神の嫁
村長さんの所の次女の咲世さんは、東京の学校に通っていたが、もうせん、卒業して、家で花嫁修行にいそしんでいる。帝都の水で洗われたせいか、とっても色の白い綺麗な人である。村長さんの家に出かけると、いつも咲世さんが応対に出ては、鈴を振るやうな涼しい声で挨拶してくれた。こんな田舎に埋もれて百姓の嫁になんかにするのは惜しい、世が世なら、九重の禁裏に召されて…といふ声もあったほどだ。
しかし、咲世さんに、町方に想い人があるのは、おれたちには周知の事実だった。その人は、すっきりした好青年で、休日ごとに、川沿いの草深い道を越えてきては、村外れの川原で咲世さんと親しげに話して居る。村の若者はそれが気にいらないらしく、大勢で闇討ちを仕掛けたが、却って、その青年の一人のために、みんなして橋の上から突き落とされる結果となった。その青年は、いつのまにか、村の子供達をてなづけてしまい、たいそうな人気者になりおおせて居た。ときどきおれたちとも川原であそんでくれたものだ。咲世さんも、傍らの石に腰を下ろしては、その青年とおれたちがはしゃぎまわるのをにこにこしながらながめて居る。てっきり、おれたちは、その青年が――龍一さんと咲世さんは呼んでいたが――咲世さんの婿になるのだと思っていた。
でも咲世さんのおとっつあんの村長さんは、その人が気に要らなかったらしい。箱入り娘の不行跡に憤慨した村長さんは、どこからか咲世さんの婿を見つけてきた。娘の気持ちなどまったくお構いなしなのである。村長さんは、娘を家に閉じ込めたきり、外に出さない、といふ話を聞いた。咲世さんの想ひ人の姿も、村には見えなくなってしまった。
じきに村長さんの家で結納が交はされた。そのとき初めて咲世さんの婿さんを、おれはこの目で見たが、なんだか、にくさげな四角い顔の不器量な男で、龍一さんの水のしたたるような美青年ぶりとは提灯に釣鐘ほどの違いである。
“龍一さんのほうがぜったい咲世さんのお婿さんにふさわしいよな”おれたちは口々に言った。
村長さんの見つけてきた男と、咲世さんとの祝言はこの梅雨のかかりにあるはずだった。しかし、咲世さんの身体の加減が悪い、ということで、夏まで延期になったのである。
やがて梅雨は明け、夏がやってきた。
咲世さんの祝言を次の日に控えたある夏の日、大沼に、鉄太郎を連れて遊びに出かけた。この沼から村を囲む川が流れだして居るのだ。下流の含満ヶ淵ほど水の勢いも強くないので、夏になると子供達がわらわらと集まってきては泳ぎに興じている。ただ、村からかなり遠いのが難点である。その日も良い天気だった。
朝早く家を出てきたから、おれたちが一番乗りだと思って居たが、すでに先客があるのを見た。
“ああ、咲世さんだ”鉄太郎がうれしそうに言った。なるほど、このところ姿をみかけないでいた咲世さんが岩の上に佇んでいる。こころなしか、やつれたみたいだ。
竜のあぎと、とおれたちが呼んでいた大岩の上に立った咲世さんは、手を胸の前に合わせて一心に祈っている。しばらく見ないうちに抜けるやうに色が白くなった。
いつもは、翡翠の色に静まりかえっている淵の水は、今日はどうしたことか、鼎を巻くように渦巻き、白く泡だって居る。咲世さんは、渦巻く水の一点をきっと見つめた。そして、ふわりと、逆巻く波頭の中へ身を躍らせたのである…
おれは鉄太郎を抛りだして、竜のあぎとの上へ走った。そして、騒ぎたつ水面をのぞきこんだ。ただ岩の上に、咲世さんの草履が揃へられているばかりである。
鉄太郎が息を切らして岩の上に上ってきた。おれたちは、押し黙ったまま、咲世さんが飲み込まれた水面を眺めて居た。さきほどは、あれほど騒がしかった水面も、いまでは不気味に静まりかえってしまった。
“あれ見て!”鉄太郎が水面をゆびさして行った。ふたたび淵の水が沸きかえっている。
水面は轟々と渦まき、さながら白い水しぶきの壁を取りめぐらせたようにみえる。その中から、白い馬が浮かびあがってきた。馬の上には二人の人物が乗っている。
“龍一さん、それに咲世さんだ!”鉄太郎がさけんだ。手綱を取る衣冠束帯の貴人は、あの美青年である。そして鞍の後ろに乗った、裳裾をあでやかに垂らした美人は、咲世さんだった。
ふたりはおれたちを見とめて微笑んだ。馬は、緑の水を蹴立てて軽やかにはしりだす。そして対岸の岩に駆け上がったか、と思ふと、ひらりと空に舞い上がり、天高く上っていってしまった。龍一さんの腰に差した黄金作りの太刀が、青空に流れる雲間にいつまでも輝いて見える。
やがて空を覆いつくした雲からハイ然たる雨が淵の上に降り注いだ。おれたちは、竜のあぎとの下で雨の晴れ間を待った。
戻ってきた夏空の下、おれたちは再び龍のあぎとの上に立った。足元に、きらきら光るものが何枚が落ちている。
“これって何”鉄太郎が訊ねる。
おれはそれを拾い上げてつくづく眺めてみた。それは、掌の半分ほどの大きさ、光りの加減では虹の色に輝く、宝石のやうに透き通る、水族の鱗である。
“龍の鱗かなあ”おれは呟いた。いましがた見たものを思い返すと、まだ胸がどきどきする。
“咲世さんは龍になったのだね”夏空をまぶしそうに振り仰いで、鉄太郎は静かに言った。
“そうだ。龍になって天に上ったのだ。龍一さんと一緒に”おれは、咲世さんの昇天の光景を自分の胸におちつかせるやうに、ゆっくりと答えた。
その日以来、咲世さんの姿を見たものはない。村では、祝言直前の花嫁が姿を消してしまったものだから、蜂の巣をつついたやうな騒ぎであった。
村長さんは、それでも、割りきったふうに、“あの娘は水に帰るさだめにあったのだ”と親しい人に漏らした、と言う。
おれには、どういうことか、わからない。
しかし、村の物知りばあさんは訳知り顔に言うのだ。村長さんの家には、何代か毎に、飛び切り美しく慧しい娘御が生まれる。さうした娘の背中には、決って、八枚の銀の鱗が生えており、成人を待って、水の神の妻に召される定めであるのだ、と。
うそかまことかわからない。でも、おれは、咲世さんが竜神の后になったことだけは確かに信じた。