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霜月

作者: 広峰
掲載日:2020/07/27

 ある霜月の朝。

 早起きしたわたしは、東の空に顔を出した太陽に見惚れていた。

 縁側にぼうっと立ったまま、昇る太陽を見ていると、たまたま早起きしたわたしなんかよりも、いつももっとずっと早起きしているじいちゃんがやってきて、おはよう、と挨拶した。


 お天道(てんと)さん、見でたのが?

 うん。


 お天道さん、昇って()っとご、(うづぐ)すぃべ。

 うん。


 お天道さんは有難てぇなぁ。皆ば照らすて、辺り明るくすて、毎日毎日、きちんきちんと一日ば送らせてすけるんだど。皆、いい子でいるがなぁって、見ででくれるんだど。

 ……うん。


 じいちゃんは、シワシワの顔に埋め込まれた目を細くして太陽を見ていた。

 太陽は、朱色の雲を少しだけ従えて、地平線の上にやっと全姿を見せたところで、肌寒い早朝の空気を金色に変えさせていた。

 光りを受けた山並みは、日の当たるところだけがきらきらと輝き、まだ日の当たらぬ影の部分はじっと陽光を待って静かに横たわっていた。

 じいちゃんと同じくらいに早起きの小鳥がどこかでさえずりはじめ、一晩中鳴いていたのにまだ休む気の無いこおろぎが、一匹だけ頑張っていた。

 早朝のきりりと張った金の空気は、新しい一日の始まりを告げていたが、それはまさしく昨夜の続きの今朝であること、いかにも自然な摂理に基づく、太古から変わらぬ地球の自転が生み出す変化であり、この先も続けられるであろう変化に相違ないことを、理屈でなく感覚でわたしに教えていた。

 しかし、幼かったわたしはそれら全部をひっくるめて、ただ、うん、としか答えることが出来なかった。


 今日もあんばい()ぐ晴れで、えがったな。お天道さんさ挨拶したが?

 ううん。


 そうが。ほんでは挨拶しとげ。今日も一日宜しぐお願いします、ってなぁ。今日も元気で、怪我だの風邪だの引がねぇように、見守ってください、ってなぁ。

 うん。


 果たして、祈るという行為は一体全体誰が考えついたのだろう。

 この世界の中で、偶然というにはあまりにも稀有な事柄の積み重ねにより、今ここに存在するわたしたち。

 この不思議な運命とでも呼ぶべき偶然の末に、わたしたちは今この地、この時の、この瞬間に生きている。

 その奇跡を感覚的に察知したとき、もしかしたら神の意図というものが、どこかに確かにあったのかもしれない、などと想像しても不思議ではない。

 もし、超越した存在が在るというのなら、その存在に対して何らかのメッセージを送ることは可能だろうか。

 例えば、祈るという行為を通して。


 わたしは素直に両手を合わせ、目を閉じてもごもごと言われたとおりに唱えた。


 お天道さん、いつもありがと。今日も一日よろちくおねがいちます。

 よしよし。じいちゃんもお願いするべ。お天道さん、この子がいい子に育って、元気で暮らせますように。どんぞ(まも)ってやって下さい。


 じいちゃんは、太陽に向かってそう唱えて手をこすり合わせた。

 節くれだった、日に焼けて茶色い、がさがさごつごつした大きい手だった。

 じいちゃんは短く白髪を刈り込んでいて、胡麻塩みたいなヒゲも白いところのほうが多かったから、とても色黒に見えた。


 ちゃんとお願いしたがら、今日もいい一日になるべ。そんでは、じいちゃんはこれがら畑さ行ぐがらなぁ。おかあさんに怒られだりしねぇように、いい子にすておぐんだど。

 うん。


 じいちゃんは、日焼けした大きい手で大地に触れ、土を耕し、作物を育て、その恵みを両手で受けてくる。

 知恵を絞って自然と対話し、雨を知り風を知り、巡る季節を知り、豊かな実りを分けてもらう。

 だから、小難しい論理や説明なんかではなくて、当たり前の道理として、今ここにいることの奇跡が身にしみてわかっている。

 あらゆるものの中に魂は宿り、あらゆるものの中に奇跡のかけらが内在する。

 そういうじいちゃんだから、そのシワシワの口から発した何気無い言葉が、だいぶ後になってから、わたしの中にすとんと深い意味を伴って落ちてくのだ。


 じいちゃんは、わたしの頭をぐりぐりと撫でると、くしゃくしゃの笑顔で外に出た。


 霜月は、じいちゃんの誕生月だった。

 じいちゃんは、農作業の途中、脳卒中で倒れてそのまま天国へ行った。


 幼かったわたしは、死というものがよく分かっていなかった。

 この間までわたしを膝に抱いてくれていたじいちゃんが、棺桶の中に納まって、静かに眠っている。


 じいちゃん、ねてるの?


 じいちゃんは、何にも言わず、ただ穏やかに花に埋もれていた。

 これを魂の抜け殻、と呼ぶのは違う気がした。静かで穏やかな沈黙した顔は、ひどく雄弁だった。

 何の迷いも無く苦しみも無い安らかな顔。それは精一杯生きて人生を完了させた者だけが持つ、一種の特権のように見えた。

 死んだら天国へ行くと人はいう。

 天国とは、何処にあるのだろうか。天空か。地の底か。それともそんなものはただの幻想に過ぎないのだろうか。


 じっとその顔を眺めていると、脈絡も無く、じいちゃんの声が思い出された。


 お天道さんさ、挨拶したが?


 そういえば、まだ今日は挨拶していなかった。


 わたしは、無理に着せられた黒っぽい服のまま表に飛び出し、すっかり高くなった太陽に両手を合わせて祈った。


 お天道さん、いつもありがと。じいちゃん死んだから代わりにおねがいちます。今日も一日よろちくおねがいちます。じいちゃんも、いい子で、元気にくらせますように。




 その後生まれたわたしの弟は、死んだじいちゃんと同じ誕生日だ。

 珍しいことも、あるものである。




 終



このお話に最後までお付き合いいただきありがとうございました。

2010.11.03 作成

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