三章ノ九
人の群れに紛れながら、ひとみは歩いていた。彼女の右手は岩下の左手と重なっている。
羞恥がないわけではないのだが、それ以上に今は手をつないで歩きたかったのだ。
同じ歩調で進んでいる。ただそれだけで幸せだと思える。
ふと、ひとみの足がとまった。視線の先には小さな店。
「岩下さん、あれ! あれ食べませんか?」
「クレープですか。いいですよ」
快く頷いてくれる岩下にほほえみを返すと、ひとみはクレープ屋に向かった。
「すみませーん、ホワイトピーチカスタード一つと、あ、これいいんじゃないですか?」
店頭に飾られるクレープの写真を指差しながらひとみが提案する。
岩下が写真を見るために屈んだ。
そうすると二人の距離が近くなるのは必然で、ひとみの顔が知らぬ間に赤く染まっていく。
岩下は気づいていないのか、写真を見たまま悩んでいた。
「京ごころ、和風の恋ですか?」
「抹茶と小豆、白玉が入ってるみたいですよ」
「ひとみさん、私のクレープをかじるつもりですね?」
「……ばれた」
ほんのり赤く染まっている頬は、隠そうにも隠せない。
鞄で顔を覆いなどすれば、絶対にどうしたのだと訊ねられる。
仕方なく笑いながら手を振り、後退するひとみ。
「お、おいしそうだなーって……駄目ですか?」
「あまり食べると太りますよ?」
「だ、だから、かじるだけなんです!」
些細な会話が嬉しいのだが、興奮しすぎているせいか、自分がなにを口走っているのか、きちんと理解していない。
ふと岩下が遠くを見つめた。
「ひとみさん、すこし離れてもいいですか? すぐに戻ってきますから」
「いいですよ。クレープ買っておきますね」
つないでいた手を離すと少しだけ寂しく感じた。
クレープを買い、近くのベンチに腰をかけると、ひとみは空を見上げた。
西の空では雲が切れて、陽光が差し込んでいる。風向きから考えると、あと少しで久しぶりの太陽が見られそうだ。
ようやく、梅雨があけるのだろうか。
「すみません、待ちましたか?」
「待ってないですよ。岩下さんのクレープ、アイス入ってないから溶けないですし」
小走りに走ってきた岩下は、なんのためらいもなく、ひとみの隣に腰かけた。
クレープを手渡すと『ありがとうございます』と言われる。
二人してクレープにかじりつく。
「……ひとみさん、私の携帯まだ持っていますよね?」
「返さないと駄目ですか?」
「別に差し上げていいですよ」
小豆が口についたのか、親指で拭うと意地悪げに微笑する岩下。
それをずっと見ていたのに気づくと、ひとみはまたしても赤面した。
「ただ、パスワードを間違えてフォルダーを開くとデータを破壊するようになっていますので、気をつけてください」
「パスワードってなんです?」
「さあ、なんでしょう」
「意地悪です。もーいいですよ、どうせフォルダーの中身なんて見ないですから」
そう言って、ひとみも自分のクレープをかじった。中に入っていた桃が生地から出てくる。
本当をいうと、携帯の中身になど興味はないのだ。ただ岩下のものを持っておきたい、それだけ。
大きく口を開けて桃にかぶりつくと、次は生クリームがはみ出てくる。
「岩下さん、もし、もしもですよ。私みたいな人でも刑事ってなれるんでしょうか?」
「いきなりですね」
岩下がひとみを見かねてか、ティッシュを渡してくれた。それを受け取り、口周りを拭く。
「もし刑事になれたら、岩下さんみたいな人、もう出さないで済むようにできるんじゃないかって」
言ってひとみは頬をかいた。
けれど岩下の表情は険しさを増す。怒ってはいないだろうが、この顔は賛成してくれない顔だ。
「また短絡的な考えをしましたね、ひとみさん」
クレープをかじりながら眼を伏せる岩下。
「あなたには向いていませんし、無理です」
「……そうですか」
言われた言葉に落ち込みそうになる自分に活を入れ、笑う。
上手く笑えた自信などない。
ひとみの表情を見た岩下は眼を細めた。
「なりたい将来の夢があるんじゃないんですか? キティから聞きましたよ」
「あはは、キティさんにも怒られたんです。私、犯罪者になれますかって訊いて。できもしないことを言っちゃ駄目だって」
少しだけ、地面が光った気がした。雲の切れ間から陽光が差し込み、地面が明るくなったのだ。
少しずつ雲の隙間が多くなり、地面に明るい場所が増えだす。それとは反対にひとみの心は落ち込んでいった。
「なにも、できないんだなぁ」
「なにもできないなんてことはありませんよ。ひとみさんは必要な存在です」
「でも、なんの役にも立たないです」
「役に立っていますよ」
「誰の役に立ってるんです? この前だって、迷惑かけるだけだったし」
危険な目に遭っても、助けを待つしかできない自分。
一般人にそれ以上を求めるのは酷だが、それでも、役に立たない自分が腹立たしかった。
「役立ってますよ。私にとって、あなたは必要な人です」
岩下はベンチから立ち上がると振り向き、ひとみの前に腰を降ろした。そうして視線が同じ位置に来るとポケットから小さな紙袋を取り出す。
「ひとみさん。これを差し上げます」
開けてもいいかと視線で問うと、静かに頷かれる。
破かないように紙袋を慎重に開けると、ラブラドライトがついたアクセサリーが入っていた。
「ネックレスですか?」
「ええ」
「……今日は、私の誕生日じゃないですよ」
プレゼントをもらう理由が思いつかず、首をかしげるひとみ。
しかし次の瞬間、プレゼントの意味を推測し、岩下を見つめ返した。
見えるのは静かにこちらを見ている岩下の顔。
頑張って浮上させていた気持ちが、しぼみそうになる。
「お別れのプレゼントですか?」
「そうあってほしいですか?」
そんなわけないと、首を振る。
「そのプレゼントの意味は自分で探してください」
立ち上がると西の空を見て、ひとみに手を伸ばす岩下。
驚きと共に顔を上げると、小さくではあるが嬉しそうに笑う岩下が見えた。
昔のように、自分を見て、ただ純粋に笑顔を向けてくれている。
我知らずひとみは伸ばされる手を取っていた。握り締めた相手の手は大きく温かい。
腕が引かれた。
「さ、他の所に行かなくていいんですか?」
「あ、まだいっぱい行く予定があるんです! とりあえず映画館!」
最後の一欠けらを口に放り込み、クレープのゴミをゴミ箱に捨てる。
引かれていた腕は、ひとみが岩下を追い越すことで逆になる。
手をつないだ先にいる人。ぎゅっと手を強く握り返して、隣に並んでくれる人。
相手を見て、なんの意味もなく二人して笑い合う。それだけで幸せなのだ。
ふと、雲が晴れた。温かい光りが空から降り注いでくる。
影がふたつ。
並んで地面に描かれる。
後ろから風が吹き、二人の背中を押した。




