第一章 天帝討伐
「助けて、郭。」
息も絶え絶えにやってきた春麗は入ってくるなり早々にこう言った。普段おっとりしている春麗がこんなにも取り乱しているのは珍しい。それにところどころ怪我を負い着ているものもボロボロだった。一体何が起きたのか郭には解らなかったが、とりあえず手当をし精神を落ち着かせる効能があるお茶を淹れ差し出した。とりあえず落ち着いてゆっくり話を聞く必要があると思ったからだ。
春麗は一口お茶を飲むと今度は口をつぐんでしまった。話したくないというよりも何を話すべきなのか考えあぐねているという様子だった。そしてようやく口を開いた彼女の口から出たのは謝罪の言葉だった。郭は余計意味が解らなくなった。
「窮地に立たされたときあなたのことしか思いつかなかった。でもあなたを頼るというのはちょっと違ったわね。」
困ったように笑いながら春麗が絞り出したその言葉に郭は怒った。最愛の恋人である春麗に頼られることが迷惑な訳はなかったし、頼るのが間違いなどと言われたら傷つきもする。むしろなにかあったのなら大いに頼ってほしかった。そうは思ったがそれと同時に彼女がこういうと言うことは彼女がいま抱えている問題が天上界の事で、郭には手が負えないことなのだろうということに察しがついた。
春麗は天帝の娘だった。若い頃に仙人界へ修練に出されそれから仙人界で過ごしている。天上界と仙人界は古くから関係が深く、友好関係にあった。仙人界からも三大老の一番弟子や子息が天上界へ行っていた。それらは要するに互いの人質交換のようなものであり、それが友好の証だった。そのため彼らには自由はほとんどなく、帰省も年に一度決められた日のみ許されている。今でこそ春麗はこうして自由に動き回っているが最初は厳重な結界の中に閉じ込められていた。それほど春麗とは仙人界にとって何かがあっては困る重要な人物であり、また脅威になるほどの能力をもった人物だった。成長した現在この仙人界で春麗と互角以上に戦えるのは三大老くらいではないかと郭は思っている。最低でも郭は春麗以上の術者を知らなかった。
そんな彼女に対し郭は崑崙山脈の一介の仙人でしかない。幼少期に双子の妹と共に崑崙の教主原始天孫に才能を見込まれ拾われ修行を積んだ。戦闘に特化した訓練を受け仙人界に仇なすさまざまのものを葬ってきた実力はあるが、表に出ない役割の為仙人としての格は低く天上界のことに口を挟めるような立場ではない。自分にどうこう出来ることではないと察しはついたもののなにかせずにはいられず、郭は春麗に水を向けた。
「お父様がおかしくなってしまった。」
目を伏せ苦し気に少し考えるそぶりをしてから発せられた彼女のその言葉に郭は息をのんだ。春麗の父親。天上界を治める天帝がおかしくなったとはどのようなことなのだろうか。いったい何が起きたというのだろうか。とりあえずそれが天上界を揺るがす事態であるという事だけが理解できた。
春麗が父に違和感をおぼえたのはこの前天上界に帰った時だったという。その時は気に留めず帰ってきたものの仙人界へ戻ってからどうしても気になってしかたがなくなってしまい、それで先日禁じられている天上界への帰省をこっそり行ったというのだ。その話に郭は愕然とした。そんな危険なことをするなんて彼女らしくないと思った。彼女は自分の立場をよくわきまえていた。天帝の娘としていずれは天上界を治める者として自分の行動を戒めてきた。そんな彼女が天上界と仙人界の調和を乱すようなことを自ら犯すなんてとても考えられなかった。仙人界が現在封神計画の真っただ中で注意がみんなそちらに向いているから今なら気づかれないと思ったという言葉も、春麗らしくないと思った。何が彼女をそんな衝動に駆らせたのだろうか?郭には解らなかった。
「淑英にそそのかされたわけじゃないのよ。」
郭の沈黙を何か勘違いしたのか春麗はこう言った。春麗のその言葉に郭は苦笑した。
淑英とは郭の双子の妹だった。妹は男勝りで、気が強く、猪突猛進というか、短絡的でいつも行動力にあふれていた。彼女なら確かにやりそうだ。そんなに気になるならこっそり行っちゃえばいいじゃない。大丈夫、今は封神計画で皆そっちに集中してるからバレやしないわよ。そんなことを言って送り出す妹の姿がありありと目に浮かんだ。郭は昔から妹のやんちゃぶりには手を焼いてきたが助けられたことも多かった。今春麗とこうしていられるのも淑英のやんちゃのおかげだった。昔春麗を結界から連れ出したのは淑英だった。もちろん淑英も、彼女に手を貸して結界を破った将勇も処分を受けたが。それも懐かしい話だ。そんなことを思い出して自然と笑みがこぼれた。
そんな郭の様子を見て怒ってはいないとほっとし春麗は話を続けた。彼女が天上界へ無断帰省などをやらかしたのは仙人界と天上界の均衡が崩れているように感じはじめたことがきっかけだった。ここ数百年の間、なんとなく天上界の秩序が乱れ始めている。仙人界が天上界に干渉過多になっていると感じていたところ帰省中に天帝に違和感を覚えた。今まで均衡が崩れていると感じても天帝が健在な限り問題はないと思っていたが、そんな天帝自身に違和感を覚えたことが不安を強くしたのだという。気にしないようにしていたが考えれば考えるほど違和感は確かなものになり、胸のざわめきが抑えきれなかった。だからもう一度ちゃんと確かめるために天上界へ行ってきたという。
春麗にとって天上界と仙人界の均衡より天上界の秩序の方が重要だった。だから治めている父になにかあるのであれば自分が戻らなくてはいけない。そう思っての行動でもあった。その結果天上界と仙人界の友好関係が破たんしても構わないと思ったという。しかしそんな気持ちで無断で帰省した春麗は、天帝と交戦となり逃げ帰ってきた。
「あれはお父様ではなかった。お父様の身体ではあるけれどわたしのことも解っていなかった。あれは誰かに操られた傀儡だった。」
春麗は悔しそうに呟いた。天上界は誰かの手に落ちてしまった。こんな手を使って天上界を貶める者が正常に天上界を治めるわけがない。何かが起こる前に手を打たなくてはいけない。でもお父様程の人を傀儡にしてしまう力を持ったものにどう対応したらいいのか解らない。
頭を抱える春麗を宥めながら郭は考えた。考えて、そして答えを出した。
「天帝を討つしかないな。」
天帝の身体を介して天上界の支配を企んでいるのであればそれが妥当だと思った。黒幕が解らない以上傀儡を壊すしかない。春麗にひどいことを言っている自覚はあった。自分の父親を殺せと言っているのだ。普通なら受け入れられる選択ではないだろう。しかし春麗は受け入れた。自分でも解っていたのだ。それしか方法がないと。そして他の方法を探している時間はないということを。
「ありがとう。」
それは自分の代わりに辛い選択を示してくれた恋人に言った心からのお礼だった。その時春麗は、泣きそうな顔で笑っていた。
「ただ、天帝とやり合うには戦力が足りないな。」
仙人界で指折りの実力者である春麗が逃げるのが精いっぱいだった相手。そんな相手にどうやって対抗するのか。そう考え、そして郭はかつての仲間に思いを馳せた。いつも三人で戦ってきた。彼らが傍にいたとしても戦力としては足りないだろう。でも彼らがいてくれたらとても心強かった。
郭と磁生、堅仁の三人は、郭が仙人界に連れてこられた時から一緒だった。仙人界の脅威を退けるという目的の為だけに訓練され、修練が完了するとその目的のために三人はずっと戦い続けてきた。今の仙人界で実戦の場数を踏んだ数だけなら自分たちの右に出る者はいないと思っている。それほど日常的に戦い続けてきた。それほど日常的に殺め続けてきた。自分ほど手が血まみれな仙人は他にいないと思う。
郭は仙人界の脅威になるものを殺すために拾われ、育てられた。人狩りにあって村が焼かれ、たまたま生き延びた。あのままでは自分も妹も死ぬのを待つだけだった。そんな中たまたま郭には目をつけられるだけの才能があった。妹が不自由しないで過ごせる代わりに郭は自分の人生を原始天孫に売った。妹は人質のようなものだった。それでも拾い育ててくれた彼には感謝していた。父のように慕っていた時期もあった。その気持ちや自分が仙人界を守っているという自負もあって戦い続けていたところもある。でも、何回戦闘に身を投じても、何人殺しても、命を奪うことに慣れることはなかった。辛かった。どうしようもなく苦しかった。でも仲間がいた。同じ境遇で育ち過ごした友がいた。だから耐えられた。でももう彼らは隣にはいない。
磁生の妻が殺された時、郭達の道は違えてしまった。彼女が殺された理由はターチェだったから。ターチェとは地上の神と人の間に生まれた子供の末裔と言われている者達だった。不老長寿であり様々な能力を持っていた。中でもコーリャンと呼ばれる者はその力が強く、ターチェの中でさえ恐れられていたという。そんな彼らは郭達が生まれた頃にはほとんど滅びていた。残った者のほとんどは正気を失い鬼と化していた。鬼となった彼らは言葉も通じず、人を襲い、破壊を繰り返していた。だから郭達はターチェを殺してきた。数え切れないほど沢山葬ってきた。
でも彼女は危険な存在だっただろうか。今でも解らない。彼女は郭達が初めて出会った鬼と化していないターチェだった。彼女と会って初めてターチェという者がどんなものだったか知った。確かに自分たちはターチェを殺してきた。けれどそれは自我を失い鬼となった者だった。彼女は自我を保っていた。自分たちが仲間を殺してきたことにも理解を示してくれていた。はたから見て磁生と彼女は本当に想い合っていた様に見えた。あれが仲間の復讐のために自分たちに近づくための演技だったようには思えない。けれど彼女は殺された。仙人界の脅威として、弁解する余地もなく、逃げる間もなく殺された。彼女の殺された理由がターチェであったことだということだけは明確だった。自分たちが殺さなくてもターチェであるというだけで彼女は殺された。ただ郭に解ったことは、郭達が滅する対象は鬼ではなくターチェだったという事。そこをはき違えていた。考えが甘かった。だからあんなことが起きたのだと郭は思っている。
目の前で自分が仕える者に大切な妻を殺された磁生は心を壊してしまった。あれから幾百年とたつがあれ以来彼の姿を見ていない。そして堅仁も自分たちのしていることの意義を見失って去って行った。郭だけは一人それでも戦い続けていた。あれが正当であったかは別として、仙人界に悪意や害意を持っているものがいるのは確かで、それを排除することを誰かがしなくてはいけないのは明白だった。彼女の死一つでその大義を失うことはできなかった。そして限界が来た。一人では手が負えなくなった。そして封神計画という大掛かりな計画になってしまった。
女狐が妲己の身体を手に入れる前に仕留めていられれば、そう思うが、天上界で育った妖狐は強かった。その妹たちも強かった。疲弊した郭がどうにかできる相手ではなかった。二人がいてくれたら戦闘中何度そう思ったことか。そして相手にたいした傷も与えることができず郭は負けた。意識を失う寸前に郭はこれでようやく死ねると、そう思って心が軽くなったのを覚えている。目を覚ました時そんなことを考えた自分が情けなくて、悔しくて、自己嫌悪に陥った。
事が大きくなった今郭はお払い箱だった。あんなに戦闘に明け暮れた日々が嘘のように今は静かに時を過ごしている。逆に今までろくに戦ったことが無いような仙人や道士達が戦闘に明け暮れ散っていっている。不思議な気分だった。そんなことを考えて郭はふと思った。自分たち以外にも表向きには戦力外通告され封神計画に参加していないが実力のある仙道がほかにもいるかもしれない。そんな奴に力を借りられれば…。そこまで考えて、その考えを頭の中で否定した。面識のない仙道に簡単に事情は話せない。これは秘密裡に行わなければいけない案件だ。そう思って郭は悩んだ。
○ ○
「今、仙人界は大変なことになっているっていうのに、あなたって全く変わらないのね。」
淑英のその言葉に将勇は自分は何しろとか言われてないから別にいいだろと答えた。
将勇は自分が興味があることにしか本当に興味がないのだ。周りが何をしていようが、どんなことが起きていようが、本気で自分に関わりのないことのように思っている。だから仙人界全体を巻き込んでいるはずの大事件が起きていても全く動じていなかった。いつも通り自分の興味があるものだけに没頭していた。それでいいと心から思っていた。
「で、今は何を調べているの?」
将勇の部屋は足の踏み場もないほど本や書類で埋まっていた。かろうじて寝床だけ確保されている。将勇が何かを調べ始めると決まって部屋はこうなった。つまり今彼は何かに興味を持っている。彼の趣味は文献あさりと研究。遺跡探索や、古い術式や文献を紐解いていき再現や事実の究明に心血を注いでいる。彼が人間をやめて千年はかるく超えていたが、いまだに彼の好奇心は尽きることをしらなかった。それだけ歴史には謎が多かった。ただ今回の調べ物はいつもの趣味とは少し違った。
「なぁ、淑英。今回の封神計画変だと思わないか?」
将勇は淑英の問いには答えずこんなことを訊いた。淑英には全く意味は解らなかった。
将勇は答えを待たずに言葉を続けた。これは何のための計画だ?これほど大規模にするほどの問題だったのか?敵を倒すことが目的ならどうして修行中の道士が中心に派遣されてる?悪い奴の魂を封印することが目的ならなんで味方の魂まで封神台に入れられてる?そもそもあんな大規模な宝具をいったいいつから用意していた?将勇の疑問はどれももっともで、しかし淑英はどれに対しても明確な答えを示せなかった。
「淑英、気が付いていたか?封神台にはずいぶんと昔の魂まで入ってる。あの中には郭達が殺してきた奴らの魂も入ってる。そして山邊春李の魂も。」
将勇のその言葉に淑英は驚いた。山邊春李。磁生の妻だったターチェの女性。見た目は女性というより少女の様だった。小柄な体躯に色素の薄い長い髪と髪と同じ色の目をした、無邪気に笑う少女だった。淑英達も少なからず彼女と関わりがあった。だから彼女が殺された時のあの衝撃は忘れられない。
「郭にも教えるべきではないかしら?」
淑英のその問いに将勇は首を横に振った。
「今教えてどうなる?この事実が何を意味しているのかも全く解っていないというのに。もう少し調べてあれが何のためにいつ作られたものなのか、それがわかってからでいいだろ。」
多分郭達に深く関わっているものなのだ。今伝えるべきではないと将勇は思っていた。何も解らないうちに伝えても傷を広げるだけになりかねない。そう思っていた。
そう考えて将勇はふと自分を見つめている淑英に気が付いた。
「今回は自分の趣味じゃなくて郭達の為に調べものしてたのね。」
淑英のその言葉に将勇はそっぽを向いて答えた。
「気付いてしまった以上このままにしておくわけにはいかないだろ。」
ありがとう。そう言って淑英は将勇の頬を両手で挟んで自分の方を向かせた。
「珍しくあなたが格好良く見えるわ。」
ひどい言いようだと思う。でも嬉しそうに笑う淑英を見るのは嫌じゃなかった。
「でも正直手詰まりだ。あれを近くで見られたら何かわかるかもしれないが近づけないしな。ただあれが魂を封じるためだけのものではないってことだけは解ったが。」
将勇のその言葉に淑英はあることを思いついた。
「堅仁に協力させましょう。あいつなら近づけなくても調べられるでしょう?」
確かに索敵に特化して訓練を受けている堅仁なら可能かも知れないが、今の彼が快く協力してくれるとは将勇には思えなかった。そんな将勇の気持ちとは裏腹に淑英は、わたしが連れてくると言って出て行ってしまった。この所のその姿を見て、協力を「してもらう」のではなく本当に「させる」なんだろうなと思って将勇は苦笑した。
淑英は出会った頃から変わっていなかった。彼女は気が強く、強引で、本当は傷つきやすいことを将勇は良く知っていた。彼女は双子の兄のこともずっと気にかけていた。自分を追い詰めすぎて傷ついていく兄を見て彼女も同じように傷つき続けていた。それでもそんなそぶりを見せずに、目をそらさず自分を傷つけながら立ち続けていた。そんな不器用な彼女が将勇にはとても愛しかった。自分の趣味を追求するためだけに仙人になった将勇だったが、淑英のためなら自分の領分を譲ってもいい、そう思えた。だから自分に出来ることはしたいと思った。彼女の重荷を少しでもとることができたら。そう考えて、なんだか自分がおかしくなった。人間をやめた今の方がずっと人間らしいと思う。自分がこんなにも人を想うようになるとは思ってもいなかった。でも将勇はそれが嫌ではなかった。
思いにふけっていると来客が来た。淑英以外の客が来ることも珍しかったが、その客はさらに珍しかった。来客は郭だった。いつものことだが彼は難しそうな顔をしていた。彼がここを訪ねてきたことは今までなかったと思う。彼は基本周りと距離を置いていた。そんな彼が自分から訪ねてくるなんてどういうことなのだろうか。その意味を将勇は測りかねていた。ただタイミングがすごく悪いなとは思った。
郭の話は将勇にとって全く想像もつかないものだった。来ていきなり天帝を封じることはできないかとかいったいなんの話かと思った。詳しく話を聞いて納得はしたものの、将勇にはどうにもできないことのように思えた。
将勇は趣味の為に仙人になり趣味に没頭し続けてきた。趣味に関する事ならばなんだってできるがそれ以外のことは全くできなかった。封印や結界を解く・外すは得意だが逆は全くできないし。いくらでも歩き続けられるし、危険から身を隠したり逃げるのは得意だが、戦闘はからっきしだった。とても郭の求める能力は自分には期待できないと将勇は思った。しかし郭のあまりに切羽詰まった様子に、将勇は何か提案できることはないか考えてた。そして暫く考えて、一つ思いつくことがあった。
「仙人界最強の仙女を知ってるか?」
将勇のその言葉の意味が郭には解らなかった。
仙人界最強の仙女。それはかつて実在したという崑崙山脈の仙道なら誰でも知っている伝説だった。その強大過ぎる力ゆえに崑崙の奥深くの山にこもり、弟子もとらずいたという仙女。ある時三大老の一人、原始天孫と仲違いをし大暴れをして仙人界を滅ぼしかけ、見かねた他の大老達や崑崙十二太子達も応戦するも滅するには力及ばず封印するにとどまったという。今もこの崑崙山脈のどこかに封印されていると言われている伝説の仙女。その伝説の仙女が何なのだろうか。伝説は伝説。元になった仙女はいるのかもしれないが噂に尾びれが付いただけでそんな実力の仙女が実在するわけはないと郭は思っていた。
「彼女は実在している。仙号は清廉賢母。今の崑崙十二太子の多くと同じ時期に修練を積んだ第二世代の仙女だ。物騒な噂が有名な彼女だが、彼女が最も得意とした術は封印術だったらしい。噂がどこまで本当か解らないがうちの教主と大喧嘩して封印されたのは事実だし、仙人界指折りの実力者というのも事実だ。探し出して協力を仰いでみてもいいんじゃないか?教主と仲が悪いなら事情を知られたとしても売られるようなことはないだろう。力をかしてくれるとも限らないが。」
将勇の話を聞いて郭は賭けてみるのもいいかもしれないと思った。
「その仙女はどこにいるんだ?」
当然の疑問だった。でも将勇は知らなかった。知っているのは彼女が洞府を開いていた場所とそこに彼女の弟子がいるという事、そして彼女が今でも封印されているという事だけだった。
「じゃあとりあえず、その弟子に話を聞いてみるしかなさそうだな。案内してくれ。」
そう言って郭は将勇を連れ出した。この強引さは兄妹だなと思って将勇は苦笑した。郭と淑英は似ていないようで凄く似ている。そんなことを言ったら淑英は怒るだろうな。そう思って今度は自然と笑みがこぼれた。
○ ○
功は一人修練に励んでいた。師匠がいなくなっていったいどれだけの年が過ぎたのか覚えていない。でもいつ師匠が戻ってきてもいいように、彼は今でも師匠がいた時と同じように洞府を管理し修練を積み過ごしていた。
師匠。師匠からいただいた宝具を使いこなせるようになりましたよ。今なら僕はあなたの隣に立てるでしょうか。そんなことを考えて苦しくなった。目を閉じて師匠と出会った時のことを思い出す。あの時から自分は成長出来ているのだろうか。考えてみても功には解らなかった。
あの日は雨が降っていた。当時功は他の仙人の元で修練を積んでいた。しかし才能がないと叩き出され、破門され、途方に暮れていた。功は昇山して久しく、人間界へ帰ってももう家族はいないことは確かだった。また不老長寿の身体となったがろくに仙術も使うことができない。そんな自分は仙人界にも人間界にも受け入れてくれる場所などなく、自分の居場所などどこにもないと思っていた。才能がないなら最初からそう言ってくれれば諦めもついたのに。そんな思いも相まって雨の中傘もささず立っていた。ただ呆然と立ち尽くしていた。
そんな時、そんな彼に声を掛ける者があった。
「なんの修行かはわからないけど、そろそろやめないと倒れてしまうよ。」
そう言って手を差し伸べてくれた。それが師匠だった。
綺麗な娘だな。それが初めて師匠を見た時の印象だった。自分に手を差し伸べる彼女の姿があまりに幻想的で、功は夢でも見ているのではないかと思ったくらいだった。
「いく場所がないならうちへおいで。」
そうやって彼女は功を自分の洞府に連れていった。功は何も考えずただ言われるままに彼女についていった。そして暖かい湯に浸かり、暖かいお茶を飲んで。そんなことをしていると自然に言葉が出ていた。次から次へと言葉が出てきた。涙も出た。嗚咽にまみれ、それで、自分が仙人への道を諦めたくないそう思っていることに気が付いた。彼女はそんな功の話をただ聞いていた。ただじっと聞いて傍にいてくれた。そして功の話を聞き終わると、彼女はさも功の悩みなんて何事もないような調子で笑った。
「ならさ、わたしの弟子になればいいよ。弟子をとったことはないからちゃんとできるかは解らないけど、時間は沢山あるんだし二人で頑張っていこう。」
その時の彼女の笑顔を功は今でも覚えている。あの時からずっとこの人についていこうと思った。師匠から仙号を貰って独立してもいいと言われた後もずっとここにいたのは、彼女の傍を離れたくなかったからだと思う。
彼女は不思議な人だった。彼女が世間で最強の仙女と言われていることを功は知っていた。でも彼女には噂のような苛烈さはなく、いつも穏やかで優しかった。掴みどころがない人で、彼女が何を考えているのか功には解らなかった。ただ彼女の心はここじゃないどこかを求めているのではないか、そんな気はいつもしていた。師匠はどこかに帰りたがっている。功の目には彼女の姿はそんな風に映っていた。
いつも笑っている師匠が時々とても淋しそうに見えた。この世界に一人ぼっちになってしまったような、迷子になって途方に暮れてしまったような、そんな風に見えることがあった。だから傍にいたいと思った。この人を一人にしてはいけない、そう思った。ただ彼女の隣にいるのは自分ではないと思っていた。時々師匠を訪ねてくる道徳師兄。師匠の修練時代の兄弟子で、幼少期を一緒に過ごした人。功が知っている中で唯一師匠が心を開いている人物だった。彼が彼女の傍にいてくれれば大丈夫だとそう思っていた。そう信じていた。
師匠との生活はのんびりとしたものだった。彼女から仙術や薬学などを教わり、畑の世話や修行者がやるべきことを行い、たまに道徳師兄から武術を教わる。そんなことの繰り返しの日々が功にとっては幸せだった。師匠の様子が少しおかしいと思いはじめたのがいつのことだったのか功はおぼえていない。予兆はまず、普段仙術でも攻撃性の高いものや武術をあまり教えてくれなかった師匠が、それらを真剣に教えてくれるようになったことだった。当時は自分もやっとその段階に進むことができたのだと嬉しく思っていたが、今考えるとあの頃から彼女の様子はおかしかった。
師匠は相変らず穏やかで優しかった。けれど彼女の中に何か厳しいものを感じるようになり、遠くを見て何かを考えているようなことが増えていったのは事実だった。そんな変化に気づきながらも功は不安から目をそらし続けた。
「功君。よく頑張ったね。もうわたしが貴方に教えてあげられることは何もない。わたしの弟子はもう卒業だよ。」
そう言って自分に仙号を与えた時、師匠は何を思っていたのだろう。功には解らなかった。
お祝いだと言って渡された腕輪は餞別のように思えた。元々近くにいても遠く感じる人だったが、本当に遠くへ行ってしまうような、そんな気がして凄く胸騒ぎがしたのを功は覚えている。そしてその不安はある意味であたった。
ある日突然師匠は三大老襲撃の罪で無期限の謹慎処分。この崑崙山脈のどこかに封印された。いや予感はあったのかもしれない。でも当時の功はその予兆から目をそらし続けていた。目をそらしていればそのままでいられると思っていた。思おうとしていた。その結果何も解らないまま彼女は功の前から姿を消した。
三大老襲撃。師匠がそんなことをするなんて今でも信じられない。本当にそんなことをしたとしてもきっとそうせざるをえなかった理由があるに違いないと功は思っている。あの日師匠は原始天孫様に会いに行くと言って出ていった。師匠はとても切羽詰まった様子をしていた。その様子が気になって、功は彼女と親交が深かった道徳真君のところに行き助けを求めた。功の話を聞いて様子を見に行った道徳も大怪我をし、なぜか謹慎処分が下され暫く会うことができなくなった。謹慎処分明けの彼に功は話を聞きに行ったが何も教えてもらうことはできなかった。喧嘩になってしまい彼とはそれ以来になってしまった。
今考えると、立場上道徳師兄も話すことができなかったのだとわかる。彼でもどうにもできないことがあるのだということはわかる。ただ当時の功は彼なら何とかしてくれるのではないか、何とかできるのではないかと思って、何とかできるのに師匠を助けてくれなかった、そう思って怒っていた。自分の無力さを棚に上げ彼を罵った。彼は何も反論しなかった。自分に向けられた怒りを受け止め、静かに少し辛そうな顔をして功を見ていた。その時の彼の顔も功は忘れることができなかった。
道徳師兄はどうしているだろうか。功はふとそんなことを考えた。今仙人界は封神計画であわただしい。崑崙十二太子の一人である清虚道徳真君は渦中の人なのだとは知っている。噂で彼が紂王に宝剣を進呈し王宮に蔓延る魔をよけようとしたと聞いた。ただそれに弱った妲己が紂王を唆し宝剣を破壊し捨てさせた為、魔を祓うことはかなわなかったという。
道徳師兄は純粋な武術でだったら師匠を凌ぐ実力の持ち主だった。本人は幼いころから一緒に修練しているから動きに慣れているだけだと言っていたが、それでも功は師匠と渡り合える実力者は道徳以外知らなかった。師匠は有名で師匠と手合わせをしたいという者は多かった。それが嫌で師匠は山に幾重もの結界を張っていたが、稀にそれを超えてまで挑んでくる実力者もいた。その中には天才と名高い顕聖二郎真君もいたが、そんな彼でさえも師匠の実力を前に手も足も出なかった。功が師匠と互角以上に戦っている姿を見たことがあるのは道徳だけだった。そんな彼もいずれ戦場に赴き散っていくのだろうか。何故か功は封神計画の後仙人は誰一人残らないような気がして仕方がなかった。自分も道徳も、皆死んでしまう。そんな気持ちがして仕方がなかった。そんなことを言ったら師匠は笑うだろうか。この不安を笑い飛ばしてくれるだろうか。
もし師匠がここにいたら。そんなことを考えて功は苦笑した。僕はなにも変わっていない。今でも他力本願で師匠に頼ろうとしている。不安を不安のままにして何もしようとしていない。こんなんじゃいつまでも彼女の隣には立てない。師匠を失ったあの時、道徳と決別したあの時、功は思ったのだ。他の誰かではなくて自分が彼女の隣に立ちたいと。彼女の隣に立つために強くなりたいと。
山の結界が破られた感覚がした。あまりに久しぶりのその感覚に功は大いに驚いた。師匠はいない。師匠の名に恥じぬように自分がしっかりと対応しなくては。功は努めて冷静になるよう心掛けた。焦ってはいけない。感情に飲まれてはいけない。師匠からの教えを反芻し、心を落ち着かせる。
相手は二人。両方男。殺気は感じない。しかし一人はかなりの手練れで血の匂いが染みついている。油断はできない。こんな時師匠なら。そう考えて、功は一つ息をついた。
「こんなところにお客さんなんて珍しいですね。」
功はあえて二人の前に姿を現した。二人はとても驚いた様子だった。名前を名乗って家の中に案内する。二人に背中を向けるのは怖かったが、背中から二人が戸惑っている様子が伝わってきてほっとした。その様子からどうやら挑戦者ではないらしい。そもそも師匠がいなくなって久しくそんな者はいなかった。もう師匠のことを覚えている者も少ないのかもしれない。そう考えて功は少し寂しく思った。
二人の話を聞いて功は驚いた。今しがた師匠のことを覚えている者は少ないと思ったばかりだというのに。その数少ない人とは師匠と親交があった者だけだと思っていたのに。まさか師匠を知って頼ってくる人がいるとは思っていなかったからだ。二人は師匠と面識はない様子だったが、それでも師匠は今でも頼りにされる存在であるということが弟子として誇らしくも思えた。だから功は自分の知っている全てを二人に話しこう言った。
「師匠を探したいのでしたら道徳師兄なら何かを知っているかもしれません。それと師匠には及びませんが、師匠からは仙号を頂いている身。僕でも役に立てるかもしれません。師匠の名に恥じない働きは出来ると思います。」
功の言葉を聞いて二人は考えている様子だった。そして男の一人が口を開いた。
「それだけの気概があってなんでお前は封神計画に参加しない?最強の仙女の弟子で実力も申し分ないなら参加しない意味が解らない。」
まっとうな疑問だと思った。功は今まで参加しようと思ったことはなかった。かつて尊敬していた道徳師兄が関わっていても、彼がどうしているかと思うことはあっても助けに行こうとは思わなかった。どうしてそう思わなかったのか功は自分でもよく解らなかった。
「多分。信用されていないんだと思います。なんていったって原始天孫様を殺しかけた仙女の弟子ですから。僕が前線にいたら敵に集中できないでしょ?」
適当なことを言ってつくろってみる。
「逆に武勲を上げて師匠の汚名返上をして謹慎を解かせようとか考えないのか?」
そう返されたがそれに対する答えは明確だった。それを師匠は良しとしないから。功は自分でも驚くぐらいはっきりと答えていた。
「僕が戦場で武勲を上げて師匠を助けたとしても、師匠は喜ばないと思うんです。師匠は諍いが嫌いで優しい人でしたから。僕が僕自身の為に戦うならともかく、師匠の為に手を汚したと知られたらきっと怒ると思います。師匠に誇れない自分にはなりたくありません。」
その言葉を聞いて男は考え込んだ。しばらくして口を開いた。
「もし協力が必要ならまた頼みに来る。」
そう言って男たちは去って行った。よく考えてみるととても失礼な人達だったと思う。でも功は嫌な気はしなかった。
○ ○
郭達が清廉賢母の洞府を訪れている頃、淑英は堅仁のもとに来ていた。
「お久しぶりですね、淑英。」
そう言って微笑んだ顔は昔と変わらないと淑英は思った。一見すると女性のように見える、つややかな長い髪に整った顔立ちをしている青年。その柔らかな声音や物腰からはこの人物が幼いころから殺しを生業に生きてきたとは誰も想像が出来ないだろう。
「郭は元気ですか?」
そう言う表情に少し陰りが見えるのは気のせいではないと思う。郭と離れた事情を考えれば本当は淑英にも会いたくはないだろう。そうは解っていたが淑英にはそんな事情は関係なかった。堅仁の力が必要。だからここに来た。しかし堅仁は淑英が自分の所へ来た事情を違うものと思っている様子だった。
「郭は真面目だから、あんなことがあった後もずっと一人で頑張っていたのでしょうね。郭一人に全てを背負わせて一人逃げたことを今更責めにでも来ましたか?」
そういう彼の顔はやつれていた。
「私はもう耐えられなかった。春李があんなことになって磁生が抜けて。自分たちがさせられていることをおかしいと思いつつも責任感で戦い続ける郭を見ているのにも耐えられなかった。正直、私はさっさと限界がきて彼が動けなくなることを望んでいました。そうすればもう苦しまなくて済む。そう思っていました。だからついに限界が来たのだと思って、少しほっとしました。でもそんな気持ちになる自分が嫌で嫌でたまりません。」
封神計画が始まったことでついに郭に限界が来たのだと悟ったのだと堅仁は言った。そう言って頭を抱え込む彼もまだ苦しんでいるのだと、淑英には痛いほど伝わってきた。仲間を見捨てた。彼はそう思ってずっと自分を責めているのだ。
「堅仁。あなたは今でも郭の友達だと思ってもいいのかしら。」
そんな彼を見て淑英から出たのはそんな言葉だった。それを聞いて堅仁は力なく笑った。
「郭はそう思ってくれるでしょうか。彼を一人置き去りにした裏切者なのに。」
パンッと乾いた音がした。淑英が堅仁の頬をはっていた。気がついたら身体が動いていた。
「何もしてないのに男がうじうじと幾百年もみっともない。あんたは今でも郭が大事なのかきいてるの。友達でいたいならそのように行動すればいいでしょう。一回でもあんたは郭に自分の気持ちをぶつけたの?わたしはいつもぶつけてるわ。あいつは頑固だから、わたしの話なんてちっとも聞かない。でもわたしは逃げなかった。確かに見てるのは辛かった。だけど逃げなかった。だって兄妹だもん。春麗だって同じ。逃げなかった。ずっと郭の傍にいたの。頼られなくても、何もできなくても、傍にいたのよ。」
まくし立てて淑英は涙が出てきた。そうだわたしだって辛かった。ここに来た時からあいつは自分だけでなんでも背負って、わたしには汚れ仕事をさせないように計らって。いつだって兄貴ぶって。双子なのに。わたしにだって才能はあったのに。
淑英は春麗と出会った頃のことを思い出した。春麗は天帝の娘だけあって強大な力を持っていた。だから仙人界に来て久しく春麗は霊布に囲われた結界の中に閉じ込められていた。誰も近づけない天上界のお姫様。そんな彼女と郭は結界越しに交流を深めていった。他の人から何を言われても郭は春麗のところに足しげく通っていた。春麗と一緒にいる時の郭は安らいで見えた。仙人界に来てから郭のそんな顔を淑英は見たことが無かった。仙人界にきてからずっと郭は張り詰めていていつか壊れてしまうのではないかと不安だった。だからその姿を見て淑英は安堵した。郭には春麗が必要だ。そう思って将勇に頼み込み、二人で結界を破壊してひどく怒られた。あんなことをしたのは若かったからだと思う。だけどそうして良かったと思っている。春麗のおかげで郭は彼のままでいることができる。だから春麗には感謝している。
「力を貸して堅仁。あなたの力が必要なの。郭を見捨てたこと後悔してるなら今が立ち上がる時よ。わたしに力をかしなさい。」
淑英は力強くそう言って堅仁に手を差し伸べた。堅仁ははっとした顔をしてそれから、淑英の手を握り返した。
「決まりね。」
そう言って笑うと淑英はここに来た経緯を堅仁に話した。淑英の話を聞いて堅仁の顔色が青くなった。
「さすがに封神台を対象に術式を使ったらバレますよ。いったいあそこがどれだけ厳重に警備されてると思ってるんですか。」
焦る堅仁をしり目に淑英は男なら一度やるっていたからにはちゃんと役目をはたしなさい、と言って、堅仁を引っ張っていった。淑英が抵抗する堅仁を締め上げて引きずって将勇の家に戻ると誰もいなかった。いったい将勇はどこに行ったのだろうか。
「ちょっと堅仁。将勇がどこに行ったのか探しなさい。」
その言葉に堅仁は否応なく術式を発動させた。術式で広げられた水面鏡には将勇と一緒に郭が映し出されていた。なんであの二人が一緒にいるのだろうか。淑英には解らなかった。将勇はまだ郭に話すべきではないと言っていた。なら郭が将勇を連れ出した?何のために?それは考えても解らないことだった。
「二人とも変なところにいますね。崑崙山脈でも最深部。普段誰も近づかないようなところにいますよ。」
二人の口の動きから読み取るに、最強の仙女がどうとか、何かあったら力技で押し切るとか、なんだか物騒な会話をしている。それを見て堅仁は何かを考え込んでいた。
「二人がいる場所は清廉賢母の洞府がある場所ですね。」
「清廉賢母?」
「淑英も知っているでしょう。仙人界最強の仙女。その伝説の元となった仙女です。この崑崙山脈内のどこに誰の洞府があって誰がいるのか、私修行時代に訓練の一環として全部割り出しましたから間違いないです。確かここには彼女の弟子が一人で住んでいたと思うのですが、何の用事なのでしょう?」
そう聞かれても淑英にも解らなかった。
「弟子が一人で住んでるって肝心の師匠はどこにいるの?」
「伝説の通り封印されていますよ。」
そういうと堅仁は水面鏡に崑崙山脈全体の図を映し出した。
「確かこの辺りですね。これは修練の一環として言い使ったことではなかったのですが、自分の力がど こまでなのか試したくて、結界や封印の中のものの索敵も試したことがあるんです。結界が張ってあるところを見つけ出すのは簡単だったのですが、その中身まではやはり難しかったですね。その中でもここの封印は別格でした。結界の中に更に封印が施されていて、その封印も幾重にも重なっていて、結局人が入っているようだと言うことまでしか確認できませんでした。しかし懲罰房などを除いて人が入っている封印はここだけでしたから、ここに彼女がいるのだと思います。」
さも何でもないことのようにそういう堅仁に淑英は感心した。やはりこの男も優秀なのだ。封神台の下見ぐらい訳なくこなせるのではないか、淑英はそう思った。
「じゃあその調子で封神台も見てみましょうよ。」
そういう淑英に堅仁はたじろいだ。
「今見ても解る人がいないのですから、せめて将勇が帰ってくるのを待ちませんか?」
そうやってなだめるのが精いっぱいだった。そうこうやりとりをしている間に将勇達が帰ってきた。
「将勇。わたしが堅仁連れてきてる間にどこに行ってたわけ?しかも郭つれて。」
堅仁とのイライラを淑英は将勇にぶつけた。将勇はそれをのらりくらりとかわしながら経緯を話した。かわされて更にむくれる淑英の姿がかわいくて、将勇は頬が緩んだ。
「その顔、すごく腹が立つわ。」
そう言って怒る淑英を見て郭はため息をついた。この妹をかわいいと思えるのも手懐けられるのも将勇だけだと思う。わざと怒らせて遊んでいる様にも見えるが何が楽しいのか郭には解らなかった。気が付いたときにはこの二人はこんな仲だったが、いったいいつ何処で出会ってこうなったのか郭は知らなかった。ただ初めて将勇と淑英が一緒にいるのを見た時、妹が自然体でいて彼には素直に甘えている姿を見てとても安心したのを覚えている。
「とりあえず俺んちこんなんだから場所かえない?春麗も置いたままだろ?」
将勇のその言葉で、一同は郭の家に移動することにした。
郭の家では春麗は眠っていた。鎮静剤が聞いているのもあるが張り詰めて続けていた疲れが出たのだろう。郭が抱えて寝室へ連れて行こうとすると春麗は目を覚ました。
「ごめんなさい。わたし気がついたら眠ってしまっていて。」
郭に抱えられているのに気が付いて春麗は顔を赤くした。周りに皆がいることを知って、春麗は更に恥ずかしそうして慌てて郭から離れると台所へ消えて行った。
居間で落ち着いてから春麗に郭が今までの話をし、時折そこに将勇や淑英が補足を入れて情報共有を行った。
「そういえば将勇。さっき最強の仙女の話してなかった?」
淑英のその言葉に将勇はうなずいた。
「あなた達が戻ってくる前にたまたまその話になって、堅仁にその仙女の居場所教えてもらったのよ。」
そう言って淑英は堅仁に再び崑崙の見取り図を出させた。もう諦めた様子で堅仁は淑英に言われるがままに言うことを聞いていた。先程とは違いもっと詳細に結界の場所や、結界を映していく。これだけの術式を使用するのは久しぶりであったが、苦なくその中の封印まで映すことができた。封印の中心に人影が見える。更に奥を映そうとしてやはり超えることができなかった。
「修練時代より腕を上げたつもりでしたが、結局昔と同じところまでしか映せませんでしたね。この封印をかけた人物はよほどの熟練者なのでしょう。」
堅仁のその言葉に将勇は充分だと答えた。
「この形式の術式なら俺で充分解ける。ただこの封印少し厄介なのが、中の人物を封印しているだけではなくその人物の力を外に流すように細工がしてあることだ。解除の仕方を間違えるとこいつの力が一気に吸い出されて、下手したら中のこいつは死ぬことになるな。」
言葉の重さとは裏腹に将勇は楽しそうな顔をしていた。
「どうしてそんな細工がしてあるのでしょうか?」
堅仁の問いに将勇は、ここにいる奴がそれだけ強いってことだろうと答えた。ただ封印するには力が強すぎるから封印できる程度に力を抑えるためにこのような処置がされているのだという。しかし封印自体厳重でここまでの封印を掛けられて内側から壊せるような者などいるとは思えないとも、将勇は言った。
「こりゃ、本当にここに最強の仙女がいるのかもな。もしもここまでしなくちゃ封じれないような奴だったらその仙女、伝説通り三大老が束になっても敵わないのもうなずける実力者だぞ。」
将勇のその言葉にその場にいる全員が息をのんだ。味方なら頼もしい。でもそんな実力者がもし敵だったら、そう考えると寒気がした。
その日はみんな休むことにし、翌日全員で清廉賢母が封印されていると思われる場所に行くことにした。
その夜、春麗は眠れなかった。
「ちゃんと休まないと身体が持たないぞ。」
そう言う郭に春麗は微笑んだ。
「解ってる。だけどね、なんだか胸騒ぎがするの。堅仁が映した虚像から彼女の気配を感じ取ることができたわ。あれは本当に仙女なのかしら。わたしにはあれは…。」
そこまで話して春麗は黙ってしまった。虚像から気配を察することなど出来るのだろうか?郭には解らなかった。しかし堅仁も危惧していた様に、術式を通してでも相手の気配や情報を得ることができる者もいるのは事実だった。春麗ほどの実力者ならそれも可能なのかもしれない。そう思って春麗の言葉を否定せず、郭は震える彼女の背中を優しく撫でた。
「あの人は、あそこに封じられているのは、ターチェ。それもコーリャンだと思う。あの山邊春李と同じ神の力を受け継いだ御子。」
春麗の絞りだしたその言葉に郭は衝撃を受けた。それが事実なら何故この崑崙にターチェがいるのか。何故に殺されず封じられているのか、意味が解らなかった。それと同じくらいどうして春麗がそのことに怯えているのか解らなかった。
そんな郭の疑問を感じ取ったのか春麗は口を開いた。
「郭、わたしの話をきいてくれる?」
そう言う春麗の目は真剣だった。だから郭は何もきかずにうなずいた。何を聞いても受け止める覚悟はできていた。天帝と戦うことを決めた時から全てを覚悟をしていた。春麗の力になれなくても傍にいようと。たとえ己が死ぬこととなっても彼女の傍にいて、彼女の全てを受け止めようと。だから何を聞いても動じないつもりでいた。
「わたしが仙人界に来ることになった時、お父様から聞かされた話があるの。」
そう言って春麗は話し始めた。
それは地上と天上の神にまつわる神話。そしてそれに関わる歴史だった。
かつて世界は大いなる神の元治められていた。大いなる神はある日旅に出ると言い、天上の神に天上を統べる術を、地上の神に地上を統べる術を与えて世界から去って行った。その後天上の神はかつて大いなる神がそうしたように自分も旅に出ようと思い立ち、神の元で天上を守っていた三賢人に天上を統べる術を譲渡し、天上から去って行った。その三賢人が三帝となりその後天上界を治めることとなった。一方地上の神は人と交じりあい子をなした。そして自分の子供たちに地上を統べる術を譲渡したと言う。しかし地上の神、最愛の妻を失った悲しみから気が狂い、自分の子らの手で末娘と共に封印されたという。残った兄弟たちは離れ離れになり、そして自分の子孫に殺された。その地上の神の子孫がターチェであり、その後ターチェの中に生まれた最初の兄弟と同じ力を持つ子等は忌み子として七歳になると殺される風習ができ、最初の兄弟が継いだ能力が発現することは無くなった。それが父を封じた子供たちに与えられた罰だった。ここまでが神話。そして神話のその後の話。
でもこの話には裏がある。それが事実として春麗が父から聞かされた話だった。神話にも出てくるようにかつて天上界は三人の皇帝によって治められていた。春麗の父と伏犠、そして女媧の三人。三人はそれぞれの役割を果たし平和にそして平穏に天上界を治めていた。地上とは違い天上界の時間はゆったりとしていて代わり映えのしないものだった。その分時折訪れる災害は恐ろしいもので、それを予知し、備え、退ける、それが三帝の主な役割だった。
女媧は地上を眺めるのが好きだったという。暇さえあれば地上を覗き、地上に思いを馳せていたという。そんな彼女が地上に降りてみたいと言った時、父と伏犠は反対した。天上の神から与えられた役割を放棄し地上に降りるなど許されないことだった。女媧はその時は諦めたが、結局諦めきれず二人の目を盗んで地上に降りてしまったという。そして彼女は地上が欲しくなってしまった。
女媧は地上を手に入れるため、まず地上の神を狂わせた。神ではない彼女が本物の神から地上を奪うなどできはしない。だから生贄など欲していない神の元に生贄の娘を送り、神と娘の間にできた子らに地上を統べる術を継がせるように画策した。全ては子供たちから能力を奪うために。あと少しで力を手に入れるというところで彼女の計画は失敗した。何故なら彼女を追って地上に降りた伏犠に封印されてしまったからだ。
女媧と伏犠は兄妹だった。妹の様子を気にかけていた伏犠は、いつかはこのようなことになるのではと危惧をしていたという。女媧がいなくなった時、彼は父に天上を任せ彼女を追った。妹の凶行を止めるのは兄である自分の役目だと言っていたという。激戦の末女媧を封じた伏犠だったが、その彼もまた行方知れずになってしまった。それ以来天上界は一人の天帝によって治められている。
伏犠に封印されたはずの女媧がまた動き始めたのは数千年前のこと。彼女は人間に力を与えターチェを滅ぼそうとした。そしてターチェの国は滅びることとなった。その時力を与えられた人間が最初の仙人。春麗の父は天上界を治める者として、天上界の者が犯した罪を憂い償うために仙人界と同盟を結んだ。女媧の道具として人ならざるものとなってしまった人間への罪滅ぼしと、まだ女媧とつながっているかもしれない仙人達に目を光らせるための同盟だった。その後も仙人界に女媧の影はちらつくもしっぽを掴むことはかなわなかった。また天帝は天上界を離れるわけにもいかなかった。だからこの話を娘にし、天上界の者による凶行を阻止することを娘に託した。
「あの時あなた達にこの話をしていればよかったと何度後悔したかわからない。」
春麗のその言葉が春李が殺された時のことを言っていることが郭には解った。
「わたしが話していれば春李は殺されることもなかったかもしれない。最低でもあんなことにはならなかった。」
そういう春麗の顔は苦痛に満ちていた。
「あの時はわたしが女媧の行方を追っていることを知られたくなかった。教主の信頼も勝ち得、自由に行動する権利も得たけれど、まだ監視が厳しかった。わたしが何かを知っているとは気づかれるわけにはいかなかった。」
今となってはそんな努力は無駄だったのに。それならば話してしまっていればよかった。そう吐き出す春麗は涙をこらえていた。泣かぬまいとしているようだった。誰も未来がどうなるかなど解りはしない。こうなるなどとあの時に解っていた者はいないだろう。それでも春麗は自分を責めずにはいられなかった。もしあそこに封印されている者が本当にターチェだったとして、どんな顔をして会えばいいのか解らなかった。天上界が彼らにしてしまったことをどうやって償えばいいのか解らなかった。とてもお願いなんてできない。自分たちの敵を救ってくれ等、とうてい頼むことはできない。それにもし怒っていたら。そう考えると身体の震えが止まらなかった。
「それはお前が背負うべきことじゃないんじゃないか?」
郭のその言葉に春麗はハッとした。
「色々ありすぎて疲れてるんだろ。ちゃんと休んで、今自分が何をすべきなのか、なにをしたいのか、ゆっくり考えろよ。」
そう言って郭は春麗の頭を撫でた。
「俺はお前がどんな選択をしてもついていく。もしあの中の人がお前を許せないってお前を殺そうとするのならその時は俺は戦うし、もしお前がそれを受け入れて死のうっていうならその時は俺も一緒に死ぬからさ。」
一人で抱え込むなよ。そう言って郭は春麗の額にそっと口づけをした。
気が付くと春麗の身体の震えは治まっていた。
「郭。ありがとう。」
そう言って笑う春麗を見て郭はきれいだと思った。春麗が何か覚悟を決めたことをその目を見て郭は確信した。
○ ○
少年は夜空を見上げていた。どれだけ星をなぞっても未来を占うことができなかった。せめて自分がこれから行おうとしていることの吉凶だけでも解ればと思ったが、それさえも見て取ることはできなかった。未来が定まっていないということは自分にも勝ち目はあるのだと思う。しかしそんな思いとは裏腹に少年の胸はざわめき嫌な予感がして仕方がなかった。
あと少し。あと少しで全てが終わる。ずっとこの時を待っていた。あれが表に現れる時をずっと待っていた。あれを倒すためだけに今まで修練を積み力を蓄えてきた。あれさえ倒せれば、そうすれば。
少年は頭の中で友の顔を描いた。彼女はかつて少年にとってたった一人の友達だった。ずっと昔に裏切ってしまったたった一人のとても大切な友達。その償いをする時が来た。
「沙依。」
少年は友の名を呼んだ。僕にはもうこれくらいしか君に償える術はないんだ。だから絶対やり遂げてみせるからね。少年は心の中で呟いた。
自分が人間だった時の名前を少年はもう覚えていない。この大陸に沙依を連れて逃げてきたとき名前は捨ててしまった。呼ばれなくなったとはいえ自分の名前さえを忘れてしまうくらい長く、少年は生きてきた。外見と実年齢が同じだったころに人間をやめた。いや、やめさせられた。術で外見を変えることはできるが疲れるし面倒なので普段はしない。人前に出る時だけ老人の姿をするようにしていた。
十歳前後の子供の姿というのは厄介だ。世間では子供は軽んじられる。外見なんて本当にどうでもよいものなのに。長く生きてきたその中で少年にとってその外見は重荷でしかなかった。特に術で姿が変えられなかった頃は大変だった。彼女を守るために逃げた先で最初に覚えたのは容姿を変化させる術だった。生活していくうえでそれが一番必要な術だった。少年もその友である沙依もこの大陸の者ではなかった。海を渡った先にある別のところから逃げてきた。あの時は海の向こう側でも自分たちがいたところと同じことが起こっているなんて想像すらしていなかった。ただ遠くへ、ターチェを知らない土地へ逃げることだけを考えていた。結局逃げ切ることはできなかったが。
少年は昔のことを思い出していた。大きな戦いを前に自分が緊張しているのが解る。振り返っても少年は今まで何かをなしえられたことはなかった。何かをしようとして全て失敗してきた。そんな経験が彼の不安を駆り立てているのは言うまでもなかった。でも今回は、今回だけは失敗するわけにはいかなかった。全ては裏切ってしまった友のために。彼女の自由を取り戻すために。
少年が彼女と出会ったのはまだ少年が人間で、外見と実際の年が同じくらいの子供だった頃だった。当時の彼は、やろうと思えばなんできると思い込んでいたただの無知で無力な普通の子供だったと、彼自身は思っている。その浅はかさが、無力さが、友を貶めることになったのだと彼は今でも思っている。
少年は物心ついた時には読み書きができ、少し教わるとすぐなんでもできたため、村では神童と呼ばれていた。子供だった彼はそうやって畏敬をもって接せられることが窮屈で仕方がなかった。幸い自分のすることに誰も文句を言わなかったので静かな山の中に一人で来ることが多くなり、いい場所を見つけた。そこは静かで開けていて木陰も多く日差しの強い日でも涼しく、一日を過ごすにはとてもいい場所だった。そしておのずとそこで書物を読んで過ごすことが日課となった。そんな頃の事だった。
「毎日こんなところまできて神隠しにあっても知らないよ。」
そう声を掛けてきたのが沙依だった。
吸い込まれるような黒い瞳。その瞳で見つめられると少年は全てを見透かされているような気持になった。年のころは少年より少し上の様に思えた。村にはいない。艶やかな黒い髪の綺麗な娘だった。少年にはそんな彼女の姿が山の神様のように見えた。だから聞いた。
「僕の事、連れていくの?」
それをきいて彼女は笑った。
「連れてかないよ。本来山で迷わないように無事に返すことがお仕事だし。それが君たちとの約束だからね。」
毎日こんな山奥まで来ているから気になったのだと、彼女は言った。最初は迷子なのかと思ったがこの場所を見つけて居付いてしまったから、興味をもったという事だった。
「それに居座られると迷惑なんだよ。子供が山に魅入られ戻ってこなくなった。そんなはなしになったらわたし達が怒られちゃう。」
そう言う姿はそこまで深刻そうには見えなかった。
「大丈夫だよ。僕は変な子だから、お姉さんが怒られるような事ないよ。みんな僕がすることには何も言わないから。」
神隠しにあえるなら連れて行ってくれた方がいい。そんなことを言うと彼女は悲しそうな顔をして彼の頭を撫でた。それが出会いだった。
その日から彼女は度々少年の前に姿を現し、二人は沢山の話をした。彼女は物知りで、少年に沢山の知識を教えた。そんな彼女と過ごす時間はとても楽しかった。こんなに楽しいと思ったことは生まれて初めてだった。少年にとって彼女は初めて対等に話ができる相手だった。初めてできた友達だった。だから彼女が人間でないことは解っていたが、それはどうでもよいことだと思っていた。ただ他の人間がそうではないことを解っていたので、村では彼女のことは話さなかった。いつも通り静かな山の中で一人で勉強しているだけ。そういうことにしておいた。誰もそれに疑問は持たなかった。少年は村では孤立していたから。
あれはいつのことだったろうか。村に不穏な噂が流れ始めた。山神様は本当は邪神なのだと、疫病が流行ったのも、日照りが続いたことがあったのも、全部が山神様の仕業なのだと。山神様は人間が嫌いなのだと。そんな噂がまことしやかにささやかれ始めた。
その噂のせいで少年は山に行くこともできなくなり、内心憤りを感じた。人間は弱い生き物だから、と悲しそうに言った彼女の姿が思い出されて、辛くなった。時間が経つと噂は更に尾ひれをつけ、ついには山神様が人間を滅ぼそうとしている、どうにかして山神様を倒さなければ全員殺されてしまう。そんな話に変わっていた。周りの大人たちの異様な雰囲気に少年は何も言えずにいた。何とも言い難い不安と恐怖だけが彼に付きまとっていた。
ある日少年は村長に呼ばれ集会所へ連れてかれた。そこには何人か人がいて、どの人物も厳めしく、屈強な大人たちだった。そんな中で彼だけが子供だった。彼には何故自分が呼ばれたのか全く理解できなかった。ただ、悪いことが起こる、そんな予感が全身を固く強張らせて動けなかった。
あの時何が起きたのか少年には今でも解らない。ただ、何かをされた。それだけは確かだった。
「神と戦うに足る力を与えよう。」
集会所に現れた何かがそう言った。そして少年は力を得ていた。それと同時に沙依達ターチェが使っている術の原理もその方法も理解できた。自分にもそれができる。そういう確信が生まれた。そしてとても怖くなった。周りの大人たちはこれで山神を倒せると熱狂し、集会所は更に異様な熱気に包まれていた。少年は一人その状況についていけなかった。
そんな少年の前にそれは姿を現した。
「お前は見込みがある。」
そう言うそれは美しい女性だった。
「お前は他の者とは違う。いずれその力を使いこなし更なる境地にたどり着くだろう。しかしそれをなすには人の命は短い。本来戦果への褒美だが、特別に今お前を不老長寿の身体にしてやろう。」
少年は嫌だと言いたかったが、何も話すことはできなかった。何もできない間に自分が人間ではなくなったことだけは理解することが出た。
絶対的な威圧感。その時の恐怖。あの時のあの感覚を少年は今でも覚えている。
「幼く賢しき者よ。いずれお前が我のものとなる時が楽しみだ。せいぜい我に与えられた力であがくがいい。」
そう言い残してそれは消えた。他の者には見えていないようだった。
それからの展開は早かった。次々にターチェの国は見つけられ滅ぼされていった。少年はひたすらどうにか戦闘を回避できないかを模索していた。周りからは力を与えられたのに責務を果たさない不届き者と言われるか、まだ子供なのだから仕方がないと言われるかのどちらかだった。
人間の圧勝かに思われた戦いも、徐々に苦戦を強いられ最初の勢いは消えていった。最初はただ、ターチェたちは人間が人間でない力を使うことに戸惑っていただけで、慣れてしまえば戦いなれをしている彼らの方が上だった。力を与えられた者達の数も減り、士気も下がっていた。少年はこれでこの狂った戦いも終わるかと思ったが、狂気に走った人間たちは止めることができなかった。やみくもに攻めていくその姿は異様だった。皆本気で彼らを滅ぼさなければ自分たちは皆殺しだと思っていた。ターチェたちは一度だって自分たちから攻撃を仕掛けてきたことはないというのに。
そんな時、少年が開発した腕輪が見つかってしまった。それはターチェの力を封印する効力をもった腕輪だった。戦いが始まった当初、彼らが自分たちと同じになってしまえばいいのではないかと考え作ったものだった。試作品が完成したころには戦いが激戦化しており、そんなものを表には出すことが出来ない状況になっていた。戦いに参加しない少年に腹を立て、家に乗り込んできた大人たちにそれが見つかってしまった。そしてそれが複製され戦争の道具として使われてしまった。
また人間たちの勢いが増した。そして少年は功労者として称賛された。まさに悪夢だった。友を助けようと思って研究した結果が、彼女を、彼女の仲間を殺す道具になってしまった。そして自分はその先頭に立っていた。彼らを殺しているのは自分だった。耐えられなかった。どうすればいいのか解らなかった。気が付くと少年はただ走っていた。ただ叫んでいた。そしていつも沙依と話していたあの場所へ来ていた。そこには男がいた。
「殺されに来たのか?」
男は静かにそう言った。
「今がどんな状況か解っているのか?お前は死にに来たのか。」
赤茶色の髪にそれを少し薄くしたような色の瞳。彼はターチェだった。そして彼は全てを解っている様子だった。少年は何も言えず、ただしゃくりあげていた。
「お前はもう人間じゃないな。ここはターチェの国でも一番危険な場所だ。血の気の多い奴も多い。いくら子供でも元凶になった力を持つものを見逃せるほどの余裕は誰にもない。」
男は無表情に少年を見下ろして言った。
「じゃあどうして殺さないの?」
少年には解らなかった。
「お前が沙依の友達だから。あいつは今動けない。他の奴らにお前が見つかる前に俺が来た。お前と戦うことになることも、お前が死ぬこともあいつは望んでない。逃げて違う場所で人生をやり直せ。そしてここで起きたことは忘れろ。」
男の言葉に少年は涙が溢れてきた。
「僕は、僕が、とんでもないことをしてしまった。」
こんなことになったのは自分のせいだ。殺されたってかまわない。自分一人逃げるなんてできない。そう思ったが、それは言葉にならなかった。
「僕はただ、皆が一緒にいられるようにしたかっただけなんだ。」
言い訳だと思う。でも、少年の口から出てきたのはそんな言葉だった。
「解ってる。沙依もそれは解ってる。賢しくてもお前はまだ子供だ。足りないことも多いだろう。ただ年のわりに人より出来ることが多すぎた。それだけのことだ。辛いなら記憶を消してやってもいい。お前が生きて幸せになることを沙依も望んでる。」
男のその言葉に少年は首を横に振った。そして男に腕輪を渡した。
「これは出回ってる腕輪より効果が強力なものです。沙依の見た目は人間と変わらない。だからターチェの気配を完全に消してしまえば、彼女だけなら逃げられる。だから…。」
言葉が続かなかった。何といえばいいのか解らなかった。男は腕輪を受け取ると悲しそうに笑った。
「あいつは一人逃げることは望まないだろうな。」
少年にもそれは解っていた。それでも彼女に生きてほしかった。一緒に逃げてほしかった。唯一の大切な友達。裏切ってしまった大切な人。
最後となった彼女のいる国、龍籠との戦いは、今までと比べ物にならないほど激しいものだった。彼らは戦いに力を使わなかった。こちらが封じていたからではない。彼らがあえて使わなかった。どうしてそうしたのか解らない。ただ彼らには彼らの誇りがあるのだと、それだけは理解できた。
龍籠はコーリャンの受け入れをしていたため、同じターチェ同志からも狙われ続け、戦争が絶えなかったと沙依は話していた。同胞にも狙われ続け、人間からも裏切られ、そして滅びた彼らは、いったいどんな気持ちだったのだろう。後に生き延びた彼らの大半が鬼になったことから、どうしようもないくらい人間に怒り、憎しみ、恨んだことだけは間違いないだろう。
戦争が終わった時、少年の目の前には地獄絵図があった。ターチェも人間も関係なく、そこらかしこは死体の山だった。自分がしてしまったことの結果がそれだった。その光景を受け入れることを心が拒否をしていた。ただただ途方に暮れ、呆然とそれを眺めていた。立っていたのか、座っていたのか、それとも歩き回っていたのか、少年は覚えていない。ただ、ほんとうにだた呆然と、自分の罪を眺めていた。その視界の先で少年は彼女を見つけた。瀕死状態ではあったが彼女は生きていた。彼女の腕には自分が作った腕輪がはめられていた。あの時に会った男が彼女に渡してくれたのだとわかった。本当のことを言ったなら彼女はきっと腕輪をはめたりしなかっただろう。だけどあの男が上手く彼女にはめさせたに違いないと思った。彼の彼女を守ろうとした思いが伝わって少年は彼女を守ることを固く決心した。
そして少年は海を渡った。その先で自分たちがいたところと同じことが起こっていたことも知らず。ただひたすらに逃げた。そして渡った海の向こうで絶望した。彼女がターチェであることを隠さなければいけない。そう思って必死だった。悪いと思いつつ術で彼女の記憶を封じ、隠れて暮らした。隠れて暮らすのも容易ではなかった。人さらいや野党に襲われたことも多々あった。女子供だけの生活がいかに危険なものなのかその時少年は初めて知った。なんだかんだ言っても自分は大人たちに守られていたのだと少年は痛感した。
逃げた先のこの土地であれに力を与えられた者達は仙人と名乗るようになり、人間からの信仰を集めるようになった。いつしか少年のことも見つかり仙人界に来ないかとの誘いを受けるようになったが、その度に彼は断り続けた。彼女のことは弟子ということにし、変わらずひっそりと暮らしていた。その頃にはひっそりと暮らす事にも慣れていた。
そんなある日少年は原始天孫から収集を受けた。行った先には原始天孫の他、霊宝天孫も待っており、少年は後の三大老の二人と対峙することとなった。
話しの内容は、女媧の支配から逃れるために彼女を討伐しようという相談という名の強制だった。女媧を倒すためには沙依の力が必要だと言われ、彼女を渡すようにと宣告された。彼らに沙依の正体はとっくにバレていた。それどころか彼らの方が少年より彼女のことを良く知っていた。少年は彼女が地上の神の末娘であり、地上の神の力を継いでいると言う事をその時初めて知った。そしてあの時自分に力を与えた存在が女媧という名のかつての天上界の皇帝だったことも初めて知った。仙人界と天上界はすでに手を組んでおり、計画は進んでいると言われ、気持ちが揺らいだのも事実だった。でも信用できない相手に沙依を預けようとは思えなかった。だから拒否をした。今の彼女は記憶を失っており力が使えないことを話したが聞き入れてはもらえなかった。拒否した結果、結局は戦闘になり、そして沙依は仙人界に奪われた。
少年は二人に手も足も出すことができなかった。戦争中でさえ戦うことを拒み戦争後もただ隠れて逃げていただけの少年と、他の二人では力の差は歴然だった。その時に少年は自分の無力さを再び痛感することとなった。自分が何もしてこなかったことをあれほど後悔したことはその時以外ない。それが戦いから逃げていた少年がその考えを改めた瞬間だった。心から力を求めた瞬間だった。
彼女を取り戻すため少年は研究を重ね、修練を積み、情報を集め、必死に鍛錬を重ねた。そしてその過程で知った。女媧の身体は封印されており彼女が今精神体でしか活動できずにいるということを。そして女媧を倒すと言っていた原始天孫の後ろには彼女がおり、天上界もすでに彼女の手の内にあるということを。
少年は時々沙依の様子を探りに行っていた。連れ去られて久しく彼女は様々な実験をさせられ、研究され、ひどい仕打ちを受けていた。それを見るのは辛かった。辛かったが少年は目をそらさなかった。二度と目をそらすものかと思って、そして自分の無力さの結果を心に焼き付けた。そうやってもう二度と同じことは繰り返さないこと、女媧を倒し沙依を救うことを心に誓った。これだけは自分が成し遂げなくてはいけないことだと、数千年たった今も少年は揺るがずに思っている。薄れるどころかより強く、固く、心に誓っている。
ある時のことだった、どういう経緯があったかはわからないがいつの間にか沙依は子供の姿になっており、原始天孫の元で弟子として修練を積む様になっていた。一体どんな策略があってそうなったかは分からなかったが普通の弟子のように他の兄弟弟子たちとも親睦を深めながら生活している姿を見て、少し安心した。しかし何か裏があることだけは確かだった。少年はそう思っていた。だから彼は更に修練に励み、慎重に調査を続けた。
そしてほんの数百年前のこと、急に沙依の記憶が戻り、あろうことか彼女は原始天孫と戦闘になった。記憶が戻った彼女を原始天孫は容赦なく殺そうとし、戦闘は玉虚宮を破壊するほどの激しいものとなり、その戦闘を止めようとした他の仙人達も入り混じった大乱闘となった。少年はその混乱に乗じて彼女を連れ出し、彼女を厳重に封印した。それはそれは慎重に、とても厳重に封印を行った。全ての元凶である女媧を倒し再び彼女が普通に生きられる世界を取り戻すまで、もう彼女に辛い思いはさせたくなかった。彼女を傷つけたくなかった。だから封印した。誰も手出しができないように。彼女が出てこられないように。
少年は今、胸騒ぎがしていた。その理由は解らない。未来をなぞることもできないこの空を見て、そこに希望より不安を強くしている自分がいた。
少年は自分の心の弱さが嫌になった。こんなことでは彼女を助けることなんてできない。
少年は決戦の前に彼女の元に行くことを決めた。彼女の封印が綻びてはないか確認するため。封印を強化するため。色々な理由が思いついたが、結局彼女に会いたいだけだった。実際会うことはできない。声も届かない。でも最後の戦いに挑む前に彼女に自分の決意を伝えたかった。
だから少年はかつての友だった者の所に向かった。
○ ○
「この結界を張った奴は天才だな。」
将勇は楽しそうにそう言った。単純そうに見えて、複雑に、かつ繊細に掛けられた結界。堅仁が結界の場所を特定していたのも関わらず、実際にその結界が張られている場所を見つけ出す事さえも困難だった。見つけた後分析を初めてはや半日、将勇はなにやらぶつぶつ言いながら楽しそうに何かをしていたが、周りから見ると何をしているのか全く分からず、解析は進んでいないように見えた。
「解けそうか?」
郭のその言葉に将勇はうなずいた。
「もう解ける。」
そう言って将勇が手を目の前ではらうと空間が揺らぎ、そこには違う景色が開かれた。
開けた先には人がいた。
「なんで君がここにいるんだい?」
その人物は振り向くと将勇を見てそう声を掛けた。それは年のころ十歳前後の少年だった。その姿は少年だったが、無表情にこちらを一瞥する姿からはただならぬプレッシャーを感じた。
「太上老君。なんでここに?」
将勇のその言葉に一同が驚いた。
「この少年があの三大老の一人、太上老君?彼は厳めしい老人だろ?」
郭の疑問に将勇は首を横に振って答えた。
「それは人間界で生きるために術で変化している姿だ。これが彼の本当の姿だ。」
確かに少年から発せられる威圧感は並大抵のものではなかった。それだけで彼がただのものではないことは解った。ただ立っている様にしか見えない太上老君だったが、そこからは確かに殺気を感じることができた。この状況に誰も理解が追い付いていないがただ危険なことだけは肌で感じることができ、知らずにみんな戦闘態勢に入っていた。
「無防備な相手にそんなに臨戦態勢で相対すとは、君たちは僕と戦うためにここに来たのかい?」
そういうと太上老君は将勇を一瞥した。
「君の好奇心の強さはよく解っている。君の優秀さも良く知っているつもりだ。だから君が彼女に興味を持ったというのなら、ここにたどり着くのもうなずける。けど今回は好奇心からここにたどり着いたわけではなさそうだね。」
その圧倒的なまでの威圧感に将勇は何も答えることができなかった。皆臨戦態勢はとったものの、その存在感に飲まれ動けるものなどいなかった。
「わたし達は決してあなたと戦いに来たわけではありません。」
口を開いたのは春麗だった。
「じゃあ、何をしに来たの?」
そう言って春麗を見据える目は将勇に向けたものとは違っていた。威圧感こそあれ将勇にはどこか親しみのこもった目を向けていたのに対し、春麗に向ける目は刺さりそうなほど冷え切っていた。
「お父様を、天帝を討つためです。そのために彼女の力が必要なんです。だから彼女に協力を仰ぐためにここに来ました。」
春麗が声を振り絞ってそう言うと太上老君は目を伏せた。
「彼女をここに封じたのは僕だ。その僕が彼女の封印を解くことを許すと思うかい?まして全ての元凶である天界人の願いを聞くと思う?」
その言葉に春麗は胸を抑えた。その言葉の意味を理解できたのは春麗と郭だけだった。ただ全員に解ったのは太上老君の殺気が増したことだけだった。ピリピリと肌に感じるその張り詰めた空気で、状況がものすごく悪いという事だけが全員に理解することができた。
太上老君が手を挙げると、その周りには多数の術式が展開された。
「将勇。君のことは少なからず親しく感じている。だからここで引いてくれるのなら僕は君たちになにもしない。だからここのことは忘れて帰ってくれないか?」
誰も動くことができなかった。きっと引けば本当に見逃される、それは全員解っていた。しかし誰も逃げなかった。戦闘になるかもしれないとは想定していた。でもこの事態は考えていなかった、原始天孫に見つかって邪魔が入るかもしれないということは考えていた、だけどまさか太上老君と対峙することになるとは考えてもみなかった。三大老の中でも、最も謎が多い人物。その戦闘能力も予測不能だった。
ただ今戦ったとして容易に勝てる相手でないことは確かだった。それどころか戦闘となったらここにいる全員が無事ではすまない可能性が高いことは明らかだった。かといってここで引いたら、清廉賢母にたどり着くことはもう二度と出来ないだろう。それは希望を失うのと同じだった。だから引くことはできなかった。
誰も反応しないのを見て、太上老君は大きくため息をついた。
「こんなところで無駄な力は使いたくなかったし、無駄な争いも好きじゃないけど、彼女を目覚めさせるわけにはいかないんだ。引いてくれないなら仕方がないね。」
そう言うと太上老君は悲しそうな顔をして笑った。
「本当に君のことは友のようだと思っていたんだ。好奇心にあふれ、知識にどん欲な君に昔の自分を重ねて眩しく思っていた。解ってもらえないとは本当に、残念だ。」
そして太上老君は最初の一撃を放たんとした。
その時爆発音が響き渡り、太上老君の後ろにあった岩が崩れ落ちた。その場にいた誰もが驚き、その方向を見た。その粉塵の中に人影があった。確かにそこに人が立っていた。
「どうして。」
呆然とした様子で太上老君はよたよたとその人影に近づいて行った。太上老君が傍に付くと、その人物は太上老君に覆いかぶさる様に崩れ落ち、彼の声が響いた
「沙依‼」
太上老君はその人物を支え、錯乱した様子で声を掛けていた。
「どうやって出てきたんだ?君を封じるためだけに僕が作り上げたこの封印を、君は本当はいつでも出れたとでも言うのか?でもどうして今出てくるんだ。あと少し。あと少しで全てが終わるというのに。」
その悲痛な叫びは見ている者の胸を締め付けた。
「こんなに消耗して。無理やり内側から封印を壊すなんてなんてバカのことをしたんだ。こんな無理をしてまで出てくる意味がどこにあるっていうんだ。」
そう言って泣きそうな彼の頬を、沙依と呼ばれた人物はそっと撫でた。
「ずっと友達でいてくれてありがとう。守ろうとしてくれてありがとう。」
そう言うとその人物は気を失った。
「老子。封印が中途半端に残ってる。このままじゃこの娘、衰弱死するぞ。」
将勇のその言葉に太上老君は驚いた顔をして彼女の状態をみた。
「なんてことだ。沙依の力を封じるために施した術式が、制御装置が壊れた状態で残っている。このまま力が消費され続ければ沙依は。」
焦った様子で太上老君はなにやら術式を施していった。
「だめだ、施術が追い付かない。」
太上老君は絶望した声を出しながらも懸命に術式の解除に挑んでいた。そんな彼の後ろから手が差し伸べられた。それは春麗の手だった。春麗は沙依の手を握ると自分の錬気を沙依に送った。
「これで少しは時間が稼げるでしょうか。しかしとてもすごい勢いで力が消耗されています。わたしではあまり長く持ちそうにありません。」
春麗はそう言って太上老君に笑いかけた。太上老君は驚いた顔をして、小さな声でありがとうと呟いた。その様子を見ていた郭は渋い顔をして呟いた。
「淑英。堅仁。二人の術式を組み合わせて、このまま状態で磁生の所まで運べるか?」
その言葉に言われた二人は驚いた。
「このままじゃ春麗も清廉賢母も持たない。かといって俺たちには手出しはできない。でも磁生ならきっとなんとかできるだろう。今はあいつに頼るしかない。」
磁生なら。医術、回復に特化して訓練を受けた彼なら、何とかできるのではないか。その思いが強かった。ただ彼が今どのような状態なのか、まともに施術を行なえるような状態なのかどうか、ここにいる誰もが知らなかった。それどころか生きているのかさえ誰も知らなかった。それは賭けのような選択だった。
「解ったわ。やりましょう。」
淑英は答えた。賭けの様な選択でも可能性があるのなら賭けない理由はなかった。ただこれだけの人数をこの状態を保護した状態で空間移動させることは、とても高度で難しいことだった。時間はない。出来るだけ早くしかし正確に行わなければいけない。
淑英は一つ息を吸って呼吸を整えた。
「わたしが大きく転送の術式を展開するわ。細かい調整は任せたわよ。」
そう言うと淑英は集中し気を高めた。堅仁もそれに合わせて術式を展開させる。
切迫した雰囲気の中で全員が気を張り詰めていた。後は上手くいくように祈るだけだった。
○ ○
磁生は一本の刀を眺めながら酒を飲んでいた。それは妻であった春李の形見だった。亡き妻の形見を眺めながら酒をあおる、それが彼女が死んでから毎日繰り返されている、彼の日常だった。
昔もそうだった。現実から逃げるために酒と女に溺れていた。こうしていれば嫌なことを忘れていられると教えてくれたのはある街の遊女だった。よほど悲壮な顔をしていたのだろう。声を掛けてきた女は磁生を抱き寄せ言った。人生は辛いことだらけ、だから目をそらしてもいいのだと。逃げることは悪いことではないと。そうして彼女は目のそらし方を教えてくれた。その時に初めて磁生は女を知った。
当時の磁生は若かった。言われるまま人を殺し続け、心が死にかけていた。自分がしていることの意味が解らなかった。郭のようにしていることに対して責任感や誇りを持つことなどできなかった。自分たちがする必要なんてないと思っていた。殺される方にも、殺す方にも正義なんてない。結局自分達がしていることは自分達の為に他の誰かの生を終わらせているだけのことだと思っていた。しかもその自分たちのためとは、結局磁生達ではない。それでも磁生が戦い続けたのはそこに仲間がいたからだった。医術専門の自分がいなくなればきっとこいつらは早死にする。幼いころから一緒に過ごした仲間がどうでもいいことの為に早死にするところを見たくないと思った。だから傍にいた。それだけだった。それでも確実に磁生の心は病んでいった。自分の中に渦巻く、憤りを、不安を、苛立ちを、絶望を、磁生はうまく処理することができずにいた。だから教えられたように目をそらし続けていた。酒におぼれ、女を抱いて、その間だけは本当に何も考えずにいられたから。
磁生は刀身をそっと指で撫でた。彼女の使っていた刀。その刀身には術式が彫られており、それは光を映して輝く水面のように、深く、青く輝いていた。この不思議な模様を持つ武器は成人したターチェなら誰もが持っているものらしい。成人の儀式が終わると近しい人から成人の証として贈られる大切なものだと春李は言っていた。春李はこれを養父からもらったと言って大切そうに抱えていた。悲惨な過去があったにも関わらず、春李の語る思い出はいつも幸せそうだった。幸せそうに思い出を語る彼女がとても愛おしかった。
どうしてこうなったのか。何度も考えたがどうしたらよかったのか磁生には今でも解らなかった。彼女の笑った顔も、怒った顔も、辛そうにしていた顔も覚えている。時間が経てば薄れるものだと思っていたがまだ薄れる気配はない。それどころか時間が経てばたつほどより濃くなり忘れられずにいた。
磁生が春李と会ったのは仕事の帰りだった。傷だらけで倒れている彼女を一目見て、人間ではないことは解っていた。瀕死状態だった彼女を拾って治療したのは気まぐれだったかもしれない。人を殺した後にたまたま見つけた彼女を助けることで自分がしていることの穴埋めをしたかった、そんな気持ちもあったかもしれない。
治療をしていて彼女が自分がいつも殺している鬼と同じものだということがわかった。彼女から発せられる気は鬼が発しているものと同じだった。どうして彼らが鬼になったのかはわからない。力を持った者の心が感情に支配されると鬼になると言う。だから彼女は感情に心が支配されなかったのだろうという事だけはわかった。
目が覚めると彼女は磁生にお礼を言った。彼女は色素が薄かった。薄茶色の髪が光に当たるとキラキラ輝いて綺麗だった。同じ色の目はとても澄んでいて、その目で見られると自分の汚さが映し出されるようで居心地が悪かった。これが鬼と同じものなのかと信じられなかった。幼い見た目と相まって鬼というより、精霊か何かのように見えた。それでも鬼と同じもの。どうするべきか考えて、磁生は郭や堅仁には彼女のことは黙っていた。
そして彼女の怪我が治ると追いだした。郭達に合わせたくないという気持ちもあったが、彼女といることが怖かったことの方が大きかった。「助けてくれてありがとう。」そう無邪気に笑った彼女が、もし自分が彼女と同じものを殺し続けていると知ったら、そんなことを考えて怖かった。
次に春李に会ったのは仕事中だった。鬼退治をしている時に彼女に会った。彼女の仲間を殺している姿を見られひどく動揺している自分がいることに磁生は驚いた。殺しているところを人に見られて後ろめたくなるなんていつぶりなのか、彼には解らなかった。ただ彼女には見られたくなかった。それだけは確かだった。
彼女が鬼と同じものであるのは他の二人にもすぐ解ってしまった。でも戦闘にはならなかった。郭や堅仁も戸惑っている様子だった。鬼は強い。磁生達の戸惑いは大きな隙になり、あわやという状況になったが誰も怪我を負うことはなかった。あっという間の出来事だった。春李が鬼を殺していた。
躊躇なく仲間を殺した彼女は何とも言えない顔をして笑った。そうしてそれがきっかけとなって彼女と親交を深めることとなった。そして知った。彼らがターチェということを。何故彼らが鬼になってしまったのかということを。それは悲惨な過去だった。
信頼していた人間たちにだまし討ちにあって滅ぼされた。それだけでも人間を恨まずにいられる方がおかしいと、磁生は思った。
「わたし達ターチェは魂があればまた生まれてこれる。憎しみに心を奪われ生き続けている方が地獄だと思う。だから、皆を助けてくれてありがとう。」
春李はそう言って笑った。磁生達がしていることを仕方がないことだと言って許し、そして感謝した。彼女のその姿に磁生の胸は痛んだ。いっそのこと罵って、恨んでくれたらいいのに。そんな風に思って、そんな風に思う自分が嫌になった。
その日から何故か春李は磁生の家に居座り、彼らの仕事を手伝うようになった。彼女は強かった。彼女の助力で仕事がはかどったことは確かだった。でも彼女がここにいることを磁生の心は拒んでいた。落ち着かなかった。目の前から消えてほしかった。そう思っても、彼女は消えなかった。なぜそうやって笑っていられる。なぜそんな純粋な目をしていられる。なんで…。春李をみると磁生は感情が逆立って苦しかった。
郭が、春李の強さを称賛した時、彼女は「だってコーリャンだからね。」と言って、複雑な顔をして笑っていた。コーリャンとは、元は地上の神の子、最初のターチェの魂を持った子供を指すものだったが、春李が生まれたころは、ある一定以上の力を持った子供の総称になっていたという。コーリャンとして生まれると、七歳になった時殺されるというのがターチェの風習だったという。それが、かつて父を殺した子供たちに与えられた罰なのだと。最初の子供と同じ魂を持っているといっても、そんな昔の記憶なんてないのにおかしいよね。と春李は笑っていた。いつまで罪を償い続けなければいけないのか、そんな理由で死ぬのはまっさらごめんだったという。だから彼女は殺される前に生まれた場所から逃げ出し、唯一コーリャン殺しをしていない、コーリャンを受け入れている龍籠に逃げ込んだ。そしてそこで成長し、第一部主要部隊で隊長を務めるまでにいたったのだと言っていた。
春李はよく龍籠の話をした。その中でも多かったのは養父の話と同い年の友達の話だった。あまりにも春李がよく話すので、彼女の養父と友達のことを磁生は会ったこともないのに身近に感じることができた。
その友達は色素の薄いターチェの中で唯一、黒い髪と瞳をしていたという。黒はターチェにとって忌み色。だからコーリャンを受け入れている龍籠の中でも彼女を敬遠する者は少なからずいたという。でも春李は彼女のその髪と目がとてもきれいだと思っていたと言っていた。少し他の人より強い力を持っていただけ、他の人と違う目と髪の色をしていただけ、それだけで何もしていないのに疎まれるなんておかしな話でしょう。と彼女は悲しそうに笑った。でも彼女が敬遠されていたのは彼女が養子になった青木家のせいも多分にあったと思うと言っていた。春李の話しぶりから、青木家とはよほど龍籠で恐れられていた様子だった。青木の人は怖くて近寄れなかったけど、彼女のことは怖くなかったと春李は語っていた。
一緒に過ごすようになって久しくして、磁生には春李が軍人に向いていないことがわかった。確かに彼女は強かった。その戦闘能力は三人の中でずば抜けている郭よりも高かった。だけど彼女は優しすぎた。仕事が終わった後、彼女が一人で泣いているのを磁生は知っていた。彼女の笑顔の裏には沢山の痛みがあるのだと解ってしまった。彼女の笑顔のちょっとした違いに気づくようになってしまった。だからとても苛立った。そんなものを抱えたまま、それでも彼女の目は澄んでいて、それが腹立たしかった。全てを受け入れてなおそういられる彼女が眩しくて、痛かった。
だからある日、ついに磁生は爆発した。彼女が使っていた部屋に入り込み、静かに涙を流している彼女を責めたてた。声を荒げて責めたてた。
「いいかげんにしろよ。そんなにつらいなら出てけよ。もう関わるな。」
彼女は泣きながら笑った。
「磁生は優しいから。」
そういう彼女の笑顔は綺麗だった。でも彼女のその言葉の意味が磁生には全く解らなかった。
「最初に言った話は本気だよ。仲間を助けてくれて感謝してる。本当に、心から感謝してるんだよ。」
そう言って春李は磁生の胸に手を当てた。
「でも、磁生は本当は殺したくないんでしょ?でも、殺し続けるしかないんでしょ?」
その言葉に磁生は苦しくなった。
「わたしは皆を助けたい。でもわたしじゃ皆を元に戻せない。なら殺してあげるしかないじゃない。自害すれば魂は転生できない。でもわたしが殺せばいつかまた会える。誰かを憎み続けなくてもすむ。だから磁生に会うまで一人で殺し続けていた。ずっと、一人で殺し続けてた…。」
そういう春李の顔は苦痛に満ちていた。
途方もなく戦い続け、仲間だったものを殺し続けてきた。そして瀕死の重傷を負って磁生に拾われた。本当は自分は死にたかったのだと。でも自害は出来ないから、皆の為って言い訳をしながら誰かに殺してもらうために、ずっと殺し続けていたようなものだった。あの時ようやく死ねると思った。だけど救われた。だから途方に暮れた。そんな話を春李はした。
「辛いのは確か。でも、あなた達と会ってほっとしたの。すごく楽になった。この涙はわたしの弱さなだけ。わたしはここにいたい。いつかあなたに殺されることになってもいい。わたしの心はあなたの手でもうとっくに救われてるから。もうなにも心残りはないの。」
そう言って春李は磁生の目を見つめた。
「ねぇ磁生。わたしを初めて見た時から、わたしが鬼と同じものだって解ってたよね。郭や堅仁も。でもなんでわたしを殺さなかったの?なんでわたしを助けたの?」
磁生はなにも答えることができなかった。
「わたしのこと、軍人に向いてないって言ったよね。磁生も人殺しに向いてないと思うよ。だってあなたの手は人の命を助けたがってるもん。あなたの心はずっと、殺したくないって言ってるもん。」
その言葉を聞いて磁生は涙が溢れてきた。心の中で何かが崩れる音がした。磁生は春李を抱きしめると声を立てて小さな子供のように泣いた。彼女に縋り付いて泣き続けた。そんな磁生の背中を春李は優しく撫でた。
「一緒に殺さないですむ方法を考えようよ。見つかるまでは仕方がないから、今まで通り生きよう。でも、あなた達だけに背負わせたりしない。わたしは逃げたくない。本当にわたしは感謝してる。だから、わたしも同じ気持ちだってことを解って。わたしにも一緒に背負わせて。」
春李の声は磁生の中に優しく響いた。その時からだったと思う。磁生の中で春李の存在の意味が変わったのは。その時から不思議と心が軽くなった。同じことをしているのに、今までとは全く違っていた。酒を飲む量も減り、女遊びもしなくなった。しなくても平気になった。春李の笑顔に心が逆立つこともなくなった。逆に彼女の笑顔をみると心が温かくなった。そうして彼女との距離も自然と近くなり、なんでも言い合える仲になり、気が付くと磁生のなかで彼女はかけがえのない存在になっていた。
磁生は今でも覚えている。結婚しようと言った時の春李の反応を。
ずっと一緒に暮らしてたのに、セクハラまがいのコミュニュケーションもしょっちゅうとっていたのに、心底信じらせないと言う顔で驚かれた。
「普通に抱き着いたり、一緒に寝ようって誘ったり俺してたよな?」
そう言う磁生に春李は軽蔑に近いまなざしを向けた。
「いや、磁生がただの女好きの変態だと思ってたから、わたしに対してのその行動に好意があるとは全く思わなかったよ。」
そう言われてしまえばそう言われても仕方がない生活をしていたので、言葉に詰まる。
「でも俺、もう久しく女遊びしてないけど。お前一筋だけど。」
言い訳をしてみるが彼女の反応はそっけなかった。
「わたしと一緒の時してないだけで隠れてしてるんだと思ってたし、わたしは磁生のタイプじゃないと思ってたよ。急にそんなこと言われても、びっくりだよ。」
そう言われても磁生には自分のタイプが解らなかった。確かに見た目の好みはあるといえばあるが、誰かを心から愛おしいと思ったのは春李が初めてだったし、彼女にどう思われていたのか全く解らなかった。だから素直にどんなのが好みだと思っていたのか聞いてみた。
「外出た時の人も、ここに連れ込んでた人も、皆背が高くて綺麗な色っぽい大人なお姉さんだったじゃん。わたしこんなちんちくりんで子供みたいな見た目だし、絶対そういう対象ではないと思ってた。」
なるほどとは思ったが、それで勝手に自分を対象外だと思い込まれるのは納得できなかった。確かに春李の見た目は幼くて普段なら磁生の対象にはならないが、それは一夜限りの相手としてであって、添い遂げたいと思う相手としては別の話だ。抱きたいと思うのと、添いたいと思うのでは違うだろうと思って、磁生は無性に腹が立った。
「かわいいとか好きって言ってたよな。俺、真面目に好意を伝えてたつもりなんだけど。」
少しむくれて磁生が言うと、春李は目をそらした。
「ペットとか小さい子に対するようなものかと思ってた。」
そんなやり取りの末、面倒くさくなって抱きしめた。普段とは違い、緊張して固くなっている春李がとてもかわいく、愛おしく思えたが、本当にそういうふうに意識されていなかったのだと実感して、複雑な気持ちになった。
「なんでもいいからさ。結婚して。俺、お前がいないとダメなんだ。ずっと、傍にいてほしい。」
耳元でそういうと春李の身体が更に硬くなったのがわかった。そして、少し間をあけてから了承の返事が聞こえた。磁生は嬉しくて、本当か確認しながら彼女の顔を覗き込んだ。小さくうなずき、耳まで赤くして下を向く彼女がとてもかわいかった。からかうと怒って磁生を振り払い、踵を返して部屋を出てこうとした。そんな反応も初々しくて愛しかった。だから後ろから抱きしめて捉まえた。
幸せだった。だから磁生はそれを言葉にして伝えた。ありがとうと言うと春李はおとなしくなった。
「わたしも、傍にいたいと思ったから。磁生なら嫌じゃないかなって。」
どんな顔で春李はそう言ったのだろう。その時の顔が見られなかったことを磁生は残念に思っている。
「いや、実はさ、大人なお姉さんが好きなんじゃなくて、巨乳好きなんだよね。春李も見た目のわりにそこそこでかいから安心して。こんくらいあれば充分だからさ。」
何故あの時そんなことをしたのか解らない。照れ隠しだったのかもしれない。そう言って胸をもんで殴られたのは笑い話にできるいい思い出だったと思う。
幸せだった。本当に。それが、なんであんなことになったのだろう。
春李が殺された瞬間が今でも脳裡から離れない。
春李の形見を眺めながら酒を飲む。幸せだった時を思い出して、胸が暖かくなるが、最後はいつもあの場面にたどり着き発狂しそうになる。
なんであの時、春李を連れて行ったのだったか。連れて来いと言われていたからだった。いつかはちゃんと報告しなくてはいけないと思ってはいたから、ついでに連れて行ってしまった。春李がターチェであることなんて本当にどうでもいいことだと思っていたから。多分、浮かれていたんだと思う。自分たちが生きているのはそんな甘い場所じゃなかったのに。
あれから磁生はほとんどなにもできずにいる。酒を調達するためにたまに外に出るくらいで、あとはずっと引きこもっている。そんな磁生の耳にまで封神計画の話が聞こえてきて、郭達にも限界が来たことを彼は悟った。だからと言ってなにもする気にはなれなかった。
酒におぼれて、意識を失い眠りにつく。そして起きてまた酒を飲む。それの繰り返し。こんな自分をみたら春李はどう思うだろう。形見に語り掛けても、当たり前だが何も返答は得られなかった。
今日も意識を失いかける寸前、家の外で大きな術式の気配がした。何が起きたのか磁生には解らなかったが、一瞬で酔いがさめた。いまだに訓練された癖は抜けないらしい。そう思うと苦々しい思いがした。
扉が破壊され誰かが入ってくる。
「府抜けてる暇じゃないぞ、磁生。助けろ。」
懐かしい声がして、その言葉と共に強引に引っ張り出された。
「酒臭いな。」
そう言って顔をしかめる郭の姿が懐かしくて、苦しくなって、磁生はなんとも言えない気持ちになった。
「一日中、酒をあおってんだからあたりまえだろ。」
磁生がそう言うと、どうでもいいからこれをなんとかしろと郭は彼を放り投げた。
放り投げられた先には気絶した少女と、その子に気を送る春麗、そして何か術式を行っている磁生の知らない少年がいた。どう見ても少女の回復が間に合っておらず春麗が倒れるのも時間の問題なのは明白だった。磁生の身体は勝手に動いていた。家から道具を持ってきて、それぞれに必要な処置を行い、術式を施し、あっという間に環境を整えてしまった。少女の身体から気が流れ出ることは抑えられ、春麗や太上老君の疲労も回復されていた。
「さすがだな。」
その郭の言葉に磁生は戸惑った。
磁性の脳裡に、磁生の手は人を助けたがっていると言った春李の言葉が蘇って、何とも言えない気持ちになった。そして何故か、仲間を助けてくれてありがとうと言って笑う春李の顔を思い出して、そして彼は気が付いた。
「なんで、ターチェがここにいるんだ?」
疑問がそのまま口から出ていた。今皆が助けようとしている少女はターチェだった。黒い髪をしているが、纏っている気配はまさしくターチェのものだった。そしてその少女の見た目に彼の心はざわめいた。会ったことはない。でも彼は彼女を知っていた。
「この娘は青木沙依か?春李の友達だった、龍籠の第二部特殊部隊部隊長。この状況はどういうことだ?」
その問いに誰も答えることはできなかった。なんと説明すればいいのか誰も解らなかった。だから郭はただ事実だけを伝えた。
「彼女は清廉賢母。かつて最強の仙女と謳われた、この崑崙山脈の仙女だ。」
その答えに磁生は混乱した。
「こいつが仙女?んな訳ないだろ。こいつはターチェだ。ターチェがなんで仙女なれる?なんでここで生きていられる?そんな訳はないだろ。もしターチェが仙女になれるなら、なんで春李は殺された?なんであいつはあのくそジジイに殺されなきゃならなかったんだ?」
磁生は叫んでいた。そこにいる誰もが思っていることだった。多分、今状況を解っているのは術式の解除に必死に取り組んでいる太上老君だけたと思われた。解除が終わったら彼には語ってもらわなくてはいけないと、郭は考えていた。はたして彼が正直に全部打ち明けてくれるかは解らなかったが、今の状況はきっと自分たちが手を出している問題にも関わることなのだと郭は直感していた。
しばらくして全ての作業が無事に終わり、少女は一命をとりとめた。ちいさな寝息を立て静かに眠る少女を太上老君は愛おしそうに眺めていた。そして郭達を振り返ると言った。
「僕は君たちを殺そうとまでしたのに、助けてくれてありがとう。」
そういう姿は対峙した時と同じ人物には見えなかった。あれだけ大きく立ちふさがる脅威に見えた姿が今はとても小さく見えた。
「彼女に協力を得たいのに死なれては困りますから。」
郭にはそう言うことが精一杯だった。
磁生の家の居間には皆が集まっていた。憮然とした様子のこの家の主と同じように、皆が皆状況を解ってはいなかった。誰もが太上老君に説明を求めていた。
「老子。何故ターチェである彼女が仙女としてここにいるのか。一体、何が起きているのか教えてくれますね?」
郭のその言葉に太上老君は一度目を閉じ、そして遠くを見た。
「僕にも解っていないことが多いんだ。君たちが思っている通り彼女はターチェだ。でも何故沙依が仙女にされたのかは僕にも解らない。ただ記憶を取り戻したとたんに原始天孫は沙依を殺そうとした。だから沙依の記憶になにか秘密があるんだと思う。」
そうして太上老君は語った。自分が知っている全てを。自分が何をなそうとしていたのかということを、若い世代の者達に語って聞かせた。
天上界がすでに女媧の手中にあるという事実は一同に衝撃を与えた。天帝を討てばすむ。そう思っていた話は最初からそんなことではどうにもならない問題だったのだという事実が、郭を愕然とさせた。倒すべき敵は天帝ではなく女媧である。それは明白だったが、それが容易ではないことは太上老君の話からありありと伝わってきた。
「封神台とは魂を閉じ込めその魂の持つ力を持ち主に与える宝具。かつて女媧はあれに神の力を封じて手に入れ、地上を我が物としようとした。あの頃はあれほど巨大なものではなく、封じられる魂の量にも限界があったが、原始天孫が改良したあれはもはや無限に近い魂を納めることことができるだろう。今死ねばあの中に閉じ込められ、糧にされる。封神計画とはあれに力を蓄えるための計画。そして封神計画が終わればその力で女媧は復活し、今度こそこの世界を手に入れるつもりなんだ。」
多分原始天孫はそれを女媧からかすめ取り、自分が立つともりでいるのだろうと太上老君は言った。そんな浅はかな考えは女媧には見透かされているし上手くいかないだろうということも。
「僕はずっと彼女の夢を盗み見ていた。だから彼女が何をしようとしているのかよく知っている。だからこの機に叩くつもりでいたんだ。そのためだけに僕ばいままで力を蓄えてきた。そのためだけに生きてきたといっても過言じゃない。そのためならなんだってする覚悟だった。」
太上老君のその言葉にはどこか諦めが滲んで見えた。
「女媧を叩くなら力を手に入れる前に叩くべきではないのですか?」
郭の疑問はもっともに思えたが、太上老君は首を横に振った。
「沙依の状況と同じだよ。封印されている女媧は外からも中からも手が出せない。天上界の皇帝がかけた封印は僕が沙依にかけたものとは比べ物にならないほど重厚だ。だからこそそれを無理やりに破壊すれば計り知れないほどのダメージを受けるだろう。いくら女媧とはいえ出てきてすぐには動けないはずだ。だから本体が出てきたとき、その一瞬しか勝機はないと思っている。」
そう言って太上老君は沙依が眠っている寝室の方を見た。
「沙依には全てが終わるまで出てきてほしくなかった。あれだけ衰弱しているんだ、見つかればたやすく殺されるだろう。こうなってしまったからには仕方がないが、彼女を守りながら計画を実行できるほどの力は僕にはない。正直どうしたらいいのか、僕には解らないんだ。」
そう言って力なく笑った顔には疲弊が滲み出ていた。そんな彼に誰も何も言えなかった。今何をすべきなのかそれを判断できる者など誰もいなかった。
「ヤタ。わたしのことは守ってくれなくていいよ。」
声がした。声のする方を見るとそこには沙依が立っていた。
「沙依。いつの間に起きていたんだ?」
太上老君の言葉に沙依はちょっと前にねと答え笑った。そして彼女は太上老君に近づくとその手をそっと握った。
「ヤタ。ずっとありがとう。そしてごめんね。」
ヤタ。沙依は太上老君をそう呼んだ。それは太上老君が忘れてしまった自分の名前の一部だった。太上老君はかつて自分がそう呼ばれていたことを思い出し、懐かしいようなくすぐったいような、何とも言えない不思議な感情に包まれた。
「沙依。僕は…。」
何か話そうとする言葉を沙依は遮った。
「ヤタ。あの戦争はね、わたしがこの身体に生まれた時にはもう起きると決まっていたことなんだよ。誰がどうあがいても変えられない運命だった。それでもヤタは必死にあがいて、わたし達を助けようとしてくれた。そしてわたしを助けてくれた。本当に感謝してる。だからもう自分を許してあげて。」
沙依はそう言って太上老君を抱きしめ、彼の頭を撫でた。
「あの時ヤタはまだ子供だった。誰かに守られ、何をしても赦されるべき存在だった。なのに全部一人で背負って、抱え込んで。本当は、逃げだしてもよかったのに、そうしなかった。ヤタは強いね。でももう一人で抱え込まなくてもいい。わたしを守ってくれなくてもいい。もうヤタ一人が背負う必要はない。後はわたしに任せてくれればいい。」
沙依のその言葉に太上老君の目から涙が溢れてきた。
「でも、僕は。それでも僕は、君を守りたかったんだ。僕の唯一の友達だったから。僕は君の友達でいつづけたかった。だから。」
嗚咽で言葉が続かなかった。権威ある三大老のそんな姿に他の者達は誰も声がかけられなかった。自分たちよりはるかに上位にいる存在が、本当にただの子供に見えた。
太上老君が落ち着くと沙依は厳しい顔をして全員を見渡した。
「ここにいる人たちは何をなすためにどれだけの覚悟があってここにいるの?」
彼女に見つめられると全てを見透かされているようで、郭は意味もない恐怖に襲われ落ち着かなかった。多分他の皆もそうだと思う。そんな中春麗だけが彼女の言葉に答えた。
「天上界をあるべき形に戻したい。助けられるならお父様を助けたい。でも、この世界を元のあるべき形に戻すためなら、お父様を助けられなくても、お父様と刺し違えることになってもいいと思っています。」
春麗はいつになく真剣な目をして沙依と対峙していた。
「どうして?」
「誰かの一人の意思に支配された世界なんておかしいから。世界は誰もが自由な意思の元、生活できなければいけないと思うからです」
「今は自由な意思はもてないの?誰の支配の元でも個人の意思は自由ではないの?」
「そうかもしれない。それでも女媧の意思のままひどいことが繰り返されている。このままでは天上も地上も彼女のものになってしまう。このまま彼女の思い通りにさせるわけにはいきません。」
「それはいけないことなの?国を王が治めるように、誰かが世界を治めることはいけないことなの?国が繁栄の為戦争をするように、手に入れたいものの為に戦うことはいけないことなの?人がやっていることと何が違うの?それがいけないというなら、何故、人は許されるの?」
沙依のその問いに春麗は言葉を詰まらせてしまった。女媧がしていることは間違っている。それは断言できる。でも欲するものを求めることの何がいけないのか、そう問われるとどう答えてよいのか解らなかった。
「結局。女媧の力は強大過ぎて、彼女のわがままはあまりにも多くの犠牲を出してしまった。ただそれだけのことなんだよ。本当は支配なんていらない。誰かが何かを治める必要なんてなにもない。」
その言葉に天帝の娘である春麗は憤りを覚えた。父が天上界をより豊かに平穏に保つため尽力していたことを彼女は知っていた。治めるべきものが治めることで世界は平和になるのだと思っていた。だから沙依のその台詞は父への冒涜のように感じた。
「誰かが治めることで得られる安寧や平和があると思います。正しき者の導きにより、人は正しく在れるのではないでしょうか。」
春麗の怒気を含んだその言葉を聞いても、沙依は全く動じなかった。
「父様は大いなる神から力を与えられても、その力で地上を治めようとはしなかった。ただそのまま、それまでと同じように過ごしていた。父様にそんな力は必要なかった。父様は何もしなかった。ただそこに在っただけだった。それでも父様は地上の神であり、地上のものは全て父様のものだった。」
沙依が何を言いたいのか、誰にも解らなかった。
「なんで大いなる神は父様にそんなものを与えたんだろう?人は力を恐れ、そして力を求める。それはきっと自然の摂理。大いなる神が父様にそんなものを与えたから、支配欲にまみれた者がそれを求める結果になった。だからわたしは女媧よりも、大いなる神に憤りを感じるよ。」
そう言う沙依は何か物思いに更けている様子だった。少し間をあけ、沙依はまた春麗の目を見つめて言った。
「女媧の思い通りにさせないためならどんな犠牲を払ってもいいの?例えば、そこにいるあなたの大切な人達が死ぬことになってもいいの?」
その問いに春麗は即答した。
「構いません。」
そうきっぱりと言い放つ春麗の姿は凛々しかった。その姿はあまりに普段の彼女からかけ離れていて、一人を除いて普段の彼女を良く知る者にはその光景はとても信じられなかった。郭だけは、春麗のその姿に驚かなかった。彼女が大義の為に犠牲を厭わない性格だということはよく理解していた。だから彼は覚悟していた。彼女に自分の命をくれてやることも、彼女が命を落とすことになることも、彼は覚悟していた。だからどんな最後になろうともその時まで春麗の傍にいることが彼の願いだった。そんな郭の想いも春麗の性質も知らない他の者はただ驚き、普段、穏やかで優しい春麗のその激しさに、息をのんでいた。
春麗と沙依は見つめ合っていた。まるで二人の間で時間が止まってしまったかの様だった。そんな状態をしばらくすると、急に沙依は力を抜いて遠くを見た。何かを懐かしむような、それでいてなにかを諦めたような、そんな顔をしていた。
「あなたも兄様と同じなんだね。わたしはそんな風に大義の為にならどんな犠牲を払ってもいいなんて思えない。大切な人には生きていてほしいし、皆、幸せになってほしい。それがただのわがままで、そのために余計に事態を悪くすることが多々あることもよく知ってる。だけどわたしは、しかたがないなんて言って大切なものを諦めるなんてことはできない。」
沙依はそう言って悲しそうに笑った。
「今わたしが出てくることが良いことでないことは解ってた。だけどわたしは皆を見殺しになんてできなかった。見殺しにするくらいなら世界が奪われることになっても、大切な人と一緒に死にたかった。残った世界がどうなろうと関係なかった。あなたはそんなわたしを軽蔑する?」
その言葉に春麗は首を横に振った。
「地上を治めるべき者として無責任だとは思います。でも、人それぞれですから。」
言葉とは裏腹に春麗のその態度には軽蔑の色が含まれていた。天帝の娘としていずれは天上界を統べるのだと思って育った春麗は、同じような立場の沙依に対して、自分と同じような責任を求めてしまっていた。春麗は沙依に自分と同じことを求めるのは間違っていると理解していたが、彼女に対する嫌悪感がぬぐえなかった。
「責任、か。兄様は父様の役割を継ごうとしていたのかな。父様の代わりに、地上を守ろうと必死だったのかな。」
なんで皆そんなものに縛られるんだろう。沙依のその呟きは小さく誰の耳のも届かなかった。
「ねぇ、天上界の娘さん。あなたは…。」
それで大丈夫なの?という言葉を沙依は呑み込んだ。春麗が沙依に向ける目は厳しく、何を言っても届かないと感じたから。だから沙依は心の中で語り掛けた。わたしの兄様は、それで心を傷つけすぎて、心がだいぶ死んでしまったよ。人間と違ってわたしたちの生きる時間は長い、永遠に近い時をそんな風に過ごしたら持たないよ。たとえ声が届いたとしても、意味がないということを沙依は解っていた。それでも春麗のその先を憂うわざるにはいかなかった。春麗のその強い意志が、その心が、悲しかった。だから何かを伝えたかったが。だけど伝えるべき言葉はなにも出てこなかった。
「これからどうするつもりなの?」
だから代わりに違うことを聞いた。
その問いには春麗は困ってしまった。
「もともとはお父様を討つつもりでしたが、お父様を討っても意味がないことを知ってしまいました。女媧を討つにもどうすればいいのかわかりません。」
春麗のその言葉に沙依は遠くを見た。
「もしあなたが天帝の魂を救いたいというのなら、当初の予定通り天帝を討つべきだよ。後回しにすれば手遅れになる。長い時間をかけて彼の魂は壊されてしまった。形を保っている今ならば、傷が癒えるのと同じように魂もまた元の形を取り戻すことができる。でも完全に形を失ってしまえば、あなたのお父さんはもうただの抜け殻。魂は永遠に失われ転生もかなわない。」
沙依のその言葉に春麗は戸惑った。先程の問答と同じく、選択をせまられ何かを見定められているような、そんな気分になって落ち着かなかった。
「そんなに怖がらなくてもいいよ。わたしはただ事実を言っているだけなんだ。決断するのはあなた達だよ。ただ女媧との戦闘はお勧めしない。ヤタともまともに渡り合えないあなた達の実力じゃ、あれの足元にも及ばない。足手まといはいらない。女媧との戦闘はわたし一人でする。」
沙依のその言葉に一番に食いついたのは太上老君だった。
「一人で戦うってどういうこと?さっき自分で大義の為に犠牲を払いたくないと言っていたじゃないか。」
太上老君は叫んでいた。一人で抱えるなと言った本人が、なんで一人で戦うことを選ぶのか、どうしてこんなことを言うのか、太上老君には全く理解ができなかった。
「誰であっても足手まといなんだよ。これはわたしの戦いでもある。ヤタがこの時を待っていた様に、わたしもこの時を待っていた。ずっと長い間待っていた。父様を狂わせ、同胞を殺し、また大切なものをわたしから奪おうとしてる女媧をわたしは許せない。これ以上わたしの大切なものを傷つけさせはしない。だからここでわたしがけりをつける。そのためにわたしは今ここにいるんだよ。」
そう言って沙依は笑った。その笑顔には有無を言わせない迫力があった。
「君って人はなんてわがままでひどい人なんだ。これじゃ、僕の努力の意味が解らないじゃないか。」
太上老君はそう文句をいいつつ、諦めた様な顔で笑った。
「なんてたってわたしは山神様だからね。神様っていうのは自分勝手でひどい奴だって相場が決まってるんだよ。」
沙依のその言葉で二人は笑い合った。他の者にはその二人のやり取りが一体何を意味しているのか解らなかった。ただ二人の間で何か合意ができたことだけは理解することができた。
「じゃあ、わたしはそろそろ行くよ。準備をしなくちゃいけないことも沢山あるから。助けてくれてありがとう。君たちの武運も祈っとくよ。」
そう言って沙依は去って行った。誰もそれを止めることはできなかった。ただ呆然と彼女が去って行くのを見ていた。彼女の姿が見えなくなると、急に何かを思い立ったように磁生が後を追って出ていった。どうして彼が彼女を追っていったのか誰も解らなかった。
郭は去って行く磁生の後姿を目で追っていた。ほんの少しだが昔に戻った気になっていた。また一緒に戦ってくれるのだと勝手に思っていた。無理やり引きずり出して、手伝わせて、急にこんな事情を聞かさせてただ巻き込んだだけなのに、勝手に昔に戻った様な気がしていたなんて。なんて自分は自分勝手なのだろうと思い苦笑が漏れた。
○ ○
功は夢を見た。師匠が戻ってくる夢だった。夢の中で師匠は昔と変わらない笑顔で、ただいまと言った。功はそれだけで心が満たされる思いがした。
目を覚ますとそこはいつもの部屋だった。洞府のどこを探しても師匠はいなかった。解り切ったことではあったが、もの淋しい思いがして悲しくなった。
なぜ今になってあんな夢を見たのだろう。功には解らなかった。あまりにも久しぶりに師匠を訪ねて人が来たからだろうか。それであまりにも久しぶりに師匠を身近に感じたからだろうか。そういえば訪ねてきた彼らはどうしているだろうか。そう思って彼らのその後が気になった。
師匠を訪ねてきた彼ら。師匠に助力を求めていた彼ら。実在するかもわからない師匠を頼るしかないほど彼らは切羽詰まっていたのではないのだろうか。そう思って功は自分が情けなくなった。協力が必要なら頼みに来る、そう言っていたが自分を知らない彼らが実際頼ってくるはずはないだろう。協力をするといいながら何も言われないからと何もしないなんて、協力する気がないと言っているのと同じじゃないか。そう思った。封神計画には気乗りがしなかったが、何故か彼らには助力すべきだと功は感じた。今が自分が動くべき時なのだと功の心はそう言っていた。功が決心を固めたその時、何故か師匠が嬉しそうに微笑む姿が脳裏に浮かんだ。幻でも嬉しかった。師匠が背中を押してくれている、そんな気になって力が湧いた。
訪ねてきた彼らの気配は覚えている。様子から彼らも崑崙山の者なのだろう。ならば探し出すのは功にとって造作もないことだった。支度を整えて功は彼らの元へとんだ。
急に目の前に現れた功を見てそこにいた全員が驚いた。
「すみません。郭さんの気配を頼りにとんできてしまったので、勝手に家に上がり込んでしまったようで。」
功はそう言うと恭しくお辞儀をした。
「清廉賢母が一番弟子、楊功と申します。微力ながらご助力致したく参上いたしました。」
功のその台詞にどよめきが走った。
「お前、事情を知ってたのか?」
郭のその言葉に功は疑問符を浮かべた。
「この前お会いした時にきいたことしか知りませんよ。ただ、なんとなく師匠があなた達を助けろと言っているような気がしてきてしまいました。呼ばれてもいないのにすみません。」
そう言って笑う姿は沙依と重なった。
功は部屋を見渡すと少し目を細めた。
「ここには師匠の気配がしますね。師匠はここにいたんですか?」
その問いに郭はあいまいな表情を返した。何と答えていいのか解らなかった。それを見て功は何かを感じた様子だった。
「僕は本当に師匠に呼ばれたのかもしれませんね。あの人ならきっとそれくらいできるだろうし、直接、僕に会いに来ないということはきっと会うべきではないのでしょう。」
そういう功の姿はどこか淋しそうだった。功は郭に向き直ると聞いた。
「何をするつもりなのか今度はちゃんと教えてくれますか?」
郭は困った顔をして春麗に目を向けた。沙依との問答後、春麗はずっと何かを考えている様子だった。
「わたしはお父様を倒しにいくわ。」
それが春麗の出した答えだった。
「功さん。あなたは郭の気配を頼りにここにとんだというけれど、郭の気配ずっと見張っていたわけではないんでしょう?この程度のことは動作もないことなの?」
春麗のその問いに功はうなずいた。功には一体何を問われているのか全く分からなかったが、周囲の者が自分のその様子に驚いているのは伝わってきた。
「悔しいけれどあの人の言う通りわたし達じゃ足手まといにしかならないわ。ならあの人に言われた可能性に向かうしかわたしに道はないでしょ。」
そういう春麗の顔は、何かを諦めた様子だった。結局は沙依に言われた通りの選択をしてしまった。全ては沙依の思い通りに事が進んでいる、そんな気がして春麗の心境は複雑だった。
「功さん。わたしのお父様、天帝を倒すことに力をかしてくれますか?」
功が了承するのを確認して春麗は事情を話した。沙依のことは話さなかった。なんとなく沙依のことは話すべきではないと思った。ただ彼の師匠はこの世界を守るために女媧を倒しに行ったのだと、それだけを伝えた。彼女が世界を守ろうなんて思っていないことは解っていたがそういうことにしておいた。
「君たちの事情もわかったけれど僕は別行動をとらせてもらうよ。」
春麗の話が終わると太上老君はそう言った。
「確かに女媧との戦闘は沙依に任せるべきなんだろう。でも援護はできる。僕だってこの時の為に力を蓄えてきたんだ。沙依が何と言おうと女媧を倒すために自分にできることはしたい。僕は女媧の戦力を削るために封神台の破壊、封じられた魂の開放を目指そうと思う。」
太上老君の意思は強く固まっている様子だった。
「俺も老子を手伝うよ。」
将勇のその言葉に驚いたのは淑英だった。何か言おうとする淑英を将勇は遮った。
「考えてもみろよ。俺は戦闘向きじゃない。それこそどっちについて行ったって戦力にはならない。でも封神台の分解なら俺向きの仕事だろ。それにあんな凄い宝具、どうせ壊されるなら間近で見ときたいしな。」
そう言って笑う将勇をみて諦めたように淑英はため息をついた。
「ならわたしもあなたと行くわ。封神台がどれだけ厳重に警備されているのか知っているでしょ?あなたはどうせ作業に没頭し始めたらそっちしか見ないんだから、その間わたしがあなたを守ってあげる。わたしだってそれなりに強いのよ。そこら辺の仙人なんてみんな蹴散らしてやるんだから。」
そう言って腕まくりをする淑英は頼もしく見えた。
「他の皆はどうするの?」
淑英はそう言うと一同を見渡した。
郭はもちろん春麗と行く以外の選択肢はなかった。功もまた春麗を手伝う気でいた。心が決まっていないのは堅仁だけだった。堅仁はなにか思い詰めている様子だった。
「堅仁。これは強制じゃない。お前もここで引いていいんだぞ?」
去って行った磁生の姿を思い描いて、郭はそう言った。そうこれは強制ではない。少しの間昔に戻れたような気がしていたが、あの頃とは違う。それぞれ考えていることは違うし、自分たちは一緒にいなくてもいいのだ。淋しいような気がしたが郭はその事実を受け入れていた。
「私は郭達と共に行きます。」
そういう堅仁は覚悟を決めた様子だった。
「本気で戦うのなら私の援護が必要でしょ?あなたは突っ込むしか能がないんだから、自分がいないとどうしようもないのが解っていて、死にに行かせるわけにはいかないじゃないですか。」
そう言って笑う顔はなにか吹っ切れた様子だった。そう堅仁は解っていた。自分の援護が無ければ郭が全力を出せないことを。防御が苦手な彼が多くの傷を負ってしまう事を。解っていた。でもあの時堅仁は郭の前から去った。郭が一人でも戦い続けるのを解っていながら彼のもとを去った。淑英の言う通り向き合うべきだったのだ。去るのではなく、向き合って話し合うべきだったのだ、自分たちの在り方を。堅仁はそう思った。太上老君が結果的に友を裏切ってしまったとは違う。自分は自ら友を裏切ったのだと堅仁は思っていた。だからこそ今度は逃げずに最後まで友と戦おうと心に誓った。
「これで決まりね。お互いの武運と成功を祈りましょう。」
淑英のその言葉でそれぞれがみなそれぞれのことを想った。
出発直前淑英は春麗と対峙していた。お互い無事ではすまないかもしれない。そんな不安もあったがそれは口に出さなかった。
淑英は春麗の頬を撫でると心配そうな顔をして言った。
「わたし、あなたにこんな一面があるなんて全然知らなかったわ。でも、きっと昔からそうだったのね。」
その言葉に春麗はあいまいにうなずいた。
「わたしは天帝の娘。天上界の秩序を守ることがわたしの役目。それがわたしの誇りであり、支えだった。仙人界に来た頃の厳しい扱いに耐えられたのもその気持ちがあったからだった。」
そう言って春麗は目を閉じた。
「でもね淑英。あの時あなたが助けに来てくれて嬉しかった。なんてことをしてくれるんだとも思ったけど、すごく嬉しかった。そして皆と過ごせてわたしは幸せだった。ありがとう。」
春麗は笑った。その笑顔が最後の別れを告げているようでとても嫌な感じがした。だから淑英は目をそらした。
「郭。今だけはあんたのことお兄ちゃん扱いしてあげるから、春麗の事ちゃんと頼んだわよ。無事に帰ってこなかったら、承知しないから。」
淑英の剣幕に郭は肩をすくめ苦笑した。そして、いったいそれのどこがお兄ちゃん扱いしてんだよと言うと。淑英の頭を撫でた。
「将勇。妹を頼んだぞ。このじゃじゃ馬と付き合えるのはお前ぐらいだ。ちゃんと手綱ひいといてくれ。」
将勇に目を向け郭はそう言った。その言葉に淑英は怒り、将勇は無理だなと手を挙げそして笑い合った。
そして、彼らは決戦の地へと旅立っていった。
○ ○
合戦中の地上と違い天上界は静かだった。
「この平和な情景が既に侵略されているなんて、とても信じられない。」
そう言う春麗の目は憂いに満ちていた。
「女媧はもともと天上の皇帝。最初から天上界を束ねてから地上に降りることもできたはずなのに、何故そうしなかったのかしら。」
その問いに意味はなかった。それが解ったから誰もその問いに答えなかった。
問いの答えを本当は春麗はもう解っていた。答えは簡単なのだ。春麗の父が地上に降りた女媧の邪魔をしようとしていたから。だから邪魔者を排除した。それだけの事なのだ。女媧は天上に興味はない。だから天上は変わりなく平穏で、民はみな何事もないように過ごしている。だからこの戦いに大義はない。父を助けたいから、父を殺す。そういう事なのだ。それが逆に天上を震撼させることになるかもしれない。それが解る分春麗の心境は複雑だった。結局自分も沙依を責めることはできない。そう思って悔しくなった。
「行きましょう。案内するわ。」
そう言って春麗は歩き出した。
宮廷内も静かだった。静かすぎた。誰もいない。宮廷内に誰もいないなんてそんなことはありえなかった。
「これは完全に誘い込まれたな。」
郭のその言葉に反論するものはいなかった。しかしそれにしてもおかしかった。宮廷内に全く人の気配はなかった。誘い込まれたにしてもこれは異常だった。
「どうする?」
郭の問いに春麗は前を見据えて言った。
「正面から行くわ。」
今更隠れても意味はない。それは明白だった。玉座への扉を開けるとそこには天帝が一人で座っていた。広い謁見の間に天帝が一人。それは異常な光景だった。
「よく来たな、我が娘よ。」
天帝のその言葉に春麗は動揺した。
「お父様。意識があるのですか?」
その問いに天帝は答えなかった。
「春麗。知っているかい。かつて天上の神から賜った天上を治める術。わたしが与えられた力は未来を視ることだった。だからお前がここにわたしを殺しにくることはわかっていたんだよ。」
言っていることとは裏腹にその声音は優しかった。しかし天帝に見つめられると春麗は委縮し何とも言えない恐怖に包まれた。
「だからね春麗。宮廷に仕える全ての者を退けこうして待っていたんだよ。お前が来ることを。」
全員意識するより先に身体が動いていた。爆発音がし先程までいた場所は一瞬にして破壊されていた。術式を発動した動作も見られなかったにもかかわらず、この威力。これが天帝の実力。全員の顔に冷や汗が流れた。
「誰?」
春麗のその問いに天帝の顔が歪んだ。
「さすがは水耕神の娘。我が解るのだな。」
姿は天帝のままだった。でもそこにいたのは天帝ではなかった。
「何故、伏犠も水耕神も解ってはくれぬのだ?我はただ全てが愛おしいそれだけなのに。共にあってくれぬのなら、いらない。ここで死ねばぬし等もみな我のもの。」
そう言ってそれは笑った。それが戦闘の合図だった。
「無駄と解りつつあがく若き者よ。そのあがき、とても美しい。我は人があがく姿を見るのが好きだ。せいぜい我を楽しませておくれ。」
功が皆に結界を張って防御し、春麗と郭が反撃、堅仁が二人の術の制御を補佐するが、こちらの攻撃は全く当たらなかった。皆致命傷を避けることが精一杯の様子だった。それも避けきれておらず功がかけた結界によって何とか凌いでいるというのが正しい状態だった。確実に傷は増えていき、しだいに消耗は激しくなっていた。
そうやって必死に応戦する中相手が全力ではないのは理解できた。遊ばれているのだ。それが解る分、悔しかった。手も足も出ない現実が苦しかった。そんな状況が続いて暫く、天帝の動きが急に止まった。
天帝の姿をした何かが驚く様子があり、そしてそれは嬉しそうに笑って功をみた。
「地上の子よ。我が力を与えし者共はこれほどにまで力をつけたか。」
そう言うとその気配が消えた。功一人が疲弊し膝をついている。功が何かしたのは明確だったが、何が起きたのか他の誰にも解らなかった。
何かが去った後の天帝は、虚ろな目をして宙を見ていた。
「しゅんれい。」
微かな声だった。それでも娘の名前を呼んでいるのは確かだった。
「お父様。」
春麗は天帝に駆け寄った。彼女はそっと父の手を取り自分の頬にそれを当てた。
「わたしはここにいます。」
しかし天帝の目が娘をとらえることはなかった。まだ魂の形が失われていない今なら助けられる。沙依の言葉が蘇り、春麗は目を閉じた。お父様の魂はまだ完全に壊れていない。でももうこの目が何かを映し出すことはない。その事実が胸を締め付けた。
魂を一度魂の還るべき場所に還すんだよ。沙依の声が聞こえた気がした。春麗はハッとして周囲を見渡すがそこに彼女はいなかった。
「無理やり空間を切り離し、外部からの干渉を遮断させました。そんなに長く、この空間を維持することはできません。」
苦しそうに言う功の姿を見て春麗は今決断しなければいけないことを思い出した。
「今お父様を殺しても、お父様の魂は封神台に行き還るべき場所には還れない。」
目を閉じて春麗は考えた。決断の時だった。
「功さん。わたしをお父様と一緒に封じてくれる?すべてが終わったらわたしがこの手でちゃんと決着をつけるわ。」
そう言う春麗の顔は穏やかだった。春麗のその願いを功は受け入れた。封印するための道具はそろっていた。師匠からもらった腕輪。呪具としての強度や能力を考慮するとそれほど封印する媒体にふさわしい物はなかった。
「なんとなくこのために僕はここに来させられた気がします。師匠はこうなることが解っていたのでしょうか?」
誰にもそれは解らなかった。ただ彼女が全てを解っていたとしても誰も驚かなかった。全てが解っているのなら、清廉賢母その人はいったい何を成そうとしているのだろうか。
春麗は彼女のことを思った。もしまた会うことがあるのなら彼女に謝りたい。そう思った。
「準備が出来ました。」
功のその言葉に一同に緊張が走った。
「郭。堅仁。ここまで付き合ってくれてありがとう。」
そう言う春麗の笑顔に誰も何も言えなかった。
「郭。ずっと傍にいてくれてありがとう。愛してるわ。」
そう言って春麗は郭の頬を撫でた。
「しばらくのお別れね。」
その言葉を残し春麗の姿は天帝と共に消えた。
「これはあなたが持っていてください。」
功はそう言って郭に腕輪を渡した。郭は何も言葉にすることができなかった。ただ手にした腕輪を見つめていた。
「僕はもう限界です。空間が戻ったらちゃんと僕を連れて逃げてくださいね。」
そう言うと功は崩れ落ちた。とっさに支えた郭も支えきれず尻もちをついてしまった。みんなボロボロだった。戦闘でのダメージは確かにあったのだ。そんな中でこれだけの術式を功は一人でこなしていたなんて、郭には信じられなかった。
「騒ぎになる前に帰るか。」
全ては終わっていない。女媧が倒されるまでは終わらない。それは解っていたが、それでも自分がすべきことは終わった様な感覚に郭はなっていた。
ここにいる全員がそんな感覚に包まれていた。