三章ノ四
してきた行為を正当化できるとは思っていない。他者に問えば、この行為は悪行だと言われることだろう。
自分という存在を見限ってほしくないはずなのに、これからすることも、これまでしてきたことも、誰かに見限られて然るべきで、そんなちぐはぐな感情をもてあますかのようにキティは我知らずほほえんだ。
眼前に迫ってくる三つの人影。もう嗅ぎつけたのかと深くため息をつくと、キティは背を預けていた壁から離れた。
寂れたビルに向かってくる人影は、テレビでよく見る刑事ドラマのようだ。
「本気で来たんだ。こんばんは」
手をひらひらと振りながら挨拶すると、足をとめた水島が呆けた顔をする。
案内をしてきた一之瀬も驚きを隠せないのか、眼を丸くしたまま立ち尽くす。
もしこれが嫌悪の対象になら、ざまあみろと舌を出すところだが、今は少し違う。向けられる驚愕の表情が、なぜだか自身を苛んでくる。
一之瀬が一歩踏み出した。
「どうしてキティがここに……まさかお前」
「あれ、気づいてなかったの? 残念、実はスパイでしたー」
できる限り茶化して言ってみるが、いつものように誰かが苦笑することはない。
皆一様に黙ったままで、苦しいまでの静寂が居心地の悪さを生んでいる。
これは自身が招いた結果で、それを誰かに肩代わりしてもらうことはできない。
「あーみずっち、怒ってる? 怒ってるよねー、ごめん。謝るから許して」
「……キティ、ひとみさんと麻生くんはどこです」
「あっちー。研ちゃんとみずっちは行っていいよ。でもアンタは駄目」
「なぜ」
「間宮さんの指示なのよねー。理由なんて知らない」
こちらを見ても無表情の岩下へ、キティは視線を向けることができなかった。だから用件だけを告げ、さっさと立ち去ってもらいたかったのだ。
水島にも、岩下にも、ここにいてほしくない。こちらを見てほしくない。
もちろん、一之瀬にもいてほしくないが、彼女にならまだ反論ができる。そう考えてまたキティは苦笑した。非難する箇所が見つけられる相手にしか立ち向かうことのできない自分が惨めだ。
それでも、ここに――こちら側に立つと決めたのは自分だ。
「……刑事、先に行ってください」
一之瀬が低く言った。
「だが、お前一人で残って」
「大丈夫です」
決然たる口調で言う一之瀬だが、水島を見ると力なく笑う。
「……今更、信用もないでしょうが、信じてください」
「信じていーの? その女、あたしとグルかもしれないよ? もともと間宮の指示で動いてたの、一之瀬だしさ」
言葉を増やすたびに、こちらを見る水島の表情が険しくなっていく。
それでもキティは閉口しなかった。惨めになるのは分かっていた。言葉を増やすだけ、見苦しさが増すことも。
歩くたびに硬質なコンクリートが靴音を響かせる。その音が実に耳障りだ。「また騙されたら大変だよ? ひとみちゃん人質なのに、怪我とかしたらどうするの?」
水島の前まで来ると、覗き込むように表情を見る。しかし、そこには期待する迷いが見えなかった。
「一之瀬――俺はお前を信じてる」
「はい」
短く終わる二人の会話に、どうしてか遣る瀬なさが込み上げてキティは唇をかみ締めた。
なぜこのような感情がわきあがるのか。羨望なのか、嫉妬なのか、はたまた自分が持ち得ない信頼という名の正体を見せつけられたことへの怒りなのか。
黙るキティを水島は一瞥するが、なにも言わずに通り過ぎる。
水島に続くように歩く岩下だが、キティと並ぶ位置まで来ると静かに足をとめた。
「……キティ」
「なぁに?」
「なぜこんなことを、とは問いません。ただ、ひとみさんになにかあったときには、きちんと覚悟しておいてください」
相手を見なくても伝わってくる怒りの感情。キティは黙ったまま俯いた。
いつものことだ、よくあることだと、言い聞かせるが上手くいかず、俯いたままの表情が歪みそうになる。
今までもやってきたことで、今更後悔することではない。なのに、告げられる言葉が痛いと感じるのは、自分が少し、彼らのことを好ましく思っていたからだろうか。
「必ずあなたを殺します」
清々(すがすが)しいほど殺意しかない言葉に、自然と頬が緩んだ。面白くもないのに唇がつり上がる。滲む視界は焦点を合わせられない。
ふと、前に誰かが来る気配がした。咄嗟にキティが顔を上げるのと、彼女の前に水島が入るのはほぼ同時だった。場所のせいか、はからずも、水島は岩下からキティを守るように立つ。
「させねぇよ。ってか、なにちゃっかり物騒な会話してんだ! 行くぞ」
言って岩下を引っ張っていく水島。
岩下は若干不満があるようだったが、抵抗せず引っ張られていった。
「うあー、研ちゃんってばこわー」
二人を見送りながら調子を戻すように声を張り上げるキティ。
その後ろで一之瀬が動いた。振り向けば、真っ直ぐこちらを見ている強い意志の眼。
「……自分は、確かに非道な行為をした。それは認める」
「なに? いいわけでもはじめるの? あのさ、認めたからどうなるもんじゃないでしょ。謝って済む問題なんて世の中には少ないんだよ」
今がちょうどそれに当たるのだろう。
今更なにを言おうとも、起こってしまったことへのやり直しは効かない。
「それでも、なにもしないよりマシだと思う」
「……アンタも根っこの部分、みずっちタイプ? 最悪だ」
移動し、座れそうな場所を見つけるとキティは腰を下ろした。
一之瀬は立ったまま動かない。
「……どうして犯罪者になったのか、訊いてもいい?」
「話すと思う?」
「話したくないなら、私がなぜ刑事になったかを話すけど」
「なんでアンタが刑事になった経緯を、あたしが聞かないといけないわけ?」
一之瀬の言葉を聞いていると苛立ってくる。
善と悪を並べてどちらが善だと問われたとき、キティが返事を返すことなどそうない。
善人を毛嫌いしているわけではないと、自分では思っているのだが、はたして本当にそうなのか。
正しいことを信じて突き進む人たちの傍にいると、どうしても感情が波立って抑えられない。今もそうだ。一之瀬が傍にいるだけで、頭痛までしてくる。
一之瀬は静かに立っていたが、しばらくして少し寂しそうに問いかけた。
「互いを理解するため、じゃ無理?」
「理解し合う必要がどこにあるっての?」
隠せない感情が言葉の端々(はしばし)に見えている。なにを考えて、そんなことを言い出すのか。
忌々しげにタバコを取り出して指に絡めると、いつの間に近づいたのか一之瀬がタバコを奪った。
奪われたタバコを追いかけようと伸ばした腕は、宙で行き場を失う。仕方なく腕を下ろし、キティは髪を乱雑に乱した。
「アンタは刑事であたしは犯罪者。アンタが正義であたしが悪、これ以上なにを理解しろって?」
「私は、正義になりたかった」
ぽつりと一之瀬が小さく呟く。それは切望に近い響きだ。
「でも、私のやってきたことは正義なんかじゃなかった」
言葉を確かめるように言いながら拳を握り、それを見つめる一之瀬。
彼女は自身に問うているのだろう、正義とはなんなのか。正しいとは、なにかを。
答えが見つけられずもがく中で、自分が探していたものがなんだったのか、それすら忘れることがある。
見失った目的を代替品で済ませても、結局は虚しいだけだと、悟ったのかもしれない。
「なにが正しいのか分からない。四年前の事件を蒸し返しても、きっと誰も幸せになんてならない」
「それが分かってて、なんで首突っ込んだの」
言ってキティも一之瀬と同じように自身の手を見つめた。
その手に、なにかがあるわけではない。
なにもない、なにも掴めない手だ。
かざしてみるものの、女性にしては手入れをしていないせいか荒れている。
「あのままじゃ、悲しかったから」
やはり小さな声で、しかしきちんと聞こえるように一之瀬が言った。
「明日香が――妹が死んで、両親が離婚して、弟と離されて……なにもかもが、めちゃくちゃになった」
空を見上げて語る姿は、どことなく寂しげだ。
彼女は後悔しているのだろう。自身のしてきたことに罪の意識を抱き、懺悔しているのだ。
牧師でもクリスチャンでもないので、一之瀬の言葉に耳を傾ける必要はない。不愉快だと声を荒げて立ち去ることもできる。
けれどキティはそうしなかった。理由は、同情だろうか。彼女と、そして自分に対しての。
「だから、岩下を憎んだ。憎んで、忘れようとしたんだと思う……悲しさを」
「捨てられたからよ」
「え?」
「……犯罪者になった理由」
言う必要など、なかった。それでも口を開いたのは、自分に同情したからだろう。かわいそうな自分を晒して、誰かに慰めてもらいたかったのかもしれない。
「あたしは実の父親に――谷本直人に。犯してもない罪の犯人にされたの」
キティの言葉に、一之瀬が信じられないと首を振る。
「谷本警視が……まさか、そんな」
「ホントよ? 涙でる物語でしょ?」
「じゃあ、冤罪」
「誰が信じるっての? 犯罪者になった奴の言うことをさ」
無罪だと声を張り上げたところで、世間は警察の情報を信じた。
惨めに地べたを這いずって、泥まみれになってやっと人に話を聞いてもらえたが、信じてもらえなかった。それは一重に、キティが犯罪者のレッテルを貼られているからだ。
そのときに気づいたのだ、世の中はそうなっているのだと。
だから、無駄な努力は早々(そうそう)にやめた。
心に燻る警察への怨みだけは消せなかったが、それでも現状に悲観することはしなくなった。
絶望していたのだといえば、それまでだが。
「てかさ、信じていいの? あたしの言葉。嘘かもしれないよ? だってもう谷本警視はいない。誰も真実を知らないんだから」
他人を信じることを諦めた自分と同じようになればいいと思った。けれど一之瀬の言葉はキティの期待を裏切る。
「……信じる」
「馬鹿じゃない?」
「それでも、信じないとなにも始まらないと――私は思う」
馬鹿げたことだとあざ笑いたかった。けれど、どうしてもそれができなかった。




