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還:天使の血管  作者: 室木 柴
第一章 スリーピィ・ホロウ
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第一話 誰でもない

 安心は求めるものではない。危険を排除していった結果を安全と呼ぶ。

 今は全くもって安心できない。鳩はそう感じていた。

 夜といえど夏はより己の身を熱く燃やそうとしている。毛布を薄く手触りのいいものに変えても蒸し暑い。

 肩から包み込むように毛布を巻く。体に何かを密着させたかった。独りという心地がする。寂しいのか、虚しいのか。


「どうすればよかったんだろう」


 見つけた遺書は両親に手渡してある。部屋でしばらく呆然とした後、リビングで朝食をつくりはじめていたところに足を踏み入れた。

 薄い笑みを張り付けて、危ういバランスで穏やかな休日を過ごす二人。

 今から自分がそれを壊すのだと思うと、何もかも知らなかったことにしようかと迷ってしまった。

 手渡したあとのことはあいまいにしか覚えていない。

 《天使》である鳩の記憶があいまいだというのはとても珍しい。あえて忘れたかったのだ。

 毛布を強く握る。心が幼子の頃に戻っていく。

 気を抜くと脳裏に響きそうになる雑音。自己嫌悪の言葉。それでも睡魔はやってくる。

 鳩は瞼を閉じた。その言葉を聞くにはまだ鳩の心は弱すぎる。

 動く手足から意識を手放し、自分の頭のなかに沈む。

 思考が水ににじむように曖昧になっていく。眠りに落ちる瞬間だとわかった。しかし、自我がどこか遠くに連れて行かれるような。頭の先から力が抜けるような、嫌な感じがした。

 

「……眩しい……」


 数時間か。あるいは数分か。

 よほど深い眠りだったのか時間の感覚がない。

 目を閉じているのに視界が白く光る。懐中電灯の光を直接あてられたようだった。

 たまらず鳩は目を覚ます。

 広がったのは自室のクリーム色の天井ではない。近いけれどはるかに清廉な白。材質も違う。


「あれ……なんだ、まだ夢のなかだ」


 まだぼうっとする首をまわした。

 白い天井、白い床、淡い色のカーテン。

 あの床はリノリウムというのだと教えてもらったのはいつのことだろう。

 自分の手をつないで、母――自分と姉の――は亜麻と油が合わさったらあれになるのだといった。

 幼い自分は素直にそれを信じたものである。今ならリノリウムはラテン語のlinumとoleumの合成語という意味だとわかる。

 これはきっとそんな記憶から作られた夢だろうと思った。


「病院」


 定期的にやってきている場所だから嫌悪感はない。

 むしろここは安全だという安堵さえある。人がいるし痛いとかけつけてくれる。苦しみを解決する方法だって教えてくれる。

 プールに似た匂いがする消毒液は面白くて爽やかな印象を受ける。お医者さんたちは優しい。

 床に足をおろすとじんわりと熱が奪われていく。フローリングより滑らかでゆるやかな感覚。

 それもまた親しんだものであるが、はっきりしていく五感とともに首をかしげる。

 夢にしてはやけに感覚がリアルだ。夢にしてはだなんて考えるのも不思議だった。 

 窓にちかづいて横に開く。とたん水滴が顔全体を濡らした。

 とっさに腕でかばう。霧吹きのような柔い雨は痛くもかゆくもない。

 緑のにおいを取り込んだ風と水滴は鳩の体にこもった熱と眠気を奪う。


「夢じゃない?」


 慌てて服をみれば薄い患者服をまとっている。風通りが良すぎて落ち着かないと思ったがすぐに自分で自分に注意を投げかけた。

 そんなことを考えている場合じゃない、どうしてこんなところにいるんだ?

 特に病気をもっているとはいわれたことがない。

 もしかしてそれは自分に心配させないための嘘で、本当は大きな病気でもしているのでは?

 不安にさいなまれて自らの胸元をつかんだ瞬間、胃のあたりから何かがこみ上げてきた。

 ひどく気持ち悪い。体の中心を通る軸を一直線に、外へでようとせりあがってくる。

 ぐらりと脳みそが揺さぶられるような吐き気。

 病室を汚すわけにはいかない。エチケット袋なりなんなりを探して周囲を見渡す。

 幸い枕元のすぐそばに洗面器が用意されているのを見つけた。

 口内にためこむこともなく、こりゃたまらないと一思いに吐き出す。


「うえっ」


 短いえづきとともに、水色の洗面器に幾筋もの線が走る。

 猛烈な吐き気と対照的に出たものは少ない。

 けれどその赤い色を確認するとスゥっと心臓のあたりが冷えていく。背中に氷が放り込まれたような心地。

 人差し指で口元をぬぐう。

 鳥肌がたつ感覚とともに指先を確認すると、潰した苺のように鮮やかな赤で染まっていた。

 鼻を近づけるとツン、と公園の鉄棒みたいな臭いが鼻をつく。

 これはやっぱり悪夢なんじゃなかろうか。とびきりリアルで最悪な夢。

 いくら青ざめて否定しても世界は暗転することもなく、再び吐き気がこみあげてくる。

 どうしようもなく現実であると認めよう。

 洗面器を抱え、震える指でナースコールを押した。

 一回手が滑り、薄く短くも、真っ赤な線が機械にひかれる。


「なにこれ、ホラー?」


 人生初めての吐血だった。

 その後数十分の事は思い出さない。赤く染まる布、かぎ慣れない鉄の臭い。気分が悪くなる。

 鳩が吐血してから三十分もしないうちに母がやってきた。

 最初は口元からこぼれてくる血に驚いた鳩だが、母の顔を見ると少し頻度と量が減った。

 ベッドに座り込んで目を白黒させるしかなかった鳩の手を母はそっと握る。


「お医者様がね、落ち着けば大丈夫だろうって」

「落ち着くってどれくらい待てばいいの?」

「それが症状が落ち着くまでとかじゃなくて、あなたが気にしなければ大丈夫らしいの」


 いわれた意味が理解できない。

 不満に唇を尖らせようとする。だがそこににこやかな笑顔を浮かべた看護師がやってきた。


「朝食をお持ちしました」

「ええ……?」


 吐血したのに食事をして大丈夫なのだろうか。

 しかもワゴンに乗せられてきた食事をみると病院食とは思えないメニューになっている。

 ハムとチーズ、トマトと卵、鶏とキャベツと様々な具材で作られた鮮やかなサンドイッチ。温めたミルク。食べやすく皮を剥いたオレンジまである。

 これだけ作るのには手間がかかるのに。毎朝忙しく台所を右往左往する母をみてよくわかっている。

 しかし体は正直で豪勢な朝食に唾をのむ。

 看護師は膝を折って、腰をかけている鳩に目線を合わせた。


「驚いているかもしれないけれど、命に別状はないと先生もおっしゃっています。だから安心してください、たくさん食べて元気を出しましょう!」

「そうね、それがいいわ。鳩、あなたさっき起きたから気づいていないかもしれないけれど、まる一日意識がなかったのよ」

「えッ!? 別にどこも……」


 どこも悪くなかったよ、と言い返そうとして口をつぐむ。

 眠りに落ちる直前、いつもと違う感覚がした。気持ちが荒れていたせいだと思ったのだが。

 思案を巡らせる前に連鎖的に思い出す。そもそもどうして安眠が奪われたのか。


「そうだ、姉さんの手紙……ねえお母さん見た? あれどこにやった!?」


 あれはとても大切なものだ。

 姉のことばでいじめっ子たちを追い詰めることはできない。

 しかしいじめがあった、本人もそう認識していたという証拠。そして姉の最後のメッセージでもある。

 身を乗り出して問う鳩の手を握り直し、ゆっくり首を左右に振る。


「校長先生にコピーを渡してきたわ。佑の手紙は引き出しにしまってきた」

「なんて言ってた?」

「鳩、今はあなたのことよ」


 そんなことはない、と言い返しそうになったがまた腹の下が痛む。母の言う通りだった。一瞬燃え上がった心の火がまた緩やかなものになっていってしまう。

 黙って着替え、ベットに入り直す。

 水で口をゆすぎ、サンドイッチに手を付ける。

 看護師は食べ終わったらまた来ると出て行った。

 すぐには食べ始められなかったが、無理矢理詰め込んでみた。だって、他にすることがない。

 母は黙って口に食べ物を運ぶ鳩を見る。

 サンドイッチをもって口元へ。咀嚼する。サンドイッチを持つ。たまに飲み物をふくむ。

 作業のように淡々と、しかし舌に食材をのせて味わう。

 するとだんだん気持ちのささくれた部分もほぐれてきた。

 何をするにも体が資本。まず体力をつけなければ。

 やることはまだはっきりしないが、動きたいという思いだけははっきりしているのだから。きっととても気力を使うことになる。

 そう思うと食事が良いことに思えてきた。口を動かすのも楽しくなってくる。

 口の中ではじけるトマトの味が染みるようで心地いいなとか、鶏がぷりぷりしていて噛み心地がいいなとか、自分の好みを探す余裕も生まれた。

 噛みはじめて数十分もしないうちに大量にあった朝食を完食してしまう。

 満腹になって機嫌よく唇を舌でなめ、ふと食事を終えるまで吐血しなかったことに思い当たる。


「お母さん、ぼくの体について何も知らない?」


 自分の体に何が起こっているのだろう。問いかけても母も


「前例がないか調べてみるっていわれて、まだお母さんも知らないの」


と首を傾げた。


「看護師さんの言葉を信じるなら、命にかかわらないとわかる証拠があるってことだよね。とすると、前例が見つかったのかな」

「さあ。でもわからないじゃ困るね」


 同意を求めるように答え、ぽんぽんと手のひらをなでるような軽さでたたく。


(お母さん、ずっとぼくの手を握ってる)


 まるでどこかへいってしまうのを引き留めるかのようだ。

 うつむきがちな母の唇は笑みを浮かべていたが、瞳は疲れて太陽の光を受け止め切れていない。

 優しいけれど暗い双眼。息が詰まって、謝りたくなった。こんな時に体調を崩してごめんさい。

 しかしそれをいっても鳩は体をなおせないし、これからもっと迷惑をかけてしまうかもしれない。

 なのに謝ってもいいのだろうか。迷って、口を開くのをやめた。

 食べ終わるといよいよすることがない。

 安らぐためにお互いにふとぽつぽつ言葉を投げかけあう。

 小雨の降る外、洗濯物の乾き具合。好きな本の話。

 のんびりを会話をしているうちに個室のドアがノックされた。返事をすると先ほどの看護師が顔をのぞかせる。


「先生がお話をしたいそうです」

「五十嵐先生ですか?」

「ええ。鳩くん、体調はどう? どこか痛むところがあったり気持ち悪かったりはしないかな」

「すっかり大丈夫です」

「よかった。ではお母さん、鳩くん、こちらへ」


 案内されるまま個室を出た。左右を見渡してもどこがどこにつながっているかわからない。

 今まで来たことがない廊下ばかりなのに戸惑う。入院なんてしたことがない。した家族も。

 姉が亡くなる直前、病院に運ばれた際に通ったかもしれないがあの時は混乱していた。

 人目を避けるように廊下や階段を通って見慣れた廊下へ入っていく。

 院で奥の方にある病室。普段鳩が連れられる場所だ。

 中に入るとよく見知った顔が微笑とともに鳩を迎え入れた。


「こんにちは。大変だったね、もう大丈夫だよ」


 四十代前後にもかかわらず深く刻まれた皺。深い色をたたえる瞳をもった彼に、鳩も胸をなでおろす。鳩の主治医。五十嵐 亮英(りょうえい)。十年近い付き合いである。

 まだ何が起こっているかは聞いていないが、彼が大丈夫だというならすんなり受け入れることができた。

 本当に自分は大丈夫なのだ。

 無意識にこわばっていた顔の筋肉がほぐれていくのがわかる。

 いつも通り医者と向かい合う形で置いてある空席に座った。

 主治医は瞳の位置が同じになった鳩にまた安心させるように微笑み、すぐに消す。

 これから本題に入ろうとしているのだ。

 察した鳩は居住まいをただし、二つの目をじっと見つめ返した。後ろで母も身をこわばらせたのが空気で伝わる。


「さて。これから鳩くんの身に起きていることについてお話しますが、鳩くんの成長の仕方については覚えていますか?」


 質問の意図がわからずも二人は頷く。先に口を開いたのは後方の母だった。


「鳩は佑を《親》にしていました。年齢がそう離れていなかったのであまり成長は早くありませんでしたが、短期間で大きくなることもあって」


 鳩は自分のことなのでそういわれても実感がわかない。

 けれど最初の一年で四歳程度まで背丈は伸びたし、言葉も話せるようになった。その後一年は特に変わらず。三年目と五年目、七年目にまた急に大きく。

 ゆるやかだった姉の成長と比べれば、人とは違う成長速度なのだと予測できる。

 ここ三年は急成長しなかったので成長が安定したと診断され、ようやく学校に通えるようになったのだ。


「不安定だった。そうですね」

「ええ。語彙がぐっと増えた頃から娘と同じくらいになりましたけれど」

「では、その理由はご存じですか」


 今度はどちらも口を開かない。二人とも知らなかったからだ。

 人と《天使》の成長速度は違う。それは例えば血液型が四種類というぐらい当たり前の知識。けれど血液型の違いを知る方法は知っているわけではない。

 主治医は沈黙の意味を正しくくみとってくれた。


「《天使》には本来肉体がありません。あくまで精神的な生き物です。その特徴として、他の生き物を模倣して、それと同じ構造を持った身体を自分でつくる」

「えっと」


 自分が人間ではないということはわかっている。

 だが先程の信頼が逆の効果をもって鳩を襲う。彼は嘘をつかない。

 その彼に《天使》の成長の仕方について説明されると、自分の正体がどこにあるのかわからなくなりそうだった。

 鳩は喜びも恐怖もし、外を歩けば肌で日の光や風を感じる。それのどこが人間と違うのかわからない。

 あるいはそれも模倣して作り上げた心?

 えもいわれぬ心持に顔を歪める鳩の肩を主治医がぽんぽんとたたく。


「これは身体のしくみの話だよ。君は君だ」

「……」


 そうはいわれても首を縦に振れなかった。

 正しい検査のためには嘘をついてはいけない。首肯は嘘になってしまう。

 鳩は自分のことなんて知らない。知っていると思っていた佑のことを知らなかった。

 主治医は困ったように頬をかく。しかし彼では鳩に答えを与えることはできない。

 わかっているのだろう。ひとまず鳩の内面のことはおいて、外面について話を続ける。


「《天使》が人間以外を《親》とした例は極めて少ない。それは《天使》が元々備えている精神の傾向が人間にとても近いからです。そして対象、人間をよく知り、近づけば近づく程、肉体は完成されていく」


 ここが鳩くんの場合、問題になっているわけです。

 示された区切り、ポイントの提示。まだ《天使》が自らを手に入れる段階の話でうちこまれたくさびに眉をひそめてしまう。

 鳩の不安を否定することなく話が続く。


「以前、鳩くんと同じような症状をみせた《天使》がいました。彼は自らの《親》に強い親しみを覚えつつも、彼を理解できないでいたのです。たとえば彼が何故そう感じるのか。その感性に心がついていけない。つまり愛情は寄せられても共感ができなかった」


 唇を噛む。悔しかった。怖かった。主治医が述べた例はまさに自分が佑に抱いている気持ちと同じであったから。

 そうであると頷いて、他者にそれを理解しているのだと宣言してはっきりさせてしまうのは。苦痛だった。

 主治医はそっと首をふる。


「無理に答えなくていい。ただ彼の場合でも《親》の死をきっかけに同じ症状が起きた。だから君も近い状態にあるのかもしれないと思っただけだ。違ったらすまない。君に対してとても失礼なことを聞いている」

「……いえ、本当のことですから」


 後ろで母が息をのむ。

 姉のあとをやたらついていきたがるほどなついていたから、驚いているのだろう。

 親からすれば驚愕すべき事態なのかもしれない。

 はたからみれば実の兄弟以上に仲睦まじい二人だったはず。

 最も家族以外に幼い鳩を見た人間はほとんどいないが。

 主治医は渋々事実を認める鳩を見つめた。

 今度こそ何か言葉をかけてくるのだろうか。数秒間黙っていた彼は、慰めも同情の言葉も投げかけない。

 代わりに前例のその後を話す。


「今、彼は彼自身の希望で《天使》であるということを隠して生活している。サポートは受けつつも、仕事をして自分の稼いだお金で食べるようになった。そうしているうちに症状が完全におさまった。この例から、これは精神と肉体の解離によって起きた症状ではないかと推測されている」

「カイリ……? その、もう少しわかりやすくお願いできますか」

「カイリはほどけてはなれると書く。《親》に親しみ人になじむ。これによって肉体の形はできていく。けれど肉体を作る心、その心の中心となる存在……《親》に精神が近づけないと、中心がぶれやすくなる。まとめると、肉体の完成度に反して精神が不安定になるんだ」


 沈黙がおりる。彼は鳩の理解が追いつくのを待っていた。


「《天使》は精神の生き物。なのに精神が不安定だから、ぼくはこうなっている、とか?」


 鳩もまた一生懸命に話に耳を傾けていた。

 親しみ。精神。肉体。主治医が特に重要視しているのはそのあたりか。

 説明の難しいだろう事柄をのみこもうと、さしだされた情報と情報をつなげようと試みる。

 確認も兼ねて問えば、笑みが返ってくる。褒められているみたいで嬉しい。


「そう。君たちは学習能力は高いけれど情操を学ぶ能力に関しては人並みかちょっと上くらい。だから元々肉体の方が精神より先に成熟しやすい。人間でもそうだが、肉体を作っているのが精神そのものだから人と事情が違ってくる」


 与えられた情報を、ぼうっと虚空を見上げながら繰り返す。

 自分の体が精神から作られているのはわかった。だが身体の方がつくりやすい。そのせいで精神の成熟は肉体に比べて遅れてしまう。

 精神とはあやふやなものである。先程から迷って、疑問ばかり抱いている鳩はそう思った。

 元が精神からできている《天使》がもし明確な個体になるのだとしたら。

 軸、核。確固とした自分が必要になるのではないか。たとえば人格。たとえば自己認識。


「多分、わかりました」

「わたしには難しくてさっぱり」


 母はしきりに首をひねる。主治医はあとで関連資料をプリントしてお渡ししますねと苦笑した。


「鳩くん。今の君は心の痛みが肉体の傷に直結する状態になっている」

「体はもうできているのに?」

「できているからさ。幼い《天使》は心の動揺に無意識に肉体を合わせられるのに、大きくなるとどこかで定まらなくちゃいけなくなる」


 精神に対して肉体はあやふやにはならない。

 老化したり病気になったり、変化はするが物質であって精神ほど容易くゆらがない。

 肉体を作る基本の『物質』じたいが、容易くうつろうような不安定なものでなければ。

 自分が自分であるという寄る辺がまだまだ不明瞭なのだ。


「鳩くん。心はからだに比べて簡単に傷つくけれど、死ぬということだけに関しては身体よりじょうぶだ」


 よほどのことがない限りね。そっと目をふせてつけたす。


「その症状をおさめたいなら、君自身を求めなさい。自分はどういった心をもっているのかをはっきりさせるんだ。苦しいかもしれないけれど、必要なんだよ」


 最後まで主治医は目を逸らさない。自分自身を求める。それは《天使》の身体の仕組みよりずっと難しい説明だった。

 主治医のいうことを完全に理解できたわけではない。なんとなく、でわからないところは多々ある。

 それは主治医の落ち度ではないだろう。

 主治医と鳩は違う意識だ。鳩の足りない部分を完全に埋めてくれる助言など高望みに過ぎる。


「先生。ぼくはまだここにいないといけませんか」

「そうだね、念のため検査しておきたいから、三日ほど入院してもらいたい」

「わかりました。じゃあ、お母さん、便箋もってきて。送られた手紙も」


 姉の部屋に残っていた多量の便箋。あれが必要だと思った。

 姉を、佑を知りに行こう。心の支柱をくれるはずだった人。自分の始まりを。


 白河 鳩の思春期の始まりである。


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