第四話 手紙は羊の胃のなかに
「ああそうだ、そういえば感性の違いだったか。じゃあ今、もう一度見直したらどうなるんだろうね」
彼女は話題を戻した。うつむいた鳩に投げかけられた疑問――あるいは提案。
見直す。何を。姉のことか。今まさにそうしている。
意図がはあくできず首を傾ける。
「なにを見直すんです?」
「記憶だよ。思い出といってもいいかな。確認としてきみは佑くんが好きなんだよね?」
「勿論です」
鳩は佑の弟。佑は鳩の《親》なのだから。
「じゃあきみにある佑くんに関する記憶は綺麗なものってこと?」
「そりゃあ……そうですよ」
遺書を見た時は気持ちが悪いと思ったが、それは鳩があんなに綺麗ではいられないから。
決して執着はせず、誰にでも優しい。そういう記憶しかない。喧嘩もしたことがないのだ。
「でも前の話だよね」
「前?」
「彼女がわからないって思うより前。今は少なくとも自分が彼女をわかっていないと理解できたんだから、改めて記憶をみれば新しい発見があるかも」
「思い出すだけならぼくにもできるかと」
なにせ《天使》は記憶力は抜群。
集中すれば掘り起こせないこともないだろう。
立ち止まって片手で顎を掴んで考える。頭部に近い箇所を触った方が意識を集めやすい気がした。こめかみのあたりがジンと痛む。
けれど急にトーンがあがった虎斑の叫びが思考をかき乱す。
「まあそれもいいんだけれどさあ、疲れたよ! やっぱりさっきの喫茶店行こう!? 調べたいこともある」
「えッ、戻るんですか? しかもまだ十数分ぐらいしか歩いてませんよ」
スマートフォンの電源をつけて確認してもそうだ。
虎斑の顔をまじまじと見る。
頬は赤く色づき、天をみあげてそれた首には幾筋かの汗が伝う。
鳩も汗はかいているがここまでではない。
「時間はたっぷりあるんだろう? いいじゃないかー」
「ええ、まあ。でもどうしてさっきよっておかなかったんです」
「気が変わったの」
「さっきから予定を変えてばかりですね。わかりました、行きます」
こんなふらふらした調子でいいのかな、と不安になってしまう。
――ふらふら定まっていないのはぼくも同じだったなあ。
だとするとこれは当然の帰結。
彼女は自分に合わせてくれている。焦らない、焦らない。
「ずーっと考えごとしてると肩こっちゃうからね」
「はあ」
「気合いが入るのはわかるよ。なんだい、不満?」
「べ、別にそんなことは」
「考えるの慣れてないなら、息抜きしないとガス欠になるよ」
「まだまだ体力気力有り余ってます」
「ていうか虎斑が休みたい」
「……なら仕方ないですね」
急な方向転換に戸惑う。
もはや聞く耳もたずと来た道を引き返す虎斑。
いらつくのも馬鹿らしくなって、我慢していた溜め息をこっそりこぼす。
「はーい、考えなーい考えなーい、今は考えない時間なのー。疲れたー」
「わかりましたって!」
ぐいぐい腕をひっぱられて力づくで引っ張られていく。
正直ちからは弱い。その気になれば簡単に振りほどける。
鳩は抵抗しなかった。
なんだかんだひっぱられるのが心地よい。
肩の荷が下りる。頭の隅に集まり始めた塵を落とすことを許された感覚。
身体は軽くなるし、焦りは弱まる。
――姉さんはこんな強引じゃなかった。
立とうとすれば文句ひとついわず手をさしのべてくれた。
声をかけなければ遠くから見るだけで声もかけてこない。
それが優しさだと鳩は思っていた。ならば今感じているこの気持はなんだろう。
「違う違う、考えない、考えない」
「いいぞ、考えない、考えない!」
「かんがえない!」
あほなことをしている。
いつもは何をやっているのだろうと訝しむ側。やる側に立つとなかなか面白い。
やまびこのように「かんがえない」と戻る二人を周囲はどうみたか。
いつもは気になってしまう。今は不思議と気にならない。
「なんというかあれだねえ、童心に戻るね」
「そうですか?」
「ああそうか、君は……まあいっか。なにがあるかなー」
意味深な一言を中途半端に区切る。
気になったが今は考えない時間。考えたら怒られてしまう。
店の中に入ると外観よりも新しいデザインが出迎えてくれた。
一言でいえばとても明るい。壁は白の強いクリーム色。そして陽光を取り込む大きな窓が理由だろう。
ケーキのショーケースの反対の窓際に、テーブル一台と椅子二脚が二セット並べられている。
ガラス張りのテーブルは洒落ていて格好いい。割ってしまわないか怖くもある。
そこに先程覗いていた女性たちはいない。
ほっと胸をなで下ろす。できればそういう人の近くにはいきたくなかった。
「おお空いているよ、これは落ち着く」
とぶように椅子に座り、長い足をのばす。
テーブルのうえにはメニューの類がない。だからか次は座ったままケースに目をこらしている。
「壁です」
「そりゃあ盲点だったね」
壁に飾られたメニューはそうだと思ってみなければポスターにそっくりだ。頬杖をついてしげしげ見定め、たっぷり数十秒かけて決意する。
「虎斑はカボチャのプリンにアイスティーにする」
「じゃあぼくはコーヒーゼリーにアイスカフェオレで」
「コーヒーにコーヒーを合わせるのか……」
飲食店で好きなものを頼むのは決して間違いではない。
虎斑の呟きはスルーして店員を見る。
ケースはカウンターと隣接しており、にっこりとした愛想のいいビジネススマイルが返される。距離は数メートルしかない。
店員はちゃんとカウンターからテーブルに近づき、明るく素朴に注文をとって奥に向かう。代わりに出てくる店員はいない。
視線は完全になくなって、道路を走る車と木々の葉がこすれあう音だけが満ちた。
――落ち着いた場所に来たわけですが、何かありますか?
そうききかけて口を閉じる。
落ち着いたかと思ったのに。心の底ではまだ気になっていた。
気を急いて我慢のできない子どもみたいだ。
「うーん、うまくいかないなあ」
「考えないことが?」
「はい」
頭と心は全然違う。自分を冷静に測れない。
彼女の言う通り疲れているのかもしれなかった。
「鳩くんは本当に真面目過ぎるねえ。あ、スマホいじるけれど構わないかな」
「ええどうぞ」
「失礼する」
スマートフォンの画面をタップする音がリズミカルに響く。
踊る白い指を呆然と眺めていると、突然光を放つディスプレイを眼前に向けられる。
「えっ、なんですか?」
「調べてみた。なんかよさそうなところ」
「考えないのに? それとも考えるのに?」
「考えるほう」
差し出されたスマートフォンを手に取る。
表示されているのはホームページだった。手作り感あふれるチープなレイアウト。グリーンが基調になっていて、リンクは少ない。要点がおさえられた見やすいホームページだった。
ゴシック体で店のタイトルが記されている。
エンデュミオン。妙に美しい名前。チープさに比べると浮いていた。
「ここがどうしたんですか?」
「地味ながら最近評判になり始めてるらしいよ。高校生の間で噂になってる。睡眠セラピーのお店だね」
「はあ。催眠術みたいな?」
「なんでも思い通りの夢を見せてくれるというから、それでいいのかな」
「どうしてこれを?」
「無理に思い出すよりこういうのもやってみたほうが面白いかなあって」
「面白いって」
ページをいくつか開いてみる。場所は家からそこそこ近い。
女子は占いやおまじない、スピリチュアルなものが好きな印象はある。
だからこういった場所にもめざといのだろうか。
自分のスマートフォンで検索してみれば大体の位置と景観も調べられた。文明さまさまだ。
「なんだか暗い場所ですね」
「店員さんもほぼ二人だけの小さな店みたいだからねえ。行くなら予約するよ」
「うーん」
通路と通路の間。自然の光はほとんど差し込まず、曇りの夕方のようだ。
鳩が頭を痛めているのをみて、自分でできると信じてもらえていないのかもしれない。
ほとんど事実なのでしかたがないことだ。
それに催眠術という異能じみたものに好奇心がうずかないといったら嘘になる。
「行ってみよう、かな」
「ようしよし。じゃあ予約しておくね、とれるといいんだけれどなー」
にぃっと虎斑が唇を歪めた。きゅっと動向が小さくなってますます猫っぽい。
この様子だと彼女も個人的にいってみたかったのだろう。
運ばれてきたコーヒーゼリーをすくって口に放り込む。
舌のうえでぷるぷるとした触感がはじけ、濃厚な生クリームと苦いコーヒーが混ざり合う。
「あっ、そうだ。先輩として今日はごちそうするよ!」
「本当ですか? わあ、ありがとうございます」
つきあってくれるし、おいしいし、おごってくれるし。
鳩の頬がだらしなくのびた。どうせ急がねばならないことでもないのだ。
大事だからこそゆっくり色々やればいい。
「おお、ラッキー。なんとか予約がとれそうだぞ、鳩くん。来週土曜でいけるかい?」
「大丈夫です」
即答できる。
姉の件で腫物のように扱われている鳩にわざわざ話しかけてくる生徒は少ない。
一応はっきりと《天使》とは明言していない。だが髪をみれば《天使》かその近親者だとかんづいている者は少なくないはず。
鳩には実感がわかないとはいえ。彼らにとって鳩は異物であるようだった。
「よかった」
彼女も口元にカボチャのプリンを運ぶ。
「来週もぼくにつきあって、虎斑さんこそ大丈夫なんですか?」
「当然さ」
「ご家族は?」
「忙しい人だから。気楽なものだよ、あとで確認するけれど大丈夫だろう」
彼女の口調は朗らかそのもの。家族仲がいいのだろうなと羨ましい。こんな積極的な人でも親はいるのだ。
誰かの子どもであるのは同じなのに、こんなに違う。
白河家だって仲のいい穏やかな家族だった。今でも基本的にはそうだ。
しかし信頼という意味では? 絆という意味では?
自虐する。
複数形でなかったのが気になった。思えば鳩は虎斑のことを姉の友人という以外何も知らない。
どうきけばいいのだろう。さすがにここで問い詰めるほど恥知らずではない。
「虎斑さん」
「なにかな」
「……いや、なんでもないです」
試しに口を開いても言葉がでない。もっとスムーズな話し方を得る方法、語彙を手に入れるやり方。
少し疲れてしまった。ゼリーが喉を滑り落ちる感覚を楽しむ。
前向きに考えてみよう。虎斑に会おうとした最初に比べれば随分口を動かすのにも慣れてきた。
今こうして休んでいる間にも「休む」という言葉と経験を手に入れている。
「夢かあ」
意識を来週の予定にそらしてみる。
両親に相談はしよう。だがきっとだめだといわれてもこっそり来てしまうだろう。
ヒトにユメと書けばハカナイ。
誰かの影を追うというのはまさに儚さそのものだと思った。
だって姉はもういない。どんなに返事を待ち望んでも、手紙も言葉も届かない。
人と接しない一週間は、苦痛で。待っている間は時間の流れが遅いのに、なってしまえばあっという間だった。
玄関から頭だけ出して空を見上げる。
鉛がしたたってきそうなほど濃い灰色。鈍重な雲。
「鳩ー? 傘もった?」
「いま持つ」
「あなたまさかビニール傘なんて持ってく気じゃないでしょうね?」
傘たてから適当に握った傘は、まさにコンビニで買った透明なそれ。
「……」
「あのねえ、女の子と会うんでしょ?」
洗い物をしていたはずの母がハンドタオルで手を拭きながら近寄ってくる。
「ね、佑の友達。どんな子だった?」
「もう何度もいったよ」
「回数の問題じゃないの」
虎斑に出会った日の晩以来、母は彼女の話題になる度きいてくる。
一度や二度ならいいが何度もいわれるといい加減うっとうしい。
鳩の語る虎斑なんて何度語っても変わらない。本当は既に覚えて理解しているはずなのだ。
「虎斑さんは親切で明るい人だってば」
「かわいい? きれい?」
「きれい、かなあ。頭がピンクなんだ、ああ色がね? お母さんが《天使》なんだって」
「そっかあ。じゃあ色々聞いてきなさい。体には気を付けて、体調が悪くなったら無理せずすぐ帰ってね」
「わかってる」
母は鳩に輪をかけて浮足立つ。
娘とはそんな会話がちっともなかったから嬉しいのかもしれない。
そして以前よりずっと心配症になった。
特に体調にうるさい。
主治医から「どんなに酷い症状に見えても命に別状はない」と保証までされたのに。
姉が亡くなった直後の沈みきった姿に比べれば明るい方がいい。テンションが高すぎて心配になることもある。
「つらくなったらすぐ電話していいからね」
「うん」
「今日はどこいくの?」
「女の子の好きそうなお店」
「そう」
母は顔を伏せてしまい、瞼の下に影ができた。
――なにかいってあげたいな。
慰めるのもおかしい。我慢させてしまうのも心配だ。
なんと声をかければいいのだろう。
結局鳩の口からでてくるのは無難なあいさつ。
「いってきます」
「ええ、気をつけていってらっしゃい」
――もっと言葉を身に着けたなら、母も元気にできるのかな。
虎斑はただ語彙を増やせばいいというものではないといった。
鳩が本当にいいたい気持ちを表せる言葉も、とっくに持っているのだろうか。
姉にしろ自分にしろ。自分でも知らない心のうちを知れたなら。
つい先日の楽しい出会いを思い、鳩は今日の予定への期待を膨らませた。