一章ノ三
見えるものは懐かしさを含んでいた。
四年前と変わらずにあり続ける玄関の置物。壁に飾られたパズル。リビングに入るとラック棚が見え、その上にはいくつも写真が飾ってある。
その全てに見覚えがあり、岩下は軽く眩暈を覚えた。
「信じられませんね、本当に私を家に上げるとは」
小さく呟いた声は壁にぶつかって砕ける。
なぜここまでついてきてしまったのか。手負いとはいえ、途中で逃げおおせることは容易だったはず。しかし自分はここにいて、彼女の傍にいる。
「適当にくつろいでください。って言っても、なにもない家ですけど」
ひとみからバスタオルを渡され、立ち尽くす。
パタパタと駆け回る少女。
所在がない岩下は写真立てに眼をやり、そこに自分の姿を発見した。
昔、一緒に撮った写真だ。画の中の彼はにこやかに、実に幸せそうに笑っている。
「……ひとみさん」
「なんですか?」
意図せず唇から零れた言葉に返事があったことに驚いたが、その驚きは表情に出なかった。
数年の間に面の皮が厚くなったのだろう。首を振って写真立てから眼を逸らす。
「いえ、なにも」
「そうですか。じゃあ、効くかは分かりませんけど鎮痛剤とか薬一式、ここに置いておきますね」
言ってひとみは救急箱を机の上に置き、またリビングから出て行く。
振り向けば、どこを見ても蘇る思い出。
料理を作ったこと、背比べをしたこと、泣かせたことも、テレビを見て笑ったことも、覚えている。
昔、確かに自分はこの場にいて、彼女の傍で笑っていた。
鮮明に思い出せるそれらは愛おしさと、虚しさを与えてくれる。
懐かしさを感じるたびに突き刺さる痛みが、許されない場所で寂寞を抱く岩下を苛んだ。
「これ、服のサイズが合えばいいんですけど」
リビングに戻ってくると、ひとみはおずおずと服を差し出してきた。まだ封の切られていない服だ。
「亮ちゃんのために買っておいたものです。新品だから」
「ありがとうございます」
流石に血まみれで歩くわけにもいかないので受け取る。
ふと、ひとみの視線がこちらを向いているのに気づいた。
「なにか?」
「あ、あの、なにか食べれそうなら用意しますけど」
「料理……作れるんですか?」
「あ、今なに作るつもりだこいつ、とか思ったでしょう! あれからもう四年も経つんですよ。私だって料理の一つや二つできるようになってます!」
「そうですか。それはそれは」
むくれて睨んでくる少女を見下ろす。その顔が緩んでいるのに気づき岩下は表情を固くした。
無意識とは厄介なもので、つい昔のように、ひとみの頭を撫でそうになった自分に戸惑う。
馬鹿なと思いながらも現状を嬉しがる心は正直で、逆にそれが岩下の不愉快さを増加させる。
高をくくっていたのだ。懐かしさの滲む場所に来ても、ほだされたりなどしないと。その自信が岩下にはあった。
だが事実は違う。
あふれ出す愛おしさ。自然に、さも当たり前のように与えられる心配の念や労わりの声。
それらが傷口に染みて、ジワジワと抉るように責めてくる。
来るべきではなかったと、今更ながらに後悔した。
「岩下さん?」
疑うことをしない眼が見上げてくる。
世の中は思うほど綺麗ではないと、懐疑の念を持たなければ騙され裏切られるのだと、眼の前の少女は知らない。
見ることも、触れることもないのだろう。そんな世界に生きるのは自分のように薄汚れた人種だけで十分だ。
「いいえ、なんでもありませんよ」
一瞬、少女の口が開いた気がした。
そんなことはない。ひとみは心配げに岩下を見ているだけだ。
だが岩下の脳では、ひとみがそう告げた。
――嘘つき、と。
「ご飯は……なんでもいいですよ。ひとみさんの作りやすいものを作ってください。あと、使わない薬は処分した方がいいですよ? 間違えて飲むと大変ですから」
「整理整頓しない、ズボラな奴ですみません」
不安げな表情をしたかと思えば、頬を膨らませて怒るひとみ。感情豊かなところも、昔から変わっていない。
「いいえ……」
短くそう告げて岩下は眼を伏せた。コロコロと変わる表情を見ていると、非難する脳内のひとみは消える。
それに安堵を覚える自分は、認めたくないが情けない。
「しかし、変わりませんね、あなたは」
「岩下さんだって、変わってませんよ」
「変わりましたよ。私は今、犯罪者ですから」
皮肉を舌に乗せれば予想どおり、不満そうな顔をする。
「……そういうこと言う岩下さんは嫌いです!」
「おや、私は好かれていたんですか?」
「どうしてそんな言い方――」
くいかかってこようとしたひとみを制したのは、玄関のベルだった。
二人して玄関を見るが、そんなことで訪問者が分かったりはしない。
「誰だろう?」
予定にない訪問者なのか、首を傾げるひとみ。
再度、高い電子音が訪問者を知らせると、慌てて呼び出しボタンを押しにいく。
「……あ、まずい」
インターフォンの画面で訪問者を知ると、ひとみは顔を青くした。
状況が分からない岩下は服を持ったまま立ち尽くすのみ。
「岩下さん、隠れてください! ばれたらまずいです」
「ひとみさん?」
背中を優しく押される。
「いいですか、いいって言うまで出てきちゃ駄目ですよ」
人差し指で注意され、有無を言う暇もなく、岩下はひとみの部屋に押し入れられた。
◆ ◆ ◆
水島は玄関の扉が開くのを待っていた。差した傘からは雨水がしとしとと垂れてきている。
午後の降水確率は四〇%だったと記憶していたが、どうやら天気予報は外れたらしい。
雨の中、久方振りに仰ぎ見た従兄妹の家は随分と大きい庭つき一軒家。
家族用に購入されたこの家に、現在住んでいるのは一人の女子高校生。
暗がりのせいか、家がどことなく寂しげに見える。
扉が開いた。
「亮ちゃん」
聞き慣れた声が聞こえると、従兄妹の顔が見える。
「よ」
急な訪問を詫びるために持参した土産を掲げて挨拶すると、いとこ――村田ひとみは顔を引きつらせた。
「急に、どうしたの?」
こちらを窺い見る様子に違和感を覚える。
いつもなら手放しで喜んでくれるのだが、なにか後ろめたいことがあるのだろう、声色がおかしい。
「まぁ、たまにはな。ここらへん治安も悪いし、ほら、ひとみの好きな桃マン」
土産を差し出すが受け取られない。
さ迷う視線は一所に定着せず、無論、水島にも向けられない。
「へー、そーなんだー、でも大丈夫だよー、私一人でなんでもできるから」
焦り故か、ひとみの挙動がおかしくなっている。
注意を逸らしているつもりだろうが、その不自然な行動は却って注意を引いている。
とりあえず黙って様子を見ていることにした。
「亮ちゃんがいなくても大丈夫、大丈夫」
ガッツボーズ。いや、ファイティングポーズをとるひとみ。
両腕をバタバタさせて、水島を玄関より奥に入れないようにしている。
きゅぴん、と水島の眼が光るまで時間はかからなかった。
「だから――」
「ひとみ!」
「う、はい!?」
「なにを隠してる」
確信を持って問いかけると、ひとみの表情が歪んだ。それだけで明白すぎる答えだったが、水島はさらに詰め寄った。
詰め寄られたひとみは、じりじりと後退する。
「なにも隠してない! なにもいない! なん、でも、ない!」
通せんぼするように両腕で進路を塞ぐひとみを軽く退け、水島はリビングへと向かう。
こういうときは隠しごとの元を見るに限るのだ。
「まーたペット拾ってきたのか。あれほど駄目だって言っただろう」
心優しい従兄妹は、よく捨て猫を拾ってきては家に匿う。
たとえそれが善意からの行為であっても、責任を持てない子供である以上、ペットを飼うことは許されないのだ。
リビングに動物がいる形跡はないので、水島はひとみの自室に眼を向けた。と、慌ててひとみが水島の腕を引っ張った。
「あー駄目! 乙女の秘密を覗くのは、いくら亮ちゃんでも駄目なの!」
「その慌てよう……」
ばたばたと手を動かして、なにかを隠そうとするひとみに水島の口元が歪んだ。
「分かったぞ、男だな! 彼氏を家に連れ込んでんだろう!」
「え? ……いや、そうじゃなくて」
「別にな、兄ちゃん、ひとみの恋愛について口出すつもりはないぞ。でもな、まだ高校生だ! 分かるか、まだ高校生! 不純異性交際は、この俺が認め――」
水島の言葉が切れた。いや、切らざるを得なかったのだ。
彼の眼は今しがた、ひとみの部屋から出てきた相手に釘づけになる。
「煩いですよ。近所迷惑ですから、もう少し声のトーンを落としてください」
顔を覗かせたのは長年探し続けてきた元バディ。知らず知らずの内に口が開く水島。
「あー、見つかっちゃった」
しゅんと、肩を落とすひとみ。
そんな彼女の横に立ち、自身に向けられる不躾な視線に岩下は不機嫌そうな顔をした。
「なんです、人の顔をジロジロと。あぁ、挨拶が遅れましたね、こんばんは、水島くん」
さも当然のように寄越される軽い挨拶。その懐かしい声色が耳に届くと同時に、
「岩下ぁー!?」
水島は叫んだ。