3話
ウゲ。気持ち悪い。頭痛い。
意識を取り戻した瞬間、鈍器で殴られたような頭痛と口の中の酸の生臭い香りがして、私に最悪の朝をもたらした。
カーテン越しに照りつける生暖かい日差しが、余計に心地悪さを助長する。
枕元にあったスマホで時刻を確認すると、もう時刻はとっくに出社時刻を過ぎている。一瞬慌てるが、今日が休日であることを思い出し、アンティーク調のアイアンベッドのさらに深くへと潜り込む。
てか、どうして私、ちゃんとベッドで寝ているんだろう。
ぼやける視界で部屋の中を見渡すと、まるで何事も無かったかのようにいつも通りの光景が広がっていた。
もしかしたら、昨日起きた出来事は全て夢だったのかな。
そんな淡い期待を抱きながらスマホを確認すると、不在着信が3件。LINEの通知が2件。そのLINEの内容は真知子からで、【貸し。焼肉三回】と【強く生きろよ】という、らしい二文が並んでいた。
「ありがとうございます。真知子さん」
もはや通常時よりも綺麗に整頓された部屋に向かって、深々とお辞儀をする。
こんなに素晴らしい親友が励ましてくれたんだ。いつまでも、過去を嘆いて蹲っているわけにはいかない。
私は勢いよく起き上がると、ベッドの端に腰かけて、今度は不在着信の方を確認した。
鬼(編集長)。鬼(編集長)。鬼(編集長)。
二日酔いの気持ち悪さと重なって再び強烈な吐き気を覚え、慌ててトイレに駆け込み全てを吐き出した後、スマホを床に置き、正座で目の前の現実と向き合った。
「あー。あー」
ダメだ。声がガサついている。
冷蔵庫の中を確認しても、アルコールの入っていない水分が無かったのでやむなしと水道水をコップに汲み、なるべく喉に染み渡るようにゆっくりと口に含む。
「あー。あー」
うん。少しはマシになったか。
私は決意を固め、指を軽く震わせながら鬼、もとい編集長に電話をかける。
「もしもし」
2コール目で出た鬼は、その四文字だけで明らかに不機嫌そうだった。
「あのー、すいません。相川ですけれども・・・」
「公衆電話から掛けてるわけじゃないんだから、いちいち名乗んなくても知ってるわよ。その声、二日酔い?戦力外を宣告された夜にやけ酒なんて、どこまでも二流ね」
「は、はい。すいません」
バレたー。やっぱ水道水じゃダメだな。(負けが前提の)鬼退治の後、ウォーターサーバーでも契約してみようかしら。
「そんなことはさておき、二日酔いの休日のところ悪いけど、あなた、今から出社出来る?」
そうだと思いましたよ、と私は渋い表情を浮かべる。
編集長が私に電話を掛けてくるなんて、説教か休日出勤の二択しかないのだから。
「い、今からですか・・・・」
顔も、肝臓も、精神も、現在のコンディションは最悪だ。
正直、今日くらいはゆっくりと家でゴロゴロしながら自分を労わりた・・。
「来れないの?」
「行けます」
「そうよね。じゃ、ちゃんとヘパ飲んでくるのよ。編集部で吐かれても迷惑だから」
プツリ。
無機質なビジートーンを聞きながら、今度はアルコールとは別種の要因によって、胃がキュッと痛んだ。
「鬼め」
私は歯ぎしりをしながらスマホを数秒間睨みつけた後、下っ端の猿のごとくキッキッと慌てて身支度を整え始めた。
大手出版社に、土日など無い。
担当を持つ編集者は担当の作品を期日までにあげないといけないので、土日はおろか24時間関係なく働いている。
しかも、漫画や小説を掲載する雑誌の担当者の場合、作家の筆が進まないと拘束時間がどんどん長くなるので、他人に翻弄される職種という点ではかなりブラックな環境に身を置いていると言える。
だが、そんな編集者たちの血と汗と涙によって、読者の日々の娯楽は彩られているのだから、まさに縁の下の力持ちと言うべきだろう。
私が在籍している、、、じゃなかった。
私が在籍していたBRUJA編集部はファッション誌のため、まだ他の部署に比べたらプライベートな時間を確保しやすいのであるがやはりそれでも休日出勤をする編集者は多い。
私の場合は、そもそも自身の企画が通ったことは一度も無いし、何か重要な仕事を任せられたりとかもしてないので、情けないやら申し訳ないやらあまり経験のない話なのだが・・・。
BRUJA編集部は、神保町にある集新社本社の4階の編集オフィスに位置している。さすが大手出版社というべきか、その編集オフィスは、フレキシビリティの高い夢柱の執務スペースとし、24時間稼働に対応して、ゆとりあるパントリーと一体化したリフレッシュスペース、喫煙室、トイレなど、充実したアメニティエリアを備えている。
カードキーをかざしもう既にクビになっている編集部の中に入るのは、学生の頃に用があって職員室に出入りするような独特の背徳感があったが、その背徳感すらも、室内の奥に位置する編集長デスクに座る一匹の鬼を見て恐怖の感情に上書きされる。
「思ったよりも早かったじゃない。そのせいか、貴方にしてはひどい顔ね」
編集部には、編集長を含めて主力級の編集者が数人、パソコンに向かって黙々と仕事に取り組んでいた。
編集長が私に声を掛けたのに反応してその数人の視線が私に向けられたが、すぐに興味なさそうに目を逸らし仕事に戻った。
ひどい顔。
私は慌てて入社以来5年間愛用しているホワイトのトートバッグから手鏡を取り出し、自分の顔面を確認する。
いつもより念入りにメイクしたはずなのに、やはり二日酔いには勝てないか。
「安心して。褒めたつもりだから。あなたもようやく、自分の身だしなみよりも急ぎの仕事を優先するようになったのね」
「あ、ありがとうございます」
探り合うように、微笑する二人。
正直な話、全くそんなこと無かったけど!
思いっきり自分ファーストだったけど!
もはやクビになった後に褒められたところで・・・。
ま、まったく嬉しくなんかないんだから!
「どうしたんですか相川さん。急に体をくねくねし始めて。お手洗いですか?それとも、まだ酔っぱらってるんですか」
「あ、いえ、何でもないです」
姿勢を正した私に、編集部に隣接した会議室のドアの前まで移動した編集長は軽く手招きする。
それに応じ、昨日と同じように対面に座った私は、、脳内にフラッシュバックする昨日の悲劇の光景を必死に剥がそうとする。
「せっかくの休日なのに、呼び出して悪かったわね」
普段は厳しい編集長であるが、部下のプライベートを害すようなことをした場合はこのようにきちんと謝罪する。
残業が当たり前のこの業界において、夜遅くなった場合は残っている部下一人一人に「お疲れ様。悪いわね」と毎回欠かさず声掛けをするし、自分は誰よりも多い仕事量をこなしているのに全く疲れを感じさせずに働いている。
それどころか、周りへのフォローも涼しい顔で完璧にこなすし、理不尽な要求も絶対にしない。
いつも怒られてばかりだったけど、そんな編集長を私は心の底から尊敬している。と同時に、鬼のように恐れているけども。
「いえいえ、全然大丈夫です。外の空気を吸った方が、酔いも収まりますから」
編集長の気遣いに、私はペコペコと頭を下げて数十分でセットしてきた茶髪ロングの短めフィッシュボーンハーフアップを揺らす。
お姫様のようなエレガントな印象を与えられるこの髪型は、社会人になってから五年間続けている、私の最もお気に入りの髪型だ。
編集長は少しおかしそうに軽く微笑んだが、すぐに切り替えて真面目な表情になった。
「それじゃこの会議室が悲惨なことになる前に本題へ入るけど、来週からの新年度におけるあなたの配属先が決定したわ」
現在は三月の後半。もう早くも来週の後半から新年度がスタートするのだが、戦力外通告で頭が真っ白になっていたせいで、新たな配属先のことをすっかり忘れていた。
幸いなことに、この集新社では、他にも月間のファッション誌を5冊ほど発行しているため、そのどこかに配属になると思うのだが、正直BRUJAと比べると一般知名度的にもどれも見劣りする。
ま、BRUJAで働けないのであれば、どこになっても一緒か。
そんな思考を巡らせながら編集長の次の言葉を待っていると、彼女の口から予想だにしなかった答えが発せられた。
「集新社創業以来の歴史を誇る、社内の純文学部門を担う位置づけとされ、日本五大文芸誌にもあたる伝統ある雑誌【ぎんが】。そこの編集部こそが、これからあなたが働く配属先よ。ちょうど、この上のね」
編集長が、人差し指で上を示す。ここは4階の角部屋なので、その上となると5階の角部屋を示していることになる。
「ひょひょひょ、ひょえ?!!」
「何よその間抜けた返事と顔面は」
「ぶ、文芸誌?!純文学?!ぎんが?!!」
「だからそうって言ったでしょ?いくらあなたでも、出版社に五年勤務してるんだから、どういう雑誌かくらいは理解してるでしょう」
あまりの驚きに、開いた口が塞がらないどころか、その間抜けた口を手の平で隠すことすらも忘れてしまう。
完全に寝耳に水なこの状況に、私はひな壇芸人のように勢いよく立ち上がり、恐れ多くも異議を申し立てる。
「ぶ、文芸誌って、芥川とか、太宰とか、そういう感じのやつですよね?!無理に決まってるじゃないですか!!私、小説だってろくに読んだことないんですよ!?」
小さい頃から、読書は大の苦手分野で夏休みの宿題で読書感想文が出る度に父に泣きついていたほどだ。
それは大人になった今でも変わらず、紙一面を覆う大量の文字の羅列を見るだけに蕁麻疹が出そうになる。そんな私が文芸誌の編集部に勤めたところで、何の役にも立てるはずないし、お肌だって大変なことになる。
駄々をこねるように肩をブルンブルンと震わせる私を見て、編集長は頭を掻きながら、大きくため息をついた。
「薫さん。あなたはいつまでもそうやって、自分に甘えて生きていくの?」
その呆れたような視線が、胸に突き刺さる。
私は力が抜け、ガクンと椅子に腰を下ろした。
だって、しょうがないじゃないですか。
私はずっと、世間から甘やかされて育ってきた。
今更自分を変えようとしたところで、上手くいくはずがない。
私は所詮、世間知らずで苦労知らずの元高嶺の花なんだから。
編集長はしばらく私をじっと見つめていたが、やがて小さく首を振り、ゆっくりと立ち上がった。
「ま、あなたが何を喚こうがこれはもう決定事項。もしこの異動が不服なら、退職覚悟で上に抗議でもしてみるのね」
私にそんな度胸も行動力もないことを充分に理解している上での発言。
編集長に対してか、はたまた自分に対してか、得体の知れない怒りが胸にこみ上げてくる。
編集長はそのまま会議室のドアまで移動し、後ろ姿でドアノブを掴んだところで立ち止まった。
そして、数秒間を空けてから口を開く。
「大人って生き物は酷よね。やりたくないことも、辛いことも、意味のないことも、理不尽なことも、全力で取り組むように求められる。嫌な顔一つせず、笑顔でね」
そして再び間を空けて、深呼吸をした後、続ける。
「頑張れ、とは言わないわ。だけどせめて、やらなきゃいけない仕事は手抜きをせずに取り組みなさい。あなたの元上司として今言えることは、それだけ」
ドアノブを回す音が聞こえた。ドアが開く音が聞こえた。
少しだけ狭い会議室に、鉛のように重い沈黙が流れる。
取り残された私は、しばらくそこに、抜け殻のように座っていた。
頭の中で感情を整理しようとするが、二日酔いのせいか上手くいかない。
ただ、一つだけはっきりとわかったことがある。
私という人間は、自分が思っていた以上に愚かだったということを。
鬼の仮面の裏に隠された何よりも暖かい優しさに、気が付いていなかったほどに。
「やっぱり、私には無理だよお」
この狭い空間にすら響かないくらいの声量で、ぼそりとそう呟いた。