一手、多分致命的
「ゼニバ様、宿の御用意が出来ましたが、いかがされますか?」
商人の声で思考に向けられていた意識が引き戻された。このまま行けば撤退自体は出来る。
だがどうする?商談を一度断った。しかもこっ酷く、だ。
この場で商談のやり直しを要求すれば、間違いなく通るだろう。だがしかし、確実に足元を見られて向こうの有利で進められる。
こちらはあまりにも情報が足りない。何が起きるのかが解らない。
「顔色がとても悪い御様子。もしや……お加減が優れないのですか?」
加減が優れない?誰のせいだと思っている?いや、そうだ。
「あ、あぁ、そうかもしれないな。」
飲みかけの少し冷めたコーヒーを一息に飲み干す。
口の中には苦味と香りが残った。
「それはいけません。お休みの準備と温かい軽食を宿の者に用意させます。もし何かあれば近くの村に診療所もあるので、遠慮無くお呼びください。」
「いや、それは……」
「そうです、此度の商談は中止といたしましょう。
寒い中来ていただいた事を失念してしまい、まことに申し訳ありません。
商談はまた後日、仕切り直しということで。」
都合が良過ぎるくらい願ったり叶ったりな時間稼ぎが向こうからやって来た。
「……そうだな。そうさせてもらおうか。」
時間稼ぎ。仕切り直し。再調査。
そういう訳で、同行すると言い出した商人を留めてその場から撤退。都合が良いとも思ったが、仕切り直しを成功させた。そして、仕切り直しを終えて、渡された地図を見ながら宿へと向かっている最中に、あっさり商人が引いた理由を、あんな契約書が紙屑ではないことを思い知らされることになった。
学術都市アルケイオンの上級博士とすれ違った。
どこへ行くときも特徴的な白衣を着て、胸元に研究テーマを具象化したエンブレムを付けている物好き達。金を生む割に金に無頓着な輩が多い変人集団。その変人集団の中でも特に変わっていると言われている上級博士。その男は自分の研究テーマたる炎と雷を象徴するエンブレムを胸に付けていた。
鍛造連合テクネマレオロスの炉主が、こちらが今来た道を辿るように歩いていった。
高温の炉を稼働しているお陰で常に熱く、火と人と鍛造の音が絶えない連合の中でも特に巨大な熔解高温炉を持つことを許された炉主。日焼けをして筋骨隆々の大男は今まで自分がコーヒーを飲んでいた場所に向かっていった。
両方とも、この近辺を拠点にしている組織の人間ではない。
些事で出張る立場の人間でもない。
ここにこれだけの大物を何人も呼び付けた。茶番やふざけでやる規模ではない、それは間違いない。
一手、多分致命的に遅れたのは明白だった。
 




