第二話 気になるあの子
空はこれ以上ないほど晴れ渡り、緑は陽を浴びて喜び勇み、鳥は雲と一緒になって飛んでいる。
そんな公園のベンチに座り、ぼんやりとどこをみるわけでもなく足をのばす。
時間を持て余していた。吹き抜けるような青をみあげるとそのまま融けてしまいそうだ。
鳩の場合、比喩でもなんでもなくそうできるのだが。
空の色は姉の部屋に入った日とそっくりで見分けがつかない。
「本当は一日も経っていないんじゃないかな」
そんな都合のいいことはない。退院して三日。厄介な体質の判明からほぼ一週間が経っていた。
そして残った姉の封筒を使い、手紙を出してからは四日間。
既に返答はあった。
『六月第三週の土曜日、午後二時半に夕川町の公園で会おう』
住所を見る限り、相手――姉の文通相手は那谷木に住んでいる。鳩が住んでいる夕川町から自転車で四十分程度で着く土地だ。
文字で説明するわけでもなく、わざわざネットからプリントしたと思われる地図も同封されていた。
手元で姉のものでない封筒を撫でる。表面はさらりとして触り心地がいい。割れそうなほど透き通った頭上にかざす。
光を受けてまるで内側から輝いているかのように光を通す封筒。しまわれた紙がコトコトと揺れる。
中身を取り出して開く。うっかり間違えることがないようにと何度も読み直した。
一回読めば十分でも不安でならなかった。かどとかどをぴったりあわせた二つ折りのメッセージ。
幾度となく確かめた文通相手の名を読みあげる。
「トラフ リンさん。……女の子だよね?」
虎斑 凛。
父に尋ねないと読めなかった珍しい苗字。
そちらは勇ましいけれど名前はどちらともつかない。涼やかで澄んだ音だ。いい名前。
正直筆をとったときは不信と期待でいっぱいだった。
何も知らない相手に感情を押し付けるのは鳩の勝手。
知らない人間にまで甘える自分がいやになりながらも、彼女(?)に思いをはせたのだ。
一体どんな人だろう。
姉の友達だったかもしれない人。姉を助けられなかった人。
助けるべきは家族である鳩。そうわかっていても、どこか知っていたかもしれないのにという恨みがましい気持ちがちらちら顔をだしてしまう。
憎しみは義務のようにわいてきて、反対に感謝の念も輝かしいほど確信している。
だから手紙には姉が死んだことと会いたい旨だけを書いた。
「本当にぼくはダメなやつだなあ」
頭は動く。体も大きい。なのに心が全くついていかない。
虎斑は手紙を受け取ってどう思っただろう。
返事にもまた、理解したことと待ち合わせについてしか書かれていなかった。そこから人柄を予想することはできない。
一応その人であると知るために、身体的な特徴は伝えられている。
なんでも濃いピンク色の髪だからすぐわかる、と。
鳩もオパールのような光沢をもつ銀髪であるからして、虎斑もまた人ではないのだろうか。だとしたら貴重な先輩だ。
時計を見れば午後二時十五分。
待ち合わせよりやや早い。公園で遊ぶ子どもからの遠慮ない視線が痛かった。心なしか彼らを見守る母親たちに睨まれている気がする。
「早く来ないかなあ」
「それはなんとも素晴らしい。君は実に幸運だ」
「え?」
芝居がかった口調が耳朶を打つ。
名の通り凛とした声音。神社の鈴のようにただ一度鳴らされただけで背筋が伸びるような心地よい高音。一瞬聞き惚れてしまった。
次いで独り言に返事が返ってきたことに、背筋が冷たくなる。
声が聞こえてきた方向を見れば、いつのまにかベンチの斜め前に一人の女性が立っていた。
手紙に書いてあった通りのピンクの髪。鮮やかで濡れたような深みをもったツツジ色。
大胆に肩を出したシャツ――オフショルダーとかいうのだったか――にホットパンツ。足元はヒールのあるサンダル。
かすかに赤みがかった白い肌が惜しげもなく晒されている服装に、鳩の方が照れてしまう。
だがそれらよりも、何よりも鳩は彼女の大きな黒い瞳に注意をひかれた。
猫を思わせる悪戯っぽい瞳。好奇心に満ちた二つの黒い玉が輝く。
「念のために確認する。君は白河 鳩くんかな?」
「トラフさん、ですか?」
「いかにも。タイミングばっちりだね、感動的だな、君とは仲良くなれるに違いない」
ニコニコと嬉しそうに話すのにつられて鳩も微笑む。
今まであったどの人間とも違うタイプ。戸惑いがなかったといえば嘘になる。
どう接すればいいのかわからない迷いと一抹の不安。明るい笑みに与えられる安堵。
「しかしよいひとだからこそ困るな。ひとつふたつ、君には謝っておかないといけないね」
「謝る? まだ初対面で、何もされてないですよ」
よいひとといわれて少し照れる。
彼女は首を左右に振った。
「君にとってはそうでも虎斑にとってはそうではない。
まず連絡のこと。メールより手紙の方が伝わるものは多い。それ以上に直接顔を合わせた方がもっとわかる。だから文面は簡素にさせてもらったのだが、気を悪くしたならすまない」
「とんでもないです! ぼくも勝手に手紙を見たりしましたし……」
「お姉さんのことを伝えようと思ってだろう? 多少のことは仕方がないさ。
さて、これが本題なのだが。お姉さんの、佑の友人であるにも関わらず、助けられなくて本当に」
途中で言葉を区切る。軽く目を伏せて、真剣に悩む。
そしてまた首を振った。今度は彼女がひとりごちる。
「謝って済むことじゃないな、これは。だからといって謝らないのも違う。結果は事実だ」
――なんだかとても真面目な人だな。
容姿に口調とどういう人物か測りかねていた。まだ会って数分と立っていない。
それでももう十分に虎斑がどういう性格はわかった気がした。
事実と正論をふりかざせば誤魔化せるものを。きっと不器用なほどに真面目なのだ。
「うん、これは虎斑のわがままだ。罪滅ぼしをしたいという身勝手な望みだ。だから虎斑は君に望みがあるならこたえることにする」
手を振り払うもはたくも好きにしてくれ。
差し出された手に震えはみじんもなかった。きっとここに来るずっと前からそうしようと決めていてくれたのだろう。
対して鳩が思うことは、
「あの……ぼくだけそんないい思いをしていいんでしょうか?」
「うん?」
「だって姉さんを助けられなかったのはぼくも同じです。怒りがないといったらウソになりますが、八つ当たりみたいなものですから」
もしこれが自分のせいではないとだだをこねる人であれば怒鳴っていたかもしれない。
だから自分と姉のために頭を下げてくれる人を傷つけたくなかった。
堂々と非を認める人になら、蔑まれても仕方がないとさえ思った。
「正直、それでもいいよと怒らずにいてくれるならとてもありがたいのですが」
「そりゃあもちろん。狭量な真似はすまい」
「ああ、よかった!」
胸をなでおろす鳩に虎斑は苦笑する。
我ながら虫がいいとは思う。目を細めてこちらを見やられて、背中がむずむずした。
「しかし私に怒っているわけではないのか。では何故会いたいと?」
「えーっと、うまくいえないです。ただ会いたかったんです」
「会いたかっただけ?」
「はい。あなたとの出会いがぼくを変えてくれる気がして」
手紙をポストにいれたとき、来てくれるかもわからなかった。
鳩は自分を知らなくてはいけない。そのためには姉を知ることが不可欠だと思った。彼女こそ自分のルーツなのだから。
なのに鳩は何もかもを知らなすぎる。
世間も、周りが何を考えているかも。どうして鳩にはわからないことを嘆き怒り悲しむのか。
反吐どころか血反吐が出るほど情けなかった。
内面において鳩は赤ん坊とほとんど変わらない。
だから虎斑に会ってみたかった。
誰もが遠くから見守るか、手をさしのばすことを考えあぐねるか。
無関係という鎧を着こんだ人以外はすべて理不尽という刃をもっていたなかで、唯一彼女の内側に触れただろう人。
そんな人との出会いなら自分を変えてくれるかもしれないと思ったのだ。
真剣な鳩に対し、虎斑はにやっと笑う。
「なにかおかしなことでもいいましたか?」
「ナンパかなと思ってね」
一体どの行動に対していっているのかわからず、記憶を反芻する。
そして数秒かけて、自分の言葉は聞きようによってはそう聞こえると理解した。
「違います、違います! そんなことができるほど器用じゃないです!」
「ナンパって器用かな? なに、冗談さ。ようし、つまり虎斑は君の先輩になればいいんだな?」
「先輩?」
「背中をたたけばいいのだろう、任せてくれ。虎斑は母が《天使》でね、異能のたぐいはないが知識はある」
腰に両手をあてて胸をそらす。
すっかりノリキらしい彼女がほんのちょっぴり恐い。悪気はないが「うーん」とうなってしまう。
しかしせっかく助けてくれるというのだ。
失うものも少ないのだから甘えておこう。
どうせ疑ったところで簡単に見通せるわけがない。そんな甘い考えで微笑み返す。
「……こう、自分からいっておいてなんだが心配になるね」
「たとえば?」
「そういうストレートなところかなー」
素直だとなにか悪いのだろうか。
教えてもらう身で失礼があると困る。訊ねようと口を開く。
言葉がでるよりも先に虎斑がひらひらと手を振る。
どうやら大した話ではないらしい。
ただの世間話の一環?
あまり人に接したことがないせいか、妙にフレンドリーな彼女との距離感がつかめない。
「あー、えっと。他に何か聞きたいことあるかな? 場所を移動するのもありだよ?」
「ぼくは姉について知りたいだけです。もしできそうなら、それができそうだとおもうことを教えて欲しいです」
「あー、うん。夕飯なにがいいってきいたらなんでもってかえってきた気分だぞ。待ってくれ、考えるから。その間に質問があったら考えて」
「じゃあ自己紹介?」
「虎斑は虎斑凛だよ」
「ええっと、姉さんと出会ったきっかけとか、文通の理由とか。住んでいるところとか、家族とか、趣味とか」
「おおそうかそうか。ちなみにLAINはやってるよ」
そういってスマートフォンを差し出す。赤い革製のシックなカバー。
考えろといわれて思い返せば、名前しか聞いていないも同然。
何故違う土地に住んでいる二人が出会って仲良くなったのか。
どうしてデジタルでなくアナログでやりとりしたのか。
まさか自分が出現するよりも前に引っ越してしまった幼馴染?
ひょっとすると共通の趣味があって、サークルででも出会った?
思いつき次第不思議に思ったことをあげただけだったのだが、思いがけず連絡先をきけてしまった。
互いにスマートフォンをふるふるしながら疑問を深くする。
姉だってこの機械を持っていた。これも使えないような機械オンチでもない。
つまり手紙を選んだのは意図してのことだということだ。
「全部いうのは時間がかかっちゃうなあ。でもさっき教えるっていったばっかりだし。しかもこの虎斑は悪ふざけと長話が大好きときている」
「わあ、ほんとに全部教えてくれるんですか? 太っ腹ですね!」
「そうかいそうかい? いやあ照れるね」
顎に指を当ててニヤリと笑う。
とても嬉しそうだと内心安心する。
せっかく親切にしてくれるのだ。せめて気分をよくやってもらいたい。
「そして虎斑もやりたいことが決まった。意外とすんなりいくものだな」
「あっはい、なんでしょう?」
「行きたい場所があってね。ここも暑くなってきた、なんだ、移動しながら話そうじゃないか」
夏の日差しはだんだん威力を増してきている。
肌を露出している彼女はわざとらしくてのひらを額にかざす。
はっきりした目鼻立ちに影が落ちた。
「行きたい場所ですか?」
「ああ。虎斑だけでは行こうにも行けなくてね」
「知らない場所に行こうと?」
「虎斑はね。要は――佑くんのお墓に連れて行ってほしい」