危機一髪と暗転と 第三十九話
「くっ……ウゥッ」
息が……できない。ドロっと粘ついた血が鼻に付着して、さらに呼吸しづらくなってしまった。
袖で拭おうとしても、水に溺れた時のように荒い息しか出てこない。
「クヒヒッ、ちょっと強くしすぎましたか? 私が満足するためにも、貴女にはまだ苦しんでもらわないといけないのに」
「フゥゥッ……フゥゥッ……」
ここしばらくの幸せな暮らしの中で、私の中に慢心があったのだろう。表面だけを見ただけで相手を分かった気になって、良い人間と悪い人間の区別の仕方を見誤った。
シルクさんやキリエ、そして私自身。孤児院や図書館で散々見てきたというのに。
「どうしたんですか? 反撃しないんですか? ヒヒッ、やってみたらどうですか〜? こ・こ・に?」
「ッ! ヒュー……ヒュー……」
どういうわけか、ナツメは私の手の届く距離に自身の顔を近づける。ここを狙えと指を刺しながら。
遠くから眺めるだけでいいのに、ただ人形に傷をつけるだけでいいのに。なぜか彼女は近づいてくる。
「くっ、うぁああああ!!」
「……!」
明らかに怪しい行動。普段の私なら、気をつけるであろう迂闊な行動。限界に近い私の脳は、思考よりも本能を優先して行動した。その結果、
「ゴッッ!?」
「……ヒヒッ!」
頬を強く打ち付ける衝撃と、それにより勢いよく吹っ飛ぶ体。ただし、吹き飛んだのは私の方だった。
「な……何、が」
「別に、打ち付けるのは私じゃなくてもいいんですよ。こうやって相手に合わせて藁人形を突き出せば、ね?」
「なっ!?」
彼女の右頬を構成する藁の隙間から、顔を覗かせている藁人形。その胸元には、私を示す血の跡。
私は、確実にナツメの右頬を殴った。必死に整えた呼吸で、なけなしの体力で、精一杯の一撃を。
だがそれは、すべて自分自身に返ってきた。私の体は宙を舞い、私とナツメとの距離を広げてしまう。間にできた距離は、私にとって致命傷。
「そういえば私、貴女の名前を聞いてませんでしたね? 聞いてもいいですか?」
「…………コ……コ」
「ココさんですか〜、いい名前ですね」
私の全力を私自身に喰らい、右頬を初め頭全体に強い痛み。貧血と呼吸が正常に行えない。まずい、とてもまずい。
「ところでココさん。納豆って、知ってます?」
「ハァ……ハァ……」
「あれ、藁の中に豆を入れて作るんですよ」
血の藁人形を何処からか取り出し、腕のあたりを指で弄り始めるナツメ。私の腕にもこねられるような感覚がある。
「……それが」
「お米を包めば米俵になるように、藁は色んなものを包みます。だから私の藁の体には、色んなものを収納することができるんですよ? 作った人形とか、この釘とか」
「……ァァアッ!!」
右腕に起こる出血。人形の傷付ける箇所によって、私の体に起こるダメージも変わるらしい。
「大きさや量も関係ないんですよ? そしてそれを、何処からでも取り出せます」
「!? ヒッ!?」
この街に来て、初めて感じる死が眼前に迫る恐怖。
それはナツメの腕から抜き出てきた、朝日を反射する白銀の輝きに起因する。
「怖いですか? 私は縁あって、こういった趣向のものを色々と持ち合わせているんです。簡単に人を傷つけられるものを、ね?」
「か、刀ッ!?」
銀一色の飾り気のない、一対の反りのない直刀。私の短剣と比べて二倍以上、刀身は長い。
「フフフ、怖いですか? 恐ろしいですか? 顔が青ざめてますよ?」
「ッッッッ」
ーー 怖い、怖い怖い怖いッ!
まともに動くことすら難しい状態の私に、ゆっくりと刀を見せつけながら近づいてくるナツメ。腰に携えた相棒を抜いたところで、まともに打ち合えば敵うわけがない。リーチの長さでも、手数でも。
「たっ……ゴホッ!……たす、けて! 誰かッ!!」
「命乞いですか? 大丈夫ですよ殺しはしませんから。だってまだ、私の気がおさまっていないんですから」
「助けて……助けてッ! 嫌だっ、嫌だぁぁぁ!」
「あぁ……いいぃぃ!」
初めて陥った、手詰まりの状況。生身の人間では決して抗えない能力という壁。
「こよみッ! シルクさんッ! テトさん! ……キリエぇぇ!」
結局私は、誰かが側にいなければ戦えない。誰かと戦う、誰かのために戦うことしかできない。自分のために戦うことなど、できはしない。
それは言い方を変えれば、"責任転嫁"とも呼べること。私はそれを、恐怖に怯えながら学んだ。
「それは、友達のお名前ですか? ……羨ましい。私には味方になってくれる人も、頼れる相手もいないというのに」
「ヒッ!?」
光を灯さないその瞳が、さらに暗く澱んでいく。さらに自身の立場を悪くしてしまい、私の恐怖は数倍に膨れ上がる。
周りに人影はなく、ここには私と彼女だけ。心の中に、恐怖を超えた諦めの感情が浮かんできた。
「 ココッ!! 」
ーー それは、まさしく希望の光だった。生を諦めきれない私に残されていた、最後の希望。
「キリエ……! キリエぇぇぇぇ!」
「っ!?」
私を目指し、脇目を振らずに走り近づいてくるキリエの姿。頼もしく、久しく感じなかった安心感。血に濡れた酷い顔は流せなくても、目からは大粒の涙が溢れる。
「ど、うして!? この時間、ここに人は来ないはずっ!?」
「ココ、しっかりして! ココ!!」
「キリエ……! 来て、くれたんだ」
「酷い傷……それにこの血はっ! ……あなたね? ココをこんな目に合わせたのは」
「あっ……うぅ」
迫力あるキリエの言葉に、何故かナツメは口籠もる。冷静さを取り戻すことができた私の見た彼女の姿は、まるで叱られる子供のよう。
キリエは私を庇うように立ち、両手に影糸を展開する。
「私の親友を痛めつけて、一体どういうつもり? 事と次第によっては、私もそれなりのお返しをさせてもらうけどッ?」
「ひぅっ!! えとえと、あの……そのっ」
「はっきり言いなさいッ!! これ以上私を怒らせると、本気でただじゃ済まなくなるわよ!?」
見た目は異形であるナツメは、キリエを相手に全く会話ができていない。それこそ私の負傷がなければ、一方的な恫喝にも見えるほどに。
一言も話す事なく、黙り続ける彼女の選んだ選択は、
「ぅ、うぅ! うゎぁぁぁぁぁん!!」
涙を流しながらの逃走であった。
「っ!! 待ちなさい!」
「……っ!」
「……ココ?」
後を追おうとする彼女の服の裾を、無意識に掴む。その指は自分でもわかるほどに震えていて、キリエが私の側を離れることにとてつもない恐怖を感じたのだ。
「いか……ないで……」
「! ……そうね、今は貴女の方が先よ。傷はどこ」
目に見える箇所だけでも、痛む喉を堪えながら伝える。口にするほど大怪我になっていく私の傷、多分私の臓器のいくつかも酷いものになっているはずだ。
「さっきの奴、もしかしてあなたの言っていた?」
「……ん。ほん、と……だた! ち……あれ……!」
「そう、逃したのは失敗だったわね。無理矢理にでも捕まえておくべきだったわ」
「ご……なさ……」
「ココのせいじゃないわよ。私の判断ミス」
徐々に声が出なくなってきた。空気に触れるごとに血が乾燥し始め、喉の機能を止めつつある。呼吸すら辛くなってきて、視界が暗転し始めた。
「コヒュッ……ハァッ、ハァッ! ハァッ!! く、るしッ」
「ココ!? しっかりして、ココ!!」
「ハァアッ、ハァアッッ、ケハッ」
「血が固まり始めたのね……!? 待ってて、すぐに水で洗い流すから!」
姿勢を維持することが難しくなり、倒れた私から離れていくキリエ。そんな後ろ姿に手を伸ばしたところで、私の視界はそこで途切れた。




