一章ノ二
雨は静かに降り続けていた。
六月半ばに入り、気象予報士が入梅を宣言したばかりだ。
春に咲いた花が散り、湿気に嫌気がさす時季。OS公園前警察署の廊下ではバタバタと忙しく足音が響いていた。
ある所では怒鳴り散らす刑事、またある所では居心地悪そうにする少年、と思えば苦情を並べる老婆。多種多様な人がOS公園前警察署を訪れている。
そんな中、一際寂れた場所があった。
玄関ホールを入って左手、長い廊下のドンつきにある部屋。
蜘蛛の巣が張った窓ガラスにコンコンと当たる雨雫。
音色を奏でるそれだが、音を楽しむ甲斐性のない水島亮太郎は音を立ててコーヒーをすすりながら資料を漁った。
見慣れた部屋は雑多としており、叩けば埃が舞うだろう。水島がここに来てから部屋の掃除などした例がない。
机上にも床にも犯罪者のファイルが山積みで今にも崩れ落ちそうだ。
「一通り資料、そろえましたよ」
扉が開くと同時に凜とした声が響いた。
規則正しいヒール音を奏でながら黒縁メガネの女性が近づいてくる。年は二十前半、ベリーショートの髪は冬場ではさぞ寒いだろう。
利発そうな顔を持つ彼女は水島の前まで来ると資料を差し出した。
「ご苦労さん。外が騒がしいが、なにかあったのか?」
「谷本警視が亡くなったじゃないですか。その引継ぎだそうです」
「桜州会一斉検挙の英雄がね……」
桜州会とは日本第二位の規模を保持していた暴力団組織の名だ。人身売買に、密輸、脅迫、強盗、詐欺、道徳に背く行為を好んでし、国民から酷く疎まれていた組織だった。
それが数年前に谷本警視により一斉検挙され、テレビでも一躍有名になったのだ。
桜州会が解散した後は、分家である会津組が第二位を名乗っていると聞く。
どれだけ撲滅してもわいて出てくる虫のようだと、苦笑しながら上司が言っていたのを覚えている。
「と、それどころじゃないな。一之瀬、あれから岩下の足取りはつかめたか?」
「いえ。ですが、興味深いことが判りましたよ」
真面目な顔のまま水島の部下、一之瀬里奈は資料の一部を指差した。
「田川の証言によると、今回の事件は岩下を殺すために計画したようです」
「なに? じゃあ奴ら、最初から岩下を殺すつもりで仲間にしたのか?」
「そのようです。仲間を装い、裏切り、殺すつもりだったと」
「裏切りねぇ……」
今朝方、ABC公園で殺傷死体が発見された。検死結果より身元は木城徹と断定。
木城は暴力団、会津組の舎弟で、数日前に起きた銀行強盗犯の一人だ。
彼らは銀行強盗を行った後、実に鮮やかな撤退術を披露した。
証拠一つ残さない撤退に退路が特定できず、捜査が暗礁に乗り上げていたのだが、今朝見つかった死体より強盗時に使用された拳銃が発見され、芋づる式に主犯である田川までこぎつけたのだ。
今までの手口、彼らの性格から考えても、証拠を残さず現場を去るなどできるはずもない。
誰かが背後で指示していると、その考えに至るまでさほど時間はかからなかった。
「そうするとだ、今朝ABC公園で見つかった仏さんは、岩下を殺そうとしたが逆に殺された、ということか」
「分かりません」
「ん? しかし、木城は殺されて――」
「鑑識の結果、凶器に付着していた指紋は木城のものだけでした」
一之瀬の言葉に水島は唸った。
指紋がついていないということは、もし岩下が木城を殺害したのであれば、背後から抱え込み木城の手を持って彼の腹部を刺したことになる。
しかし、木城の衣服には争った跡が見られなかった。
「岩下が殺したわけじゃない?」
意見を求めるように一之瀬を見るが、彼女は首を振る。
「判断しかねます。情報が少なすぎて……。そういえば」
「なんだ?」
「指紋は木城のものだけだったのですが、血液型は二種類検出されたそうです。木城のB型と、A型」
一之瀬の言葉に水島の表情は険しさを増した。
「……A型」
声を出した瞬間、苦虫をかみつぶしたような居心地の悪さが圧しかかってくる。
A型の血液を持つ相手に心当たりがあるのだ。岩下研一、彼の血液は確かA型だったはず。
「それで、報告はそれだけか?」
「あ、いえ……えーっと――」
一之瀬は慌てて資料を睨みなおす。
しかし、彼女が再び口を開く前に水島は不味いコーヒーを飲み込み、上着を片手に席を立った。
「岩下がいた形跡があるならABC公園付近を捜すとしよう」
歩き出す水島に一之瀬が慌てる。
「待ってください刑事、銀行強盗事件については既に本部が解散しています」
「は? 岩下がまだ捕まってないだろ?」
「ですが本部は先ほど解散したと、間宮警部より連絡がありました」
「どういうことだ?」
まだ犯人が残っているのに捜査本部を解散するとはどういう了見なのか。
これについては一之瀬も知らないらしく、首を振るだけだ。
「上層部の決定だそうです。これ以上捜査はしないと」
「ざけんなよ、ンなの納得できるか」
「刑事! いけません、本部が解散した以上、個人捜査は命令違反になります」
「知ったことか」
事件が起きて被害者がいる以上、このまま事態を放置しておけない。たとえ本部が解散しても調査を続ける。
無論、褒められた行為ではないし規律違反だが、岩下が絡んでいる以上、大人しく引き下がることはできなかった。
「一之瀬、これは俺個人の調査だ。お前は間宮警部にでも仕事もらえ」
言って立ち去ろうとする水島の腕を一之瀬が掴んだ。
驚いて振り向く水島へ、一之瀬が詰め寄る。
「待ってください。自分は水島刑事のバディですよね?」
「……ああ」
バディ、そう言われるだけで心の何処かが痛んだ。
一之瀬が水島に近づく。
彼女の方が背が低いので見上げられるのだが、どうにも居心地が悪く、柄にもなく水島は視線を窓へと向ける。
「個人的なことに関与したくはありませんが、水島刑事は岩下のことになると普段の倍でおかしくなりますよね」
「おいこら、お前なにげに失礼だぞ」
「わけを、教えてもらえませんか?」
前に立ち塞がり、真意に水島を見据える一之瀬。
若さゆえに自信があり、ひたむきに前を向く眼。自分にもこんな時期があったなと懐かしく思いながら水島は言葉を探した。
一之瀬とバディを組んでから日は浅い。彼女は今年の四月に配属されたばかりだ。
信頼関係も構築できていない間柄で全てを話せるはずもない。だが、話さなければ意地でも通してもらえそうにはなかった。
ため息をつくと水島は天井を見上げる。ヤニで変色した天井は汚い。
「俺は昔、岩下とバディを組んでたんだよ。警察内部ではタブーな話になってるけど、岩下は元刑事だ」
岩下が警察を裏切った後、彼が刑事であった証拠の全ては消された。
犯罪者に知的援助をする犯罪サポータであり、水島の元同僚、刑事だった人物。
隣で共に事件を追いかけていたのはもう四年も前の話だが、それを懐古と笑えるだけの余裕は水島にはなかった。
一之瀬が戸惑いながら訊いてくる。
「……警察を裏切ったんですか?」
投げかけられた問いに、違うと否定しようとする自身をなんとか抑え、水島は首を振った。
「分からない」
真実は四年前に消えてしまった。
あのときの自分がもう少し、あと少しでも優秀であればと悔やまない日はない。
信じていた相棒が犯罪の片棒を担いでいると聞かされた当時、若りし頃の自分では信じられず、まっこうから嘘だと上司に抗議した覚えがある。
けれど岩下は裁判を待つ間に拘置所から脱走した。それが水島にはショックだったのだ。法を遵守し、罪を暴くために共に笑い合った日々。それらは偽りだったのかと。
裏社会に隠れてしまった今となっては真相を知ることはできないが、自分が岩下を逮捕すれば、おのずと事実が分かる。
その考えが心の隅にあるからこそ、水島は岩下が関わった事件があれば、それを独自に調査していたのだ。
「俺はあのときの真実が知りたい。これは俺個人の問題で、他の奴を巻き込んでいい話じゃない。だから一之瀬、お前は間宮警部にでも」
「調査ですね。ABC公園付近から始めましょう」
「一之瀬?」
一之瀬は自身の上着を取ると俯いた。
「今、水島刑事のバディは自分です。ですから、少しは頼ってください。まだ新米で、役に立たないのは分かってますけど」
「いや、でも」
「バディって、互いを助け合うものですよね。違いますか?」
机上にあるファイルを集め、熱の篭った視線を向けられる。
昔、岩下と肩を並べていたときの自分が持っていた情熱。それが眩しくも、また疎ましくも感じられた。
失ってしまった沢山の思い出と情熱。力を貸してくれるという新米のバディ。
水島は戸惑った。今までそんなことを言い出す人などいなかったのだ。
一之瀬は胸を張って歩くと、扉の前でとまる。
「なぜ岩下が水島刑事を裏切ったのか、それは分かりません。でも、今は自分が刑事のバディです」
そう言って照れくさそうに一之瀬は笑う。
「お前……変な奴だな」
「変って……そういえば、水島刑事は本日午後より半休の予定ですね」
水島は壁にかけてあるカレンダーを反射的に見、そこに有給の花丸マークがついているのを確認した。
記憶をめぐらせ、そういえば申請を出した気もすると頬をかく。
「……いや確かに、二週間前にそんな予定を立てた気もするが」
「休暇申請は取り消せませんよ、書類作成、面倒ですから」
「面倒って、お前、今から俺に帰れっていうのか?」
「ご自身で休暇申請を出されたんですよね?」
自業自得だと、取りつく島もない。
確かに申請の取り消しは面倒で時間がかかるが、そんなものは無視すればいい、との主張は真面目を絵に書いたような一之瀬の前では通らない。
「し、かしだな」
「今日は一度休んで、明日から頑張ってください。そんな顔で捜査したって、見つかるものも見つかりませんよ」
だが、と言い返そうとして水島は思い出した。
岩下が姿を消したであろうABC公園付近には、いとこの家があるのだ。安否確認を含めて、たまには顔を見せるべきだろうか。
「一之瀬、本当に一人で大丈夫なのか?」
新米に任せていい内容でないことは重々分かっているが、一之瀬は力強く頷く。
「任せてください! 必ずや岩下を捕まえてみせます!」
その心意気に、そして頼ってくれと言ってくれた言葉を信じて水島は頷いた。
「そうか。なら期待しないで待っておくよ」