一章ノ六
ふらりと、なにかが揺れていた。その光景だけで自分が夢を見ているのだと瞬間的にひとみは理解した。過去にも同じような光景を何度か見たことがある。
頭上に見えるなにか。その正体を確かめようと眼を凝らすが、光のせいで直視できない。
黒く、棒状の物体だろう。しかし、ソレが頭上にあると認めたくないひとみの前では実体をなさず、ゆらゆらと不確かな形を保っている。
ここにはいたくない。そう強く思う心に従い走り出すのだが、どこまで行っても果てがなく出口が見つからない。
ここにいたくない、誰かここから出してくれと、泣きそうなほどに顔が歪んだ。けれど、誰かが現れることなどない。
切れる息。身体が重い。あふれる焦燥感の手前、足をとめることもできない。
恐いのだ。立ちどまればきっと、頭上にあるものが自分を押しつぶしてしまう。
ふと足がもつれ、無様にこけた。刹那、自分の上に大きな影が幾筋もできる。
振り仰ぐ暇もなく迫ってくる影たち。逃げられない。誰も助けてくれない。
あれに潰されてきっと、死ぬんだ。
飛び起きて恐怖に身体が支配されるなど、そう何度も経験したくはない。しかし不運なことに、ひとみは今が初めてではなかった。
無意識で震える身体を落ちつかせようと抱きしめる。冷えているのか、自分の身体から温かさが感じられなかった。
ベッドの上で、ぎゅっと縮こまる。
夢を覚えていないのだ。分かるのは、とても恐かったということと、自分が必死になっていたということだけ。鼓動が早鐘のように脈打っている。
「……また、夢見たんだよね。覚えてないなぁ」
暗い部屋でどれだけ眼を凝らそうとも、誰もいるはずがない。
フルフルと何度か首を振ると、ひとみは布団を退けた。
「水、飲も」
部屋を出てリビングに行くと、キティが壊した窓から風が入ってきていた。
破片は片づけてあるので危なくないが、どうやって直したらいいのか迷う。
ソファーではキティが、床では水島がそれぞれ寝ている。
見慣れた部屋、そこに人がいるだけで、これほど違う印象になることをひとみは初めて知った。祖母が他界して以来、この家の住人は一人だけで、それを寂しく思う日もあるけれど、今日ほど寂しさを実感した日はなかった。
ぽんぽんと頬を軽く叩き、気持ちを切り替える。
「亮ちゃん床で寝て、身体痛くないのかなぁ」
二人を起こさないよう細心の注意を払いキッチンに立つと、冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを取り出す。
「そういえば、岩下さん」
コップに水を入れていると、ふと岩下のことを思い出した。
怪我をしていた岩下は客間を使っている。
リビングに二人がいるということは、誰も看病をしていないのだろう。
ミネラルウォーターを冷蔵庫に戻し、水を口に含む。
「……様子、見るだけなら、いいよね」
言って、ひとみは客間へと足を向けた。
扉を開くと小さな音がして、それだけで岩下が起きてしまうのではないかと内心びくびくしていたが、どうやら無用な心配だったようだ。
近づくと、整った顔が見える。それだけで、飛び起きたときの恐怖が和らぐようだった。
ゆっくり、刺激をしないように岩下の額に触れる。
「……熱い。やっぱり熱があるんだ」
意識がない状態では薬など飲めない。かといって氷嚢を使うほど高い熱ではない。
ひとみは迷った末、少しの間ここにいて様子を見ることにした。
自室に戻っても直ぐに寝つけそうになかったのだ。
布団からはみ出している岩下の手が見える。
大きく、自身のものと比べると随分と差がある手。この手がいつでも頭を撫でてくれた。
そのたびに嬉しさと、恥ずかしさが心に灯ったのを覚えている。
「岩下さん」
部屋に声が響く。起こしてはいけない、そう思うのに唇が開いてしまう。
「夢を見るの。……たぶん、恐い。でも、覚えてなくて……」
床に座り込むと、視線が丁度岩下の手にとまった。
月明かりに照らされた部屋の中、死人のように眠る人。
ひとみは少しためらったが、出ていた岩下の手をそっと掴んだ。
「ちょっとだけ、ちょっとだけでいいんです」
いつかはこの家を出て行く人。それを考えると泣きたくなるけれど、引きとめることもまた、できないと知っている。
「手を握っていてもいいですか? 明日、きちんと笑うから」
不細工に笑って、ひとみは眼を閉じた。
その数分後、彼女は寝入ってしまう。
だから気づかなかったのだろう。彼女の手を、確かに握り返した力に。