
僕の対応次第で、カナを傷付ける事に繋がりかねないのだから。
とは言ったもの。
「足が重い……」
一人で病棟内を歩きながら、嘆息混じりに呟きを零す。
たかがボールペンを返すためだけに何故こんな風に気分を重くしなければならないのか……いつものようにどうでもいいと切り捨てればよいものを、カナの顔を思い浮かべただけでそんな考えも空気の抜けた風船のように萎んでしまう。カナに会う以前の僕ならば、きっと事務的に済ませていたはずだった。
そのはずだったのに、僕は今こうしてカナの病室へ向かっている。
たったの二回。たった二回会っただけの少女の病を知った程度の事で、どうして僕はこんなにも心を揺さぶられているのだろう。確かに彼女は世界でも稀な難病だ。だが難病を抱えた患者なら他にもいるし、今にもその命の灯火が消えそうになっている方もこの病院にはいる。別段カナだけが酷な目に遭っているわけではない。
頭ではそう理解している。理解はしているのだ。それなのにこの重い気分は一向に晴れない。
それだけ、カナに情を寄せつつあるという事なのだろうか。人間関係なんて必要最低限の交流だけでいいと思っている厭世的なこの僕が。
「くだらない考えだ……」
自分の思考を独白と共に吐き捨てる。相手は年下の未成年。そして何よりも患者なのだ。カナにだけ温情を持つなど論外も甚だしい。
などと自問自答を繰り返している内にカナの病室の前へと到着してしまった。今は昼休み中だが、この時間帯ならとっくに昼食を済ませたはずだ。ボールペンを返すくらいなら、そこまで時間はいらないはず。個室にいるとバレた上で、僕に何も言うつもりがないのなら。
「……………………」
緊張で手のひらに汗を滲ませつつ、戸口に手をかける。そして一度深呼吸したあと、僕は意を決して二回ノックした。
「はい。どうぞ」
カナの声。それもいつもの元気潑剌とした声ではなく、どこかしっとりとした声音だった。
そんなカナの返事な戸惑いを覚えながらも、僕はゆっくり戸を開けた。
「ごめん。今日はあんまり食欲が無くて全部は食べられなかった。食器はそのまま下げてもらっても……」
と、手元のボールペンをいじりながら言葉を発していたカナが、ふと僕の方を見て固まった。まさに面食らったと言ったような表情で。
そんな彼女を前にして、僕は無言で入室して白衣のポケットからボールペンを取り出した。
「これ、数日前に拾った物なんだが、君ので合っているか?」
前振り無しに放った問いかけに、カナはすぐに答えず「えっ?」と当惑の声を上げた。表情を読むに、どうやら状況が呑みこめていないようだ。
「数日前に君を病棟まで送った帰りに拾ったボールペンだ。おそらく君のだろうと思って届けに来たのだが違ったか?」
「いや、うん。それはわかったし、実際いつも使ってたボールペンを失くしちゃっていたから、たぶん私ので合っていると思うけど……。え? 他に感想はないの?」
「他のって、何が?」
「何がって。え〜……」
ちょっとありえなくない? と若干引いたような顔で訊ねてくるカナに、僕は何も返さず肩を竦めた。
「まあ、一応礼は言っておくけどさー。奏先生ってほんと変わってるよねー。普通ならもっと沈痛な表情をすべき場面なのに、相変わらずの塩対応って正直どうかと思うなー」
「どうして君にそんな気配りをしなくちゃいけないんだ」
言いながら、カナにボールペンを手渡す。そんな僕に「どうも」と軽く謝辞を述べたあと、カナは憂いを帯びた瞳でボールペンを撫でた。
「で、奏先生。他に言いたい事は?」
「言いたい事? 何の話だ?」
「しらばっくれちゃって。この状況で本当にボールペンを届けに来ただけなんて思うはずがないじゃん。奏先生、嘘が下手すぎ」
「………………そんなに変だったか?」
「あからさまに挙動不審だった。ここに入ってきた時点で目線が泳いでいたし、どことなく動きも落ち着きがない感じだったし」
「そうか……」
自分の中では至って平静を装っていたつもりだったのだが、そこまでバレバレだったとは……。
「あはっ。まあ個人的にはけっこう面白かったからいいけどね〜。それに奏先生の意外な一面も見れちゃったし」
「僕の意外な一面って?」
「病気の事を知っちゃってどんな顔をしたらいいのわからないけど、とりあえずボールペンだけは返しに行かなきゃって考えるくらいには律儀なところとか。ふふっ。奏先生って意外と可愛いところあるよね〜」
「……可愛いは余計だ」
顔を背けながらぶっきらぼうに言葉を返す。当たっているだけに、それしか口答えできないのがなにげに悔しい。僕の方が年上のはずなのに、なんだか手玉に取られているような気分だった。
「それで先生。私の事、どこまで調べたの?」
と、口調そのものは相変わらず人を試すような軽々としたものながらも、そこはかとなく物憂げに微笑むカナに、僕は一瞬逡巡しながらも一拍置いてからおもむろに口を開いた。
「……本名は雪森叶。年齢は十五歳の女性。去年からこの個室を借りて入院中。病名は進行性骨化性繊維異形成症──通称FOP」
「せいかーい。よくできました〜」
パチパチと空虚な柏手が響く。カナ自身も無理にテンションを上げているという自覚があったのか、最後は弱々しい音と共に静まり返った。
「んもう。ちょっとは何か反応してよね。私だけなんだかバカみたいに見えちゃうじゃん。それでも私の相方なの?」
君と相方になったつもりはない。以前ならそう突っ込んでいたのだろうが、今はとてもそんな気分になれなかった。ただ閉口したまま立っている事しかできなかった。
そんな僕にカナは「そこまで重く受け止めなくてもいいのに……」と苦笑しながら続ける。
「私がFOPなのは事実だけど、別に私だけがこの病気で苦しんでるわけでもないんだし。そりゃ難病指定されるくらい珍しい病気で、治療法も見つかってはいないけどさ」
「もうそこまで知っていたのか……」
「そりゃ自分の体の事だもん。最初に聞かされた時はさすがによくわからなかったけれど、あとで色々調べたよ。だから、今はどんな病気なのかは大体知っているつもり。まだ治療方が無くて、重症化すると寝たきり状態になっちゃって、早かったら三十か四十代くらいで死んじゃう病気なんでしょ?」
「………………」
カナの言う通り、FOPに根治的治療法はまだ見つかっていない。出来るのはフレアアップと呼ばれる炎症性の皮下軟部組織膨張を予防する消炎鎮痛剤と、フレアアップ時の骨化を抑える経口ステロイド薬を投与する事くらいなものだ。
そして加齢と共に症状は悪化し、四十代でほぼ全介助となる事が判明している。最悪、合併症などの呼吸不全や心臓の負荷で平均寿命である五十代よりも早く死に至る場合もある。
僕が患者リストでカナの欄を閲覧した時、真っ先に思い浮かんだのがこれらの情報だった。だからこそカナにどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。
しかしながら、気になったのはそれだけではない。確かに治療法こそ未だない不治の病ではあるが、まだ十代の若さであれば、一年近くも入院生活を送るほどの症状は出ていないはずなのだ。
それなのに、カナがここにいるという事は。
「私が入院している理由が気になってるんでしょ?」
僕の表情だけで考えを読んだらしいカナが、相変わらず儚げな笑みを浮かべながら言葉を継ぐ。
「ただのFOP……って言い方もなんか変な感じがするけど、FOPの初期症状だけならずっと入院する必要なんてないもんね。私の場合、左足が動かないだけで杖さえあればなんとか歩けるわけだし」
その通りだ。乳時期での発症や重篤な機能障害を除けば、長期の入院なんて本来なら必要ではない。基本的には自宅療養でも済むはず。
カナのカルテを読めば詳しい症状が判明したのかも知れないが、主治医の了解を得ずにカルテを閲覧するのは気が咎めたのだ。うちの病院の場合、カルテを閲覧するだけならば主治医の了解はいらないが──記載となれば話は変わる──しかし治療に関わっていない者がカルテを閲覧するとなると変な目で見られてしまう可能性もある。ましてカナとは知り合ってまだ日が浅い。ゆえに、あまり不審に思われる行為はできるだけしたくなかった。
何より、僕の事を友達だと思っているカナに対し、裏でこそこそするのはなんだか不誠実なように思えてから。だから本人の口から直接聞きたかった。カナ本人も僕に隠そうとしていた真実を。
「つまりただのFOPではない、と?」
「うん。骨化の症状が想定以上のスピードで進行しているみたい」
僕の問いかけに、カナは事もなげに告げた。まるで他人事のように。
「私のFOPが見つかったのは……骨化が見つかったのは二年前なんだけど、その時は外傷のないフレアアップから始まって、それから左足の付け根が骨化しているのがわかったんだ。そこからだんだん膝から足首の方まで骨化していったんだけど、普通はこんな短期間で症状が進む事はないんだって。私の場合は他の人より発症が遅かったから、そのへんも関係してるのかもしれないけど、それでも考えられないくらいのスピードで骨化が進んでいますって整形外科の先生に言われちゃった」
今後はどれだけの早さで骨化が進行するのかも予想が付かないんだってさ。
そう語るカナの瞳は、すでに怒りも悲しみも通り越したような──しかしながら深い絶望を沈澱させたような濁みのある光を宿していた。
「実際、最近は左足じゃなくて、右足の付け根の方も動かしにくい感じになってるんだよね。たぶんこっちもだんだん骨化してきてるんだと思う」
「じゃあ、この間屋上に来た時も……」
「うん。ちょっと無理しちゃった。本当は看護師さんにも危ないからやめた方がいいって止められたんだけど、私のワガママに付き合ってくれたんだー」
ボブ・ディランのアルバムが交換条件がだったけれどね、と微苦笑するカナだったが、僕は笑う気分にはなれなかった。まさかあの時、カナがそんな無理をしてまで僕に会いに来ていたとは思わなかったから。
「やんなっちゃうよね。このまま歩けなくなっちゃうかもしれないなんてさ。いや歩けなくなるくらいならまだマシな方かもしれないけど、そう遠くない内に寝たきりになっちゃうかもしれないんだよ? それが一番キツいよねー。一人でトイレも行けないなんて最悪どころのレベルじゃないよ。軽く死ねるレベルだよ。いっそ笑っちゃうしかないよこんなの。あはは〜」
「…………………………」
「……まあ、笑えないよね。こんな話、急に聞かされちゃったらさ」
と、不意に空笑いを止めるカナ。それから窓の景色へと視線を移し、吐息を零した。
「止まないね、雨」
カナの言葉に、僕も窓の方へ目をやる。雨足は弱くなったようだが、そのかわり空が前より暗くなっていた。雷雲が近付いているのかもしれない。それともこれから大雨でも降るのか。なんにせよ見ていてあまり良い気分はしない空模様だった。
そんな少し薄暗い中、照明の点いていない室内でカナは窓から差し込む仄かな光に目を細めながら、再度呼気を吐いた。
「今だから言うけれど、本当は先生に知られる前にお別れするつもりだったんだー。私の病気の事を知ったせいで、変に気を遣われるのも嫌だしさ。でも、まさかこんな形で知られちゃうなんてねー。まあ同じ病院にいるんだから、いつか知られちゃう事だったかもしれないけど、まさかこんなに早くバレちゃうなんて想定外だったよ。ほんと、人生って思うようにはいかないもんだねー。心の底から願った事に限ってなかなか叶えてもらえないっていうか。これでも『叶』って名前なのに、完全に名前負けしちゃってるよね、これ」
「……何か叶えたい夢でもあったのか?」
「まあねー。私、ドラマーだったパパの影響で小さい頃からドラムが好きでさ、しょっちゅうパパのドラムを借りて遊んでたんだー。そんで高校に入学したら軽音楽部に入って絶対バンドを組むんだって小学生の時から決めてたんだよね。中学生でもバンドは組めたかもしれないけれど、周りに音楽好きな人がいなかったし、ライブハウスに行くのもパパやママにも反対されてさ。ちょっと危ないところでもあるから、せめて高校生になってからにしなさいって言われていたから、それまでずっと我慢してたんだよね。で、高校生になったらバンドを組んで絶対ライブハウスで演奏してやるって燃えていた矢先に、これだよ」
そう言って、カナは布団の上から左足を叱咤するように軽く平手で叩いた。
「それでも最初の頃はまだ『病気なんか知るか。私はドラムを叩き続けるんだ』って逆に燃えていたくらいなんだけど、やっぱり病気には勝てなかったみたいで、次第に左足が思うように動かなくなってきてさ、最後には膝の関節が曲がらないようになっちゃった。こうなっちゃったらもう、ドラマーとしては致命的だよね。さすがに立ちながらドラムは叩けないし、それ以前に片手で杖を突きながらリズミカルに演奏できるわけがないよね」
「……………………」
「けど、やっぱり未練が残っちゃってるのかな……暇な時とか無性にドラムを叩きたくなる時があるんだよね。まあいくらなんでもドラムセットを病院に持って行くわけにはいかないし、せめてドラムスティックだけでも持って来てもらおうかなって思ったんだけど、それはそれで未練が強くなりそうだったから、結局やめたんだよね。で、妥協したのがこれってわけ」
言いながら、カナは片手で握りしめていたボールペンを胸の前まで掲げて見せた。
「退屈な時とかリズムを刻みたくなった時にこれであちこち叩くの。ほら、こんな感じで」
言いながら、まだ半分ほどご飯が残っている茶碗をコンコンと鳴らすカナ。行儀が良いとは言えないが、思っていたより悪くない音だった。箸に比べてボールペンの方が太くて中身が空洞に近いので、そこまで甲高い音が鳴らなかったせいなのかもしれない。
「これなら病院の中でも変に思われないでしょ? どちらかというとそこにあるお箸の方がドラマスティックの形状に近いけど、さすがにご飯でもないのにお箸を使うのは変だし、だからボールペンで妥協したんだよねー」
「それ、割れたりしないのか? 頻度によると思うけど、あんまり何度も叩いたらさすがにヒビの一つも入るんじゃないのか?」
「キャップ部分じゃ叩かないし、それに頑丈なやつを選んでるから大丈夫。あと元々ドラムスティック代わりに買ったやつだから別に壊れても気にしないし」
ああ、だからいつも持ち歩いていたのか。仮に落として壊れたとしても、最初からドラムスティック代わりとしてしか見ていないから。
どうりで前に僕がボールペンを拾った時も、まったく気にした様子がなかったわけだ。
「じゃあ初めて僕と会った時も、どこかでボールペンを鳴らす場所でも探していたのか?」
そう訊ねると、カナは少し困ったように「う〜ん」と微苦笑を浮かべた。
「ちょっと違うっていうか、恥ずかしいからあんまり言いたくなかったんだけど……言わなきゃダメ?」
「そんな事を言われたら余計聞きたくなる」
「奏先生って、けっこう遠慮がない方だよね……」
しょうがないなあ、と諦めが付いたように嘆息を吐いたあと、カナは恥じらうように前髪をいじりながら「実はね」と静かに口を開いた。
「あれ、本当はうっかりじゃなくて、わざと奏先生の前まで転がるように落としたんだー。奏先生に拾ってもらえるようにタイミングを見計らって」
「僕に? なぜ?」
「奏先生と話してみたかったから」
カナの返答を聞いて、僕は思わず呆気に取られてしまった。僕みたいな仏頂面と会話したいなんて、ましてや思春期真っ盛りの少女に以前から興味を持たれていたなんて夢にも思わなかったからだ。
「んもー。だから言いたくなかったのに〜。そんなビックリしたような顔されたら、余計恥ずくなってくるじゃん」
「……すまない。予想外の言葉に思わず固まってしまった」
そう素直に謝ると「まあ奏先生、みんなから敬遠されがちだしねー」と苦笑で返された。
「いつも無愛想な顔ばかりしてるせいだよー? 私より年下の子達からなんて言われてるか知ってる? 仁王像だよ仁王像。間違いなく吽形の方だね」
「よく知っているな吽形なんて……」
それはともかく。
「どうして僕だったんだ? 話だけなら僕じゃなくてもよかったはずだろ?」
「……そこまで訊いちゃう? この流れで?」
「いけなかったか?」
「いけないわけじゃないけどさ……」
奏先生ってたまに臆面のない事を言う時あるよね、と若干呆れたような表情で言いつつ、カナは続ける。
「あれは入院してしばらく経ってからの頃かなあ。FOPが見つかって、この先歩く事どころか寝たきりの状態になるなんて言われて自暴自棄になりそうだった時、たまたま屋上で黄昏れてた奏先生を見つけてさ」
黄昏れていた覚えはないのだが。あくまでも一人でいたかっただけで。
などと言いたくなったが、さすがに今は野暮かと思ってやめておいた。
その代わりとばかりに「よく見つけたな。外来棟の屋上にいたのに」と疑問を返す。
「あの時、とにかく病棟の近くにはいたくなかったから、外来棟の近くで散歩してたんだよ。そんでベンチに座りながらぼんやり空を眺めていたら、屋上にいた奏先生を発見しちゃったってわけ。ちなみにその時の奏先生、紙パックのフルーツジュースを飲んでたよ。奏先生って意外と甘党なんだねー」
「そこまで見えていたのか……だいぶ視力がいい方なんだな」
両目で2.0だよーとVサインを作るカナに、僕は「それで?」と先を促す。
「それで……うーん。改めて口にしようとすると言葉に迷うんだけど、あの時の奏先生の顔が印象的だったっていうか、しばらく目が離せなかったっていうか、初めて見る先生のはずなのに、なんとなく気持ちが軽くなったんだよね」
「軽くなった? 屋上にいた僕を見て?」
「うん。奏先生ってたまにこの世のすべてがどうでもいいって顔をする時があるじゃない? 初めて奏先生を見た時もそうだったけれど、別に特別大きな不幸に遭っているわけでもなさそうに、自分の人生なんて何も価値がないみたいな顔をしている奏先生を見たら、なんだか病気に悩んでいる自分がちっぽけに思えてきちゃってさ」
「……普通逆じゃないか? 君の言う通り別段辛い目に遭った事もなければ生きていて楽しいと思えた事もほとんどないが、君からしてみれば腹の立つ対象でしかないんじゃないのか?」
「普通はそうかもねー。でも同じような不治の病に苦しんでいる人の話を聞いたところで、自分の病気を改めて自覚させられるているような気がするだけで全然心が楽にならなかったんだよね。逆に気が滅入るっていうか、まるで鏡を見せられているような感じでさ。もちろんそれで勇気をもらえる人もいるってわかってはいるし、それ自体は否定するつもりは一切ないけれど、私の場合は違ったの。なんだか傷口を舐め合っているような、むしろこっちが抉られている感覚にしかならなくて……」
「………………」
「そんな時にさ、別に病気で苦しんでいるわけでもないのに自分の人生を諦めているような奏先生を見て、ちょっとホッとしちゃったの。病気なんて関係なく、世の中には人生に絶望している人が身近にいたりするんだなって。これが私みたいな重い病気の人なら『病気も何もない健康な体なのに……死ぬ気でやればどんな事だって出来ちゃうはずなのに、真剣に生きようとしないなんて許せない』って思うところなのかもしれないけど、私はそんな風には思えなくてさ。病気になる前までは考えた事もなかったけれど、世の中には病気なんて関係なく色々な事情で苦しんでいる人がいるんだって知った時、なんか色々とどうでもよくなってきちゃってさ。わけのわからない理由で苦しんでいる人に比べたら、不治な病っていう明確な問題に直面している私の方が状況がわかりやすくて、ある意味まだマシな方なのかもって」
そこで一息つくように間を空けたあと、カナは僕を正面に見据えながら言の葉を紡いだ。
「それからかなー。悩むのをやめて適当に生きようって決めた時、奏先生と話してみたいって思うようになったのは。あ、話してみたいって言っても奏先生の私生活を根掘り葉掘り訊くつもりはないし、人生相談的な事をする気もないからね? なんか悩んでいる事があるなら相談くらいは乗るけど、今となっては割とどうでもいいし。それよりも、いつも無気力そうに生きている奏先生自体に興味が湧いてきちゃってさ。今まで会った事もないタイプだったし、なんでもいいから話をしてみたかったんだよねー」
「それで、僕の前にわざとボールペンを転がすような真似を?」
「うん。それくらいしか話せるきっかけが見つからなかったし。あんまり病棟に来る事もなかったし」
「まだ研修医だからな。病棟にいる患者と直接会いに行く機会はなかなかないんだ」
「知ってる。外来棟にはちょくちょく行って、何度も遠くから奏先生を見ていたから」
だから偶然を装ったんだよー、とボールペンを振りながら笑顔で応えるカナ。
「で、実際に話してみたら思っていたよりリアクションがいいって言うか、噂で聞くよりずっと面白い人だったからますます気に入っちゃって、もっと話してみたいって思うようになっちゃったんだよねー。自分でもビックリだよ。まさか入院生活の中でこんな出会いができるなんて思わなかったから」
「……君が特別変わっているだけだよ。僕みたいな人間が面白いなんて、普通は誰も思わない」
「私的にはそういうところも面白いと思うんだけどねー。妙に自虐的っていうか、そのくせ、さりげなく私をディスってくるところとか」
「ディスっているつもりはないのだが……素直な気持ちを言葉にしているだけで」
「……それ、ストレートでケンカを打っているようなものなんだけど、自覚ある?」
「君みたいなどんな球でも乱暴かつ豪快に打ち返してくるようなタイプなら何も問題ないはずだろ?」
「おっと今度は変化球で来た。けどそれで言うなら、奏先生って基本的には誰ともキャッチボールをする気なんてないよね」
「人によっては些細な言動で諍いになったりするからな。そういう面倒事は出来るだけ避けたいだけだ」
「なるほど。ミットすら付けない派って事かー。なんていうか、奏先生ってクラスメートからハブられそうなタイプだよね。体育祭とか文化祭とか、そういう行事で。修学旅行も組む人がいなくて一人で行動してそう」
「君こそ死球を投げている自覚はあるのか?」
「ありゃ、もしかして致命傷だった? じゃあ今度からは消える魔球にするね」
「それはそれで予想が付かないからやめてくれ」
と、不意にカナはクスクスと心底可笑しそうに破顔した。つい先ほどまでの翳りのあった表情が嘘のように。
「あはっ。やっぱり奏先生って面白い。奏先生と話している時だけ、今を忘れられるっていうか。正直、どんな薬よりも奏先生と一緒にいる時の方が元気になれる気がする」
だから、とそこで意味深に言葉を区切ったあと、真剣な眼差しを僕に向けてカナは言った。
「これからも、こうして私のところに会いに来てくれないかな? 私はもう、自分から会いに行けそうにないから」
言いながら、やがては左足のように完全に動かなくなるであろう右足の太腿を悲しげに撫でるカナに、僕はこころともなく目を逸らしつつ「……僕とはもう会わないつもりでいたんじゃないのか?」と訊ね返す。
「最初は、ね。でも奏先生とこうして話してたら気が変わっちゃった。やっぱり奏先生とこれからもずっと一緒にいたいなって。ダメ、かな……?」
おずおずといった面持ちで訪ねてきたカナに、僕は静かに瞑目した。
医者(まだ研修医だが)として特定の患者に肩入れするのは褒められた事ではない。その考えは未だに変わっていないし、間違っているとも思っていない。
だが、根治的治療法のない難病患者から生きる希望を奪うような真似をするのは果たして正しい行動なのだろうか。ましてや、成人すらしていない多感な時期の子供に。
何が正しいかなんてわからない。あとで自分の行いに後悔する日が来るかもしれない。それでも僕はゆっくり目蓋を開けたあと、意を決して言葉を発した。
「……これから忙しくなる予定だから、そこまで何度も会いには行けないぞ?」
そう返答すると、カナは見るからに瞳を輝かせて口許を綻ばせた。
「ほんと? ほんとに? 一日に何回くらい?」
「そんな頻繁に行けるか。多くても週に一回か、少なくて月に一回行けるかどうかだと思うぞ」
「え〜? なんでなんで〜?」
「これからは夜勤のある科にも行く事になるからな。今みたいに昼時に来るのは難しくなる」
「じゃあ夜にも来たらいいじゃん」
「簡単に言うな。僕が休憩に入れる時には、そっちはすでに消灯時間だろうが」
「そこで夜這いですよ、お兄さん」
「寝言は寝てから言え未成年」
一考の価値すらない提案内容だった。というか未成年の少女が夜這いを勧めてくるとか、どうかしていると言わざるをえない。いわんや自分の体をやだ。犯罪云々の前にこいつの貞操観念の方が心配になる。
「や、さすがに今のは冗談だけどさ、ちょっと会いに行くだけなら全然問題なくない? 私、消灯時間の9時は大抵起きてるし」
「あまり無茶を言わないでくれ。外来棟から病棟まで行くのに必ずスタッフルームの前を通らないと行けないんだぞ? 看護師の方々に気付かれないであそこを突破するなんて到底不可能だ」
受け持ちの患者が急に体調を崩したとかであれば話は別だが、まだ研修医の僕にそんな患者がいるわけもない。他の先生方が別の仕事で出払っていた関係で空いている僕が呼ばれたという線もなきにしもあらずだが、そんな機会はそうそうないだろう。
「じゃあ非常口からは? あそこからならスタッフルームの前を通らずに済むはずでしょ?」
「あそこは消灯時間前には施錠されるはずだから、スタッフルームで鍵を借りないと無理だぞ。その際、必ず理由も訊かれる上に記録も残る。しかも夜は見回りもあるから、君の所へ行こうと思ったら看護師の方々から見つからずに行く必要がある」
とどのつまり不可能というわけだ。
ここまで言えば向こうも諦めるだろう──そう高を括っていたのだが、予想に反してカナはニヤリと薄笑みを浮かべた。
「大丈夫。私に良い考えがあるから」