王国の旗 1
海の底でディアンは溺れていた。
上下も分からない。
死を意識した。
こんな任務じゃなかった。
人手が足りない村で、果樹の収穫の手伝いだったのに。
それはちょっとした始まりで。
大事な籠が壊れて、新しい籠を買ってきてほしいと頼まれた。困っている様子に引き受けた。
山を越えた隣の村。職人の娘がひどいけがを負ったところだった。
珍しい鳥の羽があれば大けがも治ると相談されて、引き受けた。
ただ、苦労し持ち帰ったら、すでに回復していて。それ自体はホッとしたのだけど。
羽根は捨てるなんてもったいない、医者が買い取ってくれるだろう、というので医者を訪れた。そしたら。それから。途中で。助けてって。
危険な内容じゃなかったはずだ。
そんなつもりで家を出てきてはなくて。
そんな覚悟した会話もしていなくて。誰とも。
海の船に乗った。怪物が襲ってきた。船が大破した。
ディアンは海中に引き込まれた。
なんとか怪物の腕は外したけれど、今は海流に勢いよく流され脱出できない。
船に同乗した占い師が、鏡を見つけたお礼にと、水中で半日息ができる魔法をかけてくれていた。今、まだ死んでいないのはその魔法がまだ切れていないからで。
でも。
死んでしまう。
嫌だ。こんな風に。
壊れた沈没船が見えた。
海の流れに動いている。ディアンより遅い。
とっさにディアンは沈没船の柱につかまろうと手を伸ばした。
遠い。掴めない。
沈没船はあっという間に後方に流れた。いや、ディアンが勢いよく前に流れている。
嫌だ、助けて!
お父様、お母様!
こんなところで、死にたくない。
誰もいない、誰にも死んだと分からないところで。死にたくない。
助けて! 助けて!! 助けて!!!
流れが岩の中に吸い込まれていくことに気が付いた。
嫌だ。絶対に、嫌だ。行きたくない。あんな暗い深い場所に。
“こちらだ! みな、こちらだぞ!”
ぎゅっと閉じた瞼の裏に、赤い布がはためいたように、見えた。
“こちらだ!”
“続け! われらの国へ!”
まただ。赤いものが翻った。
ディアンは目を開けた。
ディアンの頭の上、光が差している。そこに水面があるかのように。
ディアンは手を伸ばした。
“旗に続け!”
ディアンの傍、馬が現れた。違う。騎士だ。馬に乗っている。
鎧を着ている。剣を、槍を、弓を、笛を。持っている。
先頭に旗がたなびく。
“こちらだ!”
“ディアーン!”
名前を呼ばれた。だけど、剣を持った騎士が、おう、と応えた。彼の名前がディアンか。
一方、弓を持った騎士が、ふっと自分を見た。
“こちらだ”
笑みを浮かべてディアンの腕をつかむ。ぐぃと引っ張られた。
“イーシス、遅れるな”
“遅れてなどいない”
“集え 続け! この旗の至るところに国が建つ!”
“おぅ!”
“おぅ! 続け!”
楽しげな笑い声。
ついに魔法が切れたらしい。息が急に苦しくなった。
こちらだ、こちら! こちらだ! 来い!
腕を、誰かが掴んで引っ張っていた。
あぁ、でも。
あの地下に引き込まれなくて、それだけは、良かった。と薄れる意識の中で、ディアンは思った。
明るいところで、せめて、それだけは、よかった。
***
「ディアン!」
「ディアンっ!」
引っ張り上げられた。力が入らない。
「アリアも治療魔法を!」
「ディアン! しっかりしてっ!」
抱きしめられた。体が暖かくなる。
呼吸が楽になる。息ができていることに気が付いた。
明るい。
ディアンが目を開けると、母の顔があった。傍に父の顔もあった。
「僕は、死んだ・・・?」
「馬鹿言わないで!」
「しっかりしろ!」
ディアンのつぶやきに母がぐしゃりと顔をゆがませ、父が叱咤した。
ディアンは体を起こして、周囲を見た。
「湖・・・」
傍に、自分たちの家が見える。
やはり死んだ? これは死後の夢なのか。
家に帰りたかったから。父と母に、助けて、会いたいと、願ったから。
「イーシスにスープを作っておいてって頼んでたの! ディアンに飲ませたい!」
「分かった行こう。でも、どうして分かった」
「わからないけど、どうしても今日は湖にいたかったの! ディアンのことだったのよ!」
父と母が、いつもと違った様子で早口で話す。
家の傍の湖の、船の上。
父と母。母の日傘が転がっている。二人で湖の船で遊んでいた?
父と母はディアンに治療魔法をかけ続けていた。
ディアンはすっかり回復した。
改めて様子を見る。本当にどこにいるのだろう。
「まさか、本当に家の・・・それとも、僕は夢を見ている」
ディアンの呟きに、
「しっかりして! 何があったのよ!」
母が泣きそうにディアンの両頬を包んできた。
「どうして湖でおぼれていたの。勇者のお仕事で危険な目にあったの!?」
「僕、海に落ちて、底から出れなくて・・・」
父が船をイーシスが使っている遺跡の傍につけた。
イーシスが走り寄ってきた。傍に妖精の笛と盾の幽霊も見えた。
***
イーシスは、妖精の笛ツィカに言われて、窓から槍を投げたそうだ。
斧も投げろと言われて、斧も湖に向かって投げた。
両方とも、湖の中に勢いよく消えた。
一方、今日は朝から母が不安そうに落ち着かず、いつもは仕事の父に、
「今日は湖の上にいたいの。船がいい。一生のお願い」
と真剣な顔で頼んだので、父も母につきあって湖に船を出して過ごしていた。
船の上でも母は落ち着かず、本人もよくわからない、不安なの、と周囲をずっと気にしていた。
そして。
母が、湖の中に人影が、と父に叫んだ。
確かに何かが。
父が船から身を乗り出した。水中から見てディアンと気づいた。
ディアンの腕を父が掴み慌てて引き上げ、治療魔法を父母がかけて助けた。
さて今。
ディアンの前にイーシスがいる。ディアンがスープを飲むのをじっと見ている。
ディアンの右には母が。ずっとディアンの頭をなでている。
左には父だ。ずっとディアンの肩というか背中に手を置いている。
父と母はイーシスのところにディアンを連れていき、スープを飲ませている。
体を温めるため、栄養を与えるため。
みんながじっとディアンを見ている。
一方で。
『旗はもう、ただの布切れだ』
と妖精の笛ツィカの声がした。
見れば、妖精の笛ツィカと盾の幽霊が、窓から湖を見つめている。
『布は私たちよりずっと早く失われる物質だ。だが心はあり続ける。心は生き続けている』
と盾が真剣な声で答えている。
「ツィカが騒いだから、僕はその通りに動いただけなんだ。でもそれが良かったんだ」
とイーシスが言った。
ディアンが海で死にかけ、どうしてだか家の傍の湖に現れ、父と母が助けた、というのはディアンに起こった事実だ。
ちなみに母は、子の危険を察知したようだ。
世の中の母にはそういうこともあるらしい。




