32話
誰だったんだろう、あの女。
そんなことを一日中ずっと考えていたら、信じられないことにそれから一週間が経とうとしていた。
週末はただ何となくぼんやりと過ごし、月曜日から今日の木曜日にかけて、南雲案件とは関係のない雑務を、ゆったりとこなす日々。
奈良編集長との約束の期間まで、ほぼ残り一週間だというのに、何というこのていたらく。
冷静に考えて(というか冷静にならなくても)かなりヤバい状態だと分かってはいるのだけれど、全く行動を起こす気になれない。
それほどまでに、今の私のメンタルはやられていた。
「なに薫ちゃん。しけた面して。失恋でもした?」
「し、してません!!」
デスクでぼんやりと缶コーヒーを飲んでいたら、突然背後から奈良編集長に話しかけられ、私は反射的にそう答えた。
「そうかなあ」と、楽しそうにニヤニヤしながら私を見つめる編集長。
やはり得体が知れないなこの男。てか、失恋じゃないし!
だってそもそもの話、私と松井くんはただの作家と担当編集の間柄でそれ以上でも以下でもないのだから。
別に学生時代に好きだからと言って、今も好きかと言われたらどうかのかって話だし。
なんて、誰に言い訳をしているのだろう。私は。
「そんな調子じゃ、間に合わないよ~。まー、俺には関係のない話だけど~」
安い言葉で私を煽りながら、奈良編集長はオフィスからふらふらと出て行った。プロ野球の球団のユニフォームを着ていたので、恐らく野球観戦にでも行くのだろう。
ぎんがが大ピンチだというのに、編集長が定時ピッタリで上がるのは、いかがなものなのだろう。
そんな編集長の後ろ姿を見て、舌打ちをした海老原が、椅子から立ち上がり、私の方へゆっくり近づいてくる。
「相川さん。今日、定時で上がりますか?」
「上がります(おい)」
「そうですか。なら少し、その辺のカフェで話しませんか」
「・・・・何かの罠ですか?」
「私を何だと思ってるんですか。あなた最近元気が無いので、ちょっと励ましてあげようかと」
「え、海老原さん・・・。意外と、そういう気遣いも出来るんですね」
「はあ?ぶっ飛ばしますよ。で、行くんですか?行かないんですか?」
「もちろん行きます」
ぎんが配属初日以来の定時退社を果たした私は、そのまま海老原さんとビル近くにある個人経営のこじんまりとしたカフェへと向かった。
カフェ【あめんぼ】は、集新社に勤めるOL御用達と言っても過言ではない、隠れ家的なカフェで、お世辞にも飲み物や食べ物は美味しいとは言えなかったが、その西洋風のおしゃれな雰囲気と、愚痴を言うにはもってこいの人気の無さが相成って、割と人気を博していたりする。
「海老原さんでも、カフェとかよく来るんですか?」
あめんぼのメニューの中では一番マシな部類に入るアイスティーを持ちながら尋ねると、海老原は怪訝な表情を浮かべた。
「私を何だと思ってるんですか。そりゃあ来ますよ。年に三度も」
「それ、よく来るとは言わないんじゃ...」
砂糖やシロップ無しのブラックコーヒーを、海老原は喉が乾いた時の水のように豪快に飲み干した。
ここのコーヒー、苦すぎるとある意味評判なのに、よく平気な顔をして飲めるな。
しかも今、小声で美味しいとか言っちゃってるし。
すげえな、この人。
「で、一体何で悩んでいるんですか?」
突然脈絡もなく、茶番のような前置きをぶった切って聞いてくるところが実に海老原らしい。
私はアイスティーのストローを転がしながら、数分にかけてじっくりと現状について説明する。
当然、あの女のことは伏せて。
「なるほど。状況は分かりました。あくまで本人も書く意欲はありそうなので、何かきっかけがあれば良いのですが...」
海老原は先程のコーヒーをおかわりし(マジか)、しばらく頭を悩ませた後、続けた。
「以前こんな話を聞いたことがあります。プロ野球選手でイップスという病気に罹った投手が彼の原点であるリトルリーグのグラウンドや母校を回っていたら、本来の野球の楽しさを思い出してイップスを克服したと」
「え、なんですか?リップス?」
「違いますイップスです。ドラクエにそんな名前のモンスターが居た気もしますけど。イップスとは、過去のトラウマなどの精神的な問題でボールが投げられなくなる病気のことを言います」
「野球選手なのにボールが投げられないなんて職業柄かなりヤバくないですか?!人生一気に詰みそ〜」
「何を他人事のように。あなたの担当先も、同じような状況で苦しんでるんでしょ」
「あ、確かに。そうじゃん」
ボールの投げれない野球選手。
物語を書けない作家。
ファッション誌の編集者で例えるならばなんだろ。
服の着れない編集者?
いや、それは冷静に考えて捕まるわ。
「南雲先生がスランプに陥った理由が、どこにあるのかは分かりません。けれど、その理由がもし過去にある場合、試す価値はあるのではないでしょうか?」
「なるほど。【びっくり過去の原点トラベルツアー】を敢行する価値は、ありそうですね」
「ネーミングセンスはさておき、何もせずに編集部でボーッと物思いにふけるよりは、マシなのではないでしょうか」
痛いところをついてくる海老原に、私は苦笑いを浮かべる。
でも、そうだな。
今の私にとっても、それは良い事になるかもしれない。
不完全燃焼の、今まで目を瞑ってきた過去に向き合う。
私の彼への本当の想いを確かめるためにも、より深く彼を知り、スランプへの答えを二人で導き出すためにも、良いきっかけになる。
てか、そうなってくれないと困る!
残り一週間しか無い訳だし!
「ありがとうございます海老原さん。少し、希望が見えてきました」
いつの間に注文したのか、カフェあめんぼで一番の不人気メニュー、スルメイカのバター和えを美味しそうに頬張りながら、海老原は大きく頷く。
「私、一時期道を踏み外していた頃があったんですけど、ぎんがに出会ったおかげで、ここまで持ち直すことが出来たんです。恐らくこの雑誌に出会わなければ、私は今頃、裏社会で暗殺稼業でも営んでいたと思います。このぎんがに、私は人生を救われました」
やはりなんの脈略も無く突然始まる自分語り。
それに今なんか、恐ろしい単語が聞こえたような気がしたが、恐らく冗談であろうから(顔はマジだったが)聞かなかったことにする。
「まだ、この雑誌は終わるべきじゃない。時代に合わないのかもしれない。生き残るための工夫を怠った報いが来たのかもしれない。ですが、ぎんがには、純文学には、文章で人を心を動かす力がある。その事を、もっと多くの人に知って欲しい。そのためには、どうしても南雲先生のようなカリスマの力が必要なんです」
向かう方向は全く違えど、私にとってのBRUJAが、海老原にとってはぎんがなんだ。
BRUJAが廃刊になるなんて、考えたこともないし、想像もつかない。
だけど、海老原やその他編集者達にとっては、その事が今現実に目の前で起こっているんだ。
力になりたい。
ぎんがのためにも、松井くんのためにも、そして何より、私自身のためにも、やっぱり私は南雲泰雲の担当でありたい。
今は一旦、あの女の事は胸の奥底に閉まっておこう。
そしてこの残り一週間、全てを出し尽くして彼の担当としての責務を果たしたら、もう一度向き合うんだ。
あの女にも。自分の気持ちにも。




