二章ノ三
警察署内部といっても面白い場所はない。味気ないコンクリートの壁、磨かれていない廊下、くたびれた貼紙。
学校と似た条件を多く持つのに、なぜか陰鬱な場所だ。愚痴や不満が漂い、快活さや笑顔がないからだろうか、どこもかしこも重い空気で気分が悪い。
窓から見える景色が爽快に晴れた青空ならまだ気分も浮上するのだが、あいにくの雨空。
横を見ると、寂れた中庭が見えた。特に用もないが、扉を押してキティは足を踏み入れた。
中央に水の出なくなった小さな噴水、それを囲むように設置された花壇。かつては優美だったのだろうが、誰の手も加わらなくなった今では草だけが雑然と伸びている。
寂れたベンチ近くにある掲示板には、指名手配犯の顔写真がずらりと並んでいる。その隣にはシンプルなチラシが一枚。それだけが、やけに真新しかった。
「谷本警視……ヒーローの告別式ね」
暴力団、桜州会検挙の国民的英雄、谷本直人の告別式を知らせるチラシだった。破り捨ててやろうかと、チラシに手をかける。
「おい!」
背中にかかる声に、見咎められたのかと内心驚いたキティだったが、緩やかに振り返ると見知った顔がそこにあった。動揺を隠し、とぼけざまに返す。
「あれ? どったの、みずっち?」
キティを見つけ、近寄ってくると水島は複雑な顔をして弁当を差し出した。
「これ」
「お弁当がどうかした?」
眼の前に持ってこられた弁当。
意図を探るように水島を見るものの、彼はなにやら思案顔できつく眉を寄せている。
「あのだな、別にお前が自主的にしたのではないだろうし、だから俺がありがたがる必要なんてないんだろうが。まぁ、一応届けにきてくれたわけだし」
「はあ」
なにかを口にしようとしてやめる。手で顔を覆ったり、そわそわと周囲を見渡したり。言葉を口にする踏ん切りがつかないのか、それを何度も繰り返す水島。
数秒ならまだ我慢できるのだが、それが三十秒にもなると気の短いキティには長すぎた。「ごめん、みずっち。なにが言いたいのかサッパリなんだけど?」
「礼を言いに来ただけだ!」
「……はぁ!?」
あまりに予想外すぎる言葉を言われたためか、大声が出た。慌てて口元を押さえるが出た言葉が返ってくるはずもない。
「なんだよ」
「ああ、ごめん。いや、お礼なんて随分と言われ慣れてないからさ」
言われた言葉は本当に予想外だったのだ。
施される事柄に対して礼を返す、それはごく一般的な常識だろう。けれどキティが身をおく裏社会では些細な施しに礼などないのだ。寧ろ大した施しであろうとも、礼を言われることが少ない。もし言われることがあってもそれは大体が嫌みを含んでいる。
だが今のは、純然たる好意返し。こんな、ある意味とても清い人間と岩下がバディを組んでいたのが信じられなかった。
「……なぁお前、弁当届けに来ただけなのか?」
「ん? そだよ?」
「本当か? 盗みとか、するつもりじゃないだろうな」
「警察署からなに盗むっての? ダイアとかないだろうし、お宝なんて置いてないでしょ」
「たし、かに」
金目の物があれば盗みにも来るだろうが、OS公園前警察署にそんなものはない。
外観からしてセキュリティーの甘さが見て取れる。そんなところに極秘書類や高価なものを保存してはいないだろう。強盗の恰好の餌食になってしまう。
キティが仕事目的で来たのではないと知ると、水島の顔から少しだけ不機嫌さが消えた。会話がないので、二人揃って指名手配犯がずらりと並ぶ掲示板を見る。
「なぁ、キティ」
「んー?」
「お前さ、犯罪者やめないか?」
「……本気で言ってんの?」
「ああ」
互いに顔を見ず喋っていた。だから水島がどのような心境でそんなことを言い出したのか、キティには推測できない。
ドラマでよくある刑事の説得だろうか。犯罪者を更生させる詭弁だけを並べた台詞はいつ聞いても吐気しか催さない。
「ばっかじゃない、って笑った方がいい?」
「まだ、やり直せるだろ」
水島は信じているのだろう。道を踏み外した人も、もう一度やり直せるのだと。その考えにキティは軽く苛立った。
現実は甘くない。犯罪者を許す社会など、どこにもないのだ。冤罪であれなんであれ、一度ついたキズは、そう簡単に消えない。
メディアが面白おかしく盛り上げる犯罪者の経歴。視聴者である市民はそれを鵜呑みにし、疑いを持つのはごく一部。そんな中で罪を贖い、名誉が回復するのを待つのは苦痛だ。
罪に向かい合い、それを償い、まっとうに生きることができれば、確かに平和な社会ができるだろう。しかし、それができないから、現社会には犯罪者があふれているのだ。
誰もが聖人君主のようには生きられない。
泥にまみれたことのない人間に説法されても苛立ちしか起きないのだ。泥沼に頭まで浸かったその先で、同じことをほざいてみろと常々思っている。
「……あのね、あたしにはあたしの理由があって盗みしてんの」
「理由ってなんだよ」
「言いたくない」
「言わなきゃ分かんねぇだろ!」
「あのね、なんでもかんでも自分の基準で物事を測らないでくれる? アンタが言ってんのはアンタの正義の基準でしょ」
「盗みがいけないなんてことは小学生でも分かるだろう」
「だから、それはアンタ側の基準。ネグレクトを受けている餓死寸前の子供が盗みをしました、これは罪? 刃物を持った男にレイプされかけたので反撃して殺しました。これも罪? 道徳なんてものは、結局のところ幸せな立場にいる人間が平和に日々を過ごせるよう作られたものよ」
いつの世も変わらずあり続ける道徳観。幸せな人のためだけに作られる秩序。満ち足りた人生を謳歌しながら彼らは犯罪者をあざ笑うのだ。
自分が優位だと、見下げて同情される。それがキティには我慢ならなかった。
「それともなに? アンタが可哀想なあたしを保護してくれるの? これからいい子にしますって言ったら、今までアタシがしてきた犯罪の全部、肩代わりしてくれる? ――できないでしょ。それに誰も信じないわ、犯罪者の言うことなんて。人生にやり直しは効かないのよ」
「俺は!」
見つめ返した先にいる男は酷く傷ついた様子だった。
それは言葉が深く突き刺さったためだろう。口にした言葉に後悔などしていない。
自分は怒っているのだ。それは理解できるのだが、なぜか、眼前の男の姿に心が痛んだ気がした。
うれしかったのかもしれない、まだ自分に手を差し伸べてくれる人がいることが。けれどそれ以上に悔しかったのだ、同情されているのだと思うと。
「俺は」
再び水島が呟いた。小さくかすれていたが、キティには十分聞こえた。
「なに?」
「諦めないからな! 今は確かに、お前の言葉に反論できない。が、いつか反論してみせる。そしてお前ら犯罪者をこっちに戻してみせる!」
「……本気で馬鹿なんだ」
「馬鹿で悪いか、くそ。もう俺は戻る。っと…………弁当、サンキュ」
不満たらたらの顔でわめいたかと思えば、尻すぼみに礼を言って去る水島。
そんな彼のせいで、キティの顔は盛大に崩れた。笑おうとして、失敗する感じだろう。傍から見たらきっと、不細工だ。
「サンキュって……馬鹿じゃないの。ああ、馬鹿なんだった。馬鹿だからそんなこと言うんだ……あーも、調子狂う。帰ろ帰ろ」
身体がある程度自由に動くのを確認して岩下は家を出た。目的地は木城の死体が発見されたABC公園。
自身が刺された場所にたどりつくと辺りを見渡す。あのときは濃厚だった血の匂いも、今では全く感じられない。
なぜ刺されたのか、思い返しても分からなかった。
彼らに協力したのは犯罪サポートの依頼を受けたからだ。
木城の印象は出会い頭から悪く、精神状態が芳しくないためか常に曇った眼で空を見ていた。思い返せば、彼らは最初からこちらの命を狙っていたのかもしれない。
岩下が刺されたのは強盗を終えてしばらくした後、奪った金を割り振るために集合する際。時間通りについた岩下を待っていたのは木城だけで他の面子はどこにも見えず、誰も来ないのかと問いかけた瞬間だった。
腹部に鋭い痛みと、いびつに弧を描く男の口。
怨みならば買っているだろう。しかし、であれば端から仲間などにせず、奇襲をかけた方が手っ取り早いし、なにより暴力団らしい。それをなぜあんなにも不確実で面倒な手段を用いたのか。
「私を刺した木城の件……誰かに指示された、というのが有力候補でしょうね」
田川らの裏に誰かいる。岩下を殺せと命じた誰か。警察、暴力団、犯罪仲間。誰からでも殺される理由はある。しかし、このような手を使う相手は一つしか思い浮かばない。
「後ろにいるのは警察、ですかね」
自身はけして明るみに出ず、裏で糸引くのは警察の常用手段だ。ある程度考えを纏めると、岩下は場を離れた。
行き交う人の波。穏やかな日常。誰しもが隣を歩く人間を犯罪者ではと疑わない。
それは日本の平和水準が高いことを示しているが、言い換えれば犯罪者が我が物顔で闊歩している社会を容認しているにすぎない。ひとみといい水島といい、危機感が足りないのだ。
ふと、岩下は公園からずっと自身の背に張りついている視線の相手へと身体を向けた。すると相手は一瞬とまり、すぐさま踵を返す。
岩下は追いかけた。走ったりはしない。そんなことをすれば目立ってしまう。細い道を早歩きで進む相手は土地勘があるのか迷わず歩いていく。
誘い出されている可能性も捨て切れなかったが、それでも良かった。相手の出方が分かればこちらも行動が取れる。だが不意に腹部が痛み、視界が揺らいた次の瞬間、男の姿は町にまぎれてしまった。
「……見失ったか」
小さな風が狭い路地で岩下を追い越した。




