二章ノ四
その日は、なにも頭に入らなかった。
教壇に立つ教師がする小難しい話。
普段なら必死にペンを動かすのだが、今日だけはどうしてもそういう気分になれなくて、つい窓の外を見てしまう。
考えるのは岩下のことだ。どこかに行っていないか、消えていたりしないか、そんな考えても詮無いことを考えては落ち込む。
速く時間が経てばいい。そうすれば帰って確認ができる。
そう思いもするのだが、岩下は犯罪者で、だからこそ彼がいまだに家にいるとは思えなかった。
昼のうちにでもキティと共に姿をくらますだろう。それなら岩下が警察に捕まることもない。
自分の家にまだいてくれるなど、淡い期待を抱く方が現実を直視して落胆せずに済むのに、それでも心のどこかでひとみは期待をしていた。
そうこうしている間に太陽は真上より西に傾いて、夕日が綺麗に見える時刻になる。
終礼が終わり、廊下を歩きながら夕日を見ると顔がオレンジ色に照らされる。
ふと、後方より騒がしげな足音が聞こえた。
「おーい、村田ー」
名を呼ばれたので振り返るとクラスメイトの麻生大樹が手を振りながら走ってくるのが見えた。彼とは小学校からの知り合いだ。
快活な性格に人懐っこい笑顔。クラスのムードメーカ的存在だ。
「麻生くん?」
ひとみに追いつくと麻生は切れた息を戻そうと大きく肩で息を吸う。
「生徒会、最新ニュース! この辺りで岩下が出没したんだってさ」
「う!? うん。そう、すごいねー」
飛び跳ねそうな心臓を押さえ、ひとみは麻生から眼を逸らした。
それに気づかず麻生は楽しそうに話を続ける。
「今、皆で岩下を探そうって話になっててさ。村田もどう?」
「……無理だよ。だって、岩下さん隠れるのうまいし」
そうあってほしいと、期待の方が多かったが、それでもこれは事実だろう。
高校生が捕まえられる相手ではない。ましてや相手は殺人容疑のかかった指名手配犯だ。無謀にもほどがある。
ではその殺人犯を自宅に招く自分はなんなのだと、ひとみは自嘲した。
相いれない思いなのだ。岩下と一緒に、昔のように過ごしたいと願えども、彼は犯罪者で傍にいることなど叶わない。
黙りこんだひとみに麻生は眼を瞬かせながら問いかけた。
「なぁ、村田、お前さ、まさか岩下がまだ好きとかじゃないよな?」
「な、べ、別に、そんなんじゃないよ!」
麻生の言葉に慌てて顔を上げる。知らないうちに顔が赤くなっていたが、本人は自身の顔を確認できない。
麻生は疑いの眼で、ひとみをじっと凝視した。
「ほんとーか?」
「ほんとーだよ」
すごく疑っていますと、表情が語る。
真っ直ぐ伸びてくる視線を直視できない。あまり認めたくはないが、ひとみは感情が表に出るタチなのだ。
それに麻生は――
「……岩下は四年前、一之瀬明日香を――俺の双子の妹を殺したんだぞ?」
嫌悪するようにはき出される言葉に、ひとみの顔が曇った。
誰もが岩下を非難し、ののしる。それを聞くたびになぜか『違う』と、全力で否定したくなる自分がいるのだ。
理由など分からない、けれど違うのだと、言いたい。
ひとみは数歩歩いて窓に手をかけた。
遠くにある夕日が赤と紫の美しいコントラストを作っている。
「でも……麻生くんも知ってるよね、あのとき、あの場所に私もいたって」
「おう」
明日香が死んだその場に、ひとみもいた。幼い、小学六年生のときの出来事だ。
「そのときのこと、たまに夢に見るんだけど……。夢で、岩下さんがすごく焦った顔してるの」
恐い夢で見る岩下の姿が、一瞬だけ脳裏に浮かんで消えた。
麻生は顎に手を当てながら考え込み、
「焦った顔? こーんな?」
たぶん彼にとって精一杯の岩下風な顔を見せてくれたのだろう。しかし、幼い容姿では岩下を表現できず、唇を尖らせた顔はひょっとこに似ていた。
ひとみはムッとなって抗議する。
「違うよ、もっとかっこいい顔!」
「おい、なにげに今傷ついたぞ。そんなに俺の顔は岩下に負けてるか?」
「うん」
「……ハッキリ、デスネ」
落胆して落ち込む麻生は廊下を歩き、壁に手をついた。
しばらくはそうしていただろう。だが、ひとみに振り返ると拳を握って真剣な表情になった。
「でもさ、岩下は犯罪者だろ? 四年前、X小学校が工事中のとき、岩下が暴力団と密会してるところを明日香が見た。だから口封じで明日香を鉄パイプの下敷きにしたんだ。工事現場の事故に見せかけて」
「でも、岩下さんはあのとき――」
あのとき、なんだというのだろう。
喉まで出かかっている言葉が出ない。
四年前、一之瀬明日香が岩下の手により殺された。
それが露呈したため警察から追われている。誰もが知っている事実。
テレビでも日夜話題になり、メディアが騒いでいた。
夢で見る黒く長細い影。あれは鉄パイプなのだろう。自身に降り注いでくるそれら。恐怖で眼を閉じようとするとき、見えるのは――岩下の姿。彼が実行犯なら見えて当然だ、しかし、なにかが違うのだ。
記憶を掘り起こすと思い出せるのは、焦りながら、なにかを言いながら、走ってくる岩下。
それ以上は急に映像がぼやけて、黒い影が頭上に見える。途端、言い知れない恐怖が全身を支配して、ひとみは自身の両腕を握った。
あのあと、なにがあったのか。
気がついたら病院にいて、明日香が死んだこと、岩下がその手引きをしたことを伝えられた。
何度も思い出そうとした。けれど、思い出そうとするたびに恐くなって、泣き出して、結局は思い出せず仕舞い。
精神科の先生にも無理に思い出そうとしてはいけないと、とめられてしまった。
「おーい、む、村田!?」
ひとみの顔を覗きこんだ麻生が慌てふためきだす。
「どうしたの、麻生くん」
「どうしたのじゃねぇーよ。わ、悪かったって、泣くなよ」
「え? あれ、私、どうして?」
「ごめん、ごめんって! 恐かったんだろ? 思い出さなくていいから。泣くなよ。泣くなって!」
右往左往しながら狼狽する麻生。
ひとみの肩に手を置こうか迷っているのか、腕を出したり引いたりしている。
ひとみはフルフルと首を振った。ぽたた、と雫が廊下に落ちる。
「……泣いてないよ」
「嘘だ。じゃあ、その眼から落ちてるのはなんだよ」
「食塩」
「ばか! ほら、これ使え」
「ハンカチ? あはは、ぐしゃぐしゃだ。……ありがとう」
ポケットからハンカチを取り出すと差し出し、そっぽを向く麻生。泣かせたことに罪悪感があるのだろう、ばつが悪そうだ。
ひとみはひとみで、なぜ自分が泣いたのか分かっていなかった。悲しいと思ったわけではない。感情が高ぶり、鼻の奥がツンとなる、そんな涙ではない。
ハンカチを頬に当てると涙はすんなりと吸い込まれていった。スン、と一度鼻を吸う。
「私ね、あのときの記憶が曖昧なの。気がついたら明日香ちゃんが鉄パイプの下敷きになってるのが見えて。でも鉄パイプは最初、私の方に倒れてきたはずなの」
ひとみの言葉に麻生は、ぎゅっと一文字に口を結ぶ。
「おかしいだろ、それ。鉄パイプの下敷きになったのは明日香だ。記憶がこんがらがってるんだろ?」
ひとみはハンカチを握り締めた。記憶が混乱している。そうなのだろうか。
岩下が犯人だと言われるたびに心がざわつき、違うと言いたくなる、この思いは記憶が混濁しているからなのか。
「……ねえ、麻生くん。明日香ちゃんのお墓って、Y盆地だったよね」
「そうだけど。まさか今から行く気か?」
「うん、せっかくだし、お線香上げに行こうかなって」
どうせ今から帰っても、岩下やキティは家にいないだろう。だったら少しくらい寄り道をして帰っても、怒られないはずだ。
水島が来ると言っていたが、彼の仕事が終わるのは十八時、それまでに帰宅できれば問題ないだろう。
「俺も行く!」
「え、でも岩下さんを捕まえに行くんじゃ」
「お前な、今から暗くなるだろ。女子一人で墓地とか、危ないっての」
「一緒に来てくれるの?」
「おう。俺ってばカッコいいだろ、岩下より」
「岩下さんの方がカッコいいの」
墓地近くになると少しだけ涼しくなる。いわくつきの場所に来ると、それだけでひんやりした気分になるのだ。
石の道。じゃりじゃりと風流な音を立てながら歩く静かな場所。時間帯のせいか参拝客には会わなかった。
ふと、隣を見れば麻生がガタガタと震えている。
「麻生くん、そういえばお化けとか、嫌いじゃなかったっけ?」
「ぜ、全然! んなコト無いデス!」
完全に声が裏返っているのを見ると、やせ我慢をしているのだろう。
「帰る?」
「無理! ……じゃなくて、駄目だ! 村田一人にさせるわけにいかないだろ」
今更ながらに麻生がオカルト系全般を苦手としていたことを思い出したが、もう取り返しがつかない。ここまで来ておいて一人で帰れという方が酷だろう。
懐中電灯でもあれば心持ちマシだろうが、そんなものを持ち合わせているはずもない。夕日が落ちた墓地は静かで、やたらと不気味だ。見渡しても電灯などなく、誰かが灯して帰ったロウソクの明りがゆらゆらと揺れている。
「ひとみさん」
聞こえないはずの声が聞こえて、ひとみは辺りを見渡した。
けれど麻生以外、誰の姿も見えない。幻聴かと苦く笑おうとした先で麻生がどこかを指差しうろたえだした。
「お、お、おっ!? お前、岩下研一」
「え?」
麻生が指差す先には、なぜか岩下の姿。二度ほど瞬きをし、眼をこするひとみ。しかし岩下の姿は消えない。
指名手配犯だというのに、公園で会ったときと同じように平然とした顔で首をかしげ、こちらに近づいてくる。
「はじめまして。初対面の人に呼び捨てにされる覚えはありませんが」
岩下が近づくと麻生はひとみを背に後退した。守っているつもりなのだろうが、既に気迫が負けている。
なにを思っているのか、岩下は険しい表情で近づいてくる。
「く、来るなよ!」
「邪魔です」
叫びを一蹴し、麻生を退けるとひとみの前でとまる岩下。そうして伸ばされた手はひとみの目尻をなぞった。
「眼が腫れていますね」
「岩下さん?」
ひとみしか映さない岩下の眼には、苛立ちが込められている。彼は無意識だろうが漏れ出ている怒りのせいで場の空気が重い。
岩下が静かに口を開いた。
「泣かせたのは、あなたですか?」
「村田から離れろよ!」
「もう一度だけ訊ねます。ひとみさんを泣かせたのは、あなたですか?」
言葉とは裏腹に、命令的な声が墓地内に響く。
感情を表に出すのが不得意な岩下だが、今の声色は誰がどう聞いても怒りを含んでいた。
麻生は岩下をどうにかしてひとみから離そうと躍起になっているが、岩下はびくともしていない。
「んなわけ――あ、どうだろ、話を持ちかけたのは俺だから俺が悪いのかも」
「……結構です。ひとみさん、帰りますよ」
言って岩下はひとみの腕を取った。ひとみはなぜ岩下がここにいるのかを考えるのに必死で、状況についていけない。
既にいないはずの、既に逃げたはずの人がこちらを見て心配してくれたのがうれしくて、帰ろうと言ってくれたことがうれしくて、涙が出そうになる。
俯いて頷く。それを見ると岩下は歩き出した。
しかし麻生が納得するはずもなく、立ち塞がった。
「ちょっと待て! いやかなり待て!」
「なんです?」
「なんですじゃないっての。犯罪者と一緒に行かせられるわけないだろ!」
ひとみを放せと麻生が岩下に向かってくるが、それは綺麗に避けられた。
「麻生くん、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないって!」
意地でも退かないという意思の表れだろう、鼻息荒く通せんぼする麻生。
ここで騒げば墓地の管理者が来るかもしれない。そうすれば岩下の姿を見咎められる。
ひとみは両手を組んで麻生に哀願した。
「お願い。岩下さんのこと、今は誰にも言わないで」
ゆっくりと、頭を下げる。自分が今、どれだけ無茶な願いを告げたのか分かっているつもりだ。
「なに言ってんだよ! 岩下は殺人犯で」
「お願い! ……お願いしますっ!」
先ほどより深く頭を下げるひとみ。見逃してくれるならどんなことでもするだろう。
麻生は悲しそうな表情で戸惑っている。
当たり前だ、犯罪者を――麻生にしてみれば妹の仇を見逃せと言っているのだから。
けれど、引き下がることなどできない。
「……村田――なんで?」
「ごめん」
呆然とする麻生を置き去りにし、ひとみは岩下の手を取って墓地をあとにした。




