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膝枕と異変と 第三十六話



 雲一つない月の綺麗な夜。

 船頭の水をかく音を子守唄にして、ゆっくりと舟は進んでいく。


「ん〜♪」


「今日はご機嫌さんね? 何か楽しいことでもあった?」


「はい! とっても!」


 こよみさんに漕いでもらう舟は、何というかこう、好きなのだ。語彙力が無くて申し訳ないが、言い換えるなら安心感が違う。

 今でも思い出す、あの地獄のような大人数用の舟でのこと。

 買い出しなどで区画の反対に行くことはあっても、舟を一切使わなくなったくらいにはトラウマになってしまった。


「私、こよみさんの舟好きです」


「そう? ふふっ、ありがと」


 水は入ってこないし、揺れないし、静かだし。他の乗客の変な臭いも全くなく、あるのは私の持っている花の匂いだけ。

 できればこよみさんの舟に乗る時は、これからも一人で利用したいところだ。


「それでココ、今日は本当にどうしたの? 何か私に話したいこと?」


「あ、そうでした! こよみさん、これ受け取ってください!」


「……花?」


 道中細心の注意を払って持っていたスズランの花。私の差し出したそれを、こよみさんはオールを漕ぐ手を止めて受け取ってくれた。

 彼女は前髪で隠れていない片方の目を閉じて、花の香りを楽しむ。口元が緩んでいるところを見るに、喜んでくれたようだ。


「ありがとう! 私、スズランの花は初めてもらうの! でも、どうして私に?」


「私がいなくなったことで、こよみさんに不要な心配をかけてしまいましたから。お詫びの印に受け取っていただけると嬉しいです」


「お詫び? ……あぁ、そういうこと」


 合点がいった。と、こよみさんは頷く。


「キリエから事情は聞いたわ。こちらこそ気づいてあげられなくてごめんなさい」


「いえ、そんな」


「ココが気にする必要はないわ。全部私たちの不手際だもの。本当にごめんね?」


「あぁ! だ、大丈夫ですよ! 私外で寝るのは慣れてますし、それよりも何も言わずにいなくなったことを謝りたくて!」


「キリエも言ってた、ココにそう言われたって。本当に優しいのね」


 優しいのはこよみさん達ですよ。喉元まで出かけたその言葉は、結局言えなかった。これを言えば、多分どちらかが折れるまで言い合うことになるだろうから。


「"再び幸せが訪れる"、仲直りの花よね。何か私やっちゃったのかって不安になっちゃった」


「すみません……私、花言葉には詳しく無くてですね? 店員さんと相談しながら決めたんですよ。気に入ってもらえましたか?」


「えぇ、すっごく! ありがとうココ」


「それはよかったです」


 キリエに続きこよみさんへの謝罪も上手く伝わらなかったけれど、スズランは好評のようでよかった。スズランを選んでよかったと、これをオススメしてくれた店員さんに感謝を送る。


「そういえば、ココはキリエに告白されたのよね?」


「うぇっ!? キリエはその事も言ってたんですか!?」


「顔を真っ赤にしてね? ……そっか、キリエはちゃんとお礼できたのね」


「うーん、二人の秘密にしてってお願いすればよかったかな」


 思わず私の顔に熱が現れ始めたその時、こよみさんは花の匂いを堪能しつつ何かを考え始めた。そして、


「私も、何か貴女にお礼しなくちゃね」


「それは舟の費用無料って話では?」


「全然釣り合ってないじゃない。少なくともキリエのお返しくらいインパクトがないと」


「そこ張り合うところです……?」


「! そうね。ねぇココ、この後用事とかあったりするかしら?」


「? 特にありませんけど」


 こよみさんは、私の返答を聞き取るとオールを収納し船底に腰を下ろす。そして徐に足を正座状態にすると、自身の太腿をポンポンと叩く。


「おいで、ココ」


「はい?」


「前に撫で撫でをする件、有耶無耶にしちゃったでしょ? 今、してあげようと思って」


「えっと、それと膝に何の関係が……」


「膝枕、嫌?」


「遠慮なく頂かせていただきます」


 シルクさんに似た母性のようなものを感じとり、私は頭をこよみさんの太腿の上に置く。

 ハッ!! わ、私は一体何を!?


「ナデナデ……ナデナデ……ふふっ♪」


「ふにゃぁぁ」


 私は今、物凄い贅沢をしている。私しか使っていない貸切の舟の上で、優しく光る月と満点の星空を目一杯に堪能しつつ、片目を隠した私なんて足元にも及ばない美少女に膝枕と撫で撫でをしてもらっている。

 天国は、ここにあったんだ


「気持ちいい?」


「凄く……落ち着きます」


「そう、よかった。ねぇ、ココ」


「んー?」


「何か私にして欲しいことはない? 私にできることなら、なるべく叶えてあげるから」


「もう少し、続けてください……幸せぇ……」


「ふふっ、気に入ってくれたのね」


 最高です、こよみさん。

 キリエと戯れ合う時も、シルクさんに甘える時も、テトさんに幻影を見せてもらう時も幸せだけど。それらに負けず劣らずこの時間は幸せに感じる。


「改めてありがとう、ココ」


「孤児院のことならぁ……」


「ふふっ、キリエのことよ? 彼女の悩みは知っていたのに、私は何もしてあげられなかった。あの時に出した二百万リルが、私のしてあげられた精一杯なの」


「いいんですよぉ……キリエはこよみさんのこと親友だって言ってましたからぁ」


「貴女もキリエの親友よ? そして、私の信頼する友達」


「あぁい……」


 こよみさんの甘い香りも、淡く光る月の光も、優しく吹く夜風も、すべてが極上。

 ……最近、周りの美少女に甘やかされてばかりだな私。


「ねぇココ。私のこと、こよみって呼んで欲しいな」


「こよみぃ……?」


「そう、こよみ」


「こよみぃ……」


 半分眠くなり始めたせいで、今私が何を言っているのか自覚していない。姿勢を変えこよみのお腹に抱きつくようにして私は彼女の名前を呼んでいる。

 しかしそんな失礼なことをしても、こよみは私の頭を撫でて微笑んでくれる。


「ありがとう、ココ。これからもよろしくね」


「よろしくですぅ……」


 あぁ、できればこのまま眠ってしまいたい。でも宿に戻らなくちゃいけない。

 欲望に身を任せたくなるのを我慢しつつ、私は今この瞬間を楽しもうと起きる決意をした……


 \カィィィン!/


 耳鳴りに近いような、鉄を打つ音が耳に入る。


「っ!? ケフッ、ケフッ!」


「ココ……?」


 体に異変を感じ、私はこよみの体からすぐに離れる。胸元に何かがつっかえるような感覚があり、口の中には血の味がする。


「ケフッ! コフッ! な、なに、これ」


 口元を抑えた右の手のひらには、少しだが血痕が付着している。何か液体が口端から流れるような感触がして、腕で拭き取ってみればそれもまた血。

 まだ完全には治りきっていなかったのだろうか? いや、臓器に負傷はなかったはずだ。


「大丈夫?」


「だ、大丈夫です。ちょっとむせてしまっただけで」


 何故か直後、胸元のつっかえのような感覚が綺麗さっぱりなくなった。何か私の体ではない、別の要因を感じさせる。


「そう……。もしかして、あまり調子良くないの?」


「大丈夫ですよ。あの咳は突発的なものですし、もう落ち着きましたから」


 こよみには見えないように、水路の水に手を伸ばし血痕を洗い流す。舟の上で彼女に心配をかけたくはない。


「あまり風に当たりすぎるのも良くないわ。今日はもう戻りましょう?」


「うっ……も、もう少しだけ! もう少しだけお願いします! そしたら戻りますから!」


「……少しだけよ?」


 不意に起こった吐血を理由に、こよみに宿へと強制的に送り返されるところだった。帰りたくないと子供のように駄々をこねてしまったが、まだこよみと話をしていたかったのは本当なのだ。後もう少しだけ、この時間を続けたかった。

 ……でも、あの金属を打ちつけたような音は一体何だったのだろうか。

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