34話
「すいません。わざわざこんなところまで出向かせてしまって。どうしても、パソコンの前から離れられなくて」
女と別れた後、しばらくの間私は立ち尽くしていたが、松井くんを待たせるのも悪いと思い、意を決して104号室のチャイムを鳴らした。
相変わらず目のクマは酷かったが、松井くんは変わらずいつもの松井くんだった。
その事実が、崩落寸前だった私の心をギリギリのところで立て直す。
「いえいえ!編集者として、作家が指定した場所に出向くのは、当たり前の事です。先生の方こそ、ご無理をなさったりしてませんか?」
「大丈夫です。こう見えて僕、タフなんですよ」
彼が言う『大丈夫』は、彼自身の感情の犠牲の上に成り立っていることを、覚えておいて。
クソっ。あの女の声が、どうしても脳裏に浮かぶ。
長年放置した換気扇の油汚れのように、剥がそうとしてもこびり付いて離れなかった。
「執筆の方は、どうですか?」
女の存在を払拭するため質問すると、松井くんは申し訳なさそうな表情を浮かべ、小刻みに頭を下げた。
「すいません。僕がこの間、現実逃避とか言って松島に行ったから、不安にさせちゃいましたよね。大丈夫です!今はまだ、本調子を取り戻せてないですけど、必ずぎんがさんが望む作品を書いてみせますので」
また、大丈夫...。
感情がごちゃ混ぜになり、なんと答えて良いか分からずに狼狽えていると、松井くんがボソッと呟く。
「それに何より、あの相川さんに支えてもらってるんですから。弱音なんて吐いてたら、バチが当たりますよ」
「ははは。冗談やめてくださいよ先生。私なんて、何の役にも立ってないですよ」
「そんなことないですよ!相川さんが居てくれたから、僕は今、こうして作家への道を諦めずに済んだんですから。あまり伝わりにくいかもしれませんが、本当に感謝してるんですよ」
もう、やめてくれ。
彼の優しさが、今の私にはあまりにも重すぎる。
人に優しくされて、ここまで胸が痛むのは人生で初めての経験だった。
これ以上ここで彼と話していたら、身が持たないと判断し、すぐに身支度を終えていた彼とアパートを出て、ツアーを敢行する。
無地のTシャツに、水色のシャツ。
そして、黒のズボン。
いつものことながらシンプル中のシンプルである彼の服装に、元ファッション誌編集者の血が滾る。
ああ、いつか胸を張って南雲先生の担当を名乗れる日が来たら、彼さえ良ければ一緒に服を買いに行って、コーディネートしたい。
そんな日が来るとは、今の時点では思えないけれど。
...いかんな。あの女のせいで、またネガティブが発動しとる。
とりあえず今は、彼が書けなくなった要因を探らなければ。
そしてあわよくば、私の気持ちの整理も...。
なんて、淡い期待を抱いてみる。
最寄り駅に移動し、乗り継ぎも経て電車に揺られること30分。
まず最初に訪れたのは、松井くんが生まれた街。
東京23区からは離れたところにあるその街は、都会特有の騒々しさもなく、穏やかな雰囲気が漂っていた。
駅前には、チェーン店や個人商店で立ち並んだ商店街が広がっており、そこにあった蕎麦屋で私たちは昼食を摂ることにした。
「よくここには来たんですか?」
お座敷で店の人気ナンバー1メニューであるらしいざるそばをつゆに馴染ませながら、蕎麦を箸で摘んでボケっとしている松井くんに話しかけた。
ここに来てから、何やら松井くんは心ここにあらずといった感じなのだ。
慌てて「あ、はい!」と返事した彼は、蕎麦を生のままぱくりと口の中に入れて咀嚼をした後、答えた。
「いえ、初めて来ました。この辺は高校の通学の際に駅まで行く通り道だっただけで、店に入ったりとかはしてこなかったんです」
「そうなんですか?見たところ、素敵な店もいっぱいありそうなのに」
「大人になってこうして眺めると、本当に魅力的なんですけどね。当時の僕は、ものすごく狭い世界で生きてきたから、全然そういうの、見えてなかったのかもしれません」
「てことはやっぱり、四六時中物語のことばかり考えてた感じですか?」
「さすがに小さい時はまだそこまで考える頭はありませんでしたよ。でも、妄想したりするのは好きでしたね」
「なーに妄想してたんですかぁ?好きな子の裸とか?」
「そそそ、そんなことする訳ないじゃないですか?!!」と、大いにむせる松井くん。
ああ、してたなこりゃ。
意外とムッツリだったのね。
「でも、今考えるとあの頃はただの何気ない妄想をするだけでも、充分に楽しかったんですよね。それがいつの間にか、それだけじゃ飽き足りなくなっていって...」
「気づいたら、物語を書いていたと?」
「そんなところですね。身近に、そういったものを仕事にする人が居たのも、大きかったのかもしれません」
「ええ?!どういう事ですかそれ」
「ああ。僕の父、一時期漫画家だったんです。もう亡くなっちゃいましたけど」
「それは、ご愁傷さまです。すいません、辛いことを思い出させてしまって」
「良いんです。もう10年前の話になりますから」
10年前というと、高校2年か3年の代か。
ずっと見ていたつもりだったのに、全く知らなかった。
やっぱり私はまだ、松井くんのことを何も分かっていない。
いつの間にか蕎麦を食べ終えて居たらしく、店員にお茶のおかわりを頼む松井くん。
忙しいのにすみません、と過剰に申し訳なさそうに頭をペコペコ下げている。
大学生くらいの若い女子店員は、「大丈夫ですよー」と少し戸惑いの表情を浮かべながら湯気の立った緑茶を陶磁の湯呑に注ぐ。
「南雲先生のお父様であるくらいですから、名の売れた漫画家だったんでしょうね」
素直な感想を口にすると、突然松井くんの表情が曇った。
「いえ、全く売れない漫画家もどきでした。今の僕があるのは、ほとんど父のおかげと言っても過言ではないので感謝はしてるんですけど...。正直、あまり好きではありませんでした」
もう少し深掘りしたかったが、これ以上踏み込んではいけない雰囲気を彼が醸し出していたので、口を噤む。
「悪い人では、無かったと思うんですけどね...」
悲しげに呟く松井くん。
「もしかして、南雲先生が書けなくなった原因って...」
まさかと思って尋ねてみると、彼は苦笑いを浮かべながら首を横に振った。
「それは無いと思います。もし今回の件に父が絡んでいるとしたら、そもそもこうしてネット作家にすらなれていないと思いますから」
「あ、そうですよね。お父様が亡くなったのは10年前って仰ってましたもんね!あはは、すいません。余計なこと言って」
誤魔化すように、残りの蕎麦を慌てて食べ尽くす。
「ゲホッゲホッ」
勢いよく食べすぎたせいか、喉元に蕎麦がつっかえ、激しくむせてしまう。
どうして人間の鼻と口は繋がっているのだろう。変な方向に進んだ蕎麦が、鼻の穴から出そうになり、瞬時に手の平で隠して自前モザイク的なやつをかけた。
「だ、大丈夫ですか?!救急車、呼びましょうか?!!」と必死になる松井くんに、全力で首を振りながら目で訴えかける。
大袈裟大袈裟!
確かに死にたくなるくらい恥ずかしい状況だけど、死なないから大丈夫!
「食べ終わったので、そろそろ出ましょうか」
「そうですね。時間も限られてますし。すいません、会計お願いします!」
「あ、もうお済みなので大丈夫ですよ」
先程の大学生店員が、愛想良い笑顔で応じた。
「ええ?!いつの間に?!」
非難の目を松井くんに向けると、彼は私から視線を逸らして対して興味もないくせに店内を見回す。
「出します出します!受け取って下さい」
「いや、財布出すのめんどくさいんで。またの機会に!」
「なんですかそれ」
結局彼は、まともにお金を受け取ろうとはしなかった。
納得がいかずブスったした表情を浮かべたまま店を出て、松井くんが昔住んでいたアパートまで足を進める。
商店街を抜けると、典型的な住宅街が広がっており、時折建物の中から子供の楽しそうな声が聴こえてきた。
微笑ましそうにそれらの声を聴きながら歩く松井くんの横顔を眺める。
もし彼が、彼自身の子供を想像するとして、やはり母親はあの松島の女なのだろうか。
本当にあの人が彼女なのかどうか、ハッキリさせたい。
だけど、今は彼にスランプを解消してもらうことに集中してもらいたい想いが強く、実際にその質問を口にすることは出来なかった。
いや、本当はハッキリさせるのが、怖いだけなのかもしれない。
別に松井くんに彼女が居ようが、私には関係のない事なんだけど、それでも何か、胸がムズムズするのだ。
「着きました。ここが、以前住んでたアパートです」
目の前にあるそのアパートは、今の松井くんのアパートよりもさらに古く、寂れていた。
色が薄くなったオレンジの外壁は、ところどころ割れており、少し衝撃を与えればそのまま崩れてしまいそうなほどに脆く見えた。
「あ、味があって良いですね!」
ここで絶句してしまったら松井くんに失礼なので、咄嗟に心にはない感想を口にする。
「ただの、ボロ屋敷ですよ」
小さく笑いながら、二階建てのアパートを見上げる松井くん。
「父とは物心ついた時から別居していたので、ここには母と二人で暮らしていたんです。傍から見れば不幸な一家だったかもしれないですけど、僕からしたら母と二人で過ごした時間は今でも人生の宝物なんです」
その言い方から、嫌な予感がした。
口を開けば余計なことを言ってしまいそうになるので、頷くことで相槌を打った。
しばらくの沈黙の後、次に発した彼の言葉は、私の嫌な予感を的中させた。
「母ももう、旅立ってしまいましたけどね。6年くらい前に」
その切なそうな表情を見て、私は無意識に触れるか触れないか微妙な距離感を維持していた彼の手を、ギュッと握った。
「あ、相川さん?!!」
まるで近くを飛んでいた蜂に気づいた時のようなリアクションを取った彼は、すかさず私の手を振り落とそうとする。
しかし、私も意固地になってその手から振り落とされないように、力いっぱい彼の手を掴んだまま離さない。
「すみません。少しの間、こうさせて下さい」
本当は、今すぐにでも抱きしめて「辛かったね」と慰めてあげたい。
だけど、それを出来る立場に私は今居なくて、その事が鼻から麺が出てしまいそうなほどに悔しい。
せめてもの抵抗に、彼の手を掴んだまま離すまいとしているが、それもきっとただの私の自己満足でしか無く、彼に寄り添えていることにはならないのだろう。
ああ、やっぱり私はまだ...。
松井くんは、明らかに戸惑いの表情を浮かべていたが、再び私の手を振り払おうとしたりはしなかった。
どこまでも、優しくて強い人。
両親を失った悲しみなど、まだ葬式にも参列した事の無い私には到底理解出来ない感情なのだろう。
松井くんのアパートを見つめる表情から、彼の原点である家庭環境には、まだ何か裏がありそうに思えたが、それを追求出来る立場にもないことは充分に弁えている。
「あ、多分、母の件もスランプについては関係ないと思います」
思い出したように言った彼に、私は慌てて頷く。
「別にそんなこと、どうでもいいのに」
こんなこと言える状況や立場にないのは承知の上で、私は小さく呟いた。
せめて今くらいは、編集者と作家という関係性を忘れて欲しい。
高校の同級生として、ありふれた一組の男女として、ただこの手を握っていたい。
例えそれが、許されない行いだとしても。




