恋は毒である
気がつけば日が落ちるのが随分と早くなった。
いつも見ていた、線路の向かい側の木々の葉は黄色く染まり
次の季節の訪れが近いことを物語る。
手持無沙汰な右手をポケットに突っ込み、滑り込んできた電車に乗り込んだ。
東京の電車はせわしない。・・・とても。
車内は暖かく思わず息をはいた。
時間がもう少し遅くなれば混むのだろうが、まだ人気もまばらだった。
今日は運がいい、目的の駅までは3つ、4つ。座るほどでもない。
つり革をもち、窓に流れる風景を見ながらやるべき作業を振り返る。
僕の帰路はいつもそうだった。
電車に揺られるごとに段々と仕事が脳みそから抜けていく。
扉が開く、次の駅を車掌が伝えてくれる。
冷たい空気と一緒に目的も違えば、行先も違う人々が入ってくる。
我先にと空いた席を狙って入ってくる人、最初からあきらめている人
そして扉が閉じる寸前に乗車する人。行き先が違えば目的も違う。
一通り乗客が乗り終えたら、電車は走り出す。
いつものことだからそこに僕の感情はなかった。
そして、人々にも感情はない。
乾ききった当たり前の出来事にすぎない。
気を取られたのはイヤホンから漏れる音だった。
大袈裟なフライトキャップをかぶった女。
耳当てはストラップで上に止められており、耳にかけた白いイヤホンが見える。
流れる音は、サブカルチャーの人気アイドルソング。
甲高い声と切ない感情を歌う歌詞を嫌になるほど記憶していた。
キミが好きだったからだ。
その女は小さなビーズが編み込まれた指輪を親指にはめて
携帯電話をしきりに操作している。
中指にはバラをかたどった安っぽい真っ黒な指輪。
キミはそんな指輪が好きだったね。
心臓の音が跳ねだす。
大きなフライトキャップに隠れ、輪郭しか見えない。
髪型は恐らく、ショートカットだ。
首は細い、キミに似ている。
心を落ち着ける、仮にキミであったとしても。
僕は何を言う?
何もないし、何も起きない。
この広い東京で奇妙な偶然があった。
それだけのことだ。そう、ここは東京だ。
人と人を簡単には出会わせない。
それでもどうしようもなく目を離せないでいた。
わずかに見えるその女の横顔を見ながら考える。
肌が白く、キミに似ている。
思えば、キミは良く貌の変わる女だった。
髪型や髪色を頻繁に変えいつも新しい化粧を試していた。
変わるキミの変わらないものを探してそして変わるものも愛していた。
女の羽織るデニム生地の切り替えジャケットが大きなシルエットを作っている。
キミも服が好きだった。
きっと、キミにとって服は変えた貌を演出をするための舞台であったのだろう。
身長は同じぐらい、いや・・・この女は高いヒールを履いている。
あぁ、別人だ。間違いなく別人だ。
キミと違うと安心をしたかった。
感情は暴走をしている、この女の顔を見たい。
窓の外の風景は目的地が近いことを示している。
間もなく乗換駅だ。
もうあれからどれだけの時間が経っただろう。
わかっていても数えることはしない。
記憶はおぼろげ、そしてキミの貌はまた変わっている。
きっと僕は今のキミを見てもすぐにわからない。
こんなものは何も信用できない。
だからこの女とキミが違うことは
僕が間違えなかったことの証明になる。
ほんの少し、先に出て、振り返ればいい。
そして、違うとわかれば、それでよかった。
彼女に迷惑をかけることもない。
一時の迷いでおしまいだ。
乗換駅に到着したとき、その女も降り支度を始めた。
同じ駅・・・。
僕とキミがよく会った場所だ。
記憶がフラッシュバックする。
君と待ち合わせた場所。
つまらなそうに携帯電話をいじっていたこと。
どのカラオケ屋が一番いいかなんて試したこと。
今、キミはなにをしている?
女の帽子を追いながら、ホームを進む。
この混雑だ、油断すれば見逃す。
貌を見たところでどうにもならない。
そんなことはわかっている。
だからこそ、見失いたかった。
そして誰でもなかったと忘れてしまいたかった。
自分でも何をしたいのかがわからない。
改札をキミが抜けていく。
そう、僕はここでよくキミを見送っていた。
そして今僕はキミの帽子を追っている。
キミは歩くのも早かった。
歩幅の広い僕が君に合わせていた。
金曜の夜その町はとても混んでいた。
待ち合わせの人。帰路に就く人。呼び込む人。
騒々しい町は人の導線が混じる。
人は乱れ自分の方向すらも見失う。
コートを着込んだ長身のサラリーマンが僕の目の前を
通り過ぎたとき、僕はキミを見失った。
フリーハグなんてプラカードをぶら下げた大学生ぐらいの若者が目に入る。
苦笑する。
そう、見失ってよかったのだ。
わずかな残り香を探して歩いていく。
キミはここにいなかった。それでいい。
その場所はシンボルがあり、待ち合わせをする人々にとってわかりやすいようだ。
いつも人が多い、外国人観光客の姿も見える。
ほんの少し歩いて。そして駅に戻り家に帰ろう。
フライトキャップも奇抜なデニムジャケットも見えない。
これは僕が見たキミの幻想だったんだ。
空いていた手すりに腰掛け携帯電話に目を落とした。
今帰れば毎週欠かさず見ているテレビを見れそうだ。
空は寒く冷えている、長居は無用だ。
明日が来ればこんな出来事は嫌でもすぐに忘れてしまう。
駅に向かおうと立ち上がる。
「おなかすいたね~」
大袈裟なフライトキャップに奇抜なデニムジャケット。
全く似つかない甘ったるい声をしたその女が目の前にいた。
女友達と待ち合わせていたのか、楽し気に笑いながら僕の横を抜けていく。
大きな目をしたかわいらしいその顔はキミとは違う貌だった。
当たり前の結果。やるせない現実が襲う。
なんでもない、なにもない。
それだけのことを確認しただけなのにひどく疲労していた。
もうキミに何一つ伝えることはできない。
だからこの感情は恋ですらない。
恋は毒だ。
伝えることのできない言葉は心の毒となる。
叶うことのない感情、何もできない力。
誰にもぶつけることはなく、自分の中だけに蓄積されていく。
深いため息をつく。
大人にならなければいけない。
僕は改札をくぐり明日に向かう。
いつかすべてを忘れられるように。
初投稿作品です。
読んでいただきありがとうございました。
貴方のお時間をいただいたこと感謝いたします。