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二章ノ一

 朝起きて、いつもと違う場所であることに戸惑わなかった自分を岩下は少しだけ褒めた。

 昨晩、部屋に忍び込んできた少女を自室に戻し、ただでさえ少なかった体力が底を尽き、ベッドに倒れたところまでは覚えている。

 腹部の傷は痛むが、もう生死の安否を心配する必要はないだろう。

 カーテンを引くと部屋に差し込む明るい光。

 窓を開けると冷たい風が髪を揺らす。

 部屋を出るとちょうど通りかかったのか、前髪が全力ではねているひとみと出会った。岩下を見ると急に額を隠し、洗面所に駆け込むひとみ。

 トイレからは盛大に寝癖のついた水島が欠伸をかみ締めながら出てくる。片手に新聞を持つ姿は、オッサンと称しても過言ではないだろう。

 当然のように交わされる朝の挨拶あいさつ。パジャマ姿の自分。

 用意される朝食を食べて、テレビを見て、会話する。これはいわゆる日常。

 おかしいだろうと、状況に不服を申し立てる人はいなかった。

 そうこうしていると通勤、通学の時間になる。

「では、行ってらっしゃい」

「はい、行ってきます!」

 玄関に出れば天候はあいにくの曇りで、しかしなにげなく手を振れば、振り向いて満面の笑みを返すひとみ。

 純朴に、ただ純粋に現状をうれしがる様子に岩下の心は沈んだ。

 この状況を壊したいのか、永遠に続いてほしいのか。対極の感情が心に渦巻いている。 

 ふと後ろに気配を感じると、キティも起きてきたのか玄関に出てきた。

「おはーよ」

「おはようございます、キティさん」

「んー、……学校? 気をつけてねー」

「はい」

 眼が開いていない状態で手を振るキティに、ひとみは笑ってうなづく。

 その隣ではようやく脳が活性化しだしたのか、疑問を抱いた水島が変な顔をしている。

「なんでお前ら、普通に馴染なじんでるんだ……」

「こらこら、細かいこと気にしない、禿げるぞ?」

 寝ぼけているのだろう、キティは水島のネクタイを引っ張りながら笑っている。

「お前らと一夜をともに過ごしておいて、平常心でいろというのは無理だろう」

 ネクタイを離せと暴れる姿が面白いのか、キティは水島にしなだれかかるように抱きついた。

 往来でかなり注目を浴びているが、当人たちは気にしていないらしい。

 岩下もキティも顔出し指名手配犯なのだが、日常に溶け込めばそれほどばれるものでもないのか、ご近所はいたって普通だ。

「煩いなー。首絞めるよ?」

「もう絞めてんだろ。おいこら、放せ!」

「あー、朝っぱらからウザイね、みずっちは。あたし低血圧だから」

 遊ぶのに飽きたのかキティはネクタイを放した。急に放された水島はよろけながら当惑した顔をする。

「みずっち?」

「アンタの名前」

 指差され、たじろぐ水島。そんな姿を見ながら岩下は内心でため息をついた。

 あれではいつまでっても女の尻に敷かれることだろう。昔からそうだが、水島は強気な女性に弱いのだ。注意してやる義理も理由も道理もないので、言うつもりはないが。

「んー」

 筋肉を伸ばしているのか、爪先立ちをしながら、なにやら思案顔でキティが腕を組む。

「ひとみちゃんはそのままで、研ちゃんは……ケンケン?」

 指を向けられる。今、十中八九、あだ名を決められたのだろう。

 笑顔でなにを決めるのだとキティを問いつめようとした瞬間、横からうれしそうなオーラが漂ってきた。

 誰からかなど、考えるまでもない。

「……ケンケンですか」

 口元に手を当ててうれしそうに、実にうれしそうに岩下を見るひとみ。そんな彼女に対して岩下は苦笑するほかなかった。もしここでキティをとがめようものなら、ひとみの顔から笑顔が消える。それを見越してか、キティは余裕の表情だ。

 とりあえずはうれしがるひとみに顔を向け、

「ひとみさん、そんなにうれしそうに見ないでくれませんか」

 忠告をしておく。

 額に青筋が浮き出ていないか、少々自信はないが、とりあえず笑顔で通す。

「あ、ごめんなさい。でも、可愛いと思うのに」

「あらら、ケンケンってば照れたりしてる?」

「黙りなさい、キティちゃんv」

「う、あい」

 ひとみに向けたのとはまた異なる笑顔をキティに向けると、彼女は眼を糸のように細め何度も頷いた。

 あとで訊いたのだが、そのときの岩下の顔はとても優しげで恐かったそうだ。

 そんなやり取りを傍目に見ていた水島は頭をかいて、

「なんだかなぁ」

 と呟き、自身の腕時計に眼をやる。

「いけね、遅刻する。んじゃひとみ、また夜に来るな」

「え? 今日も来てくれるの?」

「岩下とキティがいる場所に、お前を一人で置いとけるわけないだろう」

「大丈夫だよ?」

「大丈夫じゃないんだ、俺が!」

 言って走り出し、

「岩下、きちんと留守番してろよ。あと逃げんな、絶対! じゃな」

 大きく手を振ると電柱にぶつかりそうになるのをなんとか避け、視界から消える水島。

 岩下とキティは顔を見合わせる。

「みずっちてさ、ケンケンを捕まえたいんだよね?」

「だと思いますが?」

「甘いね」

 警戒心を持たれても困るのだが、ここまで信用を向けられると話は別だ。

 水島の甘さは彼の性格ゆえだろうが、それは犯罪者にとってつけ入るすきでしかない。

 人を疑いたくないという彼の人柄を否定するわけではないが、刑事という肩書かたがきを持つのであれば、人を疑い、突き放す強さも兼ね備えなければいけないだろう。

 誰にでも甘く、心を許してしまうようでは本当に大切なものは守れない。

「……私は今日一日、まだここにいるんですね」

「怪我が治るまで出て行っちゃ駄目ですよ。あ、あと岩下さんたちのお昼ごはんなんですけど……あぁ!!」

「どしたの?」

「亮ちゃんにお弁当、渡すの忘れてた」

 肩を落として水島の去ったあとを見つめるひとみ。しかし、当然のことながら水島が帰ってくるはずもない。

「うーん、でも、もう学校に行かないと遅刻じゃない?」

「いまから、走ります!」

 かばんを持ち直して走り出そうとするひとみ。そんな彼女の手を岩下はふわりと掴んだ。

「キティが届けますから、ひとみさんは学校に行ってください」

「え、でも」

「遅刻は厳禁、でしたよね?」

 記憶に間違いがなければ、ひとみは遅刻をしない主義だ。無論、学生にとって遅刻などしない方がいいに決まっている。

 昼食を抜いたところで水島が倒れるはずもないので放っておいてもいいだろう、というのが岩下の意見だが、せっかく用意した弁当を無駄にするのもどうかと思う。

 ひとみはしばらく迷ってから自身の腕時計を確認し、届けている時間がないと判断したのだろう、申しわけなさそうにキティへと弁当を差し出した。

「……お願いしても、いいですか?」

「うん? あ、OKOK」

「二人の食事は冷蔵庫の中に入ってますから」

「りょーかい」

「じゃあ、行ってきます!」

 笑顔で走っていく少女。

 それを見送る自分が、どこか違う世界の住人のようで岩下は人知れず息をはいた。

 ベルを鳴らしながら角を曲がる自転車。園児を連れて歩く保育士。ガラガラと音を立てる乳母車。母親は子守唄を歌いながら歩いている。

 ふと、キティが低く口を開く。

「……ねぇ、研ちゃん」

「なんですか?」

「なんか変じゃない?」

「……そうですね」

 彼女がなにを指して変だと言ったのか、岩下には分かっていた。

 眼の前の日常に対してではない。

 岩下は玄関前にある郵便ポストを開ける。チラシが一通だけ入っていた。

「普通、家の中にさ、盗聴器とかってある?」

「ないでしょうね」

 昨晩の間に確認できたのは二つだ。リビングと玄関。その他は見ていないが、まだあると踏んで間違いないだろう。

「ここ、ひとみちゃんしか住んでないんでしょ?」

「そのはずですよ」

 普通の家に盗聴器などあるはずがない。親が子供の様子を確認するために設置する話は聞いたことがあるが、水島は必要に駆られでもしない限りしないだろう。

 盗聴器は元来、相手を監視するために使用するものだ。

「逃げる? 今なら捕まらないと思うよ」

 盗聴先の相手に犯罪者との接触が知られている水島は職を失うだろうが、そんなことを気にしてやれるほど岩下は優しくない。匿ったのはあちらなのだ。

 しかし、誰がなんのために盗聴器を仕掛けたのか、それには興味がある。

「帰りたいなら一人で帰りなさい。私はここにいます」

「ひとみちゃんに怒られるから?」

「……そうですね」

 思い出すのは過去の出来事。いつだったか大怪我をした岩下を見たひとみが、それはもう盛大に泣いたのだ。

 自身をいたわる気がない岩下にとって、その出来事はひど(こた)えるものだった。慰めようにもひとみは岩下の怪我のせいで泣きじゃくっているのだ。

 痛いと、誰かの苦しみを感じ取って泣く少女。感受性の強い子供にはよくある話だが、当時の岩下はどう対処していいのか分からず、途方に暮れた。それからというもの、ひとみに泣かれると困り果てるのだ。

 帰宅したとき岩下が家にいないと知れば、ひとみはきっと泣くだろう。彼女のためにはその方がいいと知っていた。犯罪者と関わり合いになるべきではない。

 岩下自身、盗聴器を見つけるまでは今日、出て行こうと考えていたのだ。

「研ちゃんってさ、ひとみちゃんのこと好きなの?」

「さあ、どう思います?」

「そーゆーはぐらし方、好きじゃないなー」


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