二章ノ二
自分の勤務先。見慣れた販売機。いつもと同じように署内を歩いているだけなのに、水島の緊張感は半端なかった。
すれ違う同僚の顔が直視できない。それは心にやましいことがあるからだ。
顔色が悪くなるほどの心労を伴いながら自席につくが落ちつかず、辺りに気を配る。隠しごとがあると落ちつきがなくなるのは、ひとみにそっくりだ。
「岩下がひとみの家に……しかも自称キティとか名乗る奴も出てくるし……俺にこれからどうしろっていうんだ」
外敵がいるわけでもないのに隙なく周囲を見渡す。そんなことをする方がかえって怪しいのだが、気になるものは仕方がなかった。
机上に配布された書類を手に取り読むが、内容が頭に入ってこない。
諦めて目頭を押さえたところで扉が開いた。
「おはようございます、刑事!」
「おうわ!?」
「……おうわ? 珍しい挨拶ですね」
「お? おう、一之瀬。元気そうでなによりだ」
「はぁ」
無駄に引きつった笑顔を向ける水島に一之瀬は苦笑して席へと向かう。肩が濡れていることから、雨が降ってきたのだろう。
ハンカチで眼鏡についた雫を拭きながら一之瀬は落ちつこうとしない水島を見る。
「どうしたんです? 変なものでも食べました?」
「いいや、断じて変なところはないぞ! 俺は元気そのものだ! あ、はは、ははは!」
平静を装いながら腕を動かす水島。顔が強張った状態でカクカクと腕を動かすその様は、どう見ても奇行だ。
一之瀬も訝しがってか水島へと近づく。
「……怪しいです」
「あ、怪しくないぞ!?」
「休暇をとって休んだはずなのに」
眉を寄せてひとしきり悩むと顔を上げ、次いで一之瀬は掴みかからんばかりの勢いで水島の腕を取った。
強引に腕をとられた水島は盛大に汗を流す。絶体絶命とはこのことだろう。
「まさか、岩下を見つけ――」
「なぁいないないない!」
「――ようとして、綺麗な女性に出会ったとか?」
「――へ?」
あまりにも間抜けな声が耳に届いた。
水島を解放すると一之瀬は部屋の角に置いてあるコーヒーメーカに水を足し、スイッチを押す。
「そうですよね、刑事の歳なら恋人の一人や二人いてもおかしくないですから」
警察署に常備されている、くそ不味いコーヒーの粉を目分量でフィルタに落とし、セットする。
しばらくすると、けして旨そうとは思えない軽薄な香りが漂ってきた。
「二人いるのはおかしくないか?」
「やはり彼女は気が強い方ですか? それとも、おしとやかなタイプですか?」
「いや、俺は彼女なんて――」
自身の中で話が完結したのか一之瀬はしきりに頷く。微笑ましく見られているのは気のせいではないだろう。水島は弁解すればいいのか、それともこのまま話を流せばいいのか迷った。
誤解されても困りはしないが、嘘をついているようで複雑な気分だ。かといって真実を公にできるのかと問われれば無理なのだが。
コンココンと軽快なノック音が聞こえると、返事を待たずして扉が開いた。そこから出てきたのは今朝方、村田家で別れたはずのキティ。
「おーい、みずっちー。お弁当だよー」
「うぉおおおお!? なにしに来たぁあ!!」
彼女を見た瞬間、心臓が飛び出すかと思えるほどに驚く水島。
警察署に平然と、しかも素顔のまま登場する犯罪者。
一之瀬もキティをまじまじと見ている。部外者を注意深く観察するのは刑事として間違った行為ではないが、どうか今だけはやめてくれと水島は切実に願った。
一之瀬から隠すようにキティの傍に寄り、腕を掴む。
「ちょっとみずっち、ンなに掴まないでよ、痛いから」
「なに、しに、きた!」
「なにって、お弁当を届けにきただけよ、ハニーv」
怒気を孕んだ声で威嚇するがキティには効果がなく、鼻先をぷにっと押される。差し出されたのは紛れもなく弁当だ。
「ひとみちゃんが渡し忘れたからって」
「そうか」
ひとみが弁当を用意してくれていたとは思わず、自然と緩みそうになる頬を引き締める。ここは警察署で、犯罪者がいていい場所ではない。
関係が露呈するのを恐れるよりは、キティを早くこの場から立ち去らせ、安全な場所に行かせなければと、水島の頭にはそれしかなかった。
多少強引にキティの肩を掴み、先ほど彼女が出てきた扉へと方向転換させる。
「ほら、さっさと家に帰れ、ダーリン」
「いやん、ハニーってば冷たい。会いたくて会いたくて、会いに来たのに」
無理やり動かされたことに苛立ったのか、笑顔ながらに眼が笑ってないキティが水島に抱きつく。
その一瞬で、水島の脳内は真っ白になった。鳥肌も立った。
もとより女性に抱きつかれた経験のない水島だ。甘い匂いと柔らかい肌、それが自身の近くにある状態に脳が活動をやめた。
キティは抱きついたまま水島の頬を抓っていたのだが、直立したまま動かない彼を見ると意識確認のためかヒラヒラと手を振る。
意識がないとつまらない、と言いたげに水島から離れるキティ。一之瀬はキティを害なしと見なしたのか、できたコーヒーをすすっている。
「大胆な彼女さんですね」
「そうなんです! みずっちは大胆な女性が好きで」
「そうなんです、じゃない! 嘘っぱちを一之瀬に教えるな!」
「つれないわ、ハニー。こんなに愛してるのにっ!」
「腰に手を当てて目薬さしながら言うやつのことなんざ信じられるか!」
「あー、眼、乾燥して痛くてね」
目薬を差しながら愛しているとのたまうキティ。彼女の告白には一ミリの愛情も感じられない。
水島はできる限り自然に見えるようにキティへと近づいた。
「おい、もう帰れって! お前ここがどこか知ってんだろ!」
「うーん、たまには敵情視察もいいよね」
「おい!」
見つかれば、どれほど危険かなど分かっているはずだ。それなのに、余裕な表情で悠然と部屋を見回るキティ。
関係を暴かれれば水島も懲罰対象になるだろうが、そんなことが問題ではないのだ。
「危ないから帰れ!」
剣幕が酷く険しかったせいか、キティが一瞬とまった。
じっと水島の顔を見て、
「っぶ……あっはっは!」
部屋中に響き渡るように爆笑しだす。
「おま、人の顔見て笑うとか失礼じゃ」
「分かったよ。家で大人しくしてるから」
ニヤリと笑い、またしても水島の鼻を押すキティ。意味など彼女に訊かないと分からないだろう。そもそも、この行為に意味があるのか甚だ疑問だ。
「今日は早く帰って来てね? とっておきの料理を作るから」
「はははは、ダーリンは我が侭だな。お前の飯なんて食えるかって感じだよ」
相手を殴るにも殴れないので、拳を震わせながら水島は額に青筋を浮かべた。
機嫌がいいのかキティは頭をゆらゆら揺らしながら、同じように人差し指を揺らしている。
「ツ・ン・デ・レ・さんv」
「誰がだ!」
「はー、水島刑事、やっぱり彼女がいたんですね」
「一之瀬、誤解だ!」
「それじゃ、あたし帰るね」
「おいお前――ったく、人の話を聞かない奴だ」
ウインクを一つ残して退室するキティに、水島は頭を抱えて座り込んだ。
彼女の去ったあとは台風のようで、ひらひらと資料が一枚、宙を舞って落ちた。それを拾いながら一之瀬が振り返る。
「いいんですか、彼女さん」
「いいんだよ」
「でも、お弁当、届けに来てくれたんですよね?」
少しばかり咎めるような口調に、水島は手元の弁当を見た。
キティが善意で届けにきてくれたとは考えられない。ではなぜ、ここに来たのか。ひとみが頼んだのだろうか。いや、ひとみの性格なら遠慮するだろう。では岩下の指示か。なんのために。
「少しくらい話をしてきてもいいですよ」
「そう……だな」
一之瀬の言葉に頷きながら水島は手にある弁当を持ち直した。今ならまだ追いつくだろう。
「……少し、行ってくる」
「はい、誰か来たら適当に誤魔化しておきますね」
「サンキュ」
言って水島はキティのあとを追う。
閉まる扉の中、消える背中を見送る一之瀬は水島の姿が完全に見えなくなると携帯を取り出し、
「もしもし、間宮警部ですか。少しお話したいことが」
静かに眼を伏せた。




