辛酸と泥かぶりと side:エリ 第六十六話
「はぁっ……はぁっ……はぁっ!」
レンの肩を借りながら、どうにか王宮内の自室にたどり着くエリ。扉を閉め空間が切り離されると、すぐにエリはレンの肩から離れた。
「もう、結構ですわ」
「いけません、あまり無茶をされては」
「いいと言っているでしょう!!」
\ドンッッ!/
物に寄り掛からなければまともに立つことすらできないダメージ。だというのに彼女は、乱暴に机を叩きさらに体に負担を掛けようとする。
能力によるものか、強く握られた彼女の手からは血が溢れ出していた。
「お嬢様……」
「この私が、戦いで遅れを取るなどあってはならぬことなのです!」
彼女の顔は、悔しさで歪んでいる。最後に激昂し二人を噛み砕かんとした椿と同様に、彼女にとってもこの幕引きは不本意なものだったのだ。
「相手方は相当な手練れであり、能力の相性もあります。お嬢様が気になさるようなことでは」
「黙りなさいッ!」
手元にあったペンを一本掴み、それを勢いよくレンの顔に向けて投げる。投擲されたペンはレンの頬を掠めさらに背後の扉へと進んでいくが、勢いは止まらず扉を貫き向こう側に消えた。
能力による鋭利化の付与。掠めたレンの頬には、赤い線が引かれている。
「私の敗因はひとえに私自身の技術不足と油断! 自身の非を認めない弱者に成り下がったつもりは毛頭ありませんわ!」
「っ差し出がましいことを申しました、お許しください」
戦いに負けた。その理由も知っている。だからこそ彼女は悔しいのだ。本来は革命派の資金源を潰すだけだったはずのこの任務。
実際に現場を見てみれば、そこに居たのは一筋縄ではいかない人間たち。
今回も自分とレンだけで上手くいく筈だという思い上がりがあったことを、彼女は認めていた。
「ッ! こほっ! こほっ!!」
「っ! お嬢様、すぐに手当を!」
「……医師は不要ですわ、すべて貴女が処置しなさい」
「それは……いえ、かしこまりました」
レンは彼女の内心を察し、治療のための道具を取りに部屋を後にする。途中、壁に刺さったペンを回収しつつ。
一方、部屋に一人残されたエリは家具を頼りにベッドに向かう。一歩一歩おぼつかない足取りで進んでいき、到達と同時に靴を脱ぎゆっくりと腰を下ろす。あまり体に負担をかけないように。
「ッ! ふぅ」
それでも多少の痛みは起こり、貫手を受けた箇所に手をやる。
「手酷くやられましたわね。ここまでの惨敗を記すのはいつ以来でしょう」
一見、座ったことで落ち着きを取り戻したように思えるエリの態度。しかし未だ彼女の内側には、グツグツと煮えたぎるマグマのような執念が燃え上がっていた。ただ、それを吐き出すことのできる相手がいないだけなのだ。
「椿……そしてサクヤ……」
平手を顔に添え、額から顎にかけてゆっくりと手を動かし、後に残ったのは鮮明な赤い血液。顔に沿わせた手は、先程自身で傷をつけた手。
彼女の顔にべったりとついた鮮血は、まるで二人が身につけていた服のような赤色。絶対に忘れないという彼女なりの決意の証であり、同時に向かうべき目的を忘れないための道標。
「この屈辱は絶対に忘れませんわ。いつか必ず雪辱を果たし、私の過去の汚点として切り捨てて見せましょう」
「お待たせいたしました、お嬢様……っ!? どうなされたのですか!?」
医療用の道具を一式揃え戻ってきたレンは、部屋に入るなり顔を赤く染めたエリを見て素早く駆け寄る。彼女にしてみれば、部屋に戻った瞬間自分の主が顔を真っ赤に染め上げていたのだ、驚きもするだろう。
「お気になさらず。ただの化粧ですわ」
「すぐにお拭きしますから、動かないでください!」
タオルで優しく、されど跡を残さぬよう徹底的に拭きあげるレン。彼女が顔を拭く間、エリは何も話さず目を閉じてじっとされるがままとなる。
例え見た目は拭き取られたとしても、自身の顔に付いていたという事実があれば良い。彼女の覚悟とはそういうものだ。
「……はい、終わりました。出血はされていないようですね」
「ありがとう。では、お願いしますわ」
「かしこまりました」
血や泥に塗れた服を脱ぎ捨て下着のみの姿となり、少し病的なまでの白肌を晒すエリ。ベット上に仰向けで寝転ぶと、レンは慣れた手つきで触診を始める。
「……こちらは」
「問題ありません」
「では、ここ」
「ッ……そこ、ですわ」
「骨に異常は無さそうですね。重症でなくて安心しました。次は傷の消毒を始めます」
能力を少し使用し、消毒液の刺激を和らげる。
小さなことにも気遣いを。彼女がメイドとしても優れている所以だ。
「そういえば、貴女の方はいかがだったのですか? 話したのでしょう、彼女と」
「ッ! えぇ、然りと」
液の染み込んだ布を僅かに止め、どうにか反応を返す。レンが能力を発動させて二人だけの空間を作ったことは、エリには筒抜けだった。会話の内容までは把握されていないが。
「聞いていた情報よりもだいぶ幼く見えましたが」
「え、えぇ……まぁ」
「『クチュンッ!』」
「否定しないのね? 貴女が私以外に初めて興味を示した人間なのだから、一体どのような人物か気にはなっていましたが」
「それで、如何でしたでしょうか? お嬢様から見て、おね……ココさんは」
「私から見た彼女? どうしてそのよう……あぁ、私にとって必要かどうかということですか?」
「はい」
消毒をする手が今度こそ完全に止まった。エリのココに対する評価は、彼女とココの間に交わされた契約を遂行する上でとても大事な要素。印象が良いものであればあるほど、事はよりスムーズに運ぶだろう。
「そうですわね。彼女とは一度も戦いませんでしたので、戦力という意味では判断しかねます」
「はい」
「それ以外の面を評価するならば……」
顔を伏せ、次にくる言葉に備える。時間にして一秒未満、エリはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「関心はある、でしょうか」
「っ!!」
表には出さなかったが、レンは内心一息をついた。必要だとは言われなかったが、彼女の口から好意的な言葉が出た時点でレンの目標はある程度達成されたと言っていい。
「不思議な方ですわ。戦闘中何度かこちらを覗き見る彼女と目を合わせましたが、可愛らしいというか、触れてみたいというか。とにかく人を惹きつける魅力を持った人物です」
「では!」
「えぇ、もうしばらく様子を伺ってからですが。彼女は私にとって、少なくとも今すぐに切り捨てられる存在ではありません。保留、ということで」
「そうですか! ……よかった」
初顔合わせは上々の結果。主のココに対する評価が人というより愛玩動物よりのものであることが引っかかったものの、悪いものでないのなら万々歳だ。
「それにしても、えらく彼女に入れ込むのですね? 私以外に貴女が興味を示した人間は彼女だけ。何か理由でもあるのかしら?」
「っ!! そ、れは」
エリからの不意の問い。レンは彼女の言葉に、反応を返すだけで精一杯だった。
レンがココを姉様と呼び慕う本当の理由。エリは知るよしもないが、そこには決して明るみにでない、ドス黒い国の、引いては人間の闇が関わっている。
「……ふぅ、まぁいいですわ。貴女にも話したくない秘密の一つや二つあるのでしょう。被害を被らないかぎり無理に聞く気はありませんわ」
「……ご意向、感謝いたします」
だがそれを、今この場で話すことはない。できることなら、このまま彼女の中だけに留めて墓場に持っていく覚悟すらある。エリだけでなく、現状記憶が抜け落ちている彼女の姉に対しても。
「せめて貴女の友人として、悩みくらいは聞きたいのですけどね」




