第三話 ウィ・ウェット(3)
歪な空だ。街で一番高い建物から景色を見渡す。遠くを見れば、白い壁がぐるりと囲っている。
カラフルな家々が小奇麗に収まっていた。まるで、プレゼント用の小箱に敷き詰めたお菓子のようだ。ここ数年で、すっかり町は様変わりしてしまった。土地も人も増え、名前も変わった。
「エイネさーん!」
しばらく空中を眺めていると、下から声が聞こえてきた。見ると、よく目立つ赤い髪が風に揺れているのが目に映る。
ホログラムの出現位置を下層に移動。そこにいたのは、やはりバルタサールであった。
「バルティ、どうした」
突如目の前に現れるのにもすっかり慣れたのか、全く動じない。出会ってから八年、エイネの異形化が始まって三年。バルタサールの背丈はすっかり伸びたし、エイネの身体も変わり果ててしまった。
今、街を見下ろしていた建造物。それが今の『エイネ』だ。
この時代の人間には、不可思議な神秘の塔に見えているらしい。『知識の門』と住人が呼んでいるのを耳にしたことがある。
なんでも、智天使の住処だから、だとか。いつの間にか、自分はただの《天使》だというのを上書きされてしまった。
塔を見上げる。つるりとした表面に、解けかけの繭のような光が奔っていく。元は人と同じ造りをしていたのに、ここまで変質してしまう。
異形化とともにエイネの異能も随分と成長して、今では《天使》が何であるかも大体わかっている。その成り立ちを思えば、この程度の変質はある意味当然のことだ。
「これ、届けてーって母さんに頼まれた」
走ってやって来たのだろう。頬は赤く蒸気し、幾筋も汗が伝っていた。生気に満ちて活き活きとした笑顔で、何百と重ねられた紙を差し出す。
エイネが塔を指さしたのと同時に、つなぎ目のひとつもない壁から引き出しがニョキっと生える。バルタサールは慣れた手つきで引き出しに書類を詰め込む。
書類が仕舞われ次第、引き出しは引っ込んでいく。数秒も経たず、中でスキャンが終了した。
住民からの新しい道具の要望、街の改革計画、その他雑務諸々。
特に多いのは、生活の質の向上、治安の整備。内容は毎回違うが、割合は概ねいつも通り。
「やっぱ、乗り気じゃない?」
情報を確認して、優れない顔をしたエイネを心配そうに見やる。
「こんなことをしても、何にもならないんじゃあないかと思ってね」
「いっつもそういう。みんな、前よりずっと便利になったって喜んでるのに」
「便利ならいいというものでもないだろう?」
しかし、ヨハンナはまず生活を豊かにし、最初から選択肢をあたえられないことを防ぎたいのだという。その論もわからなくはない。
何より、トシュテンが行方不明のまま帰ってこなかった後、《親》はヨハンナになった。仮とはいえ《親》の意向であるからとはいえ、従うことを選んだのはエイネ自身。急激な文明に人々が湧きたち、圧倒的な波に流されてあっという間に、これだ。
今更いうのも難である。
異能を使用し続け、エイネは変わった。極めて巨大なコンピューター。それが今のエイネの姿である。最も、人々はコンピューターそのものを知らないが。
自分たちが使っている道具のなかには、極小の自律機械が蠢き、時に人体に潜り込み内側から治療するものもあるとも知らないだろう。
彼らは恩恵としてそれらを受け取っている。訝しむ者もいたが、今ではすっかり利便のもたらす楽に浸りきった。
街を歩けば、様々な視線が突き刺さる。頭を垂れるものもいれば、指を組むものもいる。十字をきるものも、怯えて隠れるものも。
「奇妙なことだね」
ぼそりと呟くと、隣を歩くバルタサールが不思議そうに此方を見た。
彼は純粋に市場を見て楽しんでいたから、人の視線に気づかないのだ。
「私たちは、降って湧いた命なのに。普通と人間と一緒で、偶然と奇跡、ランダムの産物。だというのに、彼らは私たちを脅威か御使いのように扱っている」
「御使いって、天使様だっけ。俺たちじゃなくて、教典の」
「そう。神様の遣い。人でないもの、煌めくようにやってきて去るもの」
「ふーん。ま、確かに変かも。みんな俺を持ち上げるんだ、おかしいよ。俺、何もやってない。やっちゃいけないっていわれてるのにさ、それで褒められるんだ」
言われてみれば納得いかないかも。薄い唇を尖らせる。
「それにさ、俺の方がエイネさんより偉いっていうんだ。みんな馬鹿だ。エイネさんが一番凄いのに」
「教典がそういっているからさ」
「からかってる? 俺たちは御使いじゃないよ」
望む望まずに関わらず、急速に支持と反発を集めるために、ヨハンナをリーダーにした一団――『議会』は、宗教を利用した。
元は、天から降ったように現れるからとつけられた《天使》という呼称。本来の天使の階級になぞらえた呼び名を、エイネとバルタサールにつけたことで、この街における二人の意味は変わった。
外からやってきた異物ではなく、天の国から降臨した祝福。
元より都合のいいものは受け入れたい人々だったのだ。御使いを抱える土地ともなれば、はくもつく。自尊心もより満たされる。
熾天使。それがバルタサールに押し付けられた呼称。
熾天使は、天使の位階でも最上とされている。燃え盛る天使。なるほど、火炎の如き爆砕をもたらすバルタサールらしい。
文明をもたらすエイネの智天使は、神の姿を見ることができる智から名付けられたという。『天使の階級』では第二位。宗教上は熾天使よりも下位の天使。
何もかもが出鱈目なのに、こういうところには拘る。
――ケルビムの姿は、四つの生き物の姿があって、人間のようなもので、それぞれ四つの顔を持ち、四つの翼をおびていた。人の顔、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔。生き物のかたわらには車輪があり、車輪のなかにもうひとつの車輪があるかのようで、それによってこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた――
このような記述は無視して。現実のエイネは、最早この土地から離れられないし、本体である塔はのっぺらぼう。
ただ、『ケルビムの全身、すなわち背中、両手、翼と車輪には、一面に目がつけられていた』という一文はそこそこあっているかもしれない。全身の目は知の象徴。
街で常軌を逸して高く、何もかもを見下ろす塔は、街全体のスキャンも可能だ。その気になれば(街のなかに限ればだが)全てを見透かせる。
同じ伝説でいえば、傲慢なほどに高い塔など、民を分裂させ、上位者に破壊されそうなものだが。
「案外、合理だの利益だの言う人に限って、くだらないお遊びに夢中になるのかもね」
「なんで?」
「色んな物を器用に拾おうとするあまり、いらないものを宝物だと勘違いするから」
「……なんで?」
「眩しさに目がくらむんじゃない?」
エイネは、今の街があまり好きではない。
文化の灯に眩しく輝き、人々の笑顔は照る。だがその恵みの光は、激しいコントラストを伴っていた。
「ねえ、バルティ。君、今の街をどう思う?」
金もある。知識を得る場も時間も機会もある。楽があり、余裕があり、自由があり。血統の貴賤にも基本的に大した意味がなくなった。
恐らく、現状世界で最も発展し、貧困から遠くなった場所であるのに。
愛称で呼びかければ、バルタサールはほんの少し顔を歪め、改めて住民を見渡す。
「うーん、なんていうかー……のびた、感じする」
「のびた?」
「うん。前から頭いいな、って思ってた人は、この前会ったら凄く楽しそうに勉強してた。俺にはわかんないこと、研究してた。でも、前から文句ばっかりだな、って思ってた人は、アレがないコレが足りないって何にもしてなかった」
賢い人はもっと賢くなった。
自堕落な人はもっと堕落した。
便利さは、人間を改善なんてしない。元より持っていた性質を、深くするだけ。
「便利になりさえすれば、不満に鬱屈した人もそうする必要がなくなるって、お母さんはいってた。そうなった人もいたよ、でも違う人もいる。
あっ! あの、エイネさんが悪いっていってるわけじゃないよ! あくまで、いやな人がいやな人のままなのは、個人の問題だもんな。他の人にできないことができるのが凄い、それが人の役に立つのが凄いっていうのは、変わんないから! ホントだから!」
「ふふ、ありがとう」
弁明するバルタサールが微笑ましくて、つい笑う。
本人はただ、素直に好き嫌いの理由を考えているだけだろうが、エイネも同意見だった。
利便が世界をよくするなど、嘘だ。利便を愛と平和に用いようとするものだけが、世界をよくできる。
自分を変えるのは自分だけ。人の心を照らせるのは、人だけ。
だから、この街は歪んでいる。美麗な装飾で飾り立て、満ち足りているかのように偽った、空っぽの街。




