二章ノ七
家にたどりつくとキティが大げさに鼻を押さえた。
「あー、花粉がぁ」
「あ、ごめんなさい。私かな? キティさん、花粉症ですか?」
「もーそうなの! あー、眼がかゆいー」
「顔を洗ってはどうです?」
岩下は靴を脱ぐとリビングに行き、手に持っていたレジ袋をテーブルへ置いた。
キティはひとみに手渡されたティッシュで、ぶびーっと鼻をかんでいる。
ひとみのバイト先から帰る際、ついでだからと全員で晩御飯の買出しをしたのだ。指名手配犯がなにを悠長にと思わなくもないが、全く気づかれなかった。
「亮ちゃん、荷物運ぶの手伝ってー」
「なあひとみ、俺だけ扱いが酷くないか? 昔から」
水島は岩下が持つ倍のレジ袋を持たされ、こき使われている。ペットボトルや、なにやら重いものばかり入っている袋らしい。
手洗い場からは、澄ましたひとみの声。
「ないない、ないでーす」
「なにみずっち、昔から尻に敷かれてたの?」
「違ぁう! 昔からひとみは岩下ばかりに懐いてたんだ!」
己の名誉を守るため、過去話を持ち出した水島だが、その声を聞きつけたひとみが手洗い場から急いで戻ってくる。顔が赤い。
「あーあーあ! 危ない、クモが亮ちゃんの足に!」
勢いよく水島の足を踏むひとみ。遠慮はなかったのだろう、ダンと大きな音がする。
「いーっ!! ひとみ、なんで足を踏むんだ」
「それはいけませんね、私も踏んでおきましょう」
ひとみが踏んだのとは逆の足に狙いを定め、岩下が足を上げる。水島は己がなにをされるのか悟り、俊敏に逃げをうった。
「やめろ、踏むな!」
岩下と水島が顔をつき合わせ、にらみ合う。片方は威嚇、片方は笑顔。
「ひとみさんはよくて、私はいけないのですか?」
「単純に考えろ。重さが違うだろ」
「亮ちゃんが変なこと言うからだよ。もう! ……あ!」
頬を膨らませながらレジ袋の中を覗き込むと、ひとみが声を上げた。なにごとかとキティがひとみを見やる。
「どうしたの?」
「お料理の材料、買い忘れてるものがあって。ちょっと行ってきます!」
財布だけを持って出て行こうとするひとみ。
そんな彼女に岩下は歩み寄る。
「ついて行きますよ」
「え、でも」
「犯罪者がうろつくな! 俺が行く。てかお前ら、自分が顔出し犯罪者だって分かってんのか」
「当たり前じゃない。大丈夫よ、堂々としてればバレないバレない。保護者より、女の子同士の方がいいわよねー」
口々に己の意見を言う大人たち。そんな彼らを見ながら、ひとみは少しだけ考えた。
岩下やキティは犯罪者で、あまり姿を見られない方がいいだろう。だからといって、水島が一緒では余計に買い物が遅くなりそうだ。
「皆、一緒にいると目立つから……一人で行ってきます! すぐ戻るから」
そう告げると、足早に出て行くひとみ。
残された大人組は、黙ったまま顔を見合わせる。
「行ってしまいましたね」
「なになにケンケン、もしかして一緒に行きたかった?」
「……そうですね」
相槌をうって岩下は考えた。尾行の狙いは自分だろうが、あちらは既に岩下とひとみの接触を知っている。そうであれば、狙われる可能性が高いのは抵抗できないひとみだろう。
水島も岩下も、ひとみを盾に取られては身動きが取れない。相手がそれを知っているかは定かでないが、そうなってからでは遅いのだ。
岩下の言葉に水島が難色を示す。
「お前は駄目だぞ! 絶対駄目だ! ひとみを邪な眼で見るな!」
「なにを勘違いしているんです、全く」
置き去りにされたレジ袋から野菜を取り出し、冷蔵庫に入れる岩下。
水島も冷凍庫へ冷凍食品を入れていく。途中、冷蔵食品を冷凍庫に入れようとする水島の頭を岩下が叩いた。
「……水島くん、ひとみさんはよく事故に巻き込まれるんですよね」
冷蔵庫、冷凍庫、ともに扉を閉める。
「あ、まぁ、よくドジして階段から落ちそうになったり、プールで溺れそうになったり」
「そこに事件性は?」
「あるわけ――あるのか?」
胸を張って事件性がないと告げようとした水島だが、反対に訊ねてくる。
「おかしいと、思っていたのですね」
「ああ。お前の事件以来、ひとみの周りで事故が絶えず起きてな。……なにか掴んだのか?」
窺うように見られ、岩下は悩んだ。ここで彼に助言をすべきなのだろうか。
水島は正義感の強い男だ。しかしまた警察でもある。仲間の不義を知らされ、どのような行動に出るのか。いい意味でも悪い意味でも、水島は予想の斜め上を行く。
岩下が言葉を探していると、水島が静かに口を開いた。
「警察だな?」
「まだ、なにも言っていませんが」
「お前が黙りこくるってことは、警察が絡んでるってことだろ」
確信があるのか、確認するように訊いてくる。
「別に、疑ってなかったわけじゃない。でも決定的証拠がなかったんだ。俺は昔から情報集めが苦手だしな」
少しばかり傷ついた表情で水島は拳を握る。相手を疑うことのない彼だから、身内の仕業だとは考えたくなかったのだろう。
感情にしっくりくる言葉が見つからない。だから、黙ってしまう。
キティは静かに机を指でなぞると、問いかけた。
「警察がひとみちゃんを狙う理由は?」
「分かりません。けれど、ひとみさんは四年前の事件で犯人の顔を覚えている唯一の人です」
岩下の言葉に、水島は暗い顔をして腕を組む。そうしてしばらくした後、低く声を出した。
「……俺、ちょっと署に戻るわ。悪いが、ひとみに伝えといてくれ」
片手で詫びると素早く出て行く。
「あちょっと、みずっち! 行っちゃった」
「キティ、追いかけてください」
「えー、だってひとみちゃんのご飯がー」
「終わったら、ゴディバのチョコをプレゼントします」
「任せて! キティ、喜んで追跡します!」
ふてくされた表情だったキティだが、好きな食べ物の話を持ち出すと眼を輝かせ、力瘤まで見せてくれた。
くるりと玄関を向き、走り出そうとするキティ。しかし走り出さない。どうしたのかと岩下が首をかしげると、懐からなにかを取り出す。
「ちなみにー、これいる?」
「USBですか?」
「この前、趣味で警察署にハッキングしたときのデータ」
片眼を閉じながら、楽しそうにUSBを弄るキティ。
「趣味ですか?」
「そ、趣味でね」
「ありがたく受け取りましょう」
飛び出してきたものの空は曇りで、あと数刻で雨になりそうな天気だった。いつもの坂を下り、商店街に向かう。
先ほどは四人で上った坂。談笑しながら歩いたせいか、すぐに家についてしまった。今は下りで、上りより速く歩けるはずなのに、いつまで経っても商店街が遠い。
祖母が死んでからはいつも一人で、そんなことには慣れているのに、どうしてか振り返ってしまう。
水島は、頼めばついてきてくれるだろう。けれど彼には彼の生活がある。我慢をしないと駄目、我侭を言っては駄目、そう思うと昔から、どうしても声をかけられなかった。
岩下はそんなひとみの心をくみ取って、一緒にどこかに行こうと声をかけてくれる人だった。我慢して、泣きそうなときに手を伸ばしてくれる。
小さい頃も、そして今も、彼は優しくて大切な人。
「村田?」
ブレーキ音に後ろを振り向けば、私服姿の麻生が自転車に跨っていた。
「あれ? 麻生くん」
「奇遇だな。どっかに行くのか?」
「うん、買い物に。麻生くんは?」
「俺はネェちゃん探し。ネェちゃん、この頃なんか変でさ」
ハンドルに腕を置いて脱力する麻生。自転車に乗っていたということは町内を探していたのだろう。
「明日香ちゃんの、お姉さんだよね?」
「ああ、刑事になったんだ。明日香の仇をとるって言って」
頭上で雷が鳴った。見上げると雷雲が遠くに見える。これはもうすぐ降りだすに違いない。
同じように空を見上げる麻生。
ひとみの胸に罪悪感が燻った。
麻生の姉は四年経った今でも妹の仇――岩下を憎んでいる。同じようにあの事件の関係者、暴力団絡みで被害を受けた人も岩下を憎んでいる。
彼を匿う。どのような権利をもって、自分はそんなことをしているのか。
流れる風がひとみの髪を一束、揺らした。
「雨、降るのかな」
独り言を呟くと、麻生はおどけたように肩を竦めた。
「午後からヤバイって言ってたぜ。村田、買い物に行くんだろ。乗せてやるよ」
「え? いいよ、お姉さん探してるんでしょ」
「こんだけ探して見つからないんだ。今日は諦める。ほら、早くしないと雨降るぞ」
どうあっても譲る気はないのか、麻生は自転車を動かし、ひとみの方へ荷台を向けた。
ひとみは指を立てて指摘する。
「二人乗りは駄目なんだよ?」
「ばれなきゃいーの」
二人して顔を見合わせ、笑う。
「ありがとう。お礼にアイス、おごろうか?」
「ペパーミント以外なら大歓迎!」
自転車の荷台に乗ると緩やかに麻生がこぎだす。
しばらくするとABC公園に差しかかった。ここはいつも人気がなく、寂しい場所だ。公園の規模が小さいことと遊具が少ないことが原因だろう。
「なあ村田。岩下が犯人なんだよな、明日香を殺したんだよな?」
「……どうしてそんなこと訊くの?」
タイヤが回る音が聞こえる。
「お前は岩下と仲良かったじゃん、俺はアイツ嫌いだけど。もし捕まったら――って、やば、雨降ってきた」
「ホントだ」
上の空でいたひとみの頬に、ぽつり、ぽつりと落ちてくる雨。
岩下が捕まったら、どうするのか。そんなこと考えたこともなかった。そもそも自分は、岩下を匿ってなにがしたいのか。
いつか必ず出て行く人を引きとめる術などない。つかの間の幸せを得るために、身勝手な我侭で岩下を拘束している。
なにがしたいのか――分からない。
気が沈む。あまりにも情けない。今ある幸せは誰かの情けだ。岩下と一緒にいられるのは、岩下が、水島が、それを許してくれているから。
俯いては駄目だと思い、前を向く。
すると、眼の端にトラックが近づいてくるのが映った。
自転車が避けるスペースを開けず、高速で走ってくるトラック。麻生は焦ってハンドルを切るが、避けられない。
対向車線は広く開いているのに、あちらは回避しようとしない。
視界に大きく映るトラック。麻生が叫んだ、そんな気がした。
自分の身体が宙を舞っている。
麻生と自転車がどんどん離れていく。
その様子がやけにスローモーションで、これは罰なのかもしれないと、ひとみは人知れず考えた。
これは岩下を匿った、罰なのだろう。
『ごめんなさい』
そう呟くと同時にひとみの身体は電柱にぶつかり、そこで意識が途切れた。




