やっぱり、好きなんだ。
放課後。
将人、侑希、佐野の三人は入部届を出しに行くと言い出した。
無論、俺は出すことができない。
それほどまでに、話はとんでもなく大きな力に握られていた。
仕方なく、薄情な三人を置いて俺は先に帰ることにした。
とはいえ、家に帰っても多分落ち着くことなどできないだろう。
俺は、町営グランドで時間をつぶすことにした。
グランドの土を踏んだ途端ザワ、と全身の血が騒いだ。
入学式の日のことを思い出す。
あれは…あの声は何だったのだろう?
どうして今は聞こえないのだろう?
ためしに軽く走ってみた。
だけど、違った。
あの時のように体が動いてくれない、ずしんと重かった。
カバンを無造作に放る、一度深呼吸をした。
「…走る。」
自分に告げるようにつぶやいた。
そして走り出す。
だが、体はなかなか速く走ってくれない。
俺は焦りを感じていた。
こんな状態では、明日はどうなるのか―――と。
まっさらな学ランを脱いだ。
薄いTシャツは少し肌寒い。
だけど、今は早くあの感覚を起こさなければならない。
「…くそっ!」
俺は無我夢中に走り出した。
焦燥感だけがそのうちにあって、走ることは苦痛でしかなかった。
「…っ、ぜぇ…はぁ、はっ…。」
しばらく走り続けて、その場に膝をついた。
荒い息が続く。
…苦しい。
うまく息ができなかった。
「…わん!」
突然、犬の声がした。
慌ててそのほうを向いて驚いた。
「…っ、佐野?」
犬のリードを引いている少年の名前を俺は呼んだ。
「あ、倉田やん。奇遇やなぁ…て、自分まだ帰ってへんの!?」
「あ…まぁな。」
言われて気付いた自分に苦笑した。
俺、制服でなにしてんだろ…。
「わん!」
一言鳴いて、そいつは俺にすり寄ってきた。
人懐っこいやつだ。
飼い主に似るっていうのはまんざら嘘じゃないみたいだな。
「こいつ、お前のだろ?」
「ああ、ゴンタ言うんや。なかなか可愛らしやろ?」
「だな。名前と全然合ってない。」
俺が言うと佐野は、ほんまにな、と笑った。
「ところで何してんねん?こんな時間まで帰らんと。」
「何…って、家帰ってもすることねーし…。」
俺は口ごもった。
自分でも何をしているのか、よくわからなかったのだ。
ふーん、と佐野はつぶやいて、俺のそばにしゃがみ込んだ。
ちょうど、目が合う高さだ。
「…もしかして、倉田緊張しとるんやないか?」
「は?」
「家にいても落ち着かへんさかい、ここでがむしゃらに走っとるをやないか?」
佐野の瞳が俺の瞳を見つめてくる。
俺は…そらせない。
妙な息苦しさを感じた。
「…走らへんと落ち着かん、速うないと安心でけへんのやろ?」
「何を…勝手に…。」
自分の口から出た、かすれた声が嫌だった。
「わかる気ぃするんや。…何や、試合前のあの感じに似てへんか?」
試合前…。
鼓動が、うるさいくらいに高鳴って…全身が走りたい、走らせろと俺をつき動かそうとする。
…確かに、似てるかも知れないな。
だけど…
「違うよ。…そんなものじゃない。」
否定してしまう。
そんな容易に自分の心の内を知られたくなかった。
「…嘘やな。走るんが好きでたまらんやつや、お前は。」
「なっ!」
嫌だった。
好きだろ?
俺のことなのに、どうしてそう断言する?
嫌いだろ?と問われたら、素直に肯定できる。
だが、好きだろ?そう問われたら…反発してしまう。
良くわからないが、何か特別な気がするのだ。
何か言い返してやろうと口を開こうとしたとき、佐野が笑った。
笑いながら、先に口を開かれた。
「だってよー…走っとる時の倉田の顔、ほんま楽しそうやもんな。あ、走るのって楽しいことなんやな、て思わせるくらいにな。」
「…っ。」
言い返せなかった。
ここまで言われて、返す言葉など見つけられなかった。
厚い仮面の表面だけを、俺の印象としてくれればいい…そう思う。
だが、こいつはズケズケと俺の内部に入り込んでくる。
仮面を引き剥がして、驚く俺に笑いかけてくる。
…いやだ、こいつが。
「…うわっ!?こら、ゴンタ!ちょっ…わかった、わかったて!ほな倉田、また明日な!」
突然、佐野が立ち上がって驚いた。
急に走り出したゴンタに引きずられるように、佐野は遠ざかっていく。
「はぁ…。」
思わず、ため息が一つ出た。
「…帰るか。」
しばらくぼう然としていたが、つぶやいて立ち上がった。
いいくらいに日が傾いている。
―走れよ。―
学ランを着て、カバンを持ったとき唐突にあの声がした。
―走れよ。…好きだろ?―
“好きだろ?”その言葉はあまりにも不意打ちだった。
はっと息をのむ、がすぐに吐きだした。
そして笑う。
「ああ…好きだよ。だから、走る。」
俺はあっさり肯定して走り出した。
軽い…っ。
体が、心が…すべてが。
スイスイと前へ進めた。
やっぱり、楽しいよ。
やっぱり、走るのが好きだ。
…走りたい、フィールドで!
だから…明日は絶対に逃げ切ってみせる。




