第二章 女媧討伐
道徳が目を覚ますと目の前に沙依がいた。
人の寝所に潜り込み気持ちよさそうに寝息を立てている。その姿を見て道徳は彼女の頭をそっと撫でた。
「沙依。また悪い夢でも見たのか?」
起こさないように小さな声で語り掛けた。沙依が道徳の寝所に入ってくることはよくあることだった。小さい頃からそうだった。身体が大人に近づいた頃、彼女のあまりにも無防備なその行為がとても辛くかんじる時期もあったが今はもう割り切れていた。それは彼女がこうするときは彼女の不安が強くなっている時だと知っていたから。彼女が安心できる場所が自分の所しかないのだと良く分かっていたから。自分を実の兄のように慕っている彼女の信頼を裏切るわけにはいかない。そう思ってずっと道徳は自分の気持ちを抑えてきた。
もう子供ではないのだから男の寝所に入ってくるなと言ったこともあった。その時彼女はどんな反応をしていただろうか。道徳は覚えていない。それでも構わずやってくる彼女に、もし自分が彼女を女として見ているのだと伝えたらどう思うのだろう。道徳は怖くて伝えることができなかった。初めて会った時から自分は彼女を妹のように思ったことなど一度もないなんて、言えるわけがなかった。
気が付くと道徳は自分の寝所に一人でいた。飛び起きて横を見るがそこに沙依はいなかった。
「夢か。」
当たり前だった。沙依がここにいるはずはなかった。何故なら彼女は数百年前死んでしまったのだから。世間では彼女は三大老襲撃の罪で封印されたことになっている。でも道徳は彼女はもう生きていないと思っていた。だから彼女を探す彼女の弟子に何も言えなかった。
あの日、彼女の弟子の功が切羽詰まった様子で訪ねてきた。胸騒ぎがして駆け付けた先で道徳が見たのは激しく戦闘を繰り広げる沙依と原始天孫の姿だった。戦闘は終焉に近づき沙依が原始天孫にとどめをさそうとしたその時、道徳はとっさに間に入ってそれを止めていた。そして沙依と戦闘になってしまった。沙依は混乱している様子だったが暫くして正気が戻った。それを見て道徳が安堵し息を着いたその瞬間沙依は術式に打ち抜かれ、激しい戦闘により崩れて抜けた床から下界へ落ちて行った。目の前の光景が信じられなかった。術式が放たれた方を振り返ると、いつの間にか他の崑崙十二太子が集まっておりその一人が術式を展開していた。道徳は発狂した。暴れ、そして、彼にも謹慎処分が下された。
目の前で下界に落ちて行った沙依の姿。その情景は今でも道徳の目に焼き付いていた。時々夢で見てはうなされた。あの時どうしていればよかったのか道徳には解らない。あの時沙依が正気を取り戻したと解ったのは道徳だけだった。仙人界最強と謳われる彼女を止めるには、殺すしかないと判断されるのは仕方がないことだと頭では解っていた。それでも道徳はいまだに心の整理がつかないでいた。そもそもなんであんなことになったのか解らずにいた。理由もなく彼女があんな風になるわけはない。あの時沙依に何があったのか知りたいという気持ちと、知るのが怖いという気持ちが混在し結局目をつぶった。彼女はもういない。その事実は変わらないのに知ったところで意味はないと道徳は自分に言い聞かせた。
でもこんなことも考えてしまう。もし本当に沙依が生きていて封印されているだけなのだとしたら、そしてもしまた同じようなことが起こったら自分はどうするだろう。沙依をとるのか、仙人界をとるのか、自分はどちらを選択するのか。自分はどうしたいのか道徳は繰り返しそんなことを考えていた。考えずにはいられなかった。
この崑崙山の教主、原始天孫。彼には何か裏がある。道徳にはそう思えて仕方がなかった。指標たるべき崑崙十二太子の自分がそんなことを考えるのは不謹慎だと思う。だから口に出したことがなかったが昔から道徳はこの教主に不信感を抱いていた。それでもあの時とっさに守ってしまったのは、やはり自分の師であり恩人であるという事や、崑崙十二太子という自分の立場というものが意識に浸透していたからかもしれない。結局、自分は自分の立場を捨てることが出来ないのかもしれない。そう考えて道徳は自分が嫌になった。
「沙依。」
呟いて、今朝見た夢を思い出す。確かにそこに彼女がいた感覚がした。彼女を撫でた感触が手に残っていた。
「いったい仙人界はどこに向かってるんだろうな。」
道徳は意味のない問いを空に投げかけた。
封神計画。道徳の弟子もそこに参戦していた。あれは何のための計画なのだろうか。道徳には解らなかった。人の世まで巻き込んでこんな大々的にしなくてはいけないものだったのだろうか。何故未熟なものたちが前線に出なくてはいけないのだろうか。何故戦死した魂はその良し悪しに関わらず封神台に集められているのだろうか。道徳には理解できないことばかりだった。道徳にはそこにも何か原始天孫の策略がある様に思えて仕方がなかった。
自分の弟子を送り出した時のことを道徳は思い出した。若く精神の未熟な彼は、戦地に向かうにも関わらず煌びやかな衣装に身を包んでいた。道徳は弟子のその顔を見てそこに死相を見た。だから諫め、そして精一杯の助言をした。それしかできなかった。引き止めたところで彼が止まることはないと解っていた。彼のその激しさがまた彼の命取りになると、そう解っていながら道徳は弟子を見送った。
黄天化。殷の武成王の次男。彼が三歳の頃、道徳は彼に大器の才をみて弟子にした。その見立てに違わず彼は才能を開花させ、道徳が今まで育ててきた弟子たちの中でも指折りの、際立って優秀な道士となった。あとせめて三年。三年あれば彼の未熟さも落ち着きをみせ快く送り出せる戦士となっていただろう。でもまだ戦地に向かわせるには未熟なうちに送り出さなければならなかった。
戦地に赴く弟子の後姿を見て道徳は思った。きっと彼はここで散るだろう。そしてそれは現実となった。解ってはいた。でも胸が締め付けられる思いがした。自分はこんなところで死なせるために彼を育ててきたのだろうか。こんなことで死なせる為に、彼に修練をつけ、宝具をあたえ、力をつけさせたのだろうか。そんなことを考えて嫌になった。
原始天孫様はいったい何を考えているのだろうか。いったいなにを企んでいるんだろうか。道徳はそんなことに思いを馳せて、天井を仰いだ。
道徳は考える。自分が原始天孫に不信感を抱き始めたのはいつの頃だっただろう。沙依がずっと彼を怖がっていたからだろうか。それとも沙依を見る原始天孫の目に嫌なものを感じたからだろうか。どちらにせよ、沙依を通してみることで彼に不信感を抱いたのだということは確かだった。
幼い頃の沙依は人見知りがひどかった。いつも道徳の後ろに隠れていた。特に大人を怖がっている様子だったが、同年代の子供相手でもどこか距離を置いていた。そんな沙依が自分には懐いていたのは、まだ出会ったばかりだった頃のやり取りが原因だと道徳は思っていた。あの時から彼女は自分を実の兄のように思っている。そう道徳は思っていた。
ずいぶんと昔の事なのに道徳は沙依と出会った時のことを今でもよく覚えている。道徳にとってそれはそれだけ印象的な出来事だった。
あれはまだ道徳が昇山して間もなく、まだ幼い子供だった時のことだった。その頃の道徳は修行者として真面目ではなく、修練を度々さぼってはよく怒られていた。あの日も修行をさぼって、入ってはいけないと言われていた山に入り探検をしていた。
(やっと見つけた。)
頭の中でそう声がした気がした。そして行かなくてはならないと強く思った。それは焦燥に近い感覚だった。身体は勝手に動いていた。その時の道徳には自分がどこに向かっているのか解らなかったが、どこに向かうべきなのかははっきり解った。そしてそうやって行きついた先には不気味な廃墟があった。
それは見たこともない建物だった。ただその異様な出で立ちに恐怖を覚えたことを道徳は覚えている。身がすくむような思いだったが、そんな気持ちとは裏腹に身体はどんどん中へ進んでいった。大切な何かがそこにあって、その何かを見つけなくてはいけない。そんな思いが彼を支配していた。
建物の最深部には重厚な扉があり異様な気配を醸し出していた。怖かったが、その扉の向こうに自分が求めているものがあるという確信が道徳にその扉を開けさせた。開けないという選択肢はなかった。それほどにまで道徳の心はその中にあるものを欲していた。
扉を開けると目の前が一瞬真っ暗になり自分が闇に包まれたような感覚がした。自分の姿さえ解らなくなる。そんな恐怖に包まれたがそれは一瞬の出来事で、目を開けるとそこにはただ暗い部屋があるだけだった。窓もなにもない、光が差し込むことのない、良く分からないものがたくさん置いてある不気味な部屋だった。その部屋の奥で動くものがあった。
「沙依。」
その声は自分のものだったのだろうか。道徳には今でも解らない。あの時は彼女の名前も知らなかったはずなのに確かにそう呼んで、道徳は動く影に駆け寄っていた。そしてそれを強く抱きしめていた。
「生きていたんだな。無事でよかった。」
確かに自分がそう言っていた。でも、そう言う自分の声が自分のものでないような気がしてとても不思議だった。ただその時、自分がものすごく安堵していることだけは解った。そんな自分の感情に道徳はひどく戸惑った。
「コーエー?」
腕の中から声がして目線を下げると目が合った。そこには自分より少し幼く見える少女がいた。吸い込まれそうなほど綺麗な目をした少女だった。少女は道徳と目が合うと心から安心したように笑って、そのまま眠ってしまった。
気が付くと道徳を駆り立てていた焦燥にも似た気持ちはどこかに行ってしまっていた。ただ不気味な廃墟に少女と二人、どうしていいのか解らなかった。だからとりあえず道徳は彼女を背負って下山した。
目を覚ました彼女は記憶を失っていた。自分が誰なのかも、どこから来たのかも、何歳なのかも、なにも覚えていなかった。ただ不安そうにする彼女に道徳はどう声を掛けていいのか解らなかった。道徳は彼女の名前が沙依であることを確信していたが、それを言わなかった。それを伝えれば少しは彼女の気は紛れたかもしれない。でも言わなかった。誰にも言わなかったその名を、原始天孫が知っており、沙依と書き記したことが引っかかっていた。なんとなく彼女のことは口に出してはいけないことのように感じて、ただ山で気を失っているところを見つけたから連れてきたのだとだけ皆には言っていた。
沙依は不思議な少女だった。いつもどこか遠くを見ていた。ここにいるのにここにはいない。そんな感じで、存在が希薄に見えることがあった。彼女の目は決してここを映していないし、自分のことも映していないと道徳は感じて、胸が苦しくなったことを覚えている。
多分一目惚れだったのだと思う。あの時の笑顔が頭から離れなくて、道徳はいつも沙依のことを考えていた。どうすればまたあんなふうに笑ってくれるだろうか、そんなことばかり考えていた。そして毎日彼女の元に入り浸っていた。彼女は時々夢にうなされていた。額に汗を浮かべ、苦しそうに呻く彼女を見るのは辛かった、だから道徳はいつも彼女の手を握っていた。彼女の孤独や不安が少しでも軽減できたらと、そう思っていた。
沙依は身体が良くなるとすぐ他の弟子達と同じように修練を積む様になり、気が付くと修練中の道士で彼女に勝てる者はいなくなっていた。当時の彼女は決して強かったわけではなかった。ただ負けなかった。それは彼女が絶対に降参しなかったというそれだけのことだった。沙依はどんなにボロボロになっても絶対に意識を手放すことはしなかった。彼女にとって負けとは死を意味しているのだと、手合わせした誰もが痛感した。だから誰もがその気迫に負けて降参せずにはいられなかった。まだ幼い彼女がその短い人生をどのように生きればそんなふうになるのか、兄・姉弟子の誰もが彼女の失われた過去を思って、憂いていた。
そんな日々が続いたある時だった。部屋を訪ねると沙依は珍しく起きて涙を流していた。
「どうかしたのか?」
そう声を掛けると沙依は道徳に目を向けた。その日はいつもと違った。彼女の目はちゃんと道徳を見ていた。彼女の目にはちゃんと道徳の姿が映っていた。こちらを見つめ無表情にぽろぽろと涙を流し続ける姿に、道徳は目が離せなかった。
「怖い夢を見るの。みんな死んじゃった。わたしは一人ぼっち。」
そう言って涙を流し続ける彼女は自分でも自分の状態がよく解っていない様子だった。
「ずっと皆がうらやましかった。才能を認められて、小さい頃にここに来た皆は、離れた家族の事や友達の事を覚えてて、会いたいって思うことができて。離れてて寂しいし、辛いんだろうけど、そうやって思える相手がいて、わたしはうらやましかった。」
そう言うと沙依は表情を歪ませて大泣きした。そんな沙依を見るのは初めてだった。
「戦争で国が燃えてた。沢山人が死んでた。ちゃんと思い出せないけど、きっとあの中にわたしの家族も友達もいて、皆いなくなっちゃった。思い出せても、もうわたしには帰る場所も帰りを待っててくれる人もいないんだ。」
気が付くと道徳はしゃくりあげる沙依を抱きしめていた。今でもなんであの時あんなことを言ったのか解らない。ただあの時のあの言葉が、子供の頃に言ってしまったあの言葉が、自分と沙依の関係性を決定付けたのだろうと道徳は思っていた。
「俺が家族になってやる。今日から俺が君の家族になるから、だから一人ぼっちなんかじゃないし、君の帰る場所はここだ。」
その時沙依がどんな反応をしていたのか、それは覚えていない。ただ彼女が泣き止んで、それ以降道徳の後をついてくるようになったことだけは確かだった。
昔を思い出して道徳は目頭が熱くなるのを感じた。それを手で押さえて天井を仰ぐ。
なんとなく封神計画の終焉は仙人界の終焉ではないかと道徳は感じていた。それが正しいのなら、きっと自分の命もここで終わるのだろう。この勘が正しいなら自分は何をすべきなのだろうか。そんなことをいくら考えてもその答えは出なかった。だからただ不安を胸に抱えたまま流されるままに日々を過ごしていた。
生あるものにはいつか必ず死が訪れる。それはよく理解している。だから死ぬことは別に怖くはなかった。ただ今死ねば魂が封神台に封じられてしまうということにだけ、そのことにだけは道徳は嫌悪感を抱かずにいられなかった。あれを壊してしまいたい。そんなことを思っていると知られたらどうなるのだろうか。そんなことを考えて何故か道徳は笑いが込み上げてきた。乾いた笑いが漏れて、そしてそれは大きくなり、一人の部屋で道徳は狂ったように笑っていた。
○ ○
沙依は夢を見ていた。
とても遠い昔の夢だった。
沙依は崖の縁に腰かけ足をぶらぶらと揺らしていた。下を見下ろすと地面ははるか下降で、ここから落ちればひとたまりもないなと思った。そんな沙依の姿を沙衣が少し離れたところから見ていた。きっと彼女には自分が何をしていたのか解らなかっただろうと沙依は思う。
沙依は人を待っていた。兄様が来るのを待っていた。兄様はここにやってくる。そしてわたしを見つけることになる。ここにいるわたしを見て、兄様はどう思うだろう。沙依はそう考えて目を伏せた。
兄様の言うことをきいていい子にしていなくてはいけないと思っていたのに、兄様の邪魔をしてしまった。それに自分がここにいることが兄様のやってきたことを全て台無しにすることだとも解っていた。兄様との約束を破ってわたしは外に出てきた。その結果一つの未来が決まってしまった。兄様は怒るだろうか。悲しむだろうか。それとも絶望するのだろうか。兄がどのような反応をするのか沙依には解らなかった。ただ決して喜びはしないだろうという事だけは解っていた。
そう、あの時わたしは兄様を待っていた。沙依は夢の中で思った。そして沙衣を見た。自分と瓜二つの少女。自分が術式で作ってしまった少女。自分がこの身体に生まれたその瞬間、ある未来が決定した。それが解っていながら何故自分は彼女を作ってしまったのだろう。不安だったから?淋しかったから?誰かに傍にいてほしかっから。何にせよ自分のためだけにに彼女を作ってしまった。彼女がこれから、辛い思いをすることになるのを解っていたのに、一人で旅をすることが、一人で兄様と対峙することが、不安で、怖くて、どうしようもなくて、作ってしまった。自分の弱さが生んでしまった自分の分身。沙依のそんな思いを受けて生まれてきたからか、沙衣は盲目に沙依だけを見て、沙依だけを大切にし、沙依を守るために生きていた。身代わり人形を作るための術式を応用して彼女を作った。だから彼女がそのように生きるのは当たり前だったのかもしれない。でも沙依はそれが嫌で、彼女には彼女の生をちゃんと生きてほしいと思っていた。自分のわがままで作り、そして自分がそのように作ってしまったのに、自分の為にだけ生きる彼女を見るのが辛かったと言ったら、彼女にあまりにも失礼なのだろう。それでもそう思わずにはいられなかった。自分はどこまでも弱くて、わがままで、どうしようもない人間なのだろうと沙依は思って、泣きたくなった。
沙依はいつも直情的に動いて、そしてひどい結果をもたらして、いつもひどく辛い思いをした。でもいつもどうすればよかったのか考えて、考えて、結局自分はその結果を知っていても同じことをしただろうと思考が行きついて、どうしようもない気持ちになる。だから結局は後悔なんてしていない。自分は何度でも同じことを繰り返す。そう思うから後悔なんてしない。でも、辛いものは辛かった。
気が付くと場面は変わっていた。沙衣は傍にいなかった。目の前には兄様がいた。
兄様に拾われ、龍籠に着いて、沙衣は軍医の正蔵家に引き取られた。沙依は兄の元にいた。その時の記憶だった。
「やはり俺の邪魔をしていたのはお前だったか。」
兄は沙依にそう言った。そこからはなんの感情も読み取れなくて沙依は悲しくなった。
「こんな不毛なことを繰り返して何か意味があるの?兄弟を殺し続けても、殺され続けても、なんの解決にもならない。逃げてるだけで悪い人はやっつけられないよ。」
沙依は兄の目を見つめて言った。兄の目からはやはり感情の色がうかがえなかった。
「それだけを繰り返していたわけじゃないさ。あれを探して倒すことを考え続けていた。」
「それでも兄様のその努力は結果には結びつかない。わたしにはあれを倒せる未来が見えない。兄様の努力が実る未来は確定していない。」
沙依は兄の胸に手を当てた。
「兄様。元々、兄様だって皆に生きていてほしいって思ってたはずだよ。あれに兄弟達の力が奪われないように、兄様はターチェにコーリャン殺しの規律を強いた。でも何で七歳になるまでは生かしておくことにしたの?」
沙依は思い出した。長兄が涙を流しながら他の兄弟を殺して歩く姿を。沙依には長兄の様な力はないから、あの時長兄が何を思っていたかは解らない。でも本当はそんなことしたくはなかったのだと言うことは解っていた。
「兄様の心はもうほとんど動いていないんだね。こんなに壊れてしまうまで、兄様は一人でずっと不毛な戦いを続けていたんだね。」
気が付くと沙依は泣いていた。そんな彼女を見下ろして兄は呟いた。
「お前は見てたんだな。あそこから俺たちの未来を。」
その通りだった。沙依はずっと兄弟たちのその先を見ていた。長兄がかけた封印から外を透視することはできなかった。沙依の能力は確定した未来を視ること。確定してしまった未来しか見えないから、外で何が起きているのかあの中にいても知ることができた。そして兄弟達に思いを馳せていた。確定してしまった未来しか見えないから、知っていてもどうすることもできなかった。何が起こるか解っていても決して変えることができない、そんな役立たずの能力。
「お前は未来を視るだけじゃなくて確定させることができるんだな。だから俺の邪魔ができた。」
兄の言葉に沙依は何とも答えられなかった。
「わたしは願っただけだよ。そしたら未来が確定した。でもなんでも願いがかなうわけじゃない。」
兄はじっと沙依の目を見た。沙依の今までを、沙依の思考を読み取っていた。長兄の力は精神を支配することだった。記憶も、思考も、行動さえも長兄は支配できた。そんな長兄だったからこんなことができたのだ。そんな長兄ですらあれを一人では何とかできないのだ。沙依は思った。そうしたらどうしたらいいのだろう。自分のやるべきことを未来は教えてくれなかった。
「お前は天啓を授ける者なんだな。」
兄の言った言葉の意味が沙依には解らなかった。でも兄が自分の想いや考えを全て理解した事だけは解っていた。父が正気を取り戻したことも、どうして自分がここに出てきたのかも、兄にはもう解っている。沙依が兄に伝えるべきことはもう何もなかった。でも口にした。
「兄様。わたしも兄様と一緒に戦わせてください。兄様一人に全部背負わせて、守られているだけはもう嫌です。辛い思いをする兄様をみるのも嫌です。わたしにも兄様と同じものを背負わせてください。」
あの時兄は笑った。諦めた様に笑った。それを見て兄様はまだ完全には壊れていないのだと、そう感じてほっとしたのを沙依は覚えている。
「時が来るまではお前の記憶は封じさせてもらうぞ。」
そう言って兄は沙依の頭を撫でた。
「沙依。一つ俺の願いを聞いてくれるか。」
そう言った兄の姿が父と重なった。父も沙依に願い事をした。父の願いは夢を見続けることだった。 今父は夢と解っていながら夢の中で生き続けている。夢であっても家族と幸せに過ごすことを父は望んだ。それは父が神である自分はもう外に出るべきではないという結論を出した結果だった。沙依はそれを叶えて外にやってきた。兄はいったい何を願うのだろう。
「高英の傍にいてやってくれないか。」
高英とは兄が今の身体に生まれた時に一緒に生まれてきた双子の弟だった。今の兄と瓜二つ。長い間魂が同じ場所にいたため、高英の魂には兄の力が強く転写されていた。だからその力も瓜二つ。
「この身体に生まれたとき高英も一緒だった。そして何故か俺は今まで通りに行動することができなかった。」
そう言う兄はとても優しい目をしていた。その目は父の目とよく似ていた。
「高英は俺のもう一つの形なんだ。あいつが普通に生きられたなら俺も救われる気がする。ここが滅びるまででいい。あいつの傍にいてやってくれ。あいつには受け入れてくれる誰かが必要だ。」
沙依はそう言う兄の姿を見て、兄が完全に壊れないで済んだのはその人のおかげなんだなと実感した。だから、沙依は兄の願い叶えたいと思った。
龍籠が滅びるまで。そう、沙依が生まれた瞬間に決まった運命はそれだった。兄弟達の魂が全て地上に生まれ出で揃ってしまった。だからあれが再び動き出し、国が亡びることが確定した。
いくら願ってもあれを倒せる未来は確定しなかった。しかし同時にあれに地上が支配される未来も見えなかった。運命が決まっていない。それは好機なのだろうか。沙依には何も解らなかった。
そうして兄は沙依の記憶を封じ、沙依は龍籠で軍人として成長した。沙依は兄の手で戦い方を身体に叩き込まれた。武芸に限らず様々なことをことを訓練され、沢山のことを覚えさせられた。そしてそのほとんどの記憶を時が来るまで封じられた。
記憶を封じられた沙依にとって兄から受ける訓練は厳しい以外の何でもなかった。それでも必死にやり遂げた。あの時途中で諦めていたらそのまま記憶を消されてしまったのではないかと思う。あれは長兄が自分に課した試練でもあったのではないかと沙依は思っていた。
あの時やり遂げられたのは高英が傍にいてくれたからだとも思う。兄から沙依の世話を押し付けられた彼は面倒くさがりながらも不器用によく世話を焼いてくれた。兄の訓練で意識を失った沙依を介抱してくれたのはいつも彼だった。彼は兄と同じで人の思考が読めてしまう。人を操れてしまう。だから恐れられ、避けられていた。彼自身人から向けられる悪意が耐えられなくて、心を閉ざして人を避けていた。でも彼は優しかった。だから沙依をほっておくことはできなかった。世話を焼いて一緒に生活をしてくれた。ただの子供になっていた沙依が、そんな彼に絶対的な信頼を寄せて懐くのにそんなに時間はかからなかった。そんな沙依を高英は大切にした。高英から大切にされていることが解ったから、そんな彼が兄を信頼しているのが解ったから、沙依は厳しい訓練に耐えることができた。
沙依の夢は次々と場面が変わった。龍籠で過ごした日々が目まぐるしく過ぎていき、そして荒地に立っていた。そこで沢山の死体と火の海が広がる景色を見ていた。
「沙依、ごめんね。」
ヤタの声が聞こえた。そうだった。あの時ヤタがわたしを見つけて、ヤタもわたしの記憶を奪った。それを思い出しそして沙依の記憶は仙人界へと移った。
原始天孫はあれを出し抜くために力が欲しかった。沙依が生かされていたのは、沙依が地上の神につながる唯一の鍵だったから。記憶の封印を解き、沙依のもつ知識が欲しかったから。だから生かされた。だから様々な実験をされた。そして兵器となるより強い子供を産ませようとさせられた。
色々あった。この全てを沙依は忘れていた。忘れて過ごしていた。忘れて過ごしていた時間は幸せだった。記憶の一部を取り戻した時その幸せは崩壊した。
「とくちゃん。」
夢の中で沙依は呟いた。記憶が戻った今、道徳が自分を見つけたのは高英が彼の中にいたからだと解っている。彼に安心感を覚えたのは、彼の中に高英の影を見ていたからだと解っている。でもあの時、道徳の中に高英はもういなかった。彼が自分の家族になると言ってくれたあの時、彼の中には高英はいなかった。あれは彼の本当の言葉だった。思い出して心が温かくなった。
何も知らず沙依を実の妹のように慈しんでいた道徳。彼が全てを知ったら彼はどう思うだろうか。それでも傍にいてくれるのだろうか。それとも彼も敵に回ってしまうのだろうか。沙依には解らなかった。
どちらにせよあれは仙人達も全て葬り去る気でいる。沙依はもし道徳が敵に回ったとしても、彼には生きていてほしかった。自分が傍にいられなくても、彼には生きて幸せになってほしかった。だからあれを倒さなくてはいけない。そう絶対に倒さなくてはいけない。沙依はそう思って、そして目が覚めた。
「やっと、目を覚ましたか?」
声を掛けられ、そして自分がまた助けられたということに沙依は気がついた。声を掛けてきた男はぐったりした様子で突っ伏していた。酒臭かったが、彼のその状態が酒のせいでないことを沙依は良く分かっていた。
「錬気を分けてくれてありがとう。」
沙依がそう言うと男は頭上で手をひらひらさせて、薄く笑った。
「勝手に唇奪わせてもらったし、役得だな。残念なのはあんたの見た目がガキなことくらいか。あと五年くらい年食ってたらほっとかないんだけどな。せっかく俺好みのエロい身体してるのに、顔が幼いのが玉に瑕だと思うぜ。」
その言葉に沙依は疑問符を浮かべた。その表情を見て男はため息をつき、沙依の頭をぽんぽん撫でた。
「あんたは生死の境を彷徨ってたし今の俺に他に方法はなかったけどさ。普通、好きでもない男に唇奪われたら嫌なもんじゃないのか?」
そう言われて沙依は少し考えた。
「あなたに下心が無いのも治療行為なのも理解してる。感謝こそすれ不快感はなにもないよ。しいて言うなら、お酒臭いのがちょっと嫌かな。」
それを聞いて男はうなだれた。
「あんた、かわいくないな。ちょっとは嫌がるとか、恥ずかしがるとか、なんか反応があるもんだろ。割り切ってるから平気ってお前感情あんのかよ。」
それを聞いて沙依は少しむっとした。
「治療行為にいちいちなにか感じてたら、治療してくれてる相手に失礼じゃないの?下心もない相手に裸見られたってなんだってでいちいち恥ずかしがるほどわたしも若くないよ。」
そういうところがかわいくない。そう男は言って沙依の口に丸薬を押し込んだ。
「意識が戻ったなら食っとけ。全く、こんな状態で一人で出てって、いったいどうするつもりだったんだ?強がり、巨乳ってのがターチェの女の特徴なのか?あ、あいつは巨乳って程でもなかったか。」
そう言ってどこかに思いを馳せる男を見て沙依は目を伏せた。
「わたしは龍籠が第二部特殊部隊部隊長、青木沙依。ここでは清廉賢母の仙号を得てるけど、そっちはあまり好きじゃないから、沙依って呼んでくれると嬉しい。」
沙依は名乗ると手を差し出した。男は自分は磁生だと名乗りその手を握り返した。
「磁生。あなたに助けられるのは二回目だね。ありがとう。でもどうして追ってこれたの?」
その疑問に磁生は沙依の手首をさした。そこには印が書き込まれていた。それを見て沙依は納得した。こんな印をつけられて気が付かないなんてどうかしている。沙依はそう思った。でもそれに危機感は覚えなかった。これのおかげで助かった。運命は自分の方に流れている。そう感じて沙依は少し気持ちが楽になった。未来はまだ決まっていない。でも確実に沙依の願いは叶えられようと流れている。それを感じて勇気が出てきた。
「あんたの様子が気になってな。治療中に念のためつけておいた。まさかあんな短時間でこんな遠くまで移動するとは思わなかったから、見つけるまでに時間がかかったぜ。見つけた時には意識ないしさ、今にも生命が消えかけてるし、本当あんた何がしたいんだよ。」
沙依が磁生の家を出て行ったとき、磁生には周りの態度が疑問だった。他の皆は本当に気が付いていなかったのだろうか。沙依の消耗は激しく、目が覚めたと言っても立っているだけでもやっとの状態のはずだった。平気そうな顔で彼女は出て行ったが、彼女の気の流れをみれば、彼女が万全でないことは一目瞭然だった。なのに誰も彼女の容態を疑う者はいなかった。彼女に圧倒されたのは確かだが、あれで彼女の言うような戦闘ができるとは磁生には思えなかった。だから磁生は沙依を追いかけて、彼女の姿を探した。死にかけの人間を一人で行かせるなんてことはできなかった。
「本当にあなたが来てくれて助かった。ちょっと休むだけのつもりだったんだけど、まさか死にかけるとは思わなかったんだ。」
そう言って笑う沙依に磁生は無性に腹が立って、彼女の頭を小突いた。
「あんな啖呵切っときながら、あんた脳天気すぎだろ。」
そう言って頭を抱える磁生を見て沙依は微笑んだ。彼女のその顔に磁生は更に腹が立った。腹は立ったが、ため息をつくだけにして何もしなかった。
さてどこまでを話すべきか、沙依は考えていた。もう十分に巻き込んでいる。今更一人では行かせてくれないだろう。そうしたらもう行けるところまで付き合ってもらうしかない。それが沙依が出した答えだった。
「お互い消耗してるし少し話をしようよ。そして、ちょっと回復したら連れてって欲しいところがあるんだ。そこに着いたら暫く暇だから話し相手になって。あなたもわたしに聞きたいことが沢山あるでしょ?」
そう言われて磁性は沙依を一瞥すると深くため息をついた。
「本当、あんたなんなんだよ。」
そう不機嫌そうに言いながらも、磁生は沙依に付き合うことを決めていた。磁生には沙依が何を考えているのかも、何をしようとしているのかも全く解らなかった。解っていたのは、彼女の消耗が激しく、たいして動くことができないという事だけ。この状態で彼女を置いていくことは磁生にはできなかった。だから諦めてついていく。それだけだった。磁生のその反応を見て沙依は満足そうな顔をした。そして少し目を細めて磁生の中に何かを見ていた。
「わたしが目を覚ましたあそこはあなたの部屋だよね。あそこにシュンちゃんの刀があった。とても大事にされてた。あなたはさっき、わたしを通してシュンちゃんのこと考えてたでしょ?ねぇ、あなたの知ってるシュンちゃんのこと話して。」
そう言う沙依の目は真剣だった。磁生には彼女の言うシュンちゃんが春李のことをさしているのはすぐに解った。沙依が春李の友達であったことは知っていた。知っていたからこそ磁生はどう話せばいいのか解らなかった。彼女の死をどう伝えればいいのか解らなかった。
「磁生からみたシュンちゃんはどんなだった?あれを見ればシュンちゃんがもういないことはわかるよ。あなたに大切に思われてたのもよく解る。だから知りたい。ねぇ、教えて。」
そう沙依に見つめられて、磁生はぽつりぽつりと話し始めた。毎日、思い出していたことだった。毎日思い描いていたことだった。彼女と過ごした時間、自分がどれだけ彼女を想っていたか、彼女を失ってどれだけ辛かったか。沙依は磁生の話に静かに耳を傾けていた。苦しそうに話す磁生とは裏腹に、沙依は幸せそうにその話を聞いていた。
「シュンちゃんは幸せだったんだね。」
話を聞き終わると沙依はそう言った。磁生には意味が解らなかった。
沙依は磁生の胸に手を当てると、目を閉じた。
「シュンちゃんはあなたのここにいる。あなたの中で生きてる。添ってもいいと思える相手と出会えて、こんなにも想われて、シュンちゃんは幸せだと思う。たとえどんな最後だったとしても、シュンちゃんの最後があなたの傍で良かった。ありがとう。今でも大切に想ってくれて。」
沙依のその言葉に磁生は春李の最後を思い出した。術式に打ち抜かれ致命傷は負っていたが、即死ではなかった。あの時、抱きかかえ彼女の名を呼ぶ磁生の頬を彼女はそっと撫でて笑った。そして眠る様にその生を終わらせた。磁生は彼女を失ったことが辛すぎてずっと忘れていた。あの時、春李は笑っていた。安らかな顔をして死んでいった。そのことを思い出して、そして気が付くと頬を涙がつたっていた。磁生は目頭を押さえて上を仰いだ。
そんな磁生の姿に、シュンちゃんがうらやましいなと沙依はぽつりと呟いた。
「ところで、どこに連れてって欲しいんだ?」
落ち着くと磁生は訪ねた。
「わたしがヤタに封印されてたとこ。」
沙依のその答えに磁生は疑問符を浮かべた。
「場所はわたしが解ってるから大丈夫。ヤタは気付いてないみたいだけど、ヤタには兄様の一部が隠れてる。ヤタはわたしを封印した時わたしの錬気を外に流すように細工したけど、兄様がそれを溜めておくように更に細工してた。つまり人口の気穴のようなものがあの近くにはあるの。そこに行って自分の錬気を取り戻せば、わたしは回復できるし万全の状態で戦える。そこには数百年分のわたしの錬気が溜まってるんだもん、回復どころか力を上乗せ出来ちゃうよ。」
沙依のその言葉に磁生は納得した。そして別の疑問を口にした。
「あんたが目を覚ました時してた話を聞いてから疑問だったんだ。あんたの話は春李から聞いてた話とかみ合わないことが多い。春李はコーリャンであっても初めの記憶はないと言っていたが、あんたは記憶があるのか?」
磁生の疑問に沙依は遠くを見て目を細めて言った。
「兄様。最初の兄弟の長兄と末妹のわたしは全部覚えてるよ。この戦いもあなた達が生まれるずっと前から、兄様とわたしで計画していたものだった。」
沙依は話しながら磁生の背中に回り、その背中に額をつけ目を閉じた。
「長い話になるから、移動しながらと、錬気を取り戻してる間に話すよ。連れてって。」
そう言うと沙依は磁生の背中に飛び乗った。磁生はバランスを崩しそうになって慌て、文句を言おうとしてやめた。だいぶ元気を取り戻したように見えた沙依だが、彼女の状態がいまだ危険な状態に近いことが解ったから。歩くこともままならない、それが本当の所なのだろう。沙依が弱っているところを見られたくなくて背中に回ったのだと考えて、どれだけ強がりで意地っ張りなんだよと、心の中で悪態をついた。
「あんた、幻術使いかなんかなのか?皆、あんたの状態が万全だと疑ってない様子だったぞ。」
自分も今騙されそうになったことは伏せて、聞いた。
「幻術なんてたいそうなものじゃなくてただの気当たりだよ。殺気飛ばして威嚇するのと一緒。気を操作して勘違いさせただけだよ。わたし弱いから、こうやって強がるのだけは得意なんだ。」
やっぱお医者さんは騙せないか。沙依がそう呟いて笑ったのが伝わってきた。自分は決して医者ではない。磁生はそう思って否定したが沙依はそれをさらに否定した。
「磁生は沙衣と同じ匂いがする。人も沢山殺してるけどそれ以上に助けたがってる。わたしのこともこうやって追いかけてきて助けてくれた。あなたはどうあがいてもお医者さんだよ。」
沙依のその言葉が春李の言葉と重なって磁生は何とも言えない気持ちになった。
「春李はよくあんたの話をしてた。だからあんたを見たときすぐあんただって解ったよ。でもこうやって話してみると、あいつから聞いて思ってたのと全然印象が違うな。」
磁生は沙依を背負って歩き出した。
「兄様に記憶を封じられてたあの頃と全部思い出した今とじゃ同じではいられないよ。それに皆わたしのこと勘違いしてるよ。わたしは皆が思ってるほど凄い人じゃない。兄様でもどうにもできなかったあれを自分がどうにかできるのか、凄く不安だし、怖いし、あの天界の娘さんみたいな責任感もないし。ただ最初は兄様を助けたくて、今は皆がいなくなるのが嫌で、とくちゃんが死ぬのが嫌で、それでここにいるだけ。」
背中越しに感じる沙依の気配はとても小さく思えた。小さな子供を背負っているような感覚になって、磁生は何とも言えない気持ちになった。
「ヤタから奪われてここに来たとき、原始天孫から受けた実験で術式が暴発してわたしは子供に戻った。時間を巻き戻すことでわたしの記憶を取り戻そうとして失敗したんだよ。あの時、闇封じが発動してわたしは自分の姿も見えない真っ暗な世界で一人ぼっちになった。さらにヤタがわたしの記憶を封じた術式が暴走して、わたしは記憶の海を彷徨って、そしてそれらを失っていった。怖かった。忘れたくなかった。忘れたくない。忘れたくないって思ってたら、コーエーが見つけてくれた。嬉しかった。凄く安心した。気がついたらこうやってとくちゃんにおぶわれてた。もうコーエーはいなかったけど、とくちゃんの背中が頼もしくって、こうやってくっついてると安心できた。」
磁生には沙依の意識がもうろうとしかけており、走馬燈が見えているのだということが理解できた。だから、沙依のいうコーエーやとくちゃんが誰の事を言っていることも解らなかったが何も聞き返さずに聞いていた。命に関わるような状態はもう脱しているが、自分の見立てよりはるかに状態が悪い。兄と計画を練ったと言っていたが、もともとこんな無理をして出てくる予定ではなかったのではないだろうかと、磁生は疑問に思った。なら何故こんな無理をしてまで沙依は出てきたのだろう。磁生には全く理解ができなかった。
○ ○
「これが封神台か。やっぱ実物を近くで見ると感慨深いものがあるな。」
目を輝かせてそう言う将勇に淑英は、遊びに来たわけじゃないのよとため息をついた。
将勇はこんな時でも自分の好奇心に忠実なのだと思うと淑英はなんとも言えない気持ちになった。どんな時でも趣味が優先。淑英のことを置いて何か月も、時には何年もいなくなることもざらだった。そんな時、淑英はこういう人なのだからしかたがないと思う反面凄く不安になった。将勇の身を案じての不安と、彼にとって自分の存在は小さいのだと感じてしまう不安。後者の不安に対し、淑英はいつもそんな風に思う自分に対し嫌な気持ちになった。彼がそういう人だと解っていて好きになった。何にも縛られない、自分勝手で自由な彼に憧れた。彼の傍にいたいと思った。
「将勇。あなたのことはわたしが絶対守ってみせるわ。だから気が済むまでやりなさい。」
そう言う淑英にちらっと視線を向け将勇は空を見上て考えた。
「淑英。お前が思ってるよりずっと俺はお前のこと愛してるぞ。」
そう言って将勇は淑英を見つめた。
「だから、もしもの時は全力で自分を守れ。確かに俺は戦闘は苦手だけど、逃げることと隠れることは得意なんだ。お前に守ってもらわなくても俺は大丈夫だ。」
淑英は何を言われているのか理解できなかった。そんな彼女の頭を将勇は優しく撫でた。
「お前が傍にいない未来なんて想像できない。もうお前は俺の一部なんだ。だから絶対いなくなるなよ。」
自分の言った言葉に呆然としている淑英を見て本当に何も解ってないんだなと将勇は思った。彼女が鈍感なのか、自分が端的すぎるのか、それは将勇には解らなかったが、もう少し自分の愛を信用してくれてもいいと思う。
将勇が初めて会った時から淑英は真っすぐだった。愚直なまでに真っすぐで、自分の気持ちに嘘をつかない。自分の気持ちのままに生きる彼女が眩しかった。そんな彼女に憧れ、強く惹かれた。横暴で、わがままで、とても優しい。そんな彼女をもっと知りたいと思った。知れば知るほど、のめり込んでいく自分がいた。自分にとってこんなにも特別なのに、その想いは彼女に全然届いていない。だからたまにはちゃんと口に出しておこうと、将勇は思った。口に出した結果がこの呆然とした顔だった。これはこれで面白いが、笑ったら怒られるんだろうな。そう思うと自然と笑いが出てしまった。そして案の定彼女は怒って、それからそっぽを向いた。確実に照れ隠しだった。その姿がまたかわいいと思う。
淑英が小さく何かを呟いたのが聞こえたが、将勇には聞き取ることはできなかった。
「ねぇ。仲が良いのはいいことだけど、そろそろ行くよ。」
太上老君のその言葉に二人の身体に緊張が走った。ここまでたどり着くのにだいぶ時間をかけてしまった。無駄な戦闘を避けるため、張り巡らされた結界や術式を気づかれないように慎重に解いてかいくぐってきたのもあるが、そういう作業に手慣れた将勇でさえも苦戦させるほど封神台は厳重に守られていた。そんな厳重な警備を突破し一息ついたところで気が緩むのは仕方がないことだとは思う。しかしのんびりしている時間はなかった。
ここにたどり着くまでに時間を使い過ぎた。封神計画はもう終盤。どうしても焦りそうになる気持ちを抑え、太上老君は言った。
「これほど近くまで来たにもかかわらずこの辺には大した警備がない。それがどういうことかわかるかい?」
封神台から漂う異様な気配。そこから感じる重圧。そこから感じ取れることはあれにはもう警備など必要が無いという事だった。
「君らも感じているだろうけどあれからは嫌な気配がとても濃くしている。君らはここで引き返しても構わないんだよ。もともと僕一人でやるつもりだったんだから。」
太上老君のその言葉に二人は同意しなかった。意思の硬い二人の顔を見て、太上老君は視線を封神台に向けた。
「あの気配は女媧のものだ。あの中にあれがいることは間違いないだろう。封印が解かれたとは考えられないが封印の中からでさえあれだけの干渉ができる実力者、君らでは勝ち目はない。遭遇したら逃げるんだ。」
そう言うと太上老君は二人に目を向けてわかったねと念を押した。
二人は返事ができなかった。
そうして一同は封神台へと歩みを勧めた。
だんだん濃くなる気配。太上老君は不安を覚えた。何かがおかしい。女媧の封印は解かれていない。何故だかは解らなかったが太上老君にはそれが確信できた。にも関わらず彼女の気配は以前遭遇した時よりずっと質感をもって感じられた。彼女の魂が肉体を持ってここにあるような、そんな気がして仕方がなかった。
封神台内部、動力炉と思われる場所までたどり着き三人は息を飲んだ。そこには大きな水晶のようなものに封じられた女性が鎮座していた。それは伏犠により封印された女媧そのものだった。
「いったいこれはどうやって封印されてるんだ?こんな術式見たこともないし、この物質はいったい何でできてる?」
将勇は驚きを隠さぬままその物体をしげしげと眺めた。
「それは今は関係ない。君は封神台に集中してくれ。僕はどうやら手が離せなくなりそうだ。」
そう言うと太上老君は多くの術式を展開させた。
「解析できる範囲だけでいい。急いでとりかかって壊せるだけ壊しといて。君の能力と彼女の戦闘能力があれば可能だろう?」
太上老君の異様な雰囲気にのまれ将勇は解析に取り掛かった。
「いいかい。僕が戦闘を始めたら君らは全力で逃げるんだよ。もう見つかっている。逃げる見込みがあるのならその時だけだ。あれは小さいものに興味が無い。追いかけてまで君らを殺すことはない。時が来るまでは。」
そう言う太上老君の顔には緊張が走っていた。ここであれと戦闘しなくてはいけなくなるとは考えていなかった。なぜなら以前太上老君が遭遇した際には女媧は自分で戦闘することはできなかったから。それ故に人に力を与え代わりに戦わせていた。だから本体が封印されている今もそれは同じだと考えていた。
女媧の気配が強くなる。聞こえないはずの足音さえだんだん近づいてくるように感じる。太上老君の鼓動は早くなり、唾をのみ込んだ。いけない、場の気配にのまれては、そう自分を戒めて、太上老君は気を静め体制を整えた。
一段と気配が強くなり、そして、それは姿を現した。
「久しいのう。賢く幼き者よ。我の望み通り、あがき、もがき、ここまで来た者よ。我は嬉しい。こうしてまたあいまみえることができたことが。」
予感はしていた。しかし実際それを目の当たりにすると太上老君は信じることができなかった。
「どうして。」
思わず声が漏れていた。驚きが隠せない太上老君の姿を見て女媧は楽しそうに笑った。
太上老君が目にしたもの。それは肉体を持ってそこにいる女媧の姿だった。
「地上の神の娘の力を使って、我の魂を受け入れられる器をつくらせたのじゃ。」
そう言うと女媧は封印された自分に近づきその表面を撫でた。
「我が愛しい伏犠の封印はそうやすやす解けはせぬ。あの時我ができたのは自分の魂を一欠片外に逃がすことだけだった。何故、解ってはくれぬのだろうか。我はただこの地上が愛しいだけなのに。」
そう言って自分に目を向ける女媧の姿に太上老君は寒気を覚えた。
「我は地上が愛おしい。地上にある全てのモノが愛おしい。だから全てを手に入れたいと思うのは自然なことではないのかえ?何故、皆我の邪魔をするのだ。全て皆平等に我の愛に包まれれば良いものを。」
その時術式が女媧を襲った。
「ふざけるんじゃないわよ。誰もあんたの自分勝手な愛になんか包まれたくなんてないわ。ここで消えなさい。」
淑英の咆哮と術式の発動が重なった。淑英の、太上老君の、そして女媧の放った術式が交差し、辺り一面が眩しい閃光に包まれた。
閃光が治まった時、全員封神台の外にいた。封神台の周囲は爆風で更地となり、そこには無傷の封神台と女媧、それに対峙する3人の姿があった。
「君たちは僕の話を聞いてなかったのかい。」
太上老君は憤りを感じながら呟いた。
「あんた置いて逃げろって言われて淑英が逃げるわけないじゃないですか。なら俺も残るしかないでしょ。」
その言葉に太上老君は諦めるしかなかった。言い争っている余裕はないのだから。
今も女媧が攻撃してこないのは、自分たちの様子をみて楽しんでいるだけなのだと太上老君はよく解っていた。自分たちがどんな手を使ってあがくのか、それを楽しみにしているだけなのだ。認めたくはないが、彼女にとって自分たちなど全く脅威ではないのだと痛感し焦りに似た気持ちが込み上げてきた。
「とりあえず、ダメもとで一矢報いてみませんか?」
将勇のその言葉に太上老君も淑英も疑問符を浮かべた。
将勇はにっと笑うと術式を発動させた。それと同時に女媧も何か術式を発動させたことがわかった。
「あれとの戦闘はあの嬢ちゃんにまかせるって話しだったろう。」
閃光の中で将勇のその呟きだけが聞こえた。
○ ○
沙依が目を覚まし起き上がるとそこに磁生がいた。
「やっと起きたか。」
そう言うと磁生はまた沙依の口に丸薬を押し込んだ。
いつの間にか錬気が溜めてある場所まで来ていた。沙依は手を開いたり閉じたりして、自分の身体の調子をみた。いつの間にかだいぶ回復している。どれだけ自分は寝ていたんだろう。そう考えてそっと意識を飛ばしてみる。まだ時間があるようで沙依は少しほっとした。蓄えていた錬気を全部吸収しなくては。そう思ってそっと意識を集中させた。
「寝てる間に、あんたのこと詳しく見させてもらったぜ。」
磁生のその言葉に沙依が彼に顔を向けると、彼は何とも言えない顔をしていた。
「あんたにかけられた封印は確かに完全に解除されてるけど、あんた自身の気脈が乱れて錬気が上手く回らなくなってたぞ。たいした乱れじゃなかったから整えといてやったが、これはどう考えてもあんたが無茶して封印から出てきたせいだろ。どうしてこんな無茶をした?」
その言葉には疑問と憐れみとあと少し怒気が混ざっているような感じだった。
沙依は笑ってお礼を言った。
「他人の気脈を整えるなんて言う程簡単じゃないのに、磁生は凄いね。」
そう言うと沙依は遠い目をした。
「どうしてもしたいことがあるんだよ。兄様が立てた計画のまま待っていられる時間はなかった。」
そう言って沙依は横になった。
「錬気を吸収し終わるまでまだまだ時間がかかるから、その間話しきいてくれる?」
沙依がそう言うと、もともとそういう話しだったろと磁生は言った。そうだった。そういう話だった。沙依はそう思って、話し始めた。昔何があったのか、最初に生まれてきたとき何があったのか、父が狂ってそして兄様がなにをしたのか、自分が何を思って何をしたかったか、どういった経緯でこうなっているのか。
「兄様はわたしがどうにか出来るなんて思っていない。だからここに至るまでの手引きや手伝いはしてくれたけど、兄様はわたしとは別に動いている。だから兄様と交信することはできないし、兄様が今何をしてるのかも解らない。だけど多分、兄様が他の兄弟達を守っていることだけは確かだと思う。」
沙依がそう言って目を閉じるとそこに獣が3匹現れた。大きな山犬のようだったがそれらがただの獣ではないことは一目瞭然だった。
「この子たちはわたしの眷属。わたしが父様の元を離れる時、父様がわたしに授けてくれた純粋な地上の力の象徴。地上の風と光と雷は全てわたしの意思のまま、錬気を消費することもなくわたしは繰ることができる。」
気が付くと獣はいなくなっていた。
「兄弟の中でわたしは一番弱い。だけど一番加護を受けている。だからわたしはここまであれらの懐深くまで入ることができた。神の末娘には何もできない。そう思われているから生かされ、神の在処を知っていると思われているから引き込まれた。その侮りに付け込んで、兄様に鍛えられた技とあの子たちの力を駆使して、わたしはあれを倒すつもりだった。」
つもりだった、沙依はそう言った。なら今はどういうつもりなのだろうか、磁生は疑問に思った。そこに沙依が無茶をした原因がある様に思えた。
「元々わたしには最初の家族しかなかった。父様がいて兄様姉様たちがいて幸せだった。父様と封じられている時もずっと家族のことを思ってた。だから兄様が一人で全部背負って傷つき続けていることが耐えられなかった。龍籠にいた時も変わらない。姿形が変わっても家族で過ごしてたことと変わらない。わたしが想う相手は最初の家族。大切な家族のためにわたしはできることをしたかった。皆が幸せになる未来を手に入れたかった。自分大切な人達が幸せなら他の者がどうなったってかまわなかった。」
沙依は心からそう思っていた。シュンちゃんも、沙衣も自分のことを優しいと言っていたが、自分は優しくないと思っていた。シュンちゃんのように敵にまで情は向けられないし、目的のために平気で人の心に傷を植え付ける。自分はどこまでもわがままで、自分勝手で、どうしようもない。そう思っていたから沙依は自分のことを女媧と変わらないのだと思っていた。自分が女媧と違うとすれば、愛しいから全てを手に入れたいと思ったか、そうでないかの違いだけだと思ってた。
「わたし達を滅ぼした仙人達を憎いと思ったこともないけど、仙人達がどうなってもかまわないとも思ってた。だから女媧が伏犠の封印を解くために仙人に力を蓄えさせ、力を奪うために滅ぼすつもりだったと知っていたけど、それを止めるつもりもなかった。止めるどころか、それを待って仙人の殲滅と封印の解除で消耗した女媧を討つつもりだった。仙人達を見殺しにするつもりだった。それをすることが、わたしは平気だった。」
淡々とそう語る沙依の姿に磁生はなんとも言えなかった。沙依は本気でそう言っていると解ったから何も言えなかった。自分の中に生まれた何とも言えないもやもやした気持ちが、それが軽蔑なのか、同情か、憐れみなのか、それとももっと違う何かなのか、磁生には解らなかった。
春李は悩み葛藤しそれで諦めて憎むことをしなかった。深い悲しみを抱えたまま、笑っていた。でも沙依には最初から葛藤はないのだと解った。許すとか許せないとか、憎むとか憎まないとか、そんな物は最初から沙依の中にはない。直情的に見えて感情が薄い。いや感情が薄いというより、まだ感情というものをちゃんと理解していない。磁生はそんな印象を沙依に持った。
「記憶をなくしてる間、普通にここで暮らして、初めて外に大切なものができた。記憶を取り戻した時、訳が分からなくなって、気がついたらヤタの姿をした兄様と一緒にいた。兄様に怒られて、ヤタに封印されて、ずっと眠ってた。その間ずっと女媧の夢を盗み見ていた。女媧の描く未来予想図をなぞって、わたしはずっと外の世界を見ていた。父様と封じられてた時との違いは、見ていた未来が確定された未来か、女媧の願望かの違い。その中で、わたしは仙人界の終わりを見た。ここで一緒に育った皆が死ぬところを見た。とくちゃんが死ぬところを見た。その瞬間、わたしは耐えられなかった。無我夢中で封印を破壊して外に出てた。」
自分でもどうしてそんなことしたのか解らないんだと、沙依は呟いた。
「兄様の邪魔をして兄弟が殺されなくてすむ場所を作った時もそうだった。気がついたら勝手に動いてた。それが行き当たりばったりで、状況を悪くすることだって解ってる。だけど身体は勝手に動くし、やっぱりわたしは大切な人達が傷付くのは、いなくなるのは嫌だから、それでいいと思う。だからこんな状態になっても出てきてよかったと思ってるし、出て来たからには全力で皆が死ぬ未来を阻止したい。」
こいつは本人が認識してるよりはるかに子供なんだと磁生は思った。自分の感情を理解してない。気持ちの置き所を解っていない。なにも理解していない、自分の感情がなんなのか、ちゃんと認識していない。 ちゃんと理解しないまま感情に流されて刹那的に生きている。過去も未来も関係なく今だけを生きている。どうしてそうなったかは解らないが、沙依の心は小さな子供と同じだと思った。好きか嫌いか、嫌か嫌じゃないか、それくらいしか解ってないのだ。
磁生は自分の中に生まれた感情の意味が分かった気がした。親が小さな子供を想うように、心配なのだ。危なっかしくて一人にしておけない。何をしでかすのかハラハラする。そんな親心のようなものが自分の中に芽生えていることに気が付いて、磁生はため息をついた。そしてぽんぽんと沙依の頭を撫でた。
頭を撫でられて沙依は心が温まる気がした。磁生といてひどく安心している自分がいて、沙依にはそんな自分が理解できなかった。なんで彼にこんな話を全て話してしまったのか、よくわからなかった。誰かに聞いてほしかった、それもあったかもしれない。でも会ったばかりの人間をこんなに信用していいものなのだろうか。兄から厳しく言い含められていたことを破って、心を開いてよかったのだろうか。沙依には自分がどうしてこうしているのか解らなかった。シュンちゃんが想いを寄せた相手だったから?沙衣と同じ匂いがする人だから?あったばかりの彼になぜ、こんなに心が許せるのだろうか。ただ自分の頭を撫でる磁生の手が暖かくて、幼い頃を思い出した。
沙依はずっと帰りたかった。ずっとあの頃に。もうないあの場所に、家族みんなで。そんな気持ちを思い出して、沙依の脳裡に道徳の姿が映った。「俺が家族になってやる」その言葉が蘇って、意識が現実に戻った。
「磁生。ここまでしてくれてありがとう。どれだけ感謝してもしきれないよ。」
そう言って沙依は磁生の目をまっすぐ見据えた。
「ここからはわたし一人でいい。ヤタ達に言った通りこれ以上は足手まといだよ。シュンちゃんの大切な人を戦闘に巻き込んで死なせるわけにはいかない。人を守りながら戦う余裕はわたしにはない。」
沙依の様子はさっきまでと一変していた。さっきまでどこかふわふわした無邪気で何も知らない小さな子供みたいだった彼女が、今は強い意志を持った強かな女性に見えた。それを見て磁生は何かを考えていた。
「いや、俺も行く。」
その言葉に沙依は何か言い返そうとしたが、それを磁生は止めた。
「あんたは自分のことを全く解ってない。気脈のズレだけじゃない。あんた他にも不調があるな。記憶混濁や意識混濁があるだろ。話を聞いてるだけでも、あんたどれだけ頭いじくられた?自覚してないだけであんたそうとうガタきてるぞ。一人にさせるわけにはいかない。」
真剣な目をしてそういう磁生に沙依は言葉を詰まらせた。
「それにこんな状態のあんたを一人で行かせたら、それこそ俺は春李にあわせる顔が無いだろ。いつか自分が死んだ時にお前の友達見捨てたんだって報告させる気か?」
その言葉に沙依は思わず噴き出した。
「死んだって死んだ人には会えないよ。」
そう言いつつ沙依は磁生の同行を認めた。
沙依は指摘されなくても自分がおかしいことをなんとなくわかってはいた。意識がすぐ過去に引きずられる。気が付くと眠っている。警戒すべきところで警戒できていない。それでも目的さえ完遂できるのであれば構わなかった。もし自分が死んでしまったとしても、その後の事はどうでもよかった。大切なことさえ忘れないでいられたらそれでよかった。
大切なものに思いを馳せながら沙依は眠りについた。
○ ○
道士太公望が妲己討伐に成功し、封神計画は終幕を迎えた。その報告と労いをおこなうために玉虚宮に集まる様にとの報を受けた道徳は、複雑な心境を抱えながら玉虚宮に向かった。
肝心の太公望は仙人界に戻ってはいない。妲己討伐を果たした後どこかに姿をくらましてしまった。勝利したのかもしれないが、あまりにも多くの犠牲を払う事となった。仙人界の被害も多く復興もままならない今、主役もなしにいったい何を労うというのだろうか。道徳は嫌な予感がしてならなかった。
道徳が玉虚宮に着くと既に他の十二太子はそろっていた。原始天孫の姿はまだない。
静かに並ぶ太子達を見て道徳は沙依が死んだ時を思い出した。あの時もこうやってここに皆並んでいた。
場の空気が動き、静かに原始天孫が姿を現した。その姿を見て道徳は自分の最後を悟った。そうか俺たちは殺されるためにここに集められたのか。不思議と驚きはしなかった。何かを納得できた気がした。道徳は冷静に、原始天孫の手から術式が発せられるのを見ていた。封神台に集められた多くの魂の力が籠った一撃、ここにいる誰も敵うものはいなかった。
死を認識したその時、その場にいた全員の身体を暖かい風が包みこんだ。そして誰もが無傷でそこに立っていた。何が起きたのかその場にいた誰も理解できなかった。ただ茫然と皆そこに立っていた。そして誰もがそれを目撃した。瓦礫となった玉虚宮のなかで沙依と原始天孫が激しい戦闘を繰り広げていた。
「沙依?」
道徳は呟いた。これは夢だろうか。走馬燈の中であの時の記憶を見ているのだろうか。あまりにも現実感がなく、あの時と同じように沙依が原始天孫と戦っている。そして沙依が原始天孫を追い詰め、あの時と同じように止めを刺そうとした。
道徳の身体は勝手に動いていた。沙依が刀を振り下ろす瞬間、道徳は沙依を突き飛ばしていた。驚いた沙依の顔が見えて、沙依が術式で原始天孫の身体を貫いたのを道徳は認識した。
そうこれでいい。道徳は満足だった。今度は間違えなかった。沙依を守ることができた。それで十分だった。
「とくちゃん‼」
道徳の耳に沙依の叫び声が聞こえ、彼は意識を失った。
原始天孫が必殺の一撃を放とうとしたその時、沙依は玉虚宮に乱入した。そして自分の眷属の力をもって仙人達を守り、そのまま原始天孫との戦闘となった。以前のように混乱はしていなかった。冷静に、確実に原始天孫の息の根を止めることだけを考えて沙依は戦っていた。封神台に集めた力を、原始天孫はまだ使いこなせていない。大きすぎる力を使うにはそれなりに危険もつきもの、冷静さを失っていない沙依にとって原始天孫は敵ではなかった。原始天孫が膝をつき、その首に刀を下ろすとしたその時、沙依は突き飛ばされた。反射的に沙依は術式を発動させ原始天孫の身体を貫いていた。それと同時に自分がさっきまでいた場所を別の術式による砲撃が通過した。そして砲撃に打ち抜かれて崩れ落ちていく道徳の姿が目に写った。
沙依は叫んでいた。そして無意識に砲撃の主を消していた。殺気を向ける者を反射的に攻撃してしまうのは、兄から受けた訓練により身体に染みついてしまった癖だった。そうやって殺すつもりが無かった者を殺してしまったことさえ気が付かないほど、沙依は狼狽えていた。
「とくちゃん。しっかりして。」
沙依は道徳に駆け寄り声を掛けるが、道徳が目を開ける気配はなかった。かろうじてまだ息はあるが、どうしようもない状態なのは一目瞭然だった。
「こりゃだめだな。俺でも処置しようがない。」
遅れて合流した磁生は道徳を一瞥するとそう言った。道徳にしがみつく沙依を見て、磁生は何とも声がかけられなかった。しかし沙依をこのままにしておくわけにもいかなかった。邪魔が入らないように、他の生き残りは全員意識を奪ってきたが、今この状態であれとの戦闘に突入したら、どうにもならないことは明白だった。磁生が考えを巡らせていると、沙依は信じられない行為に出た。
「とくちゃん。とくちゃんは覚えてないかもしれないけど、とくちゃんが家族になってやるって言ってくれた時、凄く嬉しかった。あの時からずっと、とくちゃんはわたしにとって特別な人だったよ。あなたがいない世界なんて耐えられない。だからお願い、生きて。」
そう言って沙依は道徳に口づけをした。自分のありったけとも思われるほどの錬気を注ぎ、術式を巡らせ、体内の修復を行った。それはとても高度な術だった。そんな勢いで錬気を譲渡すれば、術者が死に至ってもおかしくなかった。道徳の身体の傷はみるみる修復され、彼は一命をとりとめた。
「ばか。あんた何やってんだ。」
へたり込む沙依を思わず磁生は怒鳴っていた。沙依はとても朗らかに笑った。
「せっかく回復させた錬気使っちゃった。でも、まだ戦えるよ。」
そう言うと沙依は腕輪を外した。太上老君が作った腕輪により抑えられていた沙依の力が解放され、確かに沙依は少し動ける状態にはなった。しかし少し動けるというだけで、激しい戦闘ができる状態ではない。それでも沙依は立ちあがり、静かに戦闘に備えていた。彼女は戦場に向かう戦人の顔をしていた。それを見て磁生はため息をついた。
「しょうがねぇな、まったく。」
そう言って磁生は沙依の身体を引き寄せると口づけをした。
「ぎりぎりまで俺の錬気分けてやったんだ。無駄遣いすんなよ。」
そう言って磁生は座り込んだ。
沙依はお礼を言って、笑った。そして真剣な顔をして前を向いた。
「女媧の気配と術式の発動を感じた。来るよ。」
沙依の言葉と同時に粉塵が舞い、何かがそこに現れた。
「風竜、皆を守って。光竜、雷竜、全力でわたしの補助をお願い。行くよ。」
そう言って沙依は生物が本来自身を守るために自身に課している枷を外した。
それを見て磁生はまたそういう無茶をしやがってと悪態をついた。もう怒鳴る気力も体力もなかった。だから沙依が命を懸けて戦うのを、最後まで見届けようと目を凝らしていた。
粉塵が治まるとそこには半分瓦礫となった封神台とむき出しになった封じられた女媧の本体、意識を失った太上老君、将勇、淑英の姿、そして一人無傷でたたずむ女媧の姿があった。
「何かと思えば、死にぞこないの末娘の所に送られたか。滑稽よのう。」
女媧はそう言うとニッと笑った。
「何もできない末娘がこやつらの希望か。ゆかい、ゆかい。」
そう言って女媧が手を一振りすると、沙依の頬を何かがかすめ、頬から血が一線流れた。
「封神台も半壊し、魂の欠片でしかないあなたができることなんてたかが知れてる。人を侮るのも、いい加減にした方がいいよ。」
わざと挑発するようなことを沙依が言って、そして戦闘は始まった。
戦闘は激しいものだった。磁生には何が起きているのかさえ、認識ができなかった。ただ激しい戦いが繰り広げられている、それだけの認識しかできなかった。集中して戦っている沙依の姿は美しかった。緊迫した状態のはずなのに、現実離れしたその戦いはどこか幻想的で、目の前で繰り広げられているのに絵空事のように思えた。そんな戦いも、終局を迎えた。
ボロボロになりながらも沙依がかろうじて女媧の仮初の肉体を葬ったその時、本体が封じられた水晶のようなものにヒビが入った。女媧の魂の欠片はそれを見逃さず、仮初の肉体を捨て、本体へと戻っていった。
ヒビが大きくなり、目を覚ます女媧。それを目前にして沙依は膝をついた。
「そう言う事だったのか。」
沙依はそう呟いた。そして乾いた笑い声をあげた。
「わたしじゃ勝てなかった。わたしじゃなかったんだ。」
そう言う沙依の目にはもう戦う意志は見られなかった。
それを見て女媧は笑った。
「愚かなり地上の娘よ。初めから解り切っていたことを。」
そう言って女媧は完全に封印から外へと降り立った。沙依を一瞥し、戦意を失った彼女の目に絶望の色が無いことを見て、女媧は疑問に思った。
「自分の無力さを知り、戦意を失ってなお、何故ぬしは絶望せぬのだ?」
女媧の問いに沙依は綺麗に笑った。
「全部終わったからだよ。」
沙依のその言葉は女媧には届かなかった。その時にはもう女媧の姿は塵となって消えていた。そして女媧のいた場所には一人の男が立っていた。
「あの時に、最初からこうしておくべきだった。」
男は涙を流しながらそう呟いた。そし、男は沙依の元に近づいた。
「地上の神の末娘よ。我が妹の蛮行を止められず、申し訳なかった。妹が地上の神を狂わせたあの時に、こうしていたならばこんなことにはならなかっただろう。愛する者への情が捨てられず、あの時封じることしかしなかった私をどうか許してほしい。」
そう言って男は深々と頭を垂れた。
女媧の仮初の肉体を葬った瞬間、沙依には確定した未来が見えた。それは今見た情景。かつて天上界を治めた三帝の一人であり、女媧の兄である伏犠が、その力をもって女媧を滅するところだった。それを見た瞬間、自分の役割はそこまで時間稼ぎをすることだったのだと沙依は悟った。だから戦う気を失った。
「お詫びにはならないだろうが、妹が天上の神から与えられた力を、君に持っていてほしい。」
そう言って伏犠は女媧から奪った天上の神の力を沙依の魂に移した。いらないと言いたかったが、拒絶す気力はもう沙依にはなかった。
伏犠が今までどこにいて、なぜ今のタイミングで現れたのか沙依には解らなかった。解らなかったが、沙依にとってそんなことはもうどうでもよかった。
伏犠が去った後沙依は空を見上げた。
「父様、兄様、ようやく全部終わりました。」
沙依はそう呟いて未来に思いを馳せた。
どうかみんな幸せになりますように。皆の魂が救われますように。
そう願って、沙依はそっと意識を手放した。