第一話 ウィ・ウェット(1)
――六世紀、西の果て。エイネという《天使》がいた。
はるか遠い未来で、自分がそう記録に残されることをエイネは知っている。
○
肌を柔く揉む寒風。表皮に滑り込む冷気。
秋に差し掛かる頃には、毎年訪れて街中を渡り歩く。自然のマレビトだ。
わが身を通り抜ける間、ふわりと魂が肉体から浮き上がるような感覚がする。
エイネは、その時間がとても好きだ。新しい今日が来た、という気持ちになる。
「トシュテンー」
隣でのんびりと弁当を食む男を、少し大きめの声で呼ぶ。
木々が所せましと茂る森では、落ち着いてなだらかなエイネの声もやまびこのように響いた。
「今年は冷える。冷害という域にはならないけれど」
「それはよかった。エイネ、他には何かあるかい?」
「ううん。言われてみると、でも……なんでかな」
エイネが一歩踏み出す。とたん、つんのめった。固くも緩和された衝撃が爪先にはしる。
足元を見下ろせば、湿った大地のうえに口を開けたネズミが転がっていた。
かかとで転がしても反応がない。死んでいる。冷え切って、完全に魂が肉体から切り離された抜け殻。
「なるほど」
「?」
「お父さん、帰ろう。今年は大変だ。準備をしなくちゃならない、幸いまだちょっと時間はある」
切り株に腰をかけていた《親》である男――トシュテンに駆け寄り、せかすように手を掴む。
弁当を食べるためにさらされた五本の指は氷のよう。しかし、エイネがぎゅっと握っていると熱が移って温まっていく。
「ね、帰ろ」
「……嗚呼、まあ、そうだな。そうしよう」
森を出て、揃って空を見上げた。家を出た時から、太陽が輝いている箇所の緯度が変わっている。そのていどの時間をかけ、二人は村へ戻ってきた。
太い丸太で作られた、無骨な門が小さな村をぐるっと囲んでいる。侵入者予防に、先が錐のように尖った入口。エイネも一役買った特別製だ。しかし、ゆえに村人はなるべく正門を使おうとしない。
村に足を踏み入れる。とたん、いくつもの視線が二人を貫いた。決して好意的なものではない。生まれたときからこの村の民だというのに、歓迎されていないのだ。
森で獣にでも襲われ、帰ってこなければいいのに。そうとすら思われていたに違いない。
――実際、錐の門ではじきたいのは《天使》という異物なのかもしれないな。
記録される出来事であれば何でも知っているエイネだが、人の心を直に見通すことはできない。
確かに、エイネは異物であった。
しかし、それがどうだというのだ。この世で異物でないものなどない。
エイネもそうだし、トシュテンもそうだ。
忌避の目、奇異の目。くるくる回る眼球が、どこの誰を見て、何を脳裏という網膜に映しても、エイネとトシュテンは変わらない。変われない。
『化け物が帰って来たぞ』
呟きが、《天使》の耳に届く。そちらをチラリと見やったが、声の主は知られたことに気づきもすまい。
なにせ、数十メートルも離れた場所にいるのだから。自分の呟きが知られているとも思っていないはずだ。
「どうしたんだ、エイネ?」
少し曇った子どもの顔を、親が覗き込む。
彼は村人の感情の機微はそこまで気にしないのに、彼はやたら気にする。村人たちの態度は彼にとって許容しがたい不当なものであるからだ。
エイネは彼ほど気にしていない。トシュテンが怒ってくれる。
「直接語った時に得られない利益を惜しむ。二兎を追う人さ」
つい、また意地悪をしてしまう。首を傾げる父親に、自分までも困った顔をして、最後に誤魔化すように笑う。
エイネの悪い癖。絶対に答えられない、わからないとちゃんと理解しているのに、使ってしまう。
知識自体は所詮異能によるものだ。優越感などない。
あえていうなれば、確認だ。
「ごめんね、お父さん。でもね、ちょっと、楽しいな」
自分が知らないことを――心を――誰かと考えられるのは、この時だけなのだ。
なんとも不揃いで愉快な話である。
「また、悪口か?」
「一応ね」
自分と違うものを見つけて、受け入れられず、受け入れようともせず、積極的に排他しようとする動き。
しかし、エイネの異能がもたらす恵みが惜しくもあって。媚びるのはプライドが、虐げることは欲望が邪魔をする。エイネは一見、見目麗しいために余計にそうだ。
性別がはっきりしていれば、『異性』としても消費されていたかもしれない。
その『かも』は、生まれた頃から知っていた。人生を左右しかねない要因だったからだろう。
この事実は、エイネとトシュテンの性質が、出現時点でほぼ不変といえるまでに、強固なものであったということでもある。
エイネは知っている。自分たちを変えるのは、いつだって知識から生まれた恵み。かといって、恵みは世界を変えるとは限らない。
そして、自分が変わったとしても、それは教養や品位の問題であって、人格そのものが変わることはそうそうないのだ。
彼らがいくら二人を道具にしたてあげようとしても、無理なものは無理である。
――そうであれば多少はトシュテンも救われるのだが。
エイネのハイエンドな異能にも限界がある。容量や性能に多少の差があっても、結局は人間の脳味噌とほぼ一緒だ。
時に、重要な情報であっても処理が追いつかない時がある。
あるいは、運命というものかもしれなかった。神様なのかもしれなかった。
「家の前に誰かいるね」
誰か。相手がわからないというエイネの発言にトシュテンが目を丸くする。
木と石で作った簡素な小屋。村の中心からは外れているが、郊外というほどでもない。
立地はそう悪くないだろう。家の数も他の場所と比べると多い。しかし、人のすみかの数と裏腹に、一帯は閑散としていた。
エイネが現れたから。或る一家は引っ越し、また或る家族は近しい別宅に身を寄せた。
――《天使》はどこから来きたのだろう。
――大地に連なる祖を持たぬ。根無し草より怪しいものだ。
――悪霊のようにたちのぼった怪異では? 神秘と見せかけて人をだます悪魔では?
――たまた、吉兆をもたらす異変では? 人間の域を超えた利用価値があるかも?
なんにせよ、彼らは人と同じ生まれを持たないエイネを『身内』としては考えなかった。新しく生まれた子どもだと考えたのは、トシュテンだけ。
他者と異なる見解を示し、譲ろうとしなかった父親。妙に落ち着いて、性別を隠す子ども。
自身を普遍的な正義と信じる村人と、違和を覚えるも異物を庇う義理のない村人。
そうして恐怖と保身といった各々の感情から、賑わっていた一部は閑散とした空きスペースとなった。
直接の嫌がらせは、エイネが怖くてできない。二人で心穏やかに過ごすには、この小屋さえあれば十分だ。
しかし、わざわざ訪ねる者もない二人の家の前に、尋ね人があった。
見慣れぬ二人の若者である。かたや、痩身の乙女。かたや、火を透かしたような赤毛が眩しい少年。
「こんにちは」
目を丸め、咄嗟に言葉が出ないトシュテンの代わりに、エイネが挨拶する。
エイネは生まれと異能から、村人とは全員といってしまってもいい程度には面識がある。
だが、彼らには見覚えがない。つまりはヨソモノ。
にこやかにあいさつを返すエイネを、二人が振り返る。顔立ちは、はっきりいって似ていない。
エイネとトシュテンに気が付いた二人の表情の変化も、全く異なっていた。
女性は歓喜に顔をほころばせ、少年は苦々しくしかめる。
ここに来るまでに様々あったのだろう。
「ご、ごきげんよう! あの、エイネさんとトシュテンさん、かしら?」
「ああ。あなたはヨハンナさんだね。そちらの子はバルタサールくん。私を訪ねてきたのでしょ?」
どうせ村人なら誰でも知っていることだ。隠しても結果は変わらない。余計な問答は省く。
じかに喋れば異能で相手のことはおおむねわかる。
言い当てられて女性――ヨハンナは目を見開くも、すぐにやつぎばやに問う。
「では、この子を治せますでしょうか!?」
「病気じゃないから無理」
「あの、話の途中ですまない。エイネ。何の話だい?」
次いで「嗚呼、初めまして」と続け、トシュテンもエイネの横に並ぶ。エイネは、仏頂面でそっぽを向いている少年――バルタサールに視線を合わせ、二人の問いに一括して答えた。
「この綺麗な赤毛をしたバルタサールくんは《天使》なんだ。あんまり感情の起伏が激しくて――いや、より正確に言えば、それは結果であって要点ではないのだけれど――コントロールできないから、病気なのだと思ってここに来た」
「でも病気ではないのだろう? 今、自分でそういったばかりではないか」
初めてバルタサールが口を開く。声変わりも終わっていない。もしかすると、年齢も両の指で事足りる程度かもしれない。
心が瑞々しいからこその刺々しさ、感情を偽れない隠蔽技術の未熟さがありありとわかる。
この年齢に、理知や自身の制御を求めるのは少々酷というものだ。
親として、疲弊と心配を覚えるのは仕方ない。かといって、それが病であるというのは早計に過ぎる。
バルタサール自身も、子どもが子どもであることを受け入れられていない母に思うところがあるらしい。
「感情の制御ができないことを異常のようにとられることが不満だ」。
異能を使わなくてもわかるほど不満が伝わってくる。
「確かに感情の振れ幅が大きい性格ではある。でも、それは個性のレベルだ。悪意が伴っているわけでもない。こうしてわたしから情報を得ずとも、信じて一緒に暮らせばいいよ。時間が彼の心を育む」
「そう、なのでしょうか?」
「そうさ。支えになるのならば、訊ねるのも悪ではないけれど」
「なにをいっているのだか、わからないんだけど。アンタはバカなのか?」
「いったそばから! 口を慎みなさい、バルタサール!」
自分をじっと見る視線が不快だったのか、毒づく。名を呼ばれ、叱られてもどこ吹く風。
しかしエイネは特に怒ることもない。別段悪意があったわけではないとわかっている。ただ、反射的に、瞬間的な感情を、考えもなく口を滑らせてしまっているだけ。
これは半ば母親と同じなのである。
「それで? ここに住みたいの? 大変だと思うけどな」
「ダメとおっしゃりたいの?」
「あなたが決めることでしょう」
彼女はもう住むと決めている。いくら誰がなんといっても、一度決めたら行動してしまう。美点でもあり、欠点。なんにせよ、二人とも若すぎるのだ。
――バルタサールが現れた時、すぐに殺してしまえといった両親に反発し、飛び出してきてしまうくらいには熱血だ。
エイネのうわさを聞き、同じ《天使》とその親ならば受け入れてくれるかもしれないと、遠路はるばるやってきてしまうくらいには。
異能のおかげでエイネは相手を誤解することなく理解できる。しかし、トシュテンは違う。
最初の質問のせいで、子どもをまっすぐ見てやれない親のように思ってしまったようだ。
――違うんだよ、お父さん。この人ここに来る直前に、バルタサールくんと喧嘩したんだよ。
その時に、「本当は病気なんじゃ?」と疑って、勢いのままに聞いちゃっただけ。
他人から見れば馬鹿らしいが、心とはそううまく動かないものだ。
「本当になんでも知っていらっしゃるのですね」
どう取り持とうか考えあぐねるエイネの心情も知らず、ヨハンナは感嘆の声をあげる。
「いえ、なんでもなんかじゃあないよ」
エイネの異能は、ややこしい。一見便利だが、逆に言えば使いどころに迷う。
いったいどんなところがといえば、知識は知識であって、役に立つ道具そのものではないところだろうか。
そもそも、エイネの異能は、「過去・現在・未来におけるあらゆる人類文明を使用することができる」というものだ。
ロストテクノロジーであろうがオーバーテクノロジーでもお構いなし。例えば、この時代に存在しないケイタイデンワでもエイネには使える。
『人には見えない場所』――エイネ自身も視認はできない。感覚でそこにあるとわかる――に手を入れて、引きずり出せば、白い手に『文明』がある。
ここで重要になるのが「使用できる」という点だ。
ただ手に持つだけでは、使いこなすことはできない。使い方がわからなければ、ただの奇妙なオブジェに過ぎない。
存在を識り、理由を知り、もたらすものを理解る。そうやってようやく「文明を使う」といえる。
そしてエイネが用いるのは人の文明。人の文明は、人が作ったもの。作るからには、そう思った理屈と意思がある。意思がなければ、文明を生み出そうとすら思わないのだから。
心も文明のうちなのだ。当然、全て知ろうとすれば過負荷が大きすぎるが。
だからエイネは、「既に実行された文明」――発言や、決定された意思、可能性の高い未来なら知ることができる。そして、人類に影響の大きな文明であればあるほど優先的に知っていく。
例えば、この時点でエイネは電気の知識とエジソンの生涯をできてしまう
しかし、反対に文明規模の小さい、一般人の心情などといった情報はほとんど入らない。
特にエイネと同じ時間リアルタイムに生きている人間の情報は、影響力が不安定で知識が突然やってきたり、来なかったり。
「知っているだけなら知っているかもね。ただ、全部わかってるわけじゃないよ」
説明するのも面倒だ。素直に教えてしまうのも少々抵抗がある。
適当にはぐらかしたところで、先程まで「彼らに会う」以外の用事があったことを思い出した。
どうにも、彼らが自分たちの生活に深く関わるらしいのだが、相当に不安定な可能性らしい。心情は手に取るように見えても、未来が見えてこない。
新たな情報は容赦なくやってくる。エイネはまだその全てをうまく使い切れるほど達者でなかった。
忘れる前に、大事な目的は実行してしまわないと。
「あ、そうだ。私、用事があるんだった。失礼します」
「え? 一寸ちょっと、どこに行くエイネ!?」
「私が部屋にいる間、なかは覗かないでね。作業してるから」
「嗚呼、そうだね……それはいいのだけど」
戸惑うトシュテンには申し訳ない。忘れていたが、割と急ぎの用だったのだ。忘れていたが。
家の中にスタスタと入っていく。後ろであんぐり若い親子が口をあけるのがわかる。
特に、好奇心が強い子どもであるバルタサールはこちらを追おうとしてきた。すぐさま、ヨハンナに首根っこを掴まれて宙ぶらりんになる姿は、幼さを如実に表す。
部屋自体は、別にみられても問題はない。多くの人は常識外のものを見ると激しく精神を揺さぶられる為、避けているだけだ。
「ごめんね」
形だけ謝って、エイネはさっさと自室に引きこもる。
結局、その晩のうちに出てくることはなかった。




