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還:天使の血管  作者: 室木 柴
第一章 スリーピィ・ホロウ
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第六話 さまよえる自罰

 穏やかでない目覚め。雨の音はやんでいた。生温い湿気が悪魔の触手のように鳩の臓腑を掴んでいる。

 頼りない電球の光を目いっぱい取り込んでも心臓に巣食ったもやは晴れない。どくどくと脈打つ胸が痛む。助骨を折って飛び出してきそうだ。

 荒い呼吸とともに上半身を起こす。不調を訴える体を無理に動かしたせいだろう、胃と肺のあたりからこみあげてくる苦痛にあえぐ。


「心配ない。あれは夢だ」


 冷淡な言葉が頭上に降り注いだ。

 喉元に手をあてる。鉄の臭い。濡れた分厚いタオルの触覚。


「あの、これ」


 うまく声がでない。かすれた問いに真木は呆れた様子で首をふる。


「まったく。重症だな」

「鳩くん、大丈夫かい?」


 血に濡れたタオルを鳩の喉から外し、真木は去っていく。

 代わりに虎斑が近づいてそっと背中をさすってくれる。無防備な背後に体温を感じながらゆっくり息を吐きだす。

 何度も呼吸を繰り返すうちに心臓の動悸も治まってくる。瞼を閉じた際に頬を生暖かいものが伝う。頭がじんと痛む。


「そんなに怖い夢だったのかい?」

「いえ、……いえ、はい」


 一度否定しかけたのを否定する。ごまかしても彼女には筒抜けだろう。

 恐ろしかったのだと肯定した。どのような夢がみたいか答えたのは鳩。されど依頼のメールを送ったのは彼女。

 どういった夢を見たがったのか、虎斑は知っている。

 本音を認めざるを得ない。

 病院かと思ったが目に映る天井は眠る前と同じ。ここはエンデュミオンだ。


「嫌な夢でした」


 姉がいじめられていた少女にしていたこと。きっとあれは事実だ。

 あんなことをするとは夢にも思ったことがない。しかし目の前につきだされれば姉ならばやるだろうという確信がある。

 どうしてそんなものを見たのかはわからない。

 戻ってきた真木に視線をやっても視線をそらされてしまう。


「ああ、『例のあの子』の夢かな。それは虎斑が頼んだんだ」

「虎斑さんが?」

「彼女もここに来ているらしくてね。催眠術で割り込ませられないかと頼んだ」

「なるほど。……なるほど?」


 引っかかりもあったが、自分のことだ。気のせいだろう。

 不機嫌な様子の真木にも改めて頭を下げる。どうやら先に自分の体質をきいて、対策をしてくれたらしい。


「ありがとうございました。お手数をおかけしてすみません」

「別に。仕事。あと一応元の持ち主にも許可はとってあるから」

「元の? それってあの夢の人ということでしょうか」


 夢の主をたずねた途端、目に見えて不機嫌に片眉をつりあげる。

 プライバシーに関わる失礼な問いだったといってから気づく。

 恥じ入って顔を伏せ、今度は鳩が目をそらす。

 数秒して静かなため息。


「うなされたから起した。一応時間あまってるから、ここで待て。というか寝てろ」

「いえ、もう十分です。お時間をいただくのも申し訳ないですから、今日はおいとまさせていただければありがたいです。またご協力願うこともあるかもしれません」

「あー、そう。それならそれでとっとといってくれ」


 姉の本棚で読んで学んだ丁寧な物言いをしてみるが、以前として真木の態度は軟化しない。

 いやに急かされて診察室から追い出されてしまう。


「じゃあ代金を」


 お年玉を切り崩して余裕のある財布を片手にもつ。

 だが財布を開ける動作は途中で止まった。

 店の外に見覚えのある二人の少女がいたからだ。

 片方の少女は腰に腕をおいて胸をそらし、もう一人に苦言を罵っているようだ。言われるままの方の少女は完全に委縮し、ずっと自らの腕をさすっている。

 一人は誰であろう。間違えるはずがない、なんと桃岡だ。

 ここは女子高生に評判というからミーハーな彼女がいても納得できないわけではない……が。


「すみません」


 割っていった鳩を桃岡は迷惑そうに睨む。

 けれど鳩が気にしたのはそちらではない。

 後ろで「ああ、面倒なことになった」という悲嘆が聞こえる。


「幸谷さんですか」

「え……」


 まさか自分の名を知られているとは思わなかったのだろう。

 自分の夢だというのにそこまで明確に覚えていなかったのか。

 右目元のほくろ。こうして目の前にしてみてよくわかった。自分は何度か彼女の顔を観たことがある。

 衝動的に話しかけてしまった。これで真木たちが疑われては申し訳ない。

 だからカマをかけてみた。


「先週、姉さんのお墓があるお寺に来てましたよね」

「え、あ」


 虎斑との墓参りですれ違った制服の少女。あの時はほくろが見えなかったが、顔の輪郭や髪形が瓜二つ。

 うろたえる彼女にやはりそうなのだと確信する。


「ち、違うんです!」


 突然幸谷は叫び、走り出す。

 桃岡が不機嫌に「ちょっとぉ」と止めたが追いかけようとはしない。

 わざとらしい嫌味な舌打ちをしてカウンターに向かっていく。

 鳩は追いかけたいが会計がある。振り返ると虎斑がお金をおいていた。ついでに桃岡が近づくにつれ暗澹(あんたん)としていく真木の顔も。

 理解が追いつかず立ち尽くしそうになる鳩を虎斑はぐいぐい店の外に押し出す。


「あとで返してね。追いかけるかい?」

「あっ、はい!」

「よし。じゃあすまないが虎斑を置いていくか、おぶってくれ。虎斑は運動がとても苦手なんだ」

「わかりました!」


 玄関前で服が汚れるのも気にせず膝を折る。

 ためらいもなく生温かな重みが乗っかってくる。

 幼子の頃、父におんぶされた記憶を掘り返す。むき出しの素足、ひざ裏に腕を回した。

 今まで背負ったどのリュックより重い。それだけだ。十分に走れる。


「自分でいっておいてなんだが、君は変に思い切りのいいやつだな!」

「ありがとうございます!」


 虎斑の腕が首の下で組まれ、しっかり密着したのを確認して全力で走りだす。

 狭い路地を出てすぐ左右を見渡す。

 二度ほど見直して、右の方に小さな後姿を発見した。視線が痛いが今はあまり気にならない。

 話を聞きたいというのはある。だがそれならこんなに焦らない。話は静かにきくものだ。

 あの夢を見たせいか。幸谷を放っておいてはいけないと鳩の心が必死に警告しているのだ。

 わけはわからない。しかしわからないからと放置したら痛い目をみるとよく知っている。


「け、結構運動神経いいねぇ鳩くん!?」


 必死でしがみついている虎斑の叫びが遠く感じた。

 女性としては平均的な速度で逃げる幸谷との距離はだんだん狭まっていく。


「はたからみたらこっちが悪ものだよねー! ねー鳩くーん!」


 音は耳に入るが意味が頭に入らない。

 頭の冷静な部分がきちんと聞けといっているのに、熱い部分が()かす。

 幸谷はちらちらこちらを振り返っては足をもつれさせた。

 あと数メートルというところで完全に追いつく。この様子なら無事追いつけそうだ。


――あとはどう話をしよう。


 近づくと今度は冷静な部分が勝ってきて、怖がられているのではと懸念しはじめた。

 ちょうど幸谷は横断歩道にたどり着こうとしている。その前後で声も届く。

 信号は青く明滅している。鳩は念のためスピードを緩めたが、幸谷は違った。

 一足先に横断歩道にたどり着くと、ここが引き離すチャンスといわんばかりにスピードをあげる。あげようとした。

 疲れている時に無理をすれば、当然転ぶ。

 ひやりと心臓がはねる。

 見えたなら車も止まるだろうと思った。横を向いて確認すればどうしたことか、先頭の車は直進しようとしているではないか。後ろのクラクションも聞こえないらしい。


――スマホでもいじってるのか!?


 運が悪いにもほどがある。

 鳩は咄嗟に腕を離し、虎斑を地面に落とす。


「いたっ」

「すみません!」


 あとでいくらでも謝ります。

 心のなかで付け足して、道路に飛び出す。

 ドラマでよくあるシチュエーションだがいざ自分がやろうとすると頭が真っ白になる。

 幸谷を抱え、道端に放り投げる。

 それだけで既に車はすぐそばに迫り、今更クラクションをかきならした。


――ぼくなら大丈夫。


 両腕で頭を抱えてうずくまる。そして車とぶつかる一瞬、体を融解させた。

 液体と化した体は破壊的な衝撃を吸収する。

 そのまま吹き飛ばされる勢いに乗って人のいない適当な場所に転がった。

 液体のまま人ごみから離れ、落ち着くのを待つ。

 自分を探す人の声が聞こえる。事件にならないか胸がドキドキして、見つからないか余計な心配をしてしまう。

 血もなくただ荷物が散らばっているだけの状況に人々は困惑していた。

 しかしずっと立ち止まっているわけにもいかず、やがて人は減っていく。

 人ごみといっても群馬の田舎町。歩行者は四、五人。車もわざわざ立ち止まりはしなかった。

 衝突車もけが人がいないのをいいことに逃げてしまった。

 まるで白昼夢であったかのように、一時の事故は忘れ去られていく。

 いいのだか悪いのだか。複雑な気持ちをおしかくし、安全を確認してから人型になった。ただし本来の鳩とは容姿を変えた。

 短い黒髪に細い瞳。服装は私服。男の人ごみに紛れてしまえば見分けがつかない……と信じたい。

 おそるおそる事故現場の近くによると、虎斑が荷物を回収していた。

 あたりをしきりに見渡す。姿を変えてしまったので鳩を見つける様子はない。

 幸谷もどこかに行ってしまったらしかった。

 虎斑は口許に指をそえて何か考えこむと、来た道を引き返していく。


――エンデュミオンに戻るのかな。


 鳩のスマートフォンはかばんのなか。冷静に歩いて戻っているあたり、鳩が何をしたのか感づいている様子である。

 何でもない風を装って鳩もエンデュミオンに引き返す。

 店に入る直前でようやく本来の姿に戻る。

 先程飛び出していった扉を開けると何対かの視線が刺さる。

 今になって顔が火照ってきた。とてもばかなことをしている気がする。

 そしてやはり虎斑は鳩のしたことに気づいていた。

 ニヤニヤと悪戯っ子の笑みで鳩に近づく。


「なんとかなったからいいものの、ねえ」

「はい……すみません」

「おしりいたい」

「申し開きもできません」

「ちゃーんと注意したんだよ」

「おっしゃるとおりです」


 こぶりな尻を撫でて鳩の横暴を主張する虎斑には頭を下げるしかない。

 内心、全く後悔していないのがますます恥ずかしく、心の底から申し訳なかった。

 入店直後からこちらを睨んでいる店主にもだ。


「お騒がせしました……」

「俺達関係ないから。そんなことより店のなかで邪魔。別のとこでやれ」

「そりゃごもっとも。鳩くん、行こうか」


 手をひっぱられてまた退店する。騒がしい客だ。真木に睨まれても仕方がないと思う。

 彼は何か言いたそうにしていた。次の客が待っているらしく坂野がせっついている。真木はまたため息をついて、仕事に戻っていった。


「ああ、そうだ鳩くん。これ、坂野さんが君にって」

「これは……本棚の?」


 渡された本は古い文庫のようだった。あちこちくせがつき、濃く日焼けしている。相当読み込み、また古いものだ。

 タイトルは『少年の日の思い出』。


「読み終わったら返して、だって。また来てほしいみたいだね」

「……ありがたいです」


 単なる商売上手なのかもしれないが、初回からやらかした鳩にとっては気遣いのようでありがたい。

 何故この本にしたのかはわからないが聞き覚えのあるタイトル。そういうものは大抵名作であるから、何度読み直してもいいものだ。

 安堵に微笑む鳩に虎斑はこほんと咳をする。


「さて、気を取り直して。鳩くん、どんな夢をみたの?」

「えっと」

「それが原因であんなに必死だったんだろう。あの幸谷さんっていう子が出てきたのかい? どうにも佑くんと彼女の関係がわからないのだけれどね」


 さすがにそれを聞かないというわけにはいかないようだ。

 いいよどむことに遠慮もせず切り込んでくる。


「そのですね。姉さんの夢をみました。なんというか……久しぶりにあの人にあったら、急に今までの佑姉さんが死んでいく感じがして」


 口に出してみると、わけもわからず体内でうごめいていたものがすとんと収まっていく。

 不快という名の異形な塊。自分にとって都合の悪い側面を、見えているのに認めたくなかった。醜いものは見ているだけでつらいのだ。

 それが自分の内側にあるものともなれば憎悪したくもなる。

 けれど内臓をかきだすことには壮絶な痛みと恐怖をともなう。

 それを防ぐためにさんざん見ないままの子どもでいつづけた。


「ぼくのなかでは姉さんは優しくて、綺麗で、ぼくなんかよりよほど天使みたいな人でした。優しさに理由なんてなくて、なくていいと思っていた。だってぼくは十分に佑を知っている気だったし、わからなくたって生きていけた」

「今はそうじゃないと思ってる?」


 虎斑の確認に自嘲の笑みを浮かべる。

 最初からいないものを、より受け入れやすい形にして恩恵だけ受け取ろうとしていた。

 確かに佑は鳩の知る限り最も優しい人間である。

 優しさを『他人にとって都合よく動くことができる』という意味にすれば。


「そうですね。僕は佑を尊敬はしていたけれど、憧れてはいない。好きであるのと同じくらい嫌いで怖かった。家族で《親》だからそうじゃないって思い込んでいただけ」


 当然のように自己犠牲して、報われることもなく。なおも誰も恨まない。

 美し過ぎて醜い。

 鳩は自らの命は平等だと思っている。あるいは他人以上に自分が大切だと。傷つくのは怖い、痛い思いはしたくない。

 佑がいじめられていると知った時も、庇えばこちらにも刃が向かって来ると恐れてしまった。

 今まで気づかなかったのは『それがどういう感情なのか』を知らなかったからだ。

 感情を呼びあらわす『不快』の名も『生理的嫌悪』の名も知らなかったからだ。

 形にしなかったから目を背けられただけなのだ。

 何より、鳩は佑の《天使》であったから。

 彼女のそういった気質を反映せねばならないのではといつも怯えていた。

 平和の象徴である『鳩』の名を与えられ、佑が鳩にそうあれと命じているのではと疑り、思考を放棄して無視し続けた。

 一度も「そうしろ」といわれたことはない。勝手に強迫観念に囚われただけ。

 『佑のようにならねば』『佑は凄い』と思う以上に、『絶対佑のようにはなりたくない』、なれないと否定していたのだ。


「ぼくは佑が怖かった。気持ち悪かった。理解できなくて、したくもなかった。ただ恰好だけでも沿わなくちゃいけない、だってぼくのルーツは佑だから。佑と同じルーツを持たないなら、ぼくは佑の天使ではないし、だったらぼくとはいったいどういう存在なのだろう、って」


 思えば思うほど、『佑』から離れていく。だが考えなければ彼女にはたどり着けず。結局のところ、最初から鳩が佑と同じになるなど不可能な話だった。


「夢を見て、はっきりわかっちゃったんです。直視しちゃったんです。わかんないのは当然ですよ、だってずっとそうしてきたのはぼくなんですから」


 過去で悩むべきだった現実。積もった過去が今になって一気に襲いかかってくる。胸が張り裂けそうだ。

 先程喉が裂け、身をうったおかげか。痛みがあるだけで意外と気持ちは落ち着いている。

 荒ぶる大波のような感情のるつぼではなく、静かに切々と刺さる雪のような苦悶。

 赤裸々な吐露を受け止めた虎斑は、静寂をもって受け止めた。

 道の端から端までたどりつくだけの時間を経て、ようやく声を発する。吐息も(ひそ)めた細い声。


「そんなの誰にだってあるよ」


 苦しい思いをすることになるなんて、それこそ最初からわかっていた。

 横目で覗けばどこか遠い場所を見ている。

 いつのまにか傾き始めた夕日に横顔は照らされ、笑みのない顔の陰影が際立つ。


「人間なんだから悩むのはいいんじゃない」

「……人間は生まれつき人間じゃないですか。親がいてルーツがはっきりしてて、ちゃんと地に足つけて考えられる生き物ですよ。《天使》は血の繋がった相手なんていない。《親》を除いたらこの地上に足をつけた始まりの時さえわからない、不確かな存在なんです」

「人間だって『赤ちゃんはどこから来るの?』っていう質問は定番だよ。心が生まれつきハッキリしてる人間なんていない。君は《天使》だけど、心は人間じゃないか。そこでは悩むのはおかしな話だと思うけどねえ」


 心は人間。そうなんだろうか。


「虎斑は納得が大事だと思うよ。君は何が嫌で疑問に思っていて、どう解決したいの。一番したいことって何? そんなのがわかるのは、半分運で半分努力だよ。虎斑はそれを手伝うのが好き。沢山考えて学べるから。君は何が好き?」

「好き、ですか」


 佑が好き。佑は嫌い。

 優しさが好き。慈愛が嫌い。

 助けることに憧れる。自己犠牲は遠慮したい。

 でも。でも、先程幸谷を助けた時は――少し自分が好きになれた気がした。


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