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二章ノ六

 大切なものを数えあげて片手で足りる。そんな人生が満足かと訊かれれば十分だと答えるだろう。

 傍にあった日常。振り返れば優しくもあるそれを捨てる決意をしたのは四年前だ。

「研ちゃん、ひとみちゃんの家にあった盗聴器、やっぱりOS公園前警察署が受信元だったよ」

「そうですか」

 赤い夕日が落ちる時間にキティと岩下は出かけていた。

 ひとみの家に滞在してから三日。最初は相手の出方を見るつもりだったのだが、ここまでアクションがないと正直、拍子抜けだ。

「みずっちは関与(かんよ)してないだろうけど……どうする?」

 キティが道端の石ころを蹴る。

 その石の軌跡(きせき)を見ながら岩下は悩んだ。

 アクションを起こせば事態は変わるだろう。しかし、好転するとは限らない。それに、この心地よさを手放したくない、その思いも間違いようのない本心だった。

 二度と手に入らないと思っていた日常を与えられ、今またそれを捨てる。張りついた皮膚をはがすような作業は、さぞ痛みを伴うことだろう。

 情けない。不甲斐ふがいない。けれど、まだ自分にはこんなにも人間らしい感情があったのだと驚きもする。

「探りを入れましょう。ひとみさんの家に盗聴器を置いたのは誰なのか、まずはそれからです」

「ん、分かった。あー、あとね、どーでもいい情報かもしれないけど、会津組ってのがサツといちゃいちゃしてるってさ」

 警察と裏組織。どれだけいがみ合おうとも切り離せない二つの組織。互いが互いにとって利益を生む存在であるからか、ある程度の距離を置きつつ、時には利害のために手を組み、民衆を(あざむ)き、全てを隠蔽いんぺいする。

 警察が正義のためにあれるのは、絵空ごとを書いた物語の中だけだ。

 ふと、岩下の足元にふてぶてしい猫の顔が見えた。

 岩下を見上げると猫はブニャーと可愛いげなく鳴く。首輪をしていないので、野良猫なのだろう。毛並みが随分と汚れている。

 キティはしゃがんで猫の頭をでようとしたが、軽々と避けられた。

 岩下の前髪が揺れる。

「それは水島くんに教えてあげたらどうです?」

「えー、だってあいつなんか暑苦しいしー」

 手を擦りながら意地悪く笑い、猫を追いかけるキティ。追いかけられた猫は逃走を早々に諦め、大人しくキティの腕に納まった。

 猫の頭を撫で、眼を細める岩下。

「お節介で鬱陶(うっとう)しいでしょう? 入り込んでくるなと言っても遠慮なく踏み込んできて、イライラしますよ」

「研ちゃん、笑顔が怖い!」

 岩下の見せた表情に、キティと彼女の腕に抱かれている猫の顔が青ざめた。その反応を、岩下は気にも留めず軽く受け流す。

「でも、それが水島くんです。あの図々しいのが、ごくたまに役立つんですよ」

「ほー、それは元バディとしての評価?」

「さあ、どうでしょう」

 チリンチリンと、後ろから自転車のベルが鳴らされた。

 キティの腕から猫が逃げる。華麗に地面に着地すると、見向きもせず去っていく。

 今日は六月にしては珍しく湿気が少ない日で、流れてくる風が心地いい。

 十字路の信号でとまる高校生。マイナーな音楽が流れる商店街。あと少しすれば街灯に明りがともり、母親が帰って来いと怒りだす時刻だ。

「なんかさ、いいね、こういう普通なのって」

 家前(いえまえ)に飾ってある紫陽花の雫をキティが弾く。岩下は同じ花を見て静かに頷いた。

「そうですね」

「研ちゃんも昔、ここら辺に住んでたんでしょ?」

「……ええ」

 家はまだあるのだろうか。息子が犯罪者だと知ったあと、両親はどうしたのだろう。

 連絡など取れるはずもなかったので家族の状況は分からない。

「行ってみれば? 会わなくてもほら、家見るだけでも」

「結構です」

 思ったより冷たく出た声色に、自分があの家に未練を持っていないことを知る。

「会いたくない?」

「……会いたく、ありませんね。あちらもそうでしょう」

 英才教育を受け、常にトップであることを強要された家。親の意思が全てであり、そこに岩下の考えなどない。

 厳格な父、その父に全てを任せる母。彼女はよき妻であったが、よき母ではなかった。

 やるべきこと、進むべき道、己の全てが決まっている、そんな家。だからだろう、家族を頼る存在だと考えたことはなかった。父や母は自分に命令を下す絶対的な存在、そういう認識だったのだ。

 今思えば、それも愛情の形だったのかもしれない。けれど幼い頃は理解できず、頼れない相手に愛情を求めることを諦めていった。

「キティはどうなのです? 家族はいないのですか?」

「あたしは、家族嫌いだから」

 ぶっきらぼうに言い放つ姿に、岩下は眉を上げた。

 声色も表情も、不機嫌さを隠そうとしていないキティを見るのは初めてかもしれない。

「珍しいですね、あなたがはっきり嫌いだと言うのは」

「そっかな。でも、嫌いなんだ。……よっし! もうヤメ、この話。てかさ、あそこってひとみちゃんがバイトしてる花屋じゃない?」

「そうですね」

 キティが指差す先にはパステルカラーの小さな花屋があった。店頭には色とりどりの花が飾られている。

 通り行く人は一度花に眼をやり、少し微笑ほほえんで立ち去る。急にキティが岩下の腕を取った。それに(とど)まらず、服を千切(ちぎ)らんばかりの力で引っ張る。

「あ、なんか野郎がいる! ちょ、アイツひとみちゃんの手握ったよ、研ちゃん!!」

「お客さんに花を渡したんでしょう」

「許さん! あたしのひとみちゃんの手を握るなんてっ!! ちょっとアイツの保険証、スってくる」

「キティ、やめなさい」

 勇んで盗もうと舌なめずりをするキティを追いかけて、岩下は花屋へと足を向けた。




 花屋の看板前まで行くと、今にも乗り込みそうなキティの襟首を掴み制する。

 さすがにこれだけ近くに寄ると花の甘い匂いが感じられた。きちんと手入れされているのか、虫食いの跡などない綺麗な花だ。

 カランカランと音を立て、扉が開き、中から店員――ひとみの声がする。

「ありがとうございましたー」

 花束を抱え、うれしそうに急ぎ足で出て行く男性。それを追い駆けようとするキティを咳払せきばらいでとめると、岩下は客を見送りに出てきたひとみに視線を向けた。

「こんばんは、ひとみさん」

「い、岩下さんにキティさん。あれ、お花買いに来たんですか?」

 花屋のロゴが入ったエプロン姿のひとみは、岩下たちを見つけると少し緊張した表情で駆け寄ってくる。

「ううん、ひとみちゃんの手を握りにきたの」

「う? え?」

 岩下の手から逃げだすと、ひとみの手を握るキティ。放っておけば頬ずりをし始めそうだ。

 一方のひとみは状況が飲み込めないようで、救いを求めるように岩下を見つめた。

 額を押さえながら再びキティの襟首を掴む岩下。

「気にしないでください、ひとみさん。キティは連れて帰りますから」

「えっと、もう帰っちゃいます?」

「なになに、キティさんにいてほしいって? もちろん、ひとみちゃんがそう言うなら」

「私たちはいない方がいいと思いますが?」

「いえ、あの、もうすぐ終わるから一緒に」

 一緒に帰ろうと、そうひとみは言いたいのだろう。駄目だろうかと、こちらを(うかが)う視線は期待に満ちていて、むげに断ることなどできそうにない。

 キティと岩下は互いに片眼で合図を送ると、両者同時に頷いた。

 外で待つこと十分、店前でひとみを待っていると、見知った顔が近寄って来た。

 彼はスーツ姿で、その格好だけならまだ見目が良い部類に入るのだが、見事なまでの間抜け面が全てを台無しにしている。

「なんでお前らここにいるんだ?」

 スーツ姿の男――水島が岩下を指差す。

 キティは見るからに嫌そうな顔をした。

「うあ、出た、みずっち」

「俺をたまごっちみたいな呼び方するのはやめろ。俺はただひとみのバイト先に寄って行こうって思っただけだ」

 尾行などしていないと主張したいのか、誰もたずねていないのに、自分がここきた理由をしゃべる水島。

 そんな彼にキティは生ぬるい視線を送る。

「キモイし。その顔で薔薇ばらはない」

「誰も薔薇を買うなんて言ってねぇだろ!!」

「往来では静かにしてください」

 騒がしく口論を始める二人。彼らをとめる気力とやる気がない岩下は一言だけ忠告して放置した。誰だって、関係ないことには巻き込まれたくないだろう。

 水島が歩いてきた先に視線をやると、なにかが素早く電柱に隠れた。

 キティも人影に気づいたのか、口論しながら周囲に気を配る。

 岩下は相手をよく観察しようと歩き出したが、

「遅くなってごめんなさい!」

 ちょうどいいタイミングで店の扉が開いた。

 出てくるひとみとぶつかりそうになるので岩下は柔らかく受けとめる。

 受けとめられたことに、ぱちくりと眼を見開き、こちらを見るひとみ。

 彼女の姿を見られないほうがいい。そう結論を出すと岩下はひとみを腕の中に閉じ込めた。水島がムンクの叫びのような顔をしたが、そんなことを気にしてはいられない。

「……いいえ、待っていませんよ」

「あれ、亮ちゃんもいる。なにしてるの?」

「なにって、たまたま通りかかっただけだ」

 水島の声色から、嘘をついているだろうと予測ができた。心配で様子を見に来た、というところだろうか。

 岩下は腕の中にいるひとみを解放して電柱を見やったが、相手は既に逃げたのか、そこに人影はなかった。

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